「続㉑近年の本願寺派教学に想う」

  これは「続⑳近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku201.html に続くものです。


https://www.youtube.com/watch?v=yR86T6STWgQ &feature=youtu.be&fbclid=IwAR0lUV7ko4urb04hnj-CI75nTZViBXgZtKCEods3CFTHCMDM4gzZ0yuHfIg

 

My thoughts on this are basically the same as 12 years ago. Gassho

 

これは2008年8月にドイツのBad Reichenhalで開催された第15回ヨーロッパ真宗会議の時のものです。この時の私の発表テーマは“Establishing Shinjin: the Premise of Peace and Tranquility”(信心決定すること、平和と安穏の前提として)http://e-kobai424.sakura.ne.jp/15esc.htm でありました。外国で研究発表をしたことはありましたが、外国人と直接英語で質疑応答をしたのはこの時が初めての経験でありました。

この時のJosho氏の質問がAmida is a myth, a symbol or a fictional character and not a true and real Buddha,(阿弥陀仏は神話、象徴、架空のものであり、真実のものでもなく、実在するものでもない、と言う意見があるがどう思いますか)ということでした。それに対して私は、そう言う意見の人は救済体験のない人であり、信心のない人であると答えました。

この頃日本においても阿弥陀仏や浄土について、神話であるとか象徴であるとかと言う意見が出されていました。(信楽峻麿氏「現代真宗真偽論―まことの真宗とうその真宗―」、『真宗研究』第46輯、平成14<2002>年1月)。おそらくアメリカでもヨーロッパでもこの種の意見がよく出されていたのでありましょう。それでJosho氏が質問を出したのだと思います。

前にも述べましたが、(FB,今年9月12日。「続近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku13.html (2019、5,13記)。

Paul氏もRichard C. St Clair氏もアメリカにおける仏教者の、阿弥陀仏や浄土について、神話であるとか象徴であるとかと言う考え方に納得しかねたのであります。この点はよく考えねばならない事と思います。
 《 信楽氏の論文「現代真宗真偽論―まことの真宗とうその真宗―」、『真宗研究』第46輯、平成14<2002>年1月)の英訳( http://e-kobai424.sakura.ne.jp/gendaishinshu.html

)を読んでPaul Roberts氏が批判しています。合掌
Paul Roberts criticizes the English translation of Shigaraki's treatise above. Gassho
 http://trueshinbuddhism.blogspot.com/p/blog-page_24.html

人類の科学時代は500年前からと言われ人類の中で宗教を持ったのは我々の先祖であるホモサピエンスだけだといわれ、宗教を持ったのは7万年前と言われます。(『サピエンス全史上』。科学時代とは比較にならない以前からなのであります。近年の科学時代と成って浄土や阿弥陀仏(キリスト教なら天国や神)について、実在か象徴か架空かと言う議論が生じていますが、私は浄土や阿弥陀仏(キリスト教なら天国や神)を本当に知らされるのは科学知識とは関係なく、宗教体験によって知らされるものと考えます。その意味から浄土や阿弥陀仏は科学的天文学的技術によって存在を知る事の出来る銀河の中心のブラックホール等とは全く性質の異なるものであり、実在するものでありますが、宗教体験(救済体験、獲信体験)によってそれを知らされる宗教的実在と言うべきだと考えます。 合掌

   (2020,10,8)。




2020(令和2)年も10月10日となりました。亀井勝一郎氏によれば、人生には誕生日が3回乃至4回あると言われています。私は1941(昭和16)年4月24日の生まれですので、第1回目の誕生日はこの日であります。最後の4回目はこの世を終わって御浄土に生まれる事でありますので、もうあまり先の事ではないかも知れませんが、未来の事であります。

それでは第2回目は何時かといえば、信仰に目覚めた時と言うのであります。そうすれば私の第2回目の誕生日は丁度60年前(1960<昭和35>年)の今頃であります。
《この事については、「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm 内、「今想うこと」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/imaomou.htm 。 拙著『親鸞聖人の念仏論』永田文昌堂、2018,6。序論第一章 私の入信(獲信)p、3以下に述べた。》
「呪われた宗門の子」と誰かが言っていますように、恐らく寺の長男に生まれた者の誰もが大なり小なり経験する事でありましょうが、寺院後継者として生きることに義務づけられた事の悩みを、この事に一応の解決をすることが出来たのは大変幸せな事でありました。
所が私にとって大変意外な事であり予想外でありましたのは、宗教体験(救済体験、獲信体験)を語る人は少なく、教学の指導的立場の人までがそうであり、宗教体験(救済体験、獲信体験)を語ると一念覚知と言われ,間違いと言われる事でありました。三業惑乱時に一念覚知と裁断されたのは宗教体験(救済体験、獲信体験)を語る事ではなく、獲信時の時を覚えていなければならないと執ずる事である事は既に述べました。《「信一念と信の覚不についてhttp://e-kobai424.sakura.ne.jp/shinitinen.htm 「親鸞浄土教における救済の理念と事実」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kyuusainorinentojijitu.htm 。 拙著『親鸞聖人念仏論 第二章三業惑乱騒動』p、7以下。》
最近、三業惑乱時における本如上人の『御裁断御書』(文化3<1806>年11月6日出)より5年前(享和元<1801>年稔初秋下旬)に、同じ本如上人の出された『御裁許書』を見る事ができました。これは大瀛が『横超直道金剛錍』の最終稿を仕上げた時より後、寺社奉行が三業帰命を不正義と裁決した時(文化3年<1806>年7月11日)より前に書かれたものであります。そこに「近来心得違いの輩ら、この一念に付、三業の義則を詮索し、或いはたのみし年月日時をおぼえざれば、信心にあらずとさたするを頌て、却って御正化にもとづかざるたぐひこれあるよし、大きに歎き思召さるる処なり」とあります。これにより「一念覚知」の異義と言う事は宗教体験(救済体験、獲信体験)を語る事ではなく「たのみし年月日時をおぼえざれば信心にあらずとさたする」事であり、宗教体験(救済体験、獲信体験)を経験していることが一念覚知の異義ではない事は、一層明確であります。この事は現教団において極めて重要な事と考えます。
何度も述べましたが、教団の現状は教団の責任担当者(教学面、行政面)までが宗教体験(救済体験、獲信体験)のない信心不決定(未決定、未安心)者の集団と成り果て、信心正因称名報恩の意味も分からず、宗制宗法遵守義務放棄が公然と罷り通る有様であります。そして、その上三業惑乱時に問題となった十劫安心と一念覚知の意味も分からず、宗教体験(救済体験、獲信体験)をする事や語る事が一念覚知と思い込み、無信心のままで十劫の昔から往生が定まっていると考える十劫安心(無帰命安心)、無信心往生が正しいとする考えが横行する信心不在が教団の悲しむべき現状であります。「打っても叩いても変化しない教団は、我らからすれば教団などどうでもいい存在です。」という御意見も尤もとも思えますが、「呪われた宗門の子」と誰かが言いましたが、先祖代々の浄土真宗本願寺派の寺院に生まれた私は、これからも教団の繁栄を願い、打ち叩き続けたいと思います。
初めに述べましたように、人生に3回乃至4回の誕生があると考えるならば、丁度今が2回目の誕生日から満六十才と言う事になります。随分と色々な事がありました。一回目の誕生日からは御蔭様で満八十才が近くなり、そう遠い先の事ではないかも知れませんが、最後の誕生日の日まで、私なりの自信教人信の道を歩み続けたいと思う次第であります。合掌
「続⑤近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html
「続⑪近年の本願寺派教学に想うhttp://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku11.html              「続⑳近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku201.html
  (2020,10,10)。



親鸞聖人700回大遠忌(西本願寺)

昭和36年 京都西本願寺 700回忌法要の中継

紅楳 英顕 Thank you so much Mr. Vincent Meyer.This time ( The 700th Daionki Hoyo <the great annual memorial services> for Shinran-shonin <Reverend Shinran>March 1961) was when I was in the first to second year of college. I visited Honganji Temple with the believers of my temple. It is a very nostalgic memory.  Gassho

この時(親鸞聖人700回忌法要 西本願寺、 昭和36<1961>年3月)、私は大学の一回生から2回生になる時でありました。丁度体調の悪かった父の代わりに御門徒の方々と一緒に本願寺に参拝致しました。亀井勝一郎氏の考えによるなら(10月10記)、第2回目の誕生日から間のない頃の事であります。大変懐かしく思い出されます。 合掌

Vincent Meyer
Eiken Kobai i am very glad you like it sensei ! ! ! ! 珞 the pleasure is mine

紅楳 英顕 Thank you. Gassho

H氏  この頃を取り戻すことはできないのか? 南無阿弥陀仏

紅楳 英顕  時代即応と言う事は当然考えなければならない事ではありますが、信心正因称名報恩義を否定した人達(信楽氏、岡氏等)は宗教体験(救済体験、獲信体験)のない信心不決定(未決定、未安心)の人達なのであります。この事が分からず、教団当局はこれが時代即応の考えだと判断したのか、この宗制教義に反する言動に何の処置もなさず、寧ろ擁護を継続したようにさえ思われます。私はこの事は大変大きな誤りであったと考えます。何度か申しましたが、『蓮如上人御一代記聞書』93に「信もなくして、人に信をとられよとられよと申すは、われはものをもたずして人に物をとらすべきといふの心なり。人承引あるべからずと、前住上人(蓮如)もうさると順誓に仰せられ候ひき。「自信教人信」(礼賛)と候ふときは、まづわが信心決定して、人にも教えて仏恩になるとのことに候ふ。」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,1261)とあります。「自信教人信」こそが一番大事な事であります。これが忘れられては、教団の発展振興があるはずはないのであります。宗制宗法遵守義務放棄が公然と罷り通る教団の信心不在体質の現状を、早急に抜本的に改善すべきだと考えます。合掌
(2020,10,14)。 信心正因称名報恩に反対する人達は救済体験がないために、信前と信後の違いが分からず、信前の念仏(カラ念仏<僧侶なら営業念仏>、自力念仏<要門念仏、真門念仏>)と、信後の念仏(他力念仏、報恩念仏)の違いが分からないのでありましょう。また救済されたと言う実感がないために、それによって生じてくる報恩の念仏の慶びも分からないのでありましょう。そして親鸞聖人の御己証である現生正定聚の現世からの救済の慶び(死後の浄土往生の未来の慶びでなく、今生きている現在からの慶び)の世界も知らない事でありましょう。合掌

十劫の昔から往生が定まっていると考える十劫安心(無帰命安心、無自覚安心)の人も、生まれた時から信心決定しているように考えるのでありますから、信前信後の念仏の違いは分からない事でありましょう。それで報恩念仏の実感もない事と思われます。合掌
(2020、10、15)。

宗制宗法遵守義務放棄が公然と罷り通る教団の現状を想い一句浮かびました。(下記)

未来超証大涅槃  未来(みらい)に大涅槃(だいねはん)を超証(ちょうしょう)す。

現在即入正定人  即(すなわ)ち現在(げんざい)正定人(しょうじょうにん)に入(い)る。

煩悩熾盛濁悪輩  煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の濁悪(じょくあく)の輩(ともがら)。

今生報恩念仏倫  今生(こんじょう)は報恩念仏(ほうおんねんぶつ)の倫(なかま)なり。

(意訳)

大涅槃の悟をえるのは未来の事であり、正定聚の人になるのは現在の事であります。この現世で現在、正定聚の人となる事が、浄土真宗の特長であり、大変有難い所であります。煩悩の盛んな罪悪の深い者のままでありますが、今生(現世)において、仏恩を報ずる身となり、報恩念仏の人となり、その倫(なかま)となるのであります。

信心正因称名報恩を否定する人達は、宗教体験(救済体験、獲信体験)のない人達だと思います。そのため現在の救済体験(入正定聚)の実感がないために、報恩念仏の実感もなく、それゆえに報恩念仏を否定するのでありましょう。 全く情けない事であります。合掌
(2020,10,18)。

 「信心正因称名報恩」義は私の知る所では1941年以来宗制教義に定められているものですが、これを否定する人達は教団の法規に反すると言うだけでなく、信心不決定(未決定、未安心)の人達と言って差し支えなかろうと思います。信心獲得(信心決定)による救済体験(獲信体験)がないために現世(現在)の現生正定聚の世界の実感がなく、信前と信後の違いが分からず、それ故に信前念仏(カラ念仏、自力念仏)と信後念仏(他力念仏、報恩念仏)の違いが分からないのでありましょう。信前信後の水際をハッキリしなければならない、と執ずれば問題ですが、入信体験には突然的と漸次的とがあり、どちらであっても信前と信後の違いはあるのです。
《この事については拙稿「浄土真宗における回心について http://e-kobai424.sakura.ne.jp/jhodoconversion.html、拙著『親鸞聖人の念仏論』永田田文昌堂、2018,6)p、20以下、序論 第三章 浄土真宗における回心について、に述べています。》 「信心正因称名報恩」の意味の分からない人や、痴無明と疑無明の違いの分からない人や、三業惑乱時の「十劫安心」(無帰命安心)や一念覚知の意味の分からない、現世の救いの分からない宗教体験(救済体験、獲信体験)のない人達が、教団の責任担当者(教学面、行政面)となり、宗制宗法遵守義務放棄が公然と罷り通って いる教団の信心不在体質は早急に変わるべきであります。 合掌

「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「続⑤近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html
      (2020,10、19)。

 

 一句浮かびましたので下記します。(五言古詩)

 南无阿弥陀  南无阿弥陀(なもあみだ)。

大悲摂取房  大悲摂取(だいひせっしゅ)の房(ぼう)。

貪愛瞋憎熾  貪愛瞋憎(とんあいしんぞう)熾(さか)ん。

生好死亦良  生(い)きて好(し)、死(し)亦(また)良(よ)し。

(意訳)

南无阿弥陀仏、阿弥陀仏の大悲の摂取の光明の家の中にあります。

貪愛(よく)瞋(いかり)憎(にくしみ)の煩悩の盛んなままではありますが、生きてよし、死してよしと慶ばさせて頂いております。

浄土真宗の信心の世界を「生きてよし,死んでよし」という言葉は、鈴木大拙氏が『宗教経験の事実』(大東出版社、初版1943年6月)に述べられているのが最初であると思いますが、大変良く表現されたものと思います。
親鸞聖人は『一念多念文意』に「凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,693)と述べられていますように、我々凡夫は命の終わるそのときまで、煩悩は変わることなく継続するのでありますが、信心決定のひとは変わることのない煩悩具足の身のままで、正定聚の身となり往生一定の安堵心を賜り、「生きてよし、死んでよし」の慶びに恵まれるのであります。大変有難いことであります。そして、その上での念仏(信後の念仏)が『御文章』5の10の「そのうえの称名念仏は如来わが往生をさだめたまひし御恩報尽の念仏とこころうべきなり」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,1196)とある称名報恩の報恩念仏なのであります。 合掌       (2020,10,20)。

教団の責任担当者(教学面、行政面)は、「信心正因称名報恩」批判を容認し続ける気でおられるのであれば、本日から称名報恩、報恩念仏が説かれている御文章の拝読および領解出言を廃止すべきです。それをしないのなら、宗制宗法遵守義務を放棄した勧学寮を直ちに閉鎖すべきであります。合掌

何度か申しましたが、信心教義についての宗制宗法遵守義務放棄ということは、正常な教団ならば賦課金納付義務放棄より重罪だと考えます。そんなことが罷り通る教団であるなら、発展振興は到底望みえない事と思います。合掌
    (2020,10,20)。


この度シンガポールのClement Tan氏による私の『浄土真宗がわかる本』(教育新潮社、H、6<1994>、12)の中国語(簡体)訳本ができました。
This time, a Chinese (simplified) translation of my "Book for Understanding Jodo Shinshu" (Kyoiku Shinchosha, H, 6 <1994>, 12) by Mr. Clement Tan of Singapore has been completed.

土真宗要解》

https://eowebmail.eonet.jp/service/home/~/?auth=co&loc=ja...

一切群生の救いを願った他力浄土教は中国から日本に伝わったものであり、七高僧の曇鸞、道綽、善導の御三方は中国の方であります。その他力浄土教が親鸞聖人によって深化徹底されました。それが今は逆に、中国に伝えられていくことに私は深い感動を感じます。Clement Tan氏に篤く御礼を申し上げますと共に どうか中国の人々に広く浄土真宗が伝わっていくことを念願する次第であります。 合掌
The Pure Land Buddhism, which hoped for the salvation of all the sentient being, was introduced from China to Japan, and the three high priests Tanluan(Donran), Daochuo(Doshaku), and Shandao(Zendo) are from China. Other power Pure Land Buddhism was deepened and thoroughly implemented by Shinran shonin. On the contrary, I am deeply impressed by the fact that it is being returned to China.
I would like to express our sincere gratitude to Mr. Clement Tan and hope that the Jodo Shinshu will be widely spread to the Chinese people. Gassho
    (2020、11、11)。


昨日(12月12日)に仏教漢詩の会第30回が開催されました。

 現在報恩念仏者(げんざいほうおんねんぶつしゃ)

紅楳英顕

 

未来超証大涅槃  未来(みらい)に大涅槃(だいねはん)を超証(ちょうしょう)す。

現在即入正定人  現在(げんざい)即(すなわ)ち正定人(しょうじょうにん)に入(い)る。

煩悩熾盛濁悪輩  煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の濁悪(じょくあく)の輩(ともがら)。

今生報恩念仏倫  今生(こんじょう)は報恩念仏(ほうおんねんぶつ)の倫(なかま)なり。

(意訳)

大涅槃の悟をえるのは未来の事であり、正定聚の人になるのは現在の事であります。この現世で現在、正定聚の人となる事が、浄土真宗の特長であり、大変有難い所であります。煩悩の盛んな罪悪の深い者のままでありますが、今生(現世)において、仏恩を報ずる身となり、報恩念仏の人となり、その倫(なかま)となるのであります。

本願寺派の宗制教義に定められ、親鸞聖人も蓮如上人も勧められている信心正因称名報恩を否定する人達は、宗教体験(救済体験、獲信体験)のない人達だと思います。そのため現在の救済体験(入正定聚)の実感がないために、報恩念仏の実感もなく、それゆえに報恩念仏を否定するのでありましょう。 全く情けない事であります。合掌

(2020,10、18)

 真実幸福者(しんじつこうふくしゃ)

紅楳英顕

南无阿弥陀  南无阿弥陀(なもあみだ)。

大悲摂取房  大悲摂取(だいひせっしゅ)の房(ぼう)。

貪愛瞋憎熾  貪愛瞋憎(とんあいしんぞう)熾(さか)ん。

生好死亦良  生(い)きて好(よ)し、死(し)亦(また)良(よ)し。

(意訳)

南无阿弥陀仏、阿弥陀仏の大悲の摂取の光明の家の中にあります。

貪愛(よく)瞋(いかり)憎(にくしみ)の煩悩の盛んなままではありますが、生きてよし、死してよしと慶ばさせて頂いております。

浄土真宗の信心の世界を「生きてよし,死んでよし」という言葉は、鈴木大拙氏が『宗教経験の事実』(大東出版社、初版1943年6月)に述べられているのが最初であると思いますが、大変良く表現されたものと思います。

親鸞聖人は『一念多念文意』に「凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,693)と述べられていますように、我々凡夫は命の終わるそのときまで、煩悩は変わることなく継続するのでありますが、信心決定のひとは変わることのない煩悩具足の身のままで、正定聚の身となり往生一定の安堵心を賜り、「生きてよし、死んでよし」の慶びに恵まれるのであります。大変有難いことであります。そして、その上での念仏(信後の念仏)が『御文章』5の10の「そのうえの称名念仏は如来わが往生をさだめたまひし御恩報尽の念仏とこころうべきなり」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,1196)とある称名報恩の報恩念仏なのであります。 合掌

(2020,10,20)。

親鸞聖人はそれまでの浄土教の常識を破り、現生正定聚を主張し、臨終来迎をも否定して、現世からの救いを強調されました。そして念仏についても従来の往生のための念仏ではなく、報恩のための念仏となったのであります。《「信心定まるとき、往生また定まなり」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,735)とありますように、往生は信心によって定まるのが親鸞聖人の教えです。》この信心決定後の報恩のための念仏が浄土真宗の念仏なのであります。
勿論信前の念仏を称えてはいけないのではありませんが、それは往生のために称えたり、信心をえるために称えるのではありません。そのひとなりに報恩の気持ちで称えるべきであります。

現在の本願寺派教団において、教学担当責任者までがこの事が分からない信心不決定(未決定、未安心)者の集団と成り果てて、宗制宗法遵守義務放棄が公然と罷り通る信心不在体質となっている事は、誠に悲惨な事であります。このような状態の儘で何を試みた所で教団の発展振興は到底望み得ない事であります。どうかこの惨状は今年一杯にして頂きたいものと思います。 合掌

「近年の本願寺派教学に思う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm

「続⑪近年の本願寺派に思う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku11.html

「続㉑近年の本願寺派教学に想うhttp://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku21.html

(2020,12,13)。


Paul氏の事や阿弥陀仏や浄土は実在か神話かという問題については、最近ではFBの今年の10月7日、10月27日・28日その他、何度か述べました。
「続⑬近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku13.html (2019,5,13記)。
「続㉑近年の本願寺派教学に想うhttp://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku21.html (2020,10.8記)。
前にも申しましたが、イスラエル人歴史学者ユブァル・ノア・ハラリ氏(1976-)の『サピエンス全史上』によれば、人類の科学時代は500年前からと言われ、人類の中で宗教を持ったのは我々の先祖であるホモサピエンスだけであり、宗教を持ったのは7万年前と言われます。科学時代とは比較にならない以前からなのであります。近年の科学時代と成って浄土や阿弥陀仏(キリスト教なら天国や神)について、実在か象徴か架空かと言う議論が生じていますが、私は浄土や阿弥陀仏(キリスト教なら天国や神)を知らされるのは科学知識とは関係なく、宗教体験によって知らされるものと考えます。その意味から浄土や阿弥陀仏は科学的天文学的技術によって存在を知る事の出来る銀河の中心のブラックホール等や「はやぶさ何号」かによって発見されるものとは全く性質の異なるものであります。実在するものではありますが、それは宗教体験(救済体験、獲信体験)によってそれを知らされる宗教的実在と言うべきだと考えます。
科学時代の到来と成り、宗教に関する諸問題の生ずる中において、ドイツのブルトマン(1884-1976)の提示したキリスト教の新約聖書についての非神話化の問題は、賛否両論はありましたが、種々意見や議論のあるものであります。その影響で仏教、とくに浄土教
において阿弥陀仏や浄土について、実在か神話か架空かという議論がなされてきたのであります。
ブルトマンの意見は「神話的表現を一切止めなさい」と言うのではないようであります。
「キリスト教の宣教(伝道)に当たり、「神話が実存論的に解釈されるべき事」を主張しているのであります。即ち自分自身の現実存在を離れた観念的解釈ではだめだと言っているのだと思われます。我々の身近な言葉で言えば「自信教人信」でなければだめだと、言っているのと同じように思われます。
「自信教人信」とは善導大師、親鸞聖人と受け継がれ、蓮如上人は『御一代記聞書93』に
<信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われは物をもたずして人に物をとらすべきといふの心なり。人、承引あるべからずと、前住上人(蓮如)申さると順誓に仰せられ候ひき。「自信教人信」(礼讃 六七六)と候ふ時は、まづわが信心決定して、人にも教へて仏恩になるとのことに候ふ。自身の安心決定して教ふるは、すなはち「大悲伝普化」(同)の道理なるよし、おなじく仰せられ候ふ。>(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,1261)
とあります。ブルトマンの非神話化の提言もこの蓮如上人の御言葉に尽きると思います。
信心正因称名報恩の意味も分からない信心不決定(未決定、未安心)者が阿弥陀仏や浄土を
実在しない神話であるとか象徴であるとか架空であるという事はナンセンスな事であり、またこれに惑わされる事も、大変情けない事と思います。 合掌 (2020,12,19).
本願寺派の宗制(国で言えば憲法)の教義に定められている(1941年以来)「信心正因称名報恩」について反対意見を述べたのが、「教団改革を進める会」を結成した(1971年8月)当時龍谷大学の真宗学の教授であった信楽氏と岡氏でありました。信心正因称名報恩義に反するという事で問題になった事件はあったでしょうが、信心正因称名報恩義に反対する事件はあまりなかったと思いますが、それが教団の最高学府である龍谷大学の現職の真宗学の教授によってなされたのは未曾有の事でありましょう。
私はかねてから信楽氏や岡氏が、宗教体験(救済体験、獲信体験)のない信心不決定(未決定、未安心)の人と知っていましたので、それに対する反対論文を書きました。
親鸞における疑蓋无雑について (1977年、12月)。
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/gigaimuzou.html
宗祖における信心と念仏 (1978,6月)。
e-kobai424.sakura.ne.jp/syusoniokeru.html
親鸞における疑蓋无雑について(二) (1979年、12月)。
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/gigaimuzou2.html
宗祖における信心と念仏(二) (1980年,6月)。
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/syuuso2.html
これに関しまして稲城選恵氏が『最近における真宗安心の諸問題』(百華苑、1979年4月)、
稲垣瑞釼氏が「称名報恩論争について」(『本願寺派宗報』<1979年10月号~1980年1月号>に、それぞれ「信心正因称名報恩」義肯定の立場で見解を述べられました。
このような状況下でこの問題は1980年1月の宗会で取り上げられ、勧学寮頭に説明が求められました。明らかに宗制に定められた教義に反するのでありますから、相応の厳しい説明があるのかと思っていましたら、寮頭の説明は信楽氏に対しては異義断定保留、今後の教学活動を見守る。(1981年3月)、岡氏に対しては疑義断定保留、今後の教学活動を見守る(1981年10月)と回答したのみであり、具体的には何の処置もなされなかったのであります。しかも間もなく2人は基幹運動本部等の教団の委員となり、信楽氏は監正局長に成ったのであります。(1995年4月)。この時信楽氏は「かって私は異安心として教団に睨まれたが、その私が監正局長に・・・。これは教団がかわったのか。私が変わったのか。」(『中外日報』1995年5月11日)と勧学寮等を揶揄しているのであります。実はこの事を、私は2005年の勧司会(勧学司教の会)で勧学寮として、何か言うべきでは
ないでしょうかと述べたのですが、そんなことは君が個人で言ったら良いとけんもほろろに反対されました。勧学寮のメンバーは実のところ安心問題などどうでもよいと思っているのだろうかと甚だ疑問を感じたものであります。
「続②近年の本願寺派教学の想う」 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku2.html (2015年4月7日記)
宗制教義に反対する者に何の注意も指導もせず、処分もせず、むしろ優遇したのが、近年の教団であったように思われます。これはこのままでは教団は衰微してしまうから、時代即応の教団でなければならない、現代人に分かりやすい教えを説かねばならない。古い教学のままでは駄目であり、新しい教学を樹立をしなければならない、という問題意識から出てきたものだと思われます。この傾向が信楽氏岡氏によって始められた50年前頃から盛んになり、宗制教義にすら反対意見が述べられる事に至ったのであります。
そして、それに加えて2012年4月1日施行の宗法(国で言えば法律)第59条3に「勧学寮は、宗制に定める教義に相異する義を主張した者に対し、教諭する。」と定められました。この時岡氏は他界していましたが、信楽氏はまだ存命でした。しかし勧学寮は何もすることはありませんでした。即ち宗制宗法遵守義務を放棄したのです。念のために申しますが、信楽氏も岡氏も生涯信心正因称名報恩批判をつづけ著述も多く残していますが、これについても勧学寮は何の処置も説明もせず、放置した儘であります。まさしく宗制宗法遵守義務を放棄し続けているのであります。
「続⑬近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku13.html   (2019,5,30記)、(2019,6,27記)。
「続⑰近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku17.html   (2020、5,11記)、(2020,5,12記)。
この勧学寮の宗制宗法遵守義務放棄について、教団当局(行政責任担当者)が何もしないというのが、また不思議なことであり、納得しかねることであります。正常な教団であるならば、教義信心についての宗制宗法遵守義務放棄という事は賦課金納付義務放棄より重罪だと思います。これが公然と罷り通るという事であれば最早信心不在の形骸のみの教団と言う事になろうと思います。こんな状態で発展振興は到底望みえないと思うのであります。
では何故このような、宗制教義を批判する意見が生じたり、また教団の教学、行政の責任担当者がこれを裁いたり、罰したりすることは全くなく、むしろこれに賛成し、擁護するようにさえ見受けられ、宗制宗法遵守義務放棄が公然と罷り通る惨状は何故なのでありましょうか。
ここに現教団の大変大きな問題があると思います。率直に申しますが1981年に信楽、岡氏に対し「異義(疑義)断定保留、今後の教学活動を見守る」と述べて何もしなかった勧学寮頭およびそれを継承して、何もしなかった勧学寮および総局に信心決定者が不在であったのだと思います。この点岡氏に対して「道を間違えている以上、自分は勧学寮頭として君たちをさばかねばならない」と言われたという大原氏は信心決定の人であったのだと思います。(「続②近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku2.html <2015,4,5記>。
このように勧学寮および総局が信心不決定者の集団と成り果てているがために、宗制宗法遵守義務放棄が公然と罷り通るという異常事態となってるのでありますが、今一つの理由とし考えられることがあります。
これも教団の責任担当者が信心不決定者の集団であるが故に生じた事である点は同じでありますが、どうすれば世間に受け入れられるかという事にを気を配り、世間に流行する思想を模倣する事に執心した事であります。例えばマルクス主義、平和主義、人権主義等に模倣が現代人に分かるための現代教学の樹立、教学刷新の名のもとに随分なされたと思います。これも間違いであります。本願寺派教団は浄土真宗(第18願)をひろめる事が目的でなければなりません。人が集まらなければどうにもならないとか、人が関心もつものでなければならないと言う意見をよく聞きましたが、その発想の目的がどこにあったかを反省すべきであります。そこに自分達の利益目的があってはだめなのであります。『往生論註』に「自楽を求めず、わが心自身に貪着するを遠離せるがゆえに」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,327)、とありますように、それが自分の利益が目的であってはだめなのであります。伝道活動はいわゆる興業ではないのでありますから、人が集まらなければどうにもならないと言う発想で人を集める事を目的とすることは間違いであります。
「信心正因称名報恩」を否定した信楽氏岡氏は、念仏の信前(カラ念仏、自力念仏)と信後の念仏(他力念仏、報恩念仏)の違いの分からない宗教体験(救済体験、獲信体験)のない信心不決定(未決定、未安心)の人だったのであります。これが分からずに、時代即応の教学、現代教学の樹立という言葉に惑わされて、宗制宗法遵守義務放棄が公然と罷り通っている、あるべからざる教団の現状は、偏に最高責任機関である勧学寮、総局等の責任であると思います。このような信心不在体質の儘では発展振興はあり得ないと思います。
仏教は勿論、キリスト教もイスラム教も教祖の宗教体験によって感得された真理によって始まったものであります。(続、12月19日)でも申しましたように「自信教人信」こそが肝要であります。科学時代(500年前から)の到来により、新たな問題の中で、ブルトマンによって提示された「非神話化」問題もまさにこの事に尽きると思います。 合掌 (2020,12,23).
「近年の本願寺派教学に想う」e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm

K氏)

内部のゴタゴタは親鸞会に付け入る隙を与えないといいが

〈紅楳英顕〉

それは大変な間違いであります。教団の責任担当者(教学面、行政面)までが、信心不決定(未決定、未安心)者の集団と成り果て、信前の念仏(カラ念仏<僧侶なら営業念仏>と自力念仏)と信後の念仏(他力念仏、報恩念仏)の違いが分からず、宗制教義に定められてきた「信心正因称名報恩」の意味も分からず、宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通っている信心不在体質が、教団の現状であります。

親鸞会問題には関係なく、この信心不在の形骸、堕落体質の早急の抜本的改善こそが肝要だと考えます。 ついでですので、「私が対峙した35年前の親鸞会」 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/shirakaitaiji.html もご覧下さいませ。   合掌
 (2020、12,25).
これは「続㉒近年の本願寺派教学に想う」 e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku22.html に続きます。