「続㉑近年の本願寺派教学に想う」
これは「続⑳近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku201.html に続くものです。
https://www.youtube.com/watch?v=yR86T6STWgQ &feature=youtu.be&fbclid=IwAR0lUV7ko4urb04hnj-CI75nTZViBXgZtKCEods3CFTHCMDM4gzZ0yuHfIg
My thoughts on this are basically the same as 12 years ago. Gassho
これは2008年8月にドイツのBad Reichenhalで開催された第15回ヨーロッパ真宗会議の時のものです。この時の私の発表テーマは“Establishing Shinjin: the Premise of Peace and Tranquility”(信心決定すること、平和と安穏の前提として)http://e-kobai424.sakura.ne.jp/15esc.htm でありました。外国で研究発表をしたことはありましたが、外国人と直接英語で質疑応答をしたのはこの時が初めての経験でありました。
この時のJosho氏の質問がAmida is a myth, a symbol or a fictional character and not a true and real Buddha,(阿弥陀仏は神話、象徴、架空のものであり、真実のものでもなく、実在するものでもない、と言う意見があるがどう思いますか)ということでした。それに対して私は、そう言う意見の人は救済体験のない人であり、信心のない人であると答えました。
この頃日本においても阿弥陀仏や浄土について、神話であるとか象徴であるとかと言う意見が出されていました。(信楽峻麿氏「現代真宗真偽論―まことの真宗とうその真宗―」、『真宗研究』第46輯、平成14<2002>年1月)。おそらくアメリカでもヨーロッパでもこの種の意見がよく出されていたのでありましょう。それでJosho氏が質問を出したのだと思います。
前にも述べましたが、(FB,今年9月12日。「続⑬近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku13.html (2019、5,13記)。
故Paul氏もRichard C.
St Clair氏もアメリカにおける仏教者の、阿弥陀仏や浄土について、神話であるとか象徴であるとかと言う考え方に納得しかねたのであります。この点はよく考えねばならない事と思います。
《 信楽氏の論文「現代真宗真偽論―まことの真宗とうその真宗―」、『真宗研究』第46輯、平成14<2002>年1月)の英訳( http://e-kobai424.sakura.ne.jp/gendaishinshu.html
人類の科学時代は500年前からと言われ人類の中で宗教を持ったのは我々の先祖であるホモサピエンスだけだといわれ、宗教を持ったのは7万年前と言われます。(『サピエンス全史上』。科学時代とは比較にならない以前からなのであります。近年の科学時代と成って浄土や阿弥陀仏(キリスト教なら天国や神)について、実在か象徴か架空かと言う議論が生じていますが、私は浄土や阿弥陀仏(キリスト教なら天国や神)を本当に知らされるのは科学知識とは関係なく、宗教体験によって知らされるものと考えます。その意味から浄土や阿弥陀仏は科学的天文学的技術によって存在を知る事の出来る銀河の中心のブラックホール等とは全く性質の異なるものであり、実在するものでありますが、宗教体験(救済体験、獲信体験)によってそれを知らされる宗教的実在と言うべきだと考えます。 合掌
(2020,10,8)。
2020(令和2)年も10月10日となりました。亀井勝一郎氏によれば、人生には誕生日が3回乃至4回あると言われています。私は1941(昭和16)年4月24日の生まれですので、第1回目の誕生日はこの日であります。最後の4回目はこの世を終わって御浄土に生まれる事でありますので、もうあまり先の事ではないかも知れませんが、未来の事であります。
親鸞聖人700回大遠忌(西本願寺)
紅楳 英顕 Thank you so much Mr. Vincent Meyer.This time ( The 700th Daionki Hoyo <the great annual memorial services> for Shinran-shonin <Reverend Shinran>March 1961) was when I was in the first to second year of college. I visited Honganji Temple with the believers of my temple. It is a very nostalgic memory. Gassho
この時(親鸞聖人700回忌法要 西本願寺、 昭和36<1961>年3月)、私は大学の一回生から2回生になる時でありました。丁度体調の悪かった父の代わりに御門徒の方々と一緒に本願寺に参拝致しました。亀井勝一郎氏の考えによるなら(10月10記)、第2回目の誕生日から間のない頃の事であります。大変懐かしく思い出されます。 合掌Vincent Meyer
Eiken Kobai i am very glad you like it
sensei ! ! ! ! 珞 the pleasure is mine
紅楳 英顕 Thank you. Gassho
H氏 この頃を取り戻すことはできないのか? 南無阿弥陀仏
紅楳 英顕
時代即応と言う事は当然考えなければならない事ではありますが、信心正因称名報恩義を否定した人達(信楽氏、岡氏等)は宗教体験(救済体験、獲信体験)のない信心不決定(未決定、未安心)の人達なのであります。この事が分からず、教団当局はこれが時代即応の考えだと判断したのか、この宗制教義に反する言動に何の処置もなさず、寧ろ擁護を継続したようにさえ思われます。私はこの事は大変大きな誤りであったと考えます。何度か申しましたが、『蓮如上人御一代記聞書』93に「信もなくして、人に信をとられよとられよと申すは、われはものをもたずして人に物をとらすべきといふの心なり。人承引あるべからずと、前住上人(蓮如)もうさると順誓に仰せられ候ひき。「自信教人信」(礼賛)と候ふときは、まづわが信心決定して、人にも教えて仏恩になるとのことに候ふ。」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,1261)とあります。「自信教人信」こそが一番大事な事であります。これが忘れられては、教団の発展振興があるはずはないのであります。宗制宗法遵守義務放棄が公然と罷り通る教団の信心不在体質の現状を、早急に抜本的に改善すべきだと考えます。合掌
(2020,10,14)。
信心正因称名報恩に反対する人達は救済体験がないために、信前と信後の違いが分からず、信前の念仏(カラ念仏<僧侶なら営業念仏>、自力念仏<要門念仏、真門念仏>)と、信後の念仏(他力念仏、報恩念仏)の違いが分からないのでありましょう。また救済されたと言う実感がないために、それによって生じてくる報恩の念仏の慶びも分からないのでありましょう。そして親鸞聖人の御己証である現生正定聚の現世からの救済の慶び(死後の浄土往生の未来の慶びでなく、今生きている現在からの慶び)の世界も知らない事でありましょう。合掌
十劫の昔から往生が定まっていると考える十劫安心(無帰命安心、無自覚安心)の人も、生まれた時から信心決定しているように考えるのでありますから、信前信後の念仏の違いは分からない事でありましょう。それで報恩念仏の実感もない事と思われます。合掌
(2020、10、15)。
宗制宗法遵守義務放棄が公然と罷り通る教団の現状を想い一句浮かびました。(下記)
未来超証大涅槃 未来(みらい)に大涅槃(だいねはん)を超証(ちょうしょう)す。
現在即入正定人 即(すなわ)ち現在(げんざい)正定人(しょうじょうにん)に入(い)る。
煩悩熾盛濁悪輩 煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の濁悪(じょくあく)の輩(ともがら)。
今生報恩念仏倫 今生(こんじょう)は報恩念仏(ほうおんねんぶつ)の倫(なかま)なり。
(意訳)
大涅槃の悟をえるのは未来の事であり、正定聚の人になるのは現在の事であります。この現世で現在、正定聚の人となる事が、浄土真宗の特長であり、大変有難い所であります。煩悩の盛んな罪悪の深い者のままでありますが、今生(現世)において、仏恩を報ずる身となり、報恩念仏の人となり、その倫(なかま)となるのであります。
信心正因称名報恩を否定する人達は、宗教体験(救済体験、獲信体験)のない人達だと思います。そのため現在の救済体験(入正定聚)の実感がないために、報恩念仏の実感もなく、それゆえに報恩念仏を否定するのでありましょう。 全く情けない事であります。合掌
(2020,10,18)。
《この事については拙稿「浄土真宗における回心について http://e-kobai424.sakura.ne.jp/jhodoconversion.html、拙著『親鸞聖人の念仏論』永田田文昌堂、2018,6)p、20以下、序論 第三章 浄土真宗における回心について、に述べています。》
「信心正因称名報恩」の意味の分からない人や、痴無明と疑無明の違いの分からない人や、三業惑乱時の「十劫安心」(無帰命安心)や一念覚知の意味の分からない、現世の救いの分からない宗教体験(救済体験、獲信体験)のない人達が、教団の責任担当者(教学面、行政面)となり、宗制宗法遵守義務放棄が公然と罷り通って
いる教団の信心不在体質は早急に変わるべきであります。 合掌
「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「続⑤近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html
(2020,10、19)。
大悲摂取房 大悲摂取(だいひせっしゅ)の房(ぼう)。
貪愛瞋憎熾 貪愛瞋憎(とんあいしんぞう)熾(さか)ん。
生好死亦良 生(い)きて好(し)、死(し)亦(また)良(よ)し。
(意訳)
南无阿弥陀仏、阿弥陀仏の大悲の摂取の光明の家の中にあります。
貪愛(よく)瞋(いかり)憎(にくしみ)の煩悩の盛んなままではありますが、生きてよし、死してよしと慶ばさせて頂いております。
浄土真宗の信心の世界を「生きてよし,死んでよし」という言葉は、鈴木大拙氏が『宗教経験の事実』(大東出版社、初版1943年6月)に述べられているのが最初であると思いますが、大変良く表現されたものと思います。
親鸞聖人は『一念多念文意』に「凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,693)と述べられていますように、我々凡夫は命の終わるそのときまで、煩悩は変わることなく継続するのでありますが、信心決定のひとは変わることのない煩悩具足の身のままで、正定聚の身となり往生一定の安堵心を賜り、「生きてよし、死んでよし」の慶びに恵まれるのであります。大変有難いことであります。そして、その上での念仏(信後の念仏)が『御文章』5の10の「そのうえの称名念仏は如来わが往生をさだめたまひし御恩報尽の念仏とこころうべきなり」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,1196)とある称名報恩の報恩念仏なのであります。 合掌
(2020,10,20)。
教団の責任担当者(教学面、行政面)は、「信心正因称名報恩」批判を容認し続ける気でおられるのであれば、本日から称名報恩、報恩念仏が説かれている御文章の拝読および領解出言を廃止すべきです。それをしないのなら、宗制宗法遵守義務を放棄した勧学寮を直ちに閉鎖すべきであります。合掌
何度か申しましたが、信心教義についての宗制宗法遵守義務放棄ということは、正常な教団ならば賦課金納付義務放棄より重罪だと考えます。そんなことが罷り通る教団であるなら、発展振興は到底望みえない事と思います。合掌
(2020,10,20)。
この度シンガポールのClement Tan氏による私の『浄土真宗がわかる本』(教育新潮社、H、6<1994>、12)の中国語(簡体)訳本ができました。
This time, a Chinese (simplified)
translation of my "Book for Understanding Jodo Shinshu" (Kyoiku
Shinchosha, H, 6 <1994>, 12) by Mr. Clement Tan of Singapore has been
completed.
《净土真宗要解》
https://eowebmail.eonet.jp/service/home/~/?auth=co&loc=ja...
一切群生の救いを願った他力浄土教は中国から日本に伝わったものであり、七高僧の曇鸞、道綽、善導の御三方は中国の方であります。その他力浄土教が親鸞聖人によって深化徹底されました。それが今は逆に、中国に伝えられていくことに私は深い感動を感じます。Clement Tan氏に篤く御礼を申し上げますと共に どうか中国の人々に広く浄土真宗が伝わっていくことを念願する次第であります。 合掌
The Pure Land Buddhism, which hoped for the salvation of all the sentient
being, was introduced from China to Japan, and
the three high priests Tanluan(Donran), Daochuo(Doshaku), and Shandao(Zendo)
are from China.
Other power Pure Land Buddhism was deepened and thoroughly implemented
by Shinran shonin. On the contrary, I am deeply impressed by the fact that
it is being returned to China.
I would like to express our sincere gratitude to Mr. Clement Tan and hope
that the Jodo Shinshu will be widely
spread to the Chinese people. Gassho
(2020、11、11)。
昨日(12月12日)に仏教漢詩の会第30回が開催されました。
紅楳英顕
未来超証大涅槃 未来(みらい)に大涅槃(だいねはん)を超証(ちょうしょう)す。
現在即入正定人 現在(げんざい)即(すなわ)ち正定人(しょうじょうにん)に入(い)る。
煩悩熾盛濁悪輩 煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の濁悪(じょくあく)の輩(ともがら)。
今生報恩念仏倫 今生(こんじょう)は報恩念仏(ほうおんねんぶつ)の倫(なかま)なり。
(意訳)
大涅槃の悟をえるのは未来の事であり、正定聚の人になるのは現在の事であります。この現世で現在、正定聚の人となる事が、浄土真宗の特長であり、大変有難い所であります。煩悩の盛んな罪悪の深い者のままでありますが、今生(現世)において、仏恩を報ずる身となり、報恩念仏の人となり、その倫(なかま)となるのであります。
本願寺派の宗制教義に定められ、親鸞聖人も蓮如上人も勧められている信心正因称名報恩を否定する人達は、宗教体験(救済体験、獲信体験)のない人達だと思います。そのため現在の救済体験(入正定聚)の実感がないために、報恩念仏の実感もなく、それゆえに報恩念仏を否定するのでありましょう。 全く情けない事であります。合掌
(2020,10、18)
紅楳英顕
南无阿弥陀 南无阿弥陀(なもあみだ)。
大悲摂取房 大悲摂取(だいひせっしゅ)の房(ぼう)。
貪愛瞋憎熾 貪愛瞋憎(とんあいしんぞう)熾(さか)ん。
生好死亦良 生(い)きて好(よ)し、死(し)亦(また)良(よ)し。
(意訳)
南无阿弥陀仏、阿弥陀仏の大悲の摂取の光明の家の中にあります。
貪愛(よく)瞋(いかり)憎(にくしみ)の煩悩の盛んなままではありますが、生きてよし、死してよしと慶ばさせて頂いております。
浄土真宗の信心の世界を「生きてよし,死んでよし」という言葉は、鈴木大拙氏が『宗教経験の事実』(大東出版社、初版1943年6月)に述べられているのが最初であると思いますが、大変良く表現されたものと思います。
親鸞聖人は『一念多念文意』に「凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,693)と述べられていますように、我々凡夫は命の終わるそのときまで、煩悩は変わることなく継続するのでありますが、信心決定のひとは変わることのない煩悩具足の身のままで、正定聚の身となり往生一定の安堵心を賜り、「生きてよし、死んでよし」の慶びに恵まれるのであります。大変有難いことであります。そして、その上での念仏(信後の念仏)が『御文章』5の10の「そのうえの称名念仏は如来わが往生をさだめたまひし御恩報尽の念仏とこころうべきなり」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,1196)とある称名報恩の報恩念仏なのであります。 合掌
(2020,10,20)。
親鸞聖人はそれまでの浄土教の常識を破り、現生正定聚を主張し、臨終来迎をも否定して、現世からの救いを強調されました。そして念仏についても従来の往生のための念仏ではなく、報恩のための念仏となったのであります。《「信心定まるとき、往生また定まなり」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,735)とありますように、往生は信心によって定まるのが親鸞聖人の教えです。》この信心決定後の報恩のための念仏が浄土真宗の念仏なのであります。
勿論信前の念仏を称えてはいけないのではありませんが、それは往生のために称えたり、信心をえるために称えるのではありません。そのひとなりに報恩の気持ちで称えるべきであります。
現在の本願寺派教団において、教学担当責任者までがこの事が分からない信心不決定(未決定、未安心)者の集団と成り果てて、宗制宗法遵守義務放棄が公然と罷り通る信心不在体質となっている事は、誠に悲惨な事であります。このような状態の儘で何を試みた所で教団の発展振興は到底望み得ない事であります。どうかこの惨状は今年一杯にして頂きたいものと思います。 合掌
「近年の本願寺派教学に思う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「続⑪近年の本願寺派に思う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku11.html
「続㉑近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku21.html
(2020,12,13)。
(K氏)
内部のゴタゴタは親鸞会に付け入る隙を与えないといいが
〈紅楳英顕〉
それは大変な間違いであります。教団の責任担当者(教学面、行政面)までが、信心不決定(未決定、未安心)者の集団と成り果て、信前の念仏(カラ念仏<僧侶なら営業念仏>と自力念仏)と信後の念仏(他力念仏、報恩念仏)の違いが分からず、宗制教義に定められてきた「信心正因称名報恩」の意味も分からず、宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通っている信心不在体質が、教団の現状であります。
親鸞会問題には関係なく、この信心不在の形骸、堕落体質の早急の抜本的改善こそが肝要だと考えます。 ついでですので、「私が対峙した35年前の親鸞会」 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/shirakaitaiji.html もご覧下さいませ。 合掌
(2020、12,25).
これは「続㉒近年の本願寺派教学に想う」 e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku22.html に続きます。