近年の本願寺派教学に想う、追加
                       紅楳英顕


 2014年の日本宗教学会73回大会に参加し、「親鸞における無明について」と題して研究発表をした。(9月14日)。これは「近年における本願寺派教学に想う」の註①②③に関連するものである。
研究発表の資料とレジュメを下記した。

(研究発表資料)
 日本宗教学会七十三回学術大会(九月十四日)於同志社大学  研究発表資料

「親鸞における無明について」               相愛大学   紅楳英顕

一、問題の所在
 親鸞における無明について、古来通途の義「痴無明」(煩悩妄念の心)と別途の義「疑無明」(本願疑惑の心)がいわれている。これについて近年、通途、別途の二義に分けることに疑問を呈した論文が村上速水氏の「真宗無明義に関する一試論ー痴無明と疑無明の問題ー」(龍谷大學論集第四一二号 (昭和五十三年五月発行、龍谷学会)一頁以下。村上速水著『続・親鸞教義の研究』(一九八九年・平成元年十一月発行、永田文昌堂)二○九頁以下)である。そこに氏は「親鸞においては無明は煩悩の意味で用いられており、後の学者が解釈するように本願疑惑の意味で用いているとは考えにくい」(龍大論集同上、一二頁)と述べている。現在この意見に賛成する人もかなりいるようなので、これについて私見を述べたいと思う。
二、氏も述べるように、親鸞の無明義について通途のほかに別途を立てるのは主として『往  生論註』下巻の讃嘆文釈(「信巻」引用)下の「無明由在」の「無明」と『正信偈』 の「已能雖破無明闇」とある「無明」の解釈をめぐって生じたものであろう。この中 『往生論註』については、『往生論註』当面の意と親鸞の意とは相異があることは当然 のことであるので、ここでは『正信偈』の「已能雖破無明闇」とある「無明」につい て検討する。
① 明を闇に喩え、水(海水)に喩えることによって、あるいは破といい、截といい、転といっているが、それらは必ずしも消滅、滅亡を意味しておらず、むしろそれらを基本的に貫いているのは、無碍の  意味と理解せられる。(龍大論集同上、一四頁)。
② 闇が破られるということは、闇がなくなるということなのかどうか、ということである。たしかに『銘文』にも「無明の闇はれ、生死のながき夜すでにあかつきになりぬ」という。しかし「無明の闇はれ」と  は、無明を無明と知ったということではな  いだろうか。無明それ自体は無明とも知りえないものではないか。それゆえに無明と  いわれるのである。その無明が自らを無明と知ったということ、  それが無明の闇はれたという意味ではないであろうか。それは「摂取心光常照護」においてはじめて可能である。闇は光に遇うことによって自らを闇と知ることができる。自ら煩悩具足の身であり  ながら、それにきづかなかったものが、今まさに「煩悩具足の身」と信知したこと、それが無明の闇がはれた相ではないか。つまり自力無功と信知したことであり、それはとりもなおさず、機の深信   にほかならない。このように理解すれば「正信偈」の文は「摂取の心光に照護されて、煩悩具足の身と信知しても、煩悩は依然として、信心の天を覆うてやむことがない」という意味になって、すこ  しも解釈に困難はない。(龍大論集同上、一二頁。)
③ 親鸞がその著述の上に書き記した文字は、すべて第十八願に帰入した上で述べた言  葉である。換言すれば如来の本願を信ずる身になって述べた言葉である。親鸞のそういう宗教体験を    述べた言葉を、従来の宗学においてはその信をぬきにして、客観的立場からただ合理的に解釈しようとしていなかったか、ということである。(龍大論集 同上、一六頁。)
④ 「無碍光仏によって 無明の闇が破られる」という言葉も、「煩悩を具足しながら往生す」という言葉も親鸞においては信の中でいわれた言葉である。弥陀の本願を信ずることにおいて明らかになっ  た事実が、「無明の闇が破られた」のであり、「煩悩具足の身」と信知されたのである。親鸞はすでに「 摂取心光常照護」と信知している立場なのである。にも拘わらず、無明を本願疑惑と解釈す   るならば、「本願を信ずるものは、本願疑惑の心は破られても」という意味になって、文章の意味をなさなくなる。そうではなくて、「本願を信ずるものは、煩悩具足の身と知らされても、煩悩は依然  として信心の天を覆う」「しかし煩悩は生起しても、日光の下に闇のないように、それによる不安も恐れもない」という意味に理解すべきであろう。つまり、この場面における煩悩は、闇というよりも   光によって生じた影である。影は光によって生じたものでありながら、光に背くものである。光に背きながら、しかも光に勝つことはない。親鸞における無明煩悩と如来の光明との関係は、そのよう  なものであったことが  注意されなければならない。 (龍大論集同上、一八頁。)

三、『銘文』に「信心をえたるひとおば、無碍光仏の心光つねにてらし、まもりたまふゆ  へに、無明の闇はれ、生死のながきよすでにあかつきになりぬとしるべしと也。已能  雖破無明闇といふはこ  のこころなり。(真聖全二の六○一)とあり、ここの「破無明  闇」とあるのは、無明の闇が晴れるということであり、無明の闇がなくなるということであろう。、

①必ず無上浄信の暁に至れば、三有生死之雲晴る (『浄土文類聚鈔』、真聖全二の四四八)
②「疑雲永晴」というは、疑雲は、願力を疑ふこころをくもにたとへたる也、永晴といふは、うたがふこころをながくはらしぬれが、安楽浄土にかならずむまるる也。 (『尊号真像銘文』広、(真聖全二の  五九四))

(レジュメ)
親鸞における無明について
相愛大学    紅楳英顕
 親鸞における無明について、古来通途の義「痴無明」(煩悩妄念の心)と別途の義「疑無明」(本願疑惑の心)がいわれている。これについて近年、通途、別途の二義に分けることに疑問を呈した論文が村上速水氏の「真宗無明義に関する一試論ー痴無明と疑無明の問題ー」①である。そこに氏は「親鸞においては無明は煩悩の意味で用いられており、後の学者が解釈するように本願疑惑の意味で用いているとは考えにくい」②と述べている。現在この意見に賛成する人もかなりいるようなので、これについて私見を述べたいと思う。
氏の述べるように、親鸞の無明義について通途のほかに別途を立てるのは主として『往生論註』下巻の讃嘆文釈(「信巻」引用)下の「無明由在」の「無明」と『正信偈』の「已能雖破無明闇」とある「無明」の解釈をめぐって生じたものであろう。この中『往生論註』については、『往生論註』当面の意と親鸞の意とは相異があることは当然のことであるので、ここでは『正信偈』の「已能雖破無明闇」とある「無明」について検討する。
氏はこの「無明」をも痴無明(煩悩妄念の心)とし、疑無明(本願疑惑の心)としないのであるが、先ず私が疑問をもつのはここの「破」についての氏の解釈である。氏は「無明を闇に喩え、水(海水)に喩えることによって、あるいは破といい、截といい、転といっているが、それらは必ずしも消滅、滅亡を意味しておらず…」 ③と述べている。これに関連して氏は [闇が破られるということは、闇がなくなるということなのかどうか、ということである。たしかに『銘文』にも「無明の闇はれ、生死のながき夜すでにあかつきになりぬ」という。しかし「無明の闇はれ」とは、無明を無明と知ったということではないだろうか。無明それ自体は無明とも知りえないものではないか。それゆえに無明といわれるのである。その無明が自らを無明と知ったということ、それが無明の闇はれたという意味ではないであろうか。それは「摂取心光常照護」においてはじめて可能である。闇は光に遇うことによって自らを闇と知ることができる。自ら煩悩具足の身でありながら、それにきづかなかったものが、今まさに「煩悩具足の身」と信知したこと、それが無明の闇がはれた相ではないか。〕④と述べている。 これで分かることは氏には「無明の闇がはれる」ということの意味が認識できてないということである。ここの「闇がはれる」ということは、闇がなくなることである。それ故に親鸞は「無明の闇はれ(晴れ)」⑤といっているのである。「摂取心光常照護」によって「破無明闇」となるということは、煩悩(痴無明)具足のままで、疑無明(本願疑惑の心)の闇が晴れて消滅したということであり、信心決定のことである。「破無明闇」の「破」は氏のいうようなことではなく、消滅を意味するに他ならない。では何故このような考えが氏に生じたのであろうか、これは氏に「破無明闇」すなわち無明の闇(疑無明)がはれ(晴れ)たという宗教体験による実感がなかったが故といえよう。
氏は「親鸞がその著述の上に書き記した文字は、すべて第十八願に帰入した上で述べた言葉である。換言すれば如来の本願を信ずる身になって述べた言葉である。親鸞のそういう宗教体験を述べた言葉を、従来の宗学においてはその信をぬきにして…」⑥と述べているが、これは氏自身のことと思われる。
註①龍谷大學論集第四一二号 (昭和五十三年五月発行、龍谷学会)一頁以下。村上速 水著『続・親鸞教義の研究』(一九八九年・平成元年十一月発行、永田文昌堂)二○ 九頁以下。註②③④⑥の頁は省略する。⑤は『浄土文類聚鈔』に「三有生死之雲晴」、『尊号真像銘文』(広)には「疑雲永晴」とある。
 
 宗教学会の研究発表のレジュメには紙数制限があるため、十分な説明ができないので、以下説明を加える。
 上述のように、 村上速水氏の「真宗無明義に関する一試論ー痴無明と疑無明の問題ー」が発表されたのは昭和53年5月である。それは龍大真宗学の二人の教授(元学長ともう一人)の信心正因称名報恩義否定が問題となっていた頃である。とくにもう一人の教授は信心について、信楽とは「疑蓋无雑の心であり、疑いの晴れた无疑心である」という考えに反対していた。私はこれを批判して「親鸞における疑蓋无雑いついて」(印度学仏教学26の1,昭和52年12月)を発表し、信楽を疑い晴れた无疑心であることに反対することは「痴無明と疑無明とを混同した間違った見解である」と述べた。村上氏がその時の研究発表の会場におられ「痴無明、疑無明ということは親鸞聖人のいわれたことではないから、問題である」と私の意見を批判したのである。 氏が発病されたのはそれから余り間のない昭和53年1月である。(氏の著『病いに生かされてー親鸞を慕う人生ー』による)。「真宗無明義に関する一試論ー痴無明と疑無明の問題ー」を脱稿 したのは恐らく発病の直前のことであったろうと思われる。
 上のレジュメに述べたように氏は『正信偈』の「已能雖破無明闇」の「破」の意味が全く分かっていないようである。(研究発表資料 三、参照)。それから「無明が自らを無明と知ったということ、それが無明の闇はれたという意味ではないであろうか。それは「摂取心光常照護」においてはじめて可能である。闇は光に遇うことによって自らを闇と知ることができる。自ら煩悩具足の身でありながら、それにきづかなかったものが、今まさに「煩悩具足の身」と信知したこと、それが無明の闇がはれた相ではないか。つまり自力無功と信知したことであり、それはとりもなおさず、機の深信にほかならない。」(研究発表資料二②)とあるところは、機の深信が无疑无慮の法の深信と一具であるということの認識がないように思われる見解である。これらはつまりは氏に救済体験がない信心不決定(未決定)者であることに起因することであろう。レジュメの最後に述べたように、 氏は「親鸞がその著述の上に書き記した文字は、すべて第十八願に帰入した上で述べた言葉である。換言すれば如来の本願を信ずる身になって述べた言葉である。親鸞のそういう宗教体験を述べた言葉を、従来の宗学においてはその信をぬきにして…」⑥と述べているが、これは氏自身のことと思われる。といわざるをえないと思う。
 氏の著『病いに生かされてー親鸞を慕う人生ー』(樹心社、1987年<昭和62年>4月発行)によると氏は発病の後しばらく入院し、退院してから懸命に聴聞に勤めたことを述べている。死を意識することにより、今までの自分が信心未決定者であったと思い、信心決定を目指したのであろう。それまで信心未決定の儘で真宗学の教鞭を執り続けてきたことは問題ではあるが、これは現在では何も氏に限ったことではないので、それを問うことは酷である。懸命に聴聞に勤めたこと自体は結構なことと思う。だが問題なのは氏は発病後、聴聞に勤めてからも、上記論文に述べた自分の考えを一向に変えることがなかったことである。1985年(昭和60年)7月発行された氏の著『正信念仏偈』(永田文昌堂、93頁以下)に煩悩について痴無明、疑無明と分ける考えを批判し、上記論文「真宗無明義に関する一試論ー痴無明と疑無明の問題ー」を参照するよう述べている。そしてさらに1989年(平成元年)11月発行の氏の古稀記念出版『続・親鸞教義の研究』(永田文昌堂、209頁以下)にも上の論文がその儘掲載されているのである。上記のように氏は昭和53年1月に発病され、その後信心決定するために懸命に聴聞に励まれた時期はあったのであろうが、はっきりいえることは、古稀(70歳)までは発病前と同様に信心未決定の儘であったということである。最晩年の氏に信心に変化があったかどうかは私は知らないが、少なくとも古稀の歳までは氏は信心未決定者であったといえるであろう。このことは元龍谷大學学長の信心正因称名報恩義批判問題にもいえることであるが(「続・近年の本願寺派教学に想う」参照)、教学の責任的指導者までが信心不決定(未決定)者の集団となってしまっているような教団の現状が、現在の本願寺派教団にとって極めて重大な問題点であると思う。(2014年9月16日)。

(追記。この論文は当方の手続不備のため、『宗教研究』には掲載されませんでした。)
(参照。後日<2015年12月>これに関連した論文「親鸞における智慧」 (印度学仏教学研究64の1)。「真宗無明論」(印度学仏教学研究66の2)<2018年3月>を発表しました。)



  近日、 ある人から「信心の人は、本人が貰った時を認識できるものなのでしょうか?」という御質問を頂きました。

(以下返信) 
 回心(入信)のパターンに突然的回心と漸次的回心の二つがあることはウイリアム・ゼイムス(1842-1910)等によって主張されたことでよく知られています。ところが、日本 においてゼイムスより早く玄智師(1734-1794)の『考信録』卷三に同様のことが述べられています。即ち
 人の心は、頓機漸機とて、二品に候也。頓機はききてやがて解とる心にて候。(中略) 頓機は獲信の時を知るべし。漸機は知るべからず。頓機とは宗祖の始めて吉水に謁した まふの日、立ち処に真心を 決定 し在すが如き是なり。その外、臨終迴心往生の機またしか り。最初聞法の時、直ちに獲信すれは、獲信時知りぬべし。漸機とは曾って聞法し帰命し、念 仏すと雖も、或いは信じ或いは疑て、しかと会得することもなかりしに、仏力冥に加被して、い つとなく疑尽きて往生一定、尊や難有やと信をえて、歓喜念仏するの安心になる。これ凡夫情 慮の及はさるところ、何そまた何の時日獲信といふことを記すへけんや。獲信の時を知らされ とも、烟を見て火を知る如く、疑亡し喜生し、念仏勇進するに由て、信をうることを比知す。 (真宗全書64の85)
とあります。 私はこの「頓機は獲信の時を知るべし。漸機は知るべからず」とする玄智師の考えは妥当だと思います。(註。頓機について玄智師は「頓機とは宗祖の初めて吉水に謁したまふの日、立ち処に真心を決定し在すか如き是なり。その外、臨終廻心往生の機またしかなり。最初聞法の時、直ちに獲信すれは、獲信時知りぬべし」と述べているが、最初の聞法の時ではなく、聞法の過程である時突然的に回心体験をすることもある。この場合も頓機というべきであり、獲信時も知ると思う。例、因幡の源左等)。
 釈尊は成道したのが35歳の12月8日早朝であったと伝えられており、キリストは30歳頃、天より声を聞いて自分が神の子であることを自覚したといわれ、使徒パウロのダマスコの回心は有名な話であります。マホメットは40歳頃天啓をうけて自分が神にに選ばれた預言者であると自覚したといわれています。近いところでは法然上人は43歳の時に念仏に帰し、親鸞聖人は29歳の時に本願に帰入されています。その他、回信(入信)の年時が記されている高僧は多くおられます。以上のような人達は頓機(突然的回心の機)に相当すると考えて良いと思います。浄土真宗でいうなら「獲信の時を知る機」であります。
 私の知るところでは頓機(突然的回心の機、獲信の時を知る機)と思われる人に源左(入信30歳頃)、お軽(入信35歳)、オーガスチン<アウグスチヌス>(入信32歳)等がおり、漸機(漸次的回心の機、獲信の時は知らないが往生一定は確信している機)と思われる人に清九郎(信決定 40歳頃)、才市(信決定 50歳過ぎ)、トルストイ(信決定 50歳頃 )等がいます。
 三業惑乱終結時(1806年)に出された 御裁断御書に
  年月日時の覚・不覚を論じ、あるいは帰命の一念に妄心を運び(浄土真宗聖典P,1、414)
とありますが、これは信心獲得した年月日時の覚・不覚を論じ、どちらかに執着したり、(三業派は覚に執着したのだと思います。<このことは拙稿「一念覚知説の研究」、「親鸞浄土教における救済の理念と事実」「信一念と信の覚不について」、等参照>)、帰命の一念に意業のみでなく身口意の三業での帰命の想いをなせ、といったことを戒めたのであり、信一念の記憶があってはならないと戒めたのではないと思います。「 頓機は獲信の時を知るべし」と述べている玄智師の『考信録』を参考にしたことでもありましょうし、そうであろうと思います。
 以上のように御質問の「信心の人は本人が貰った時を認識できるものなのでしょうか」についての私の考えは頓機(突然的回心の機)は本人が貰った時を認識できます。もしそれが間違いだというならば、親鸞聖人はじめ源左、お軽等は皆間違いということになりましょう。それから玄智師のいう漸機(漸次的回心の機)とは、上文に「獲信の時を知らされとも、 烟を見て火を知る如く、疑亡し喜生し、念仏勇進するに由て、信をうることを比知す。」とありますように、 獲信の時は知らないのではありますが、往生一定は確信している機なのであります。ここが大変大事な所なのです。
 時々聞くことですが、「ご信心というものは頂いているのかどうか、凡夫に分かるものではない」}とか「往生一定の確信が凡夫にあるわけはない」といい、「それが分かるとか確信があるとかいうなら、それは自力だ」という意見がありますが、これは間違いであります。こんなことをいう人は「若存若亡」<あるときには往生してんずとおもひ、あるときには往生はえせじとおもふ>( 浄土真宗聖典P,586。P、587)の人であり、信心不決定(未決定)の人であろうと思います。
 因みに私の回心(入信)については「今想うこと」に述べておきました。

合掌
紅楳英顕   (2014年9月24日)。

(参照。後日<2016年3月>これに関連した論文「浄土真宗における回心について」を発表しました。)