『宗教問題15』に掲載された私が曾て関わりました、 親鸞会問題についての記事を記します。
「私が対峙した35年前の 親鸞会」
Interview 相愛大学名誉教授 紅楳英顕
(『宗教問題15 特集 親鸞会とは何か』<宗教問題合同社、8月31日発行、28頁以下。文章はそのまま掲載し、《》に少々説明を加えました)。
一九五八年に設立された親鸞会の歴史の中で特筆すべき筆頭のものとしてよく挙げられる出来事が一九八〇年前後に起こった浄土真宗本願寺派との衝突である。
当時本願寺派が発行した論文集に親鸞会の教義を批判する内容の文章が載り、それに怒った親鸞会が本願寺派に抗議。最終的には親鸞会の会員が西本願寺(本願寺派本山)に大挙してつめかけ、座り込みを行うという事態に発展した。
親鸞会側からの相次ぐ抗議を、次第に本願寺派は黙殺するようになり、親鸞会はそれを「本願寺はわれわれの問いに答えない」という形である意味の“勝利宣言”をするにいたる。そしてその後、親鸞会は本願寺派に勝った」という旗印の下、さらなる組織拡大に走っていくのである。
ただ、伝統仏教寺院の取得や会員の国政選挙出馬など、親鸞会の活動が新たな局面に入っているかのように見える現在、このかつての“事件”をどう総括すべきなのか。あの事件は親鸞会に打撃を与えることは出来たと思うが、伝統教団側も反省点はある」と語るその“親鸞会批判論文”の著者・紅楳英顕氏に、いま約三十五年前の事件を振り返ってもらった。(聞き手=本誌編集部)
― まず基本的な事実確認からさせてください。紅楳さんは一九七七年、浄土真宗本願寺派が発行した論文集『伝道院紀要』19 号に、「一念覚知説の研究高森親鸞会の主張とその問題点ー」という論文を寄稿、さらに七九年、同じく『伝道院紀要』 24 号に、 「現代における異義の研究高森親鸞会の主張とその問題点ー」を寄稿して、親鸞会の教義に関し批判。これに親鸞会側が抗議して、親鸞会の教義に関し批判。これに親鸞会側が抗議してきたという流れでよろしいでしょうか。
紅楳 そうです。その当時の背景というものを説明しますと、そのころ学生運動そのほかの影響ということもあってか本願寺派の中でも「古い教団のあり方を改革しよう」といった声が少なからず上がるようになっていました。龍谷大学の教員という立場におられる方までもが「教団改革」といったことを唱え、従来の教学のあり方に疑問を呈するということも起こっていました。しかしこの内容は浄土真宗の大事な教えである「信心正因称名報恩」を否定するものであり、信心のない人達の意見でありましたので、私は賛同できないものでありました。《『教団改革への発言』(永田文昌堂、昭和46年<1971>8月発行。「宗祖における信心と念仏」〈龍谷教学十三、昭和五十三年六月)http://e-kobai424.sakura.ne.jp/syusoniokeru.html 参照。》 親鸞会が一定以上の規模に拡大し、各地で本願寺派寺院に対して攻撃活動を始めるは、そんなころの話なのです。
現在は組織改変の結果、名前は変わっていますが、当時私は本願寺派にあった伝道院(現・総合研究所)という、教団の付属研究所に所属していました。地方の本願寺派寺院からの要請があり、本願寺として 親鸞会についての対策をすることになったのです。そこで私と他の何名かが親鸞会問題の担当になりました。
そういう訳で一九七七年の『伝道院紀要』 19 号に「一念覚知説の研究ー 高森親鸞会の主張とその問題点ー 《http://e-kobai424.sakura.ne.jp/icinenkakuchi.html 》」、さらに七九年、同じく『伝道院紀要』24 号に「現代における異義の研究ー高森親鸞会の主張とその問題点ー」《http://e-kobai424.sakura.ne.jp/gendainiokeruigi.html 》 という論文を発表し、 親鸞会教義について、私の賛成しかねる所を述べたのです。そして19 号の論文においては、実は本願寺側の反省すべき点についても述べていました。
その“自力的傾向”な主張
― 親鸞会の教義の問題点とは、どのようなものだったのでしょう。
紅楳 まず一九七七年に私が書いた「一念覚知説の研究」の内容から説明しましょう。少なくとも当時の親鸞会は、浄土真宗を信仰していく上で、いつ自分が信仰を得たのか、つまり信心決定したのかということを、はっきりと自覚せねばならないと主
張していました。一九五八年に親鸞会会長・高森顕徹氏が書いた『顕正』という本を見ると、「信仰が徹底したかしないか自分にハキリせんでどうするか、助かたか、助からんか我が身に判らんような信仰かあるか、と強調せずにはおれないのだ」と書いています。
ただ信仰というものは、確かに自分ではっきりと自覚し、「この瞬間に自分は回心を得たんだ」とわかるものもあるでしょうが、一方でいろんなご縁の中で徐々に信仰の道に入り、“入信”の時はわからないが、気づいたら深く信心していた、という状況もあるわけです。
これについては、江戸時代に起こった三業惑乱(一七九七~一八〇六)という浄土真宗本願寺派内の議論でも争われたことでした。そもそも浄土真宗とは、阿弥陀如来の大いなる本願に救われるのだという“他力本願”の教えです。それが「自分の救われた時が必ずはっきりわからなければならないという意見(一念覚知説)は、これは自力であり、やはり本来の浄土真宗の教義に照らしておかしい考え方なのです。《回心(入信)について回心(入信)のパターンに突然的回心(Sudden conversion)と漸次的回心(Gradual conversion)の二つがあることがいわれています。回心(入信)のパターンに突然的回心の場合はその時が分かり、漸次的回心(Gradual conversion)の場合はその時は分からないと考えられます<時は分からないが入信の自覚はある>。拙稿「浄土真宗における回心について」 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/jhodoconversion.html、参照。因みに私の回心(入信)のパターンは突然的回心(Sudden conversion)です。因幡の源左に類似していると思っています。このことは「今想うこと 」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/imaomou.htm に述べました。》
― 一九七九年にお書きになった、「現代における異義の研究」ではどのような親鸞会批判をされたのですか。
紅楳 親鸞会は高森会長の法話を聞くことを非常に重視するそうですが、少なくともその当時、「高森会長の法話を聞かないと救われない」といった主張さえ展開していました。また「親鸞会にお金を寄付することは大変な善行であり、それが救いにつながることになる」とも言っていました。親鸞会ではそういう高森会長の法話を聞いたり、会に寄付をしたりすることを「宿善」であると言って、「されば宿善は待つに非ず、求むるものである」(高森顕徹著『白道もゆ』より)と教えていたのです。要するに、自分から積極的に“善”を求めないと救われないの
だ、と。
―それもまた自力ということになってしまうわけです
か。
紅楳 そういうことになりますし、そもそも「高森会長の話を聞かないと救われない、とか、「寄付を出さないと救われない」などということを親鸞聖人は一切おっしゃっていません。自力ということだけではなしに、根本的に浄土真宗の教えと異なります。
ですから私はそういうことを論文に書いて、親鸞会の教義を批判したのです。
― 親鸞会側からの反論はあると思っていましたか。
紅楳 もちろん、私も他教団の教義を批判したわけですから、反論があれば議論をするつもりでいました。ところがそういう言論上のやりとりを重ねていくということよりも、親鸞会側は“実力行使”に出てきたわけですから。
― 記録によりますと一九八〇年五月二十七日、親鸞会の会員約千人が西本願寺に乱入し、抗議集会を行ったとあります。
紅楳 私はちょうどその時、本願寺で行われていた法要に係員として参加していました。なにやら大勢の人がやってきて、どうも「紅楳英顕を出せ」というようなことを叫んでいるものですから、近づいて「私が紅楳英顕ですが」と言ったのです。しかし別に最初から私の顔を知っている人がいたわけでもなかったのでしょう。きょとんとしたような感じで、別に何もされないまま、その日は引き上げていきました。
― 本願寺の反応はどうでしたか
紅楳 私も含めて皆びっくりですよ。まさかこんなことをしてくるとは。
― その後、親鸞会は複数回にわたって西本願寺で座り込みなども行っています。
紅楳 先ほど言ったように、私は親鸞会が反論をしてくれば、積極的に議論に応じてもいいと考えていました。ただ、こういう実力行使に出てこられると、もう私一人が議論してどうにかなるものではないし、また私の出る場もなくなりました。さらに親鸞会側も”紅楳英顕という個人“を攻撃するというより”本願寺派という教団組織“がターゲットであるようでした。私はいわば、その後カヤの外になっわけです。
「私は救われました」
― それではその後、特に紅楳さん個人の所に脅迫状みたいなものが届くといったことは・・・
紅楳 まったくありませんでしたね。ただあれは、一九八三年八月のことだったと思うのですが、親鸞会の本部からもほど近い富山県高岡市のお寺に、法話に来てほしいというお願いをされたのです。 それで富山に出向き、そのお寺へ行たのですが、私が話をする
ということは事前に掲示などもされていましたから、私の法話が始まる直前、バス二台に分乗した百人ほどの人たちが、突然お寺に乱入してきたのです。《高岡教区による黎明講座、当日の会所は高岡教区伏木組光西寺様》。まあ、「明らかに親鸞会だな」と、すぐわかりましたけれども。
そのお寺の御住職がとっさに「暴力はいけません!」と叫びました。すると彼らは黙って座り、門徒さん方と一緒に私の話を聞いていました。けれどもしばらくして、大きな声で、彼らの中の一人が「あなたは救われたんですか!」と叫んだのです。私は「私は救われました。しかし今は御法話をしていますから、何かあるなら終わった後に来てください」と言い、そのまま法話を続けました。
法話を終えた後、私は控え室で彼らを待っていました。ガラッと障子が開き、「来たな」と思うと、それはそのお寺の御住職で、彼らは何も言わずに帰りました、言われました。推測ですけれども、親鸞会は「伝統教団の浄土真宗の教えを信じていても救われない」と公言している団体ですから、私に「救われました」と言い切られて困ったのでしょう。
正当な批判もある
― 紅楳さんはその後、本願寺派系の学校である相愛大学の教授になられるわけですが、学校に親鸞会が乗り込んでくるようなことは。
紅楳 そういうこともまったくありませんでした。代わりにたくさん来てくれたのは親鸞会を脱会した若い人たちで、彼らとはいろいろな話をしました。「紅楳先生の批判は親鸞会にとって本当にこたえたのです。今ではお布施すれば救われる、などといったことは、表立っては言わなくなっています。」と教えてくれて、印象的でしたね。
― 本誌の取材で現在の高森会長の法話を聞いているのですが、「平生業成は親鸞聖人の一枚看板」ということを強調していて、「他力本願」「悪人正機」などのよく聞く浄土真宗の用語はあまり出ませんでした。
紅楳 そうですか。ただ平生業成はちゃんとした浄土真宗の考え方ですよ。信心によって現世においても救われるという教義があるのは事実です。ただそれを伝統仏教の側があまり言わないのは、僧侶たちの間に、そうはっきりと人に言いきれるほどの確信がないということなんですよ。信心決定、現生正定聚、平生業成をはっきりと説かねばなりません。
― 親鸞会はまた、「今の伝統教団は葬儀や法事ばかりやつてきちんとした教えを説いていない」とも言っています。
紅楳 そしてさらにまた親鸞会は、本願寺は親鸞会を異安心(正しくない信仰をしている)と言うが本願寺の方は無安心(信仰がない)だ」とも言っています。私は親鸞会を肯定的に評価する気など全くありませんが、
こういう親鸞会の、「本願寺は無安心だ」といった批判は当たっている部分もあって、伝統教団側はきちんと受け止め、反省すべきことは反省しないといけないと思います。親鸞会の問題は、ただ相手を「異安心だ」で切り捨ててしまっていいものではないとも感じています。
(2016年12月30日)