信一念と信の覚不について
                     紅楳英顕
 
   はじめに
 本願寺派教団においては江戸時代に起った「三業惑乱」終結に当たっての本如の『御裁断の御書』(一八〇六年発布)に「年月日時の覚・不覚を論じ」とあり、信心獲得の日時を記憶するか否かによって信心の有無を論ずることが禁じられている。従って信一念の日時の記憶がなければ、信心ではないとすることは「一念覚知」の異義とされている。ところが近年、信心はあるかないか自分に分かるものではない、本願に疑いがなくなることなどない、往生に確信がもてるはずはない、もったとしたら自力だ、等の意見、即ち「信心不覚説」をよく見聞するのである。
 抑も「三業惑乱」は当時発生していた信心を不要とする十劫安心(無帰命安心)を正さんがための行き過ぎから生じたものであり、三業帰命、記憶日時だのみ(一念覚知)、欲生正因等の異義の主張がなされたのは周知のことである。しかし前掲『御裁断の御書』の次下には「また三業をいめるままたのむことばをきらひ」とあるように、信心を不要とする十劫安心(無帰命安心)をいましめているのである。近年見聞される「信心不覚説」的傾向の主張は親鸞・蓮如の意のみならず、『御裁断の御書』の意にも反するように思われるのである。
以上の問題意識により、以下浄土真宗における信一念と信の覚不の問題について考察することにする。
 
  一、獲信の年月日時の覚不の問題
 『拾遺蓮如上人御一代記聞書』一六に
  信心決定のひとありけるが、彌陀をたの  みたてまつりし其の年、又月日時をも忘  れ侍りければ、蓮如上人へ申されけるは、  たのみ奉たりし月日を 不覚はいかが也と  云   人ありと申す人候、承り候へば、尤も  と存じ候がいかがと不審申されければ、決定の心にもとづきて年久しき人もあるべし、 年月時日を忘るる人あるべし、衆  生はわすれたりと  も、仏の御方には御わ  すれ有るべからず、一度摂取ありては御  すてなき事なりとぞおほせらる。(真聖  全五の六〇七)
とある。所謂一念覚知の異義が教団の問題として最初に発生したのは三業惑乱時ということになろうが①、それより三百年以上前の蓮如の時代にこの問題が提示されているのである。彌陀をたのんだ(信心決定した)年月日時が不覚であるようなことでは信心決定したとはいえないのだろうか、という問いである。これに答えて蓮如は、信心決定してから年久しい人もあるのだから忘れる人もあるだろう。しかし衆生が忘れても仏が忘れることはなく、すてることはないと答えている。即ち獲信の年月日時の記憶は必要ないと述べているのである。この信一念の覚不覚の問題に具体的にふれている『拾遺蓮如上人御一代記聞書』は一七六七年刊行の『真宗法要』(本願寺派)、一八一一刊行の『真宗仮名聖教』(大谷派)には共に収められていないものであり、また三業惑乱関係文献にも双方(三業派、正義派)の主張の根拠に此の文が扱われていることは確認できないので、『御裁断の御書』は上引の『拾遺蓮如上人御一代記聞書』一六の文は見られることなく作成されたのかもしれない。しかし「年月日時の覚不を論じ」と、信心獲得の日時を記憶するか否かによって信心の有無を論ずることを禁じ、信一念の日時の記憶がなければ、信心ではないとすることを異義としたことは、獲信の年月日時の記憶の必要なしとした蓮如の意にかなうものであることは確かなことである。   
  
   二、『御裁断の御書』に示される信一念と信の覚不
 『御裁断の御書』の作成に関わった正義派自謙の『自謙日誌』に
  ○年月日時の覚不覚を論しとは。三に記憶日時なり。彼れ既に信を誤て願とし。 (中略)その帰命願せしは。何れの年月  日時なりやと。検問し記憶不 記憶を論じ  て。無智の輩  を惑乱せり。此説一時都鄙  にかまひすしかりしか。妨難頻りに起こ  るに恐れて。それを転計して。年月日時  をおぼへねば ならぬと云には非す。たと  ひ年月日時はおほへ  ずとも。後生の一大事をたのみしことをおほえず。我はたのみしやたのまざりしや。一向におほえすと云ふほどならは。何そ憶念の心つねにして。仏恩報する念ありと云はんやと云へ  り。今は正く本計に約して。年月日時を挙げ玉へとも。転計も自 から此中にあり。然るに執者は。他難を憚りて。転計云々すれとも。 彼か本意は。明了に時処年月等を記憶せよと云  ふにあり。(真全七二の四 〇二)
とあるように三業派は、信じた(帰命した、後生の一大事をたのんだ)年月日時を記憶しなければならないことの主張をしたのである。このように獲信の年月日時を記憶しなければならないとする主張は厳しく否定されているが、次下には
  彌陀如来の本願の。たうとさのほとが身におほへられて。一念より後ち。昨日も今日も。信順無疑にして。仏恩が喜ばる  ゝならは。これより外に。 たしかにたのんだおぼえと云うこ  とはなきなり〔御自釈に覚知成興の心との玉へるも此心なるべし。然るに世に三業たのみを嫌う人の中に。たの むとさへ云へは。ただ三業祈願のこととのみ思ひて。自ら三業せしこと  なきを。我はたのみたるおほへなしと云へるものものあり。大なる心得違ひなり。前々住上人御代。美濃国御法義御裁判の御連署に。最初には。一念帰命せし年月日時を記憶せよ   と云こと。これなきことありて。其後の一 條に云く。たのみしおほへなしといふやうなる。不明了の心得は。御文改悔文にも応せされは。亦  同前に教化すべしと云云。此意は。本願  を聞 信し疑ひなく。現在信心相続して。仏恩を喜ふ人ならは。これ即ち確とたのみしおほへある人なりその外に。曾たのみしことを覚へるの覚へぬのと 論するは。いらぬことなり。然  るにたのみしおほへ なしと云はゝ。御定判に違するゆへに。不明了の心得と云ふへし。作法祈願せし。その年月日 時を覚へよと云ひ。或はその事業を忘るゝなと云ふがごときは。   御相承にこれなきことなれは。最初の一條に破斥せられたり。たゝ信心たに堅固に 相続する人ならは。それか即ちたのんだおぼへのあるなり。たのみしおほへなしとはおもふべから  すとの御裁断ならん。執者の所立を証成すへ からす〕(真全七二の四〇三)
とある。ここでは三業だのみを嫌うあまりにたのんだことがないというひとがいるが是は大変な誤りであると述べているのである。「昨日も今日も。信順無疑にして。仏恩が喜ばるゝならは。これより外に。たしかにたのんだおぼえと云うことはなきなり〔御自釈に覚知成興の心との玉へるも此心なるべし。〕」、「たゝ信心たに堅固に相続する人ならは。それか即ちたのんだおぼへのあるなり。たのみしおほへなしとはおもふべからすとの御裁断ならん。」とあるように、信心堅固に相続するならばそれがたのんだおぼえがあると言うことである、との述べているのである。ここの「御裁断ならん。」の「御裁断」は上引の文中にある前々住上人(法如)御代(一七八六)。美濃国御法義御裁判のことであり、法如の時代に功存を遣わし裁断を下したものである②。終わりに「執者の所立を証成すへからす」とあるのは、三業派の年月日時の覚に執ずる者のことである。要するに獲信の年月日時の覚・不覚を論ずることを禁じた『御裁断の御書』の意は獲信時(信一念)の年月日時記憶を必要とする考えを禁じたのであり,功存が関わったものではあるが美濃国御法義御裁判に「たのみしおほへなしといふやうなる。不明了の心得は。御文改悔文にも応せされは。亦同前に教化すべしと」とあることは重視し、たのんだおぼえ(信の覚)はあるべきことが述べられていることが『自謙日誌』より窺うことができる③。
  三、法然・親鸞・蓮如における信の覚不
 仏教者のみならず多くの宗教者において、回心(入信)の時について語られている。
 法然についは『法然上人行状絵図』第六に
  順次解脱の要路をしらんために、一切経を、ひらき見たまふこと五遍なり。一代の教迹につきてつらつら思惟し給にかれもかたく、これもかたし。しかるに恵心の往生要集、もはら善   導和尚の釈義をもて指南とせり。これにつきてひらき見給に、かの釈には、乱想の凡夫、称名の行によりて、順次に浄土に、生ずべきむねを判じて、凡夫の出離たやすくすすめられ   たり。蔵経披覧のたびに、これをうかがふといへども、とりわき見給こと三遍、ついに一心専念彌陀名号、行住坐臥不問時節之久近念々不捨者、是名正定之業、順彼仏願故の文に  いたりて、末世の凡夫彌陀の名号を称せば、かの仏の願に乗じて、たしかに往生をうべかりけりといふことはりをおもひさだめ給ぬ。これによりて承安五年の春、生年四十三たちどこ  ろに余行をすてゝ、一向に念仏に帰し給ひにけり(法然上人伝全集、二三頁)
とあるように、四十三才の時、善導の「一心専念……順彼仏願故」の文により、余行捨てて念仏に帰したことが述べられている。このことは法然自身も『選択集』結勧に
   静に以みれば、善導の『観経疏』は、是西方の指南、行者の目足也。(中略)是に於いて貧道、昔茲の典を披閲して粗ぼ素意を識り立どころに余行を舎てゝ念仏に帰しぬ。其れ自り   已来今日に至るまで。自行・化他唯念仏を縡とす。(真聖全一の九九三)
と述べている。自己の回心(入信)の時が四十三の時であると思っていたことであろう。
 『和語灯録』巻五に
  往生の得否はわが心にうらなへ、その占いの様は、念仏だにもひまなく申されば、往生は決定としれ、もし疎相にならば、順次の往生はかなふまじとしれ。この占いをしてわが心をはげまし、三心の具すると、具せざるともしるべし。(真聖全四の六八二)
とあり、また往生の二日前に書いた『一枚起請文』には
  たゝ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏  と申して、うたかひなく、往生するそと  おもひとりて、申すほかには別の子細候  はす。(法然全、四一六頁)
と述べているのであり、当然の事ながら揺るぎない自己の往生の確信(信の覚)があったのである。
 親鸞は自己の回心(入信)について『教行信証』「化土巻」に
然るに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行 を棄てて本願に帰す。(真聖全二の二〇 二)
と述べている。親鸞の第十八願転入の時は何時であるかについては、諸論があるが、私はここに親鸞自身が述べている建仁辛酉の暦、即ち親鸞二十九才の時だと考える。親鸞自身この時を自己の信心決定(回心)の時と考えていたことであろう。この時親鸞は「往生一定の確信」を得たのであり、この確信はその後聊かも揺らぐことはなかったのである『教行信証』初めの「総序」には
  噫、弘誓の強縁多生にも値ひがたく、真  実の浄信億劫にも獲がたし、遇たま行信  を獲ば遠く宿縁を慶べ。(真聖全二の一)
とあることもそのことを示すであろう。また「化土巻」三願転入の文に
  然るに今特に方便の真門を出でて選択の  願海に転入せり。速かに難思往生の心を  離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果  遂之誓い良に由有る哉。爰に久しく願海  に   入りて深く仏恩を知れり。(真聖全二の一六六)
と述べており、信心決定の自覚(信の覚)を述べているのである。
 蓮如の回心(入信)の時期については記された資料はない。それで蓮如は生まれながらの僧侶であるので回心(入信)はなかったのではないかとか、真宗再興の志を立てた十五才の時ではないかという意見がある。既に述べる機会があった④ので詳論は避けるが、これらの意見には賛成しかねる。回心(入信)があったからこそ伝道の情熱が生まれ、偉業をなせたのである。また真宗再興の志と回心(入信)とは必ずしも結びつかないし、数え年十五才は回心(入信)の時期には少々早過ぎると思われるのである。
 蓮如の信心決定の自覚(信の覚)については『御文章』五の一一に
  抑、この御正忌のうちに参詣をいたし、  こころざしをはこび、報恩謝徳をなさん  とおもひて聖人の御まへにまいらんひと  のなかにをひて信心を獲得せしめたるひ  ともあるべし、また不信心のひともある  べし。もてのほかの大事なり。そのゆへ  は、信心を決定せずば今度の報土の往生  は不定なり。(真聖全三の五〇七)
とある。このようなことがいえるのは自分に信心決定の自覚(信の覚)があるからに他ならない。また『領解文』に
  たのむ一念のとき往生一定御たすけ治定  とぞんじ、このうへの称名は御恩報謝と  ぞんじよろこびまうし候。(真聖全三の  五二九)
とある。ここに「往生一定御たすけ治定とぞんじ」とあるが、これは蓮如自身が往生に確信をもっていたことを表すものである。即ち信心決定の自覚(信の覚)を示すものである。尚、『御一代記聞書』末二一三に
  心得たとおもふは心得ぬなり、心得ぬ思  ふはこゝえたるなり。(真聖全三の五八四)
とある文により、蓮如の信心決定の自覚(信の覚)を否定する意見があるがこれは間違いであることも別の機会で述べた⑤。次下に
  彌陀の御たすけあるべきことのたふとさ  よ思が心得たるなり。少も心得たると思  ことはあるまじきことなりと仰られ候。  (同上)
とあるのであり、自分の力で心得たと思ってはいけない、すべて他力によるところと心得なさい、というのであり。『御一代記聞書』末二一三は、信心決定の自覚(信の覚)を否定するのではないのである。
 以上法然・親鸞・蓮如における信の覚不について考察した。法然・親鸞においては獲信の時(信一念)に関する記述があるが、蓮如にはそれはない。蓮如にもその時はあったはずであり、それも八代を継承する四十三才よりかなり前のことだとは思われるが、それ以上は分からない。
 上述のように蓮如は「信心決定の年月日時は覚えていなくてもよい」いっている。入信の経路は様々であり、人それぞれで異なることであろう。また獲信の年月日時の覚不覚を論ずることを禁じた『御裁断の御書』の意も尤もなことである。しかし法然・親鸞・蓮如においてはいうまでもなく『御裁断の御書』においても信決定の自覚(信の覚)を否定することは一切述べられていないのである。
 三業惑乱に関連して非意業の問題がある⑥。これは三業帰命に反対する正義派の主張から出たもので、信心は他力回向の信心であり、衆生の三業よりおこるものではないから衆生の意業でもなく非意業であるというものである。『自謙日誌』に『改邪鈔』の「意業の憶念帰命の一念」について
  そのたのむとは。口にてたのむにあらす。身にてたのむにあらす。唯意に本願を信し。彌陀に帰する一念のおこることなり。故に意業の憶念帰命の一念とのたまへはとて。凡夫の意  業にて造作するところの。憶念帰命にあらす。たゝ所聞の六字名号が凡夫心中に印現することを。意業憶念帰命との玉ふなれは。異解者の妄情を以て。発願祈求の念を造作せしむ  るとは、大に各別なり。されば彌陀をたのむと云うも。信心をとると云うも。名号の教勅をききて。意にうたかひなく。領受する一念の起こる外なきなり。(同上、四二二頁)
とある。即ち凡夫意業による憶念帰命(信心)ではない、名号の印現という意味で非意業というのであり、凡夫の心や意識に全く現れないという意味ではないのである。要するに非意業ということが信心決定の自覚(信の覚)を否定する意味は全くもたないのである。
  
  むすび
 上に論じたように法然・親鸞・蓮如ともに現世において往生の確信を得ていたのである⑦。本稿は浄土真宗の信心についての論考であるので、親鸞・蓮如について述べてむすびとするが、現世からの救済の強調が親鸞浄土教の大きな特色である⑧。経典の当面では彼土の益である正定聚を現生正定聚とし、当時浄土教の大原則であったであろう臨終来迎を否定した独自の釈顕は、まさに親鸞の現世における救済の確信、信心の大きなよろこびに起因するものであるといえよう⑨。「信巻」には信心を「大慶喜心」と嘆じ、『唯信鈔文意』には
  慶はうべきことをえてのちによろこぶこゝろなり。喜はこゝろのうちにつねによろこぶこゝたえずして憶念つねなるなり。踊躍するなり。踊は天にをどるといふ、躍は地にをどるといふ、よろこぶこゝろのきはまりなきかたちをあらはすなり。(真聖全二の六三三)。
とあるように、信心は親鸞の心に自覚された慶びであり⑩、いみじくも『自謙日誌』に出る「覚知成興之心」⑪である。また年月日時の記憶は不要と説いた蓮如においても「往生一定、御たすけ治定とぞんじ」た信心であり、心に自覚されたものであったのである。

①中井玄道『異安心の種々相』(一九三〇・ 四、同朋舎)、六五頁。大原性実『真宗異 義異安心の研究』(一九五六・六、永田文 昌堂)、三八四頁。
②『本願寺史第二巻』、三五八頁。裁判の文は『金剛槌』に出ている。(真全七二の四四九)
③前々住上人御代美濃国御法義御裁判につい ては『春貞記録』にも記され、『自謙日誌』 と同様の意が述べられている。(真全七二 の四七〇)
④拙稿「仏教をいかに学ぶかー真宗学の場合 ー」 (日本仏教学会年報六六、二〇〇一 ・八) 。
⑤拙稿「他力信心と日常生活ー浄土真宗にお けるー」(日本仏教学会年報六三、一九九 八 ・五)。
⑥大原性実『真宗異義異安心の研究』(同上、 三七五頁以下)。普賢大円『真宗教学の諸 問題』(百華苑、一九六四・十、二六七頁 以下)。
⑦『選択集』一一、讃歎念仏章に「当に知るべし、念仏にはかくの如き等の現当二世、始終の両益有り。応に知るべし。」(真聖全 一の九七五)とあり、法然も現世からの救 いを述べている。
⑧拙稿「親鸞浄土教における救済の現実的意 義」(印度学仏教学研究五一の一、二〇〇 二・十二)。「他知の世界ー浄土真宗の信 心ー」(宗教研究347、二〇〇六・三)。
⑨『教行信証』「信巻」信一念釈の「広大難 思の慶心を彰はす」(真聖全二の七一)とある「彰」の左訓に本願寺派本と高田派本には「うちにあらはす」とあり、大谷派(真蹟)本には左訓はない。この点は検討する必要があろう。
⑩『歎異抄』九の「念仏まふしさふらへども、踊躍歓喜のこゝろおろそかにさふらふこと」 (真聖全二の七七七)とあるのは唯円の言葉であり気持ちである。拙稿「歎異抄第九 章私見」(真宗研究三二,一九八七・一)。
⑪『教行信証』「信巻」の三心字訓釈に、欲生の欲の意味として覚と知、生の意味として成と興を挙げ、次下に「願楽覚知之心」 と述べている。(真聖全二の五九)

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        (相愛女子短期大学教授)

[印仏研究55の2、平成19年3月)