今想うこと              紅楳英顕

 私は七百回大遠忌の前年、昭和三十五年(一九六0)四月に龍谷大学文学部仏教学科に入学した。(その当時は文学部だけであり〈経済学部が増設されたのは翌年〉、私は真宗学を専攻したが、コース分けは三回生からであった。)
本願寺派の寺院の長男に生まれた私であったが、高校時代までとくに宗教について深く考えることもなく、自分が将来浄土真宗の僧侶として生きることに不安を持っていた。そんな気持ちでいた高校三年の時、国語の教科書に『歎異抄』の一節が引かれ、研究課題として「真の宗教と迷信の違いを考えてみよう」と書かれていた。この言葉が私を大変勇気づけてくれた。自分の先祖が代々僧侶として関わってきた浄土真宗を「真の宗教」と世間は思ってくれているのかと、今まで寺の息子であることに何となく引け目を感じていた私は大変嬉しく思ったものである。
 入学してから僧侶にとって一番大事なことは自分自身が彌陀の本願を信じたひと、信心決定のひととなることであろうと考えた。仏教や真宗の知識が必要だと思い、本を読んだり、また説教を聴聞することも大事だと思って、当時堀川通りに面していた総会所に通ったりした。夏休みが終わり後期のある日『正信偈』の「如来所以興出世 唯説彌陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言」とある言葉が私のこころに強く響いた。ここの「五濁悪時群生海」とはまさに私自身のことだと深く感じたのである。これが私の入信体験である。この私の体験は因幡の源左が「牛の背の右と左とに一把づづ附けて、三把目を負はせうとしたら、ふいと分からしてもらつたいな。」と述べている体験によく似ていると思う。それから私は他者に教えを説く伝道者になりたいと思い「お説教」の練習をする伝道部の存在を知り入部したのである。
伝道部員となってから、今もそうかも知れないが、夏休み春休みを利用して、各地の寺院を回らさせて貰う伝道巡回があった。このことは私にとって大変よい経験であったと思う。
学部卒業後もっと真宗学の勉強をしたいと思い、大学院に進学した。それは一回生の時伝道部に入部した時と同じ気持ちである。真宗学の知識を深め、よりよい伝道者になりたいと思ったからである。その後、本願寺伝道院(現・総合研究所)、相愛大学に御縁を頂いたが、私の学問の目的は伝道のためであり、自信教人信の教人信のためであったといえる。 蓮如上人は『御一代記聞書』九三に
  信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われはものをもたずしてひとにものをとらすべきというの心なり、人承引あるべからずと、前住上人申さると  順誓に仰せられ候き。「  自信教人信」と候時は、まづ我が信心決定して人にも教えて仏恩になるとのことに候。自身の安心決定して教えるは、すなはち「大悲伝普化」の道理なる由、同く仰られ候。
と述べられている。ここに「自信教人信」とあるように、まず我が身が信心決定のひととなる。これが一番肝要なことである。また蓮如上人は『御一代記聞書』一四に 
  教化するひとまづ信心をよく決定して、そのうへにて聖教をよみかたらば、きくひとも信をとるべし。
とも述べられている。信心決定が伝道活動の必須条件なのである。
 では信心が決定するとはどうなることなのか。実はこれが大変大事な問題である。
 親鸞聖人(以下聖人)は『一念多念文意』に「信心歓喜」の「信心」を釈されて
  信心は如来の御ちかひをききて、うたがふこゝのなきなり。
と述べられている。他力信心の体は名号であるが、信相は「如来の御ちかひをききて、うたがふこゝろのない」心(無疑心)なのである。近年この点の理解が混乱し、時代即応の教学樹立の名の下に、「信心正因称名報恩」が聖人の意に反するとか、信心を反体制的社会実践をすることだとか、あるいはそれを単に倫理の範疇で述べるとか、また凡夫には一生うたがいの心が続くものだと主張したり、往生一定の決定心は存在しないというような意見も出ているが、これはとんでもない間違いである。このような見解は「自信教人信」の「自信」の欠落したひとの所論なのである。
 龍谷大学入学以来五十余年が経過し、この度七百五十回大遠忌法要が盛大裡に円成した。大変慶ばしいことではあるが、近年教団が長期低落傾向にあることが懸念され、大法要はこれが最後ではないかという声も聞かれるのが現状である。私自身も七百回忌の時の方が大分盛り上がりがあったように思う。
宗門発展計画が随分以前から謳われているが、余り成果は見られない。とくに教学の刷新、現代教学の樹立ということは、ここ四~五十年間いわれ続けて来たにも拘わらず、全く成果はなかったといっても過言ではないように思う。七百五十回大遠忌宗門長期振興計画にも「現代社会に応える教学・伝道態勢の構築とみ教えに生きる人の育成」とある。このことも、「自信教人信」の「自信」(信心決定)を忘れるならば、過去四~五十年の過ちと同じ轍を踏むだけであり、宗門は振興どころかただ低落の一途を辿るのみであろう。
 いうまでもないことであるが、聖人は「自信教人信」の実践者であり、強い情熱をもたれた伝道者であったのである。『教行信証』後序に
 もしこの書を見聞せんもの、信順を因とし、疑謗を縁として、信楽を願力に彰し、 妙果を安養に顕さんと。
とあり、『浄土和讃』讃彌陀偈讃には
 仏慧功徳をほめしめて 十方の有縁にきかしめん 信心すでにえんひとは つねに仏恩報ずべし
等とある所よりこのことはよく分かる。
一部のひとに聖人には全く教化者意識がなかったという意見がある。無論高所から他者を見下すという姿勢はなかったことであろうが、伝道教化には熱い情熱をもたれていたのである。教化者意識が全くなかったというのは、これも「自信」の欠落による誤った見解であり、贔屓の引き倒しということになると思う。
 『一念多念文意』と『唯信鈔文意』の跋文に  
  いなかのひとびとの文字のこころをもしらず、浅ましき愚痴きはまりなきゆえに、やすくこころえさせんとて、おなじことをとりかえしとりかえし書きつけたり
と書かれている所からもそのことは分かることと思われる。
 『歎異抄』第二に「このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」とある文や『往生礼讃』の通常本には「大悲伝普化」とある文が『教行信証』の「信巻」と「化土巻」に『集諸経礼懺儀』所収本より引用されて「大悲弘普化」となっていることを、聖人に教化者意識がなかった根拠とする意見があるが、『歎異抄』第二は、善鸞の密伝異義に惑わされた関東の門弟が京都の聖人を訪ね、善鸞から聞いたということは伏せて、聖人がかって自分たちに説いた念仏の教えは聖人の本当の教えではなかったのかと問いただしたのであろう。善鸞の背信行為がその原因であることをご存知でない聖人は自分に不審を持つ門弟達を大変はがゆく思われたのである。そのことが「このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」という突っぱねた感じの言葉となったのであろう。また『往生礼讃』の文については二種深信の法の深信の文が通常本は「今彌陀の本弘誓願は名号を称すること下至十声一声等に及ぶまで」とあるのが、聖人依用の『集諸経礼懺儀』所収本では「今彌陀の本弘誓願は名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで」となっているのである。恐らく聖人はここの「下至十声聞等」とある所に注目され、一声の称名をも不要であり、信心一つで往生決定の意が示されている『集諸経礼懺儀』所収本を依用されたのである。この聖人の依用された本が「大悲伝普化」ではなく「大悲弘普化」となっていたのであろう。従って「伝」が「弘」になっていることが聖人に教化者意識がなかったとする根拠には全くならないのである。
(聖人依用の『集諸経礼懺儀』所収本がどれであったかは不明であるが、中華大蔵経六十三巻所収の『集諸経礼懺儀』所収本がそれに近いと考えられる。それには『往生礼讃』通常本では「下至十声一声等」とあるのが「下至十声聞等」とあり、また「大悲伝普化」とあるのが「大悲弘普化」とある。)
 (龍谷大学伝道部創部八十周年特別号『恒河』ー新たな始まり、大遠忌を機縁としてー〈永田文昌堂、2013年9月発行〉) 。
 
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