4月5日に述べましたように、当時龍谷大学の真宗学の教授であった信楽氏と岡氏が宗制教義に定められていた「信心正因称名報恩」に反対しました。これについて当時の勧学寮頭は信楽氏に対しては「異義断定保留、今後の教学活動を見守る」(昭和56<1981>年3月)、岡氏に対しては「疑義断定保留、今後の教学活動を見守る」(昭和56<1981>年10月)とし、具体的には何もなされることはなかったのであります。これについて信楽氏は以後も一向に考えを変えることがなっかたのは周知のことですが、岡氏は以後考えを改めた、と一部では言われておりました。しかし全くそんなことはなかったのであります。
岡氏の晩年の著『親鸞の念仏』(法蔵館、2005年11月発行。<岡氏の逝去は2007年2月>。)にそのことは明らかであります。(私は岡氏には学生時代に色々御高誼を賜ったことには深謝しております。)
氏が「信心正因称名報恩」に終生反対であったことは著の全般に述べられています。氏の持論であった「行巻」の「大行とは即ち无碍光如来の名を称するなり。」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,141)とある「大行」が信に関係ないものとしています。「P,47。P,195等」。しかしこれは間違いであります。何度も申しましたが『正像末和讃』に「真実信心の称名は弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,607)とありますように、真実信心の称名のみが「弥陀回向の法」なのであり、口から出る念仏のすべてが弥陀回向(他力回向)の念仏ではないのであります。信のない念仏は「カラ念仏」や「自力念仏」であり、大行とは断じて言うことはできないものなのであります。
「信心正因といわれて、その信心を自覚することは非常に難しい。まして称名報恩という、報恩の念仏を称えることはさらに難しいといえるのです。(p、11)とあり、また「阿弥陀仏を信じようとして、真実、信じたという確証が得られない、」(p、29)等とありますが、信心を自覚することが難しいとか、信じたという確証がえられないとかいうことは、率直に言いましてそれは宗教体験(救済体験、獲信体験)のない信心不決定(未決定、未安心)者の言うことなのであります。恐らく現在の教団の教学の責任担当者の中にも多いことと思いますが明らかな誤りであります。
それから「疑蓋无雑」について氏は「この疑蓋无雑という言葉を今日、真宗学ではどのように解釈しているかといいますと、衆生が阿弥陀仏の心を疑いなく信じる心だと解釈している。全く逆なのです。そういうことを親鸞聖人は言ってはいない。疑蓋无雑の疑蓋とは、煩悩のことです。」(P,221)と述べています。上に述べましたように「信心を自覚することは非常に難しい」、「信じたという確証が得られない」と言うように、信心の自覚確証を否定する氏でありますので、機辺の「疑蓋无雑」を否定したかったのでありましょうが、それならば信巻三心釈の信楽釈(機辺)の「次に信楽といふは、すなわちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆえに疑蓋間雑あることなし。ゆえに信楽と名づく。」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,234)とある「疑蓋」の説明がつかないことになります。明らかな謬見と言わざるをえません。
以上のように、信楽氏と同様に岡氏も、昭和56<1981>年10月以降も考えを変えることはなかったことが明らかであります。
当時の勧学寮頭は岡氏に対しても「今後の教学活動を見守る」としながら、何もしなかったと言うことであり、勧学寮の怠慢と言うことになりましょう。 合掌
(2020,5,11)。
1、「親鸞における疑蓋无雑について」(昭和52<1977>、12)。
2、「親鸞における疑蓋无雑について」(二)(昭和54<1979>、12)。
3、「宗祖における信心と念仏 ──念仏を中心として── 」(昭和53<1978>,6)
4、「宗祖における信心と念仏(二)(昭和55<1980>,6)。
上の4つの論文は私が昭和52<1977>年から昭和55<1980>年に書いたものです。 昭和46<1971>年に当時龍谷大学の現職の真宗学の教授であった信楽氏と岡氏に若手の龍谷大学の教員,その他が加わった教団改革運動が始められました。そのときに信楽氏、岡氏は現代教学の樹立ということで、当時から宗制に定められていた「信心正因称名報恩」義に反対しました。私はこの両氏の見解に賛成することはできませんでした。それは私が伝統教学にこだわったのでもなければ、宗門人なら宗制に従う義務があると思ったからでもありません。両氏共に宗教体験(救済体験、獲信体験)がない信心不決定(未決定、未安心)者である故に、親鸞聖人や蓮如上人の説かれる信心念仏の意味が全く領解出来てないと思ったからであります。是非御一読頂きたく思います。合掌
上の4論文の中、1と2は岡氏についてのもの、3と4は信楽、岡両氏についてのものであります。3の「宗祖における信心と念仏 ──念仏を中心として── 」(昭和53<1978>,6)の最後に「要するに、自らが信体験をもち、本願の救いを慶び、報謝の念仏をする身にならない限り、称名報恩の意味も理解できないであろうし、信前の称名と信後の称名との区別もつかないであろう。ここに岡・信楽両氏の所論の根本的に検討すべき問題点があるように思われる。」と書きました。これはもう40年以上前のことになりますが、私の気持ちは今も全く同じであります。
岡氏の晩年の著『親鸞の念仏』(法蔵館、2005年11月発行)の全般に「信心正因称名報恩」に反対の立場で書かれていることはすでに述べましたが、氏が「この疑蓋无雑という言葉を今日、真宗学ではどのように解釈しているかといいますと、衆生が阿弥陀仏の心を疑いなく信じる心だと解釈している。全く逆なのです。そういうことを親鸞聖人は言ってはいない。疑蓋无雑の疑蓋とは、煩悩のことです。」(P,221)と述べているのが、上の論文の1と2に関することです。恐らく岡氏も私の論文を意識して書いたものと思います。疑蓋无雑と言うことが「衆生が阿弥陀仏の心(本願)を疑いなく信じる心」ではなく、「疑蓋无雑の疑蓋とは、煩悩のことです」という解釈は岡氏以外の誰かが言っているのでしょうか、全くの謬見と言うべきだと思います。1,2の論文に書いたことでありますが、岡氏は救済体験がない故に、親鸞聖人の深い自己内省の心と本願疑惑心との違いが分からず、混同しているのです。それで本願に疑いの晴れた疑蓋无雑の心が衆生には存在しないと思い込んでいるのです。これが原因で痴無明(煩悩妄念の心)と疑無明(本願疑惑の心)の違いも分からないことにもなり、また「信心正因といわれて、その信心を自覚することは非常に難しい。まして称名報恩という、報恩の念仏を称えることはさらに難しいといえるのです。(p、11)とあり、また「阿弥陀仏を信じようとして、真実、信じたという確証が得られない、」(p、29)と言うことにもなるのです。痴無明疑無明につては岡氏の意見に賛成し痴無明疑無明を混同している教学責任担当者も近年いるようですが、これも宗教体験(救済体験、獲信体験)の欠落から生じた誤りであります。(「近年の本願寺派教学に想う」追加
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnentsui.htm)
3,4の論文については前に述べました「要するに、自らが信体験をもち、本願の救いを慶び、報謝の念仏をする身にならない限り、称名報恩の意味も理解できないであろうし、信前の称名と信後の称名との区別もつかないであろう。ここに岡・信楽両氏の所論の根本的に検討すべき問題点があるように思われる。」につきます。 合掌
上の論文1「親鸞における疑蓋无雑について」(昭和52<1977>、12)は、印度学仏教学研究第二十六の一、1977<昭和52>年12月刊、に発表したものであります。これに対して岡氏が反論として「親鸞の行と信―批判に答うー」(印度学仏教学研究第二十七の一、1978<昭和53>年12月刊)を発表しました。論文2「親鸞における疑蓋无雑について」(二)(昭和54<1979>、12)は、その岡氏の反論に答えて、印度学仏教学研究第二十八の一、1979<昭和54>年12月発行、に発表したものです。このことを承知して頂くと、この問題の論点、問題点をより深くご理解して頂けることと思います。 合掌 (2020,5,12)
昨年末(2019、12、28)に、私が現在奉職しております大阪教育福祉専門学校の『大阪聖徳保育・福祉論叢』(2020年3月発刊予定)に論文「親鸞における往生の問題」を掲載予定であることを述べ、その序文を記しておきましたが、この度発行となりましたので、全文を記します。
序文に述べましたように、この論文の25年前(脱稿時)に「親鸞における往生の問題についての私見」として同様の論文を書いたことがあるのです。その時は現世往生を否定する立場でありましたが、この度は現世往生肯定の立場で書きました。しかし多くの現世往生肯定者とは意見を異にしております。私は親鸞聖人の往生思想は、従来の法然上人までに見られる「捨此往彼蓮華化生」の往生思想を脱皮したものであり、「即得往生住不退転」を現世のこととし、現世からの救いを強調した往生思想であると考えたいのであります。尤も従来からよく言われます現世で一分の悟りを得るとか、信後に還相を語ることとは意見を異にします。
序論にも述べましたが、往生の問題についても私は真宗学とはただ文献を表面的に学習するのみでは不十分であり、そこに体験と言うものが必要であると思うのであります。信心正因称名報恩に反対する意見に批判を続けてきましたのは、繰り返し述べていますが、その原因は反対論者の宗教体験(救済体験、獲信体験)の欠落によると考えたからであります。 合掌 (2020,5,13)。
前述のように私の発表した「親鸞における疑蓋无雑について」(昭和52<1977>、12、印度学仏教学研究第二十六の一)に、翌年岡氏は反論して「親鸞の行と信―批判に答うー」(印度学仏教学研究第二十七の一、1978<昭和53>年12月刊)を発表しました。そして、それに答えたのが私の「親鸞における疑蓋无雑について」(二)(昭和54<1979>、12、印度学仏教学研究二十八の一)であります。
岡氏の「親鸞の行と信―批判に答うー」(印度学仏教学研究第二十七の一、1978<昭和53>年12月刊)を直接お読み頂けば明らかでありますが、例の如く「行巻の思想に衆生の信の問題をいれるべきでない」(p、29)と言い、行巻の称名(念仏)は信心に関係なく大行だと主張するものであります。それと親鸞聖人の自己内省の心と本願疑惑心とを混同して「私は、凡夫の一点の疑いもなく晴々とする決定心というような宗学の解釈がおかしいといっているのだからである。なぜなら、もしそうだとすると、親鸞が生涯問いつづけた機の深信の問題が消えてしまうからで、いわば私の所論は、痴無明とか疑無明とかいった言葉の操りで、事足り用としている宗学に、問いをなげかけているのである。」(p、28)と述べています。機の深信は法の深信と一具であり、そのまま無有疑心であることが分からなかったのでありましょう。これが前に述べました晩年の著『親鸞の念仏』(p、221)において、この疑蓋无雑という言葉を今日、真宗学ではどのように解釈しているかといいますと、衆生が阿弥陀仏の心を疑いなく信じる心だと解釈している。全く逆なのです。そういうことを親鸞聖人は言ってはいない。疑蓋无雑の疑蓋とは、煩悩のことです。」というような謬見を生ずることにもなったのでありましょう。私の「親鸞における疑蓋无雑について」(二)(昭和54<1979>、12、印度学仏教学研究二十八の一)は十分岡氏の反論の答えになっていると思います。それから現在、大変大事な問題だと思うことで「親鸞における疑蓋无雑について」(二)の中にも書いてありますが、岡氏は衆生の信心決定の事実(自覚)を否定して、「一念覚知」の問題を出していることであります。氏は著『親鸞の信と念仏』(永田文昌堂、昭和52<1977>年11月発行)に「凡夫とは、常には判断をくるわせて、ただしいものを見極めることができぬ者のことだからで、自分こそが正しい信を得たと自覚したとするならば、この故に、この自覚こそがまさに錯覚であるといわざるをえない。私たちの行為のすべては顛倒の中にあるのであり、己が力で掴んだものが正しいとは決していいえないのである。一念覚知の心は、信仰の強さからいえば、ある意味では非常な力強さを持つのであるが、他面、それ以上の危険性をも宿す。人をして盲信や狂信の類に近づけやすいからで、親鸞はこの点を極力さけたのではないかと思われる。ここに単なる信心正因、唯信往生思想をもまた、否定せざるを得ない理由が存するのである。」(P,109)と述べています。自分に宗教体験(救済体験、獲信体験)のないことから、信因正因称名報恩を否定するのみならず、信心正因までも否定しているのであります。信体験がないので、信一念を言う一念覚知を否定するのでありましょうが、これは近年、信体験のない者が『御裁断御書』ではどちらも異義とされている「十劫安心(無帰命安心、無自覚安心)」と「一念覚知」の違いも分からず、十劫の昔から助かっていると考えて信体験を語らない十劫安心(無帰命安心、無自覚安心)が正安心のように思い、信体験を語ると直ちに一念覚知の異義とする傾向がありますが、これは早急に考え直す必要があると思われます。合掌
「続⑤近年の本願寺派教学に想う」
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html
「続⑪近年の本願寺派教学に想う」
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku11.html
拙著『親鸞聖人の念仏論』(永田文昌堂、2018,6)。第三章 三業惑乱騒動。P,7以下。 (2020,5,14)。
三業派の主張を破し、『御裁断御書』の本となった大瀛師の『横超直道金剛錍』には、十劫安心(十劫秘事)と三業帰命の双方を非とし、三業派の主張した一念覚知の問題については、信一念の事実(存在)を否定したのではなく、信一念の記憶がなければならないと執ずることを非としたのであります。『御裁断御書』の意もこれによるものです。(拙稿「親鸞浄土教における救済の理念と事実」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kyuusainorinentojijitu.htm)
当時の幕府が三業派を間違いであるとしたためか、教団において三業帰命や一念覚知は自力であるとやかましく言われてきたようですが、逆に十劫安心(無帰命安心)の方は間違いとは言われず、逆に他力の至極のように言われる傾向があるのは甚だ遺憾なことであります
それにしても当時の勧学寮頭が信楽氏に対しては「異義断定保留、今後の教学活動を見守る」(昭和56<1981>年3月)、岡氏に対しては「疑義断定保留、今後の教学活動を見守る」(昭和56<1981>年10月)と述べたのは、上記の私の4論文より後であり、岡氏の「一念覚知」等の事が書かれている『親鸞の信と念仏』(永田文昌堂、昭和52<1977>年11月発行)より後のことであります。「疑義断定保留、今後の教学活動を見守る」(昭和56<1981>年10月)と述べただけで、何もしなかったと言うことは無責任であったと思います。またこの度本願寺派新宗法が制定されて(平成24<2012>年4月1日施行)、宗法第59条3に「勧学寮は、宗制に定める教義に相異する義を主張した者に対し、教諭する。」と定められながら、何もなされることもないのであります。何度も申しておりますが教義信心についての宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通っている信心不在、荒廃堕落が教団の現状であります。目下、収束困難な新型コロナ問題で教団活動に種々困難が生じておるようではありますが、これを「浄邦縁熟」(正法復興)の時として頂きたいと念願致します。 合掌
「続⑪近年の本願寺派教学に想う」
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku11.html (2020,5,15)。
この度の論文「親鸞における往生の問題」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/ojonomondai.html の序文に述べましたように、私は「信心正因称名報恩」義に反対する意見に長らく反対してきました。それは私は真宗学とは、ただ文献を表面的に学習するのみでは不十分であり、そこに体験(宗教体験<救済体験、獲信体験>)と言うものが必要であると思うからであります。私が信楽氏、岡氏の所論(信心正因称名報恩義批判)に反対したのは伝統教学に固執したのでもなく、宗門人として宗制(宗門の法規)違反は許されないと思ったからでもなく、両氏がともに宗教体験(救済体験、獲信体験)のない信心不決定(未決定、未安心)の人であることが分かっていたからであります。このことは両氏の師であった大原性実師も恐らく同じ想いであったであろうと思います。(このF・Bの2020、4,5記に、岡氏が。「自分は大原氏にお宅に呼ばれ氏から<道を間違えている以上、自分は勧学寮頭として君たちをさばかねばならない。>そう言って、私の手を握られた。」と述べています。)
信楽氏も岡氏も獲信体験がないが故に、『正像末和讃』(85才作)の「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,607)の意味が分からなかったのでありましょう。すなわち岡氏は称える念仏はすべてが弥陀回向の法であり、大行であると考えました。信楽氏は「真実信心の称名」(他力報恩念仏)と「自力の称念」(自力真門念仏)の違いを体得できず、生涯自力念仏の策励を強調し続けたのであります。信楽氏は岡氏と違い、自分に対する批判に一切答えようとはしませんでした。これは信楽氏の自信から生じた姿勢であると言う人がいるかも知れませんが、私にはそうは思えません。その意味では岡氏の方が誠実であり、良心的であったと言えると思います。
信楽氏は自分の持論である自力念仏策励強調の根拠として高田国宝本 (親鸞聖人76才書)の『浄土和讃』「定散自力の称名は 果遂のちかひに帰してこそ をしえざれども自然に 真如の門に転入する」(定本親鸞聖人全集2の41)とある文、およびここの「果遂」の左訓に「しりきのこころにてみょうこうをとなへたるをはつひにはたしとけむとちかひたまふなり」を根拠にして自力念仏策励を強調するのでありますが、同全集2の41に記されている聖人83才の時の再校本では「果遂」の左訓は「はたしとくといふ」とあるだけで「しりきのこころにてみょうこうをとなへたるをはつひにはたしとけむとちかひたまふなり」の文は削除されているのであります。このことは聖人御自身が76才の時の左訓に自力念仏策励の意があるように感じられることを修正する意があったと思われるのであります。(このことについては拙著『親鸞聖人の念仏論』(永田文昌堂、2018、6.第五章、現代における念仏論に関連する諸問題。P、238以下に述べた。)
要するに信楽氏、岡氏の問題について、当時の勧学寮頭は信楽氏に対しては「異義断定保留、今後の教学活動を見守る」(昭和56<1981>年3月)、岡氏に対しては「疑義断定保留、今後の教学活動を見守る」(昭和56<1981>年10月)とし、以後は何もなされることはなかったのであります。しかも今なおそれが継続し(岡氏に関しては痴無明、疑無明混同問題も絡んでいる)、宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通っています。これは大いなるなる誤りであり、また信心不在体質を推進せしめた罪過であると私は思います。 合掌
因みに岡氏が「自分は大原氏にお宅に呼ばれ氏から<道を間違えている以上、自分は勧学寮頭として君たちをさばかねばならない。>そう言って、私の手を握られた。」と述べているのは『宗教12月特大号、特集、真宗安心の問題、大原性実和上の生涯』(教育新潮社、昭和54年)ですので、信楽氏に対しては「異義断定保留、今後の教学活動を見守る」(昭和56<1981>年3月)、岡氏に対しては「疑義断定保留、今後の教学活動を見守る」(昭和56<1981>年10月)とし、以後何もなされなかった事は、大原氏の意にも異なる事であったことは時の寮頭は承知していたことと思われます。この点は今の教団責任担当者(教学面、行政面)はどう考えているのか甚だ疑問です。合掌
今回は特に(2015,4,7記)の部分。 (2020,5,16)。
上の(2015,4,7記)にありますように、信楽氏の問題についての私の意見に、勧学寮の現寮頭(当時は司教)や当時の部長が「そんなことは、あなたが個人でやったら良い」と激しい口調で反対し、当時の寮頭(昭和56<1981>年時とは別人)も「そう言う問題は、御門主様が何も仰らないのに、我々が何もする権限はない」と言い放ちました。信楽氏の主張に全く疑問を持たない信心不決定(未決定、未安心)者であり、また無責任者の集団であったことが明らかであります。こんなことですから、宗制宗法遵守義務放棄も当然の成り行きのこととも思いますが、「浄邦縁熟」(正法復興)の時とすべき今こそ、教団の信心不在体質の抜本的改善をなすべき時と考えます。 合掌
今回は 特に(2018,11,9)、(2018,11,12)記の部分。 (2020,5,17)。
紅楳英顕 2014年5月18日
入信(回心)体験を語ることを一念覚知の異義だという人が、近年多いようでありますが、、この類いの人達の多くは信心不決定者(未決定者)、もしくは十劫安心(『御文章』1の13,2の11,3の8等に述べられている。)の異義者と考えられます。これについて「続・近年の本願寺派教学に想う」(http://www12.ocn.ne.jp/~kobai/zokukinnen.htm)に追記しましたので、御一見下さい。 合掌 紅楳英顕
「続・近年の本願寺派教学に想う」の今のアドレスは http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zokukinnen.htm です。
この件に関することは最近の5月11日、5月12日に述べたことでありますが、近年教学責任担当者にまで信心不決定(未決定、未安心)者が増加して、宗教体験(救済体験、獲信体験 )がないので、十劫の昔から救われているように考えて、それが他力の至極であるように思いこむ十劫安心(無帰命安心、無自覚安心)の誤りに陥っている傾向を強く感じます。これは江戸時代の三業惑乱時に、幕府が三業派を誤りとしたことにも原因があるようにも思われます。(『御裁断御書』では、十劫安心<無帰命安心>も誤りとされている。)この事が原因となり「信心正因称名報恩」の意味も分からず、宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通るという、正常な教団とはとても言えない異常事態となっているのであります。此度の新型コロナウイルスによるパンデミックを「浄邦縁熟」の時と頂戴し、教団の信心不在体質の抜本的改善を念願する次第であります。合掌
私のことを陰で一念覚知の異義者だといっている教学責任担当者がいるということを良く聞いておりますが、それならばどうぞ呼び出して教諭をして下さい。私も遠慮なく自分の考えを申し上げます。私はそんなことを言う人は十劫安心(無帰命安心、無自覚安心)に相当する人だと思います。合掌
特に(2018,11,9)、(2018,11,12)記の部分。 (2020,5,18)。
1年前
この日の思い出を見る 紅楳 英顕 2019年5月22日 ·
Yoshihide Sawa
真実院釈大瀛和上
かたみの文
静におもんみれば人間に生を感ずることは上々の因縁によれり。これ大なるよろこびなり。されども若し仏法に逢わずは枯木の春にあわざるが如し。よろこびの中にもかなしみあり。(以下略)
「かたみの文」は『横超直道金剛錍』を著し、三業惑乱騒動を終結せしめた大瀛師(1759年1月30日(宝暦9年1月2日)― 1804年6月11日(文化元年5月4日)が亡くなる直前に御母堂に宛てたものと言われています。
この文には「まづ我身の信心さだまりぬるやいなやと思召して自身の安心決定あるべきなり。いよいよ往生うたがいなくおぼしめす上は報恩の称名おこたりなく御たしなみ肝要なり。」と信心正因称名報恩義を懇ろに勧めておられます。私事になりますが、私は7年前に亡くなりました母に対してはこれを言う必要はないと思って言いませんでした。でもそれより少し前に癌でなくなりました弟には「宗教者の兄は今さら慰めを言う言葉はない。この本を読でくれ」と言って私の書いた小本を渡しました。
前にも述べましたが、『横超直道金剛錍』は『御裁断御書』の本になったものであります。三業派の三業帰命、欲生正因、一念覚知(信一念の時を覚えていなければならないと強調すること)を破するものでありますが、それだけではなく十劫の昔から救われているとする十劫安心(無帰命安心、無自覚安心)も誤りとしたものでありました。
所が近年は教団の教学責任担当者までが、このことが正しく理解できず、一念覚知の意味は正しく分からず、十劫安心(無帰命安心、無自覚安心)が他力の至極のように思いこんでいるのであります。これでは、信前信後の違いは分からず、信前念仏(カラ念仏、自力念仏)と信後念仏(他力念仏、報恩念仏)の違いも分からず、宗制宗法(信心正因称名報恩)遵守義務放棄が公然とまかり通る惨状となるのも当然ではありましょうが、このままでは済まされない事と慨歎致します。合掌
「続⑤近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html (2020,5,22)
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その時から宗制教義に定められていた「信心正因称名報恩」義に反対した信楽氏、岡氏に対し当時の勧学寮頭は当時の勧学寮頭は信楽氏に対しては「異義断定保留、今後の教学活動を見守る」(昭和56<1981>年3月)、岡氏に対しては「疑義断定保留、今後の教学活動を見守る」(昭和56<1981>年10月)と述べただけで、両氏に対して何もなされることはなかったのであります。(岡氏は改めたと言う噂もありましたが、晩年の著『親鸞の念仏』<法蔵館、2005年11月発行。>によって全くそれはなかったことが分かります。)これだけでも勧学寮が如何に無責任であったかがよく分かります。
それから監正局長に就任した信楽氏が勧学寮を揶揄し、怠慢だと非難する記事が『中外日報』に出ていましたので、「今後の教学活動を見守る」と述べている勧学寮として何かいうべきではないでしょうか」と私が意見を述べた所、「意外なことに、勧学寮の現寮頭(当時は司教)や当時の部長が「そんなことは、あなたが個人でやったら良い」と激しい口調で反対したのです。当時の寮頭(1981年時とは別人)も出席していましたので、「寮頭先生のお考えは如何ですか」と尋ねましたら、当時の寮頭は「そう言う問題は、御門主様が何も仰らないのに、我々が何もする権限はない」と言い放ちました。私は納得は出来ませんでしたが、それ以上はもう何も言いませんでした。(「続②近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku2.html <2015,4,7記>)
「異義断定保留、今後の教学活動を見守る」(昭和56<1981>年3月)としておりながら、全く何もしようとしないとは極めて無責任であると思いました。
それから現在では宗制宗法遵守義務放棄であります。しかもこれが公然とまかり通っているのが教団の現状であります。
要するに宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通ると言うことは、現教団には真実信心不在、声だけはあったとしても他力念仏(真実信心の称名、報恩念仏)不在と言うことに他ならないのであります。この度の新型コロナウイルスのパンデミックによって生じた諸問題を「浄邦縁熟」の勝縁と受け止め、信心 念仏(他力念仏)不在の教団体質の抜本的改善がなさるべきと思います。 それがなされないとなれば、甚だ残念な事でありますが、衰微の一途をたどることになるように思われます。 合掌 「続⑰近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku17.html
(2020、5,24)。