「続⑳近年の本願寺派教学に想う」
これは「続⑲近年の本願時派教学に想う」 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku19.html に続くものです。
2年前(2018、8、5)。
この度喜寿を記念して『親鸞聖人の念仏論』(永田文昌堂)を出版することになりました。一句浮かびましたので、下記します。
平成戊戌喜寿年 平成(へいせい)戊戌(ぼじゅつ)喜寿(きじゅ)の年(とし)。
我述聖人念仏論 我(われ)聖人(しょうにん)の念仏論(ねんぶつろん)を述(の)ぶ。
浅学非才罪障重 浅学非才(せんがくひさい)罪障(ざいしょう)重(おも)けれど、
唯願有情往益援 唯(ただ)願(ねがう)、有情(うじょう)の往益(おうやく)の援(えん)となることを。
<意訳>
平成(へいせい)戊戌(ぼじゅつ)<三十年>、喜寿(きじゅ)の年(とし)を迎え、
私は『親鸞聖人の念仏論』を書にして述べました。
浅学非才(せんがくひさい)で、罪障(ざいしょう)重(おも)き身でありますが。
ただ有情(生きとし生けるもの)の往生の援(えん)となることを願うのみであります。
拙著の序に以下のように述べました。
私は一九四一(昭和十六)年の生まれで、この四月で満七十七才となった。既に後期高齢者となり、所謂喜寿を迎えたのである。(中略)。
近年、浄土真宗の念仏について、信心とは無関係に大行であるとか称名報恩は間違いであるとか種々意見が出ているのである。念仏と信心との関係について、ようやく私なりの結論を出す事が出来たような気がするので、以下述べる事にしたいと思う。有縁の方々の信楽開発の御縁の一端ともなれば、この上なき慶びとする所である。 合掌
「近年、浄土真宗の念仏について、信心とは無関係に大行であるとか称名報恩は間違いであるとか種々意見が出ているのである。念仏と信心との関係について、ようやく私なりの結論を出す事が出来たような気がするので、以下述べる事にしたいと思う。」と書いてありますが、これが私の現在の問題意識であります。これからもこの点についての私の考えを述べていくつもりです。
上の拙著の序論、第一章 私の入信(獲信)。P,3以下。に私の想いを述べていますので、御一見頂ければ幸甚であります。合掌
「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「続⑤近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html
「親鸞における往生の問題」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/ojonomondai.html (2020、8,5)。
上記「親鸞における往生の問題」中の4、清沢満之と曽我量深、に述べていますように、清沢氏も曽我氏も「信心正因称名報恩」を述べる人でありました。尚、私の知る限りでは、大谷派の学者には「信心正因称名報恩」を否定する人や、無明について二義をかたる事に反対する人はいないように思われます。合掌 (2020,8,6)。
本日は2020年8月15日。75回目の終戦記念日です。一句うかびましたので下記します。
終戦記念七十中 終戦記念(しゅうせんきねん)七十中(しちじゅうちゅう)。
教団慚愧加殺戮 教団(は)慚愧(ざんぎ)すべし。殺戮(せつろく)に加(くわ)わりしことを。
雖然現状更悲惨 然(しか)りと雖(いえ)ども、現状(げんじょう)は更(さら)に悲惨(ひさん)なり。
正法遵守真心消 正法(しょうぼう)遵守(じゅんしゅ)の真心(しんしん)消(き)ゆ。
<意訳>
今日は75回目の終戦(太平洋戦争、第二次世界大戦)記念日であります。教団はやむえない事情はあったことではありましょうが、無残な殺戮に加担したのでありますから、 慚愧しなければならないことと思います。
しかしながら、教団の現状は更に悲惨であります。教団の責任担当の人々までが、信心正因称名報恩の意味の分からない人達の集団と成り、教えを正しく守る為の宗制(国で言えば憲法)、宗法(国で言えば法律)の遵守義務放棄が公然と罷り通っている有様であります。親鸞聖人の教えを正しく伝えようとする心が消失しているような、誠に悲惨な歎かわしきことであります。合掌
(2020,8,15)。
(R氏)
真宗宗歌の三番、
海の内外(うちと)の へだてなく み仏(おや)の徳の とうとさを
わがはらからに 伝えつつ 浄土(みくに)の旅を ともにせん
は、海外侵略を煽った歌だと主張する坊さんもいますし、門徒としては何とかならんのかと思ふことしきりです。
「『京都新聞』(2018年1月22日)の記事を紹介します。」
https://jiganji.exblog.jp/26707797/
なんまんだぶ なんまんだぶ
(紅楳)
仰る通り真宗宗歌の三番を海外侵略を煽った歌だと主張する意見がありますが、これには私も反対です。「海の内外(うちと)の へだてなく み仏(おや)の徳の とうとさを」を、世界の人々に伝えていくべきであります。私もそのように努力を続けるつもりでおります。
それから戦前の海外伝道を即海外侵略に結び付ける人達は大体信心正因称名報恩の意味の分からない宗教体験(救済体験、獲信体験)のない、信心不決定(未決定、未安心)の人達であると思います。
賦課金についての資料も有難うございました。何度も申しましたが、教団の責任担当者でありながら、信心正因称名報恩の意味も分からず、宗制宗法遵守義務放棄を公然と行う人達は、正常な教団ならば賦課金納付義務放棄より重罪者であると私は考えます。合掌 (2020,8,16)。
繰り返し申しますが、宗教団体の生命であるべき教義、信心念仏についての宗制(三 教義)、 宗法(59条3)遵守義務放棄が公然と罷り通る教団は、正常な教団とは到底言えないと思います。また「信心正因称名報恩」の意味の分からない人は念仏の自力(真門念仏)、他力(弘願念仏)の違いが分からない(実感できてない)人達なのであり、『教行信証』を書かれた親鸞聖人のお心が全く分かっていない人達なのであります。
「信巻」「別序」の「定散の自心に迷ひて金剛の真心に昏し」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,209)の人達であり、「真仏土巻」の終りにある「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,372)とある、念仏の自力(真門念仏)と他力(弘願念仏)の違いが分からない報恩念仏の実感ができてない人達なのであります。
すなわち「信心正因称名報恩」の意味が分からず、宗制宗法遵守義務を放棄する人達は『教行信証』の内容が全く理解できていない人達と言えるのであります。
2023年の慶讃法要は親鸞聖人御誕生850年、立教開宗800年の御法要であります。立教開宗とは親鸞聖人が『教行信証』の執筆にとりかかられたと考えられる1224年をその時と定めているのであります。立教開宗800年の御法要は『教行信証』の御意をあらためて正しく頂戴する法要でなければならないはずであります。私が教団の責任担当者までが宗制宗法遵守義務の放棄を公然と行い、またこれが罷り通るような教団の信心念仏(真実信心、真実念仏)の不在体質を、早急に改善しなければ2023年の慶讃法要も意味がなかろうと申しているのもこれ故であります。合掌
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「続②近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku2.html
「続⑪近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku11.html
「続⑲近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku19.html
(2020,8,16)。
続(続9月4日))
私は「信心正因称名報恩」を否定する人達を宗教体験(救済体験、獲信体験)のない信心不決定(未決定)者であると述べて来ました。(「近年の本願寺派教学に想う)http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm 等」
体験と言う言葉を自覚と同様に自力であると言って嫌う人が多いのですが、これも宗教体験(救済体験、獲信体験)のない所から生じたものであろうと思います。因みに稲垣瑞釼師は「帰命は本願召喚の勅命なり、で、信心は勅命だ、と思うておれば、それが信心獲得の体験である。体験は自力の体験でないから、無体験である。本願力にて往生す、と、本願力を仰ぎ、己をわすれて、仰ぎ切っておることが体験である。それで、自覚、とは “無体験の体験” とでも申しましょうか。」(法雷特集(7)300号記念、平成14(2002)年発行、永田文昌堂、p、182)と述べています。
要するに、「信心正因称名報恩」を否定する人は信心決定(往生一定)の自覚のない、宗教体験(救済体験、獲信体験)のない信心不決定(往生不定)の人達なのであります。何度も申して来ましたように、教団の現状は教団の責任担当責任者(行政面、教学面)の人達が「信心正因称名報恩」の意味も分からない宗教体験(救済体験、獲信体験)のない信心不決定(往生不定)の人達の集まりと成り、宗制宗法遵守義務放棄が公然と罷り通る信心念仏(他力念仏)不在の集団と成り果てているのであります。このようなことでは教団の前途はありません。一刻も早い抜本的改善を念願する次第であります。合掌
「続⑪近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku11.html
「続⑮近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku15.html
(2020,9,7)。
昨日(2020<令和2>年9月3日)、奈良浄教寺瑞翔庵における第29回仏教漢詩の会『震法雷』に参加しました。
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kanshi.html
上手には作れていませんが、第11回以後は一応古詩の形で、韻を踏まえて作っています。合掌
(2020,9,4)。
仏教漢詩の会『震法雷』は稲垣瑞劍師(1885-1981)の33回忌を記念して平成25(2013)年1月13日に有縁の地、神戸で誕生しました。その第一回総会(発会式)が5月7日に奈良の浄教寺で開催されました。その時私(紅楳)は稲垣瑞雄(久雄)先生より、御連絡を頂き、漢詩のことを全く知らない儘、参加させて頂きました。
稲垣瑞劍師は「信心正因称名報恩義」を強調された人であります。御自分の信心決定について、36歳~38歳の頃と述べられています。(法雷特別号7、300号記念、平成14年2月発行、P、166以下等)。またそこに「今回の信心正因称名報恩についての論争の一面には、安心決定すればその自覚くありや、という問題が内在しているよう思われる。この自覚は意業ではない。また一念覚知と云った、安心決定した年月日時を記憶しておると云った事ではない。安心決定には当然付随する自然の自覚である。つまり “往生一定、おん助け治定” の思いのことである。(同上P、166)と述べています。まさしくその通りであると私も思います。
近年の本願寺派における教学責任担当者までが信心正因称名報恩の意味も分からない宗教体験(救済体験、獲信体験)のない信心不決定者(未決定、未安心)の宗制宗法遵守義務の放棄者の集団と成り果て、しかもそれが公然と罷り通る、真実信心、真実念仏不在の教団となっていることは、誠に悲歎の極みであります。少なくとも2023年の慶讃法要までにはこの信心不在体質の抜本的改善を願って止まない次第であります。合掌
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(2020、9、5)
続(続9月4日))
私は「信心正因称名報恩」を否定する人達を宗教体験(救済体験、獲信体験)のない信心不決定(未決定)者であると述べて来ました。(「近年の本願寺派教学に想う)http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm 等」
体験と言う言葉を自覚と同様に自力であると言って嫌う人が多いのですが、これも宗教体験(救済体験、獲信体験)のない所から生じたものであろうと思います。因みに稲垣瑞釼師は「帰命は本願召喚の勅命なり、で、信心は勅命だ、と思うておれば、それが信心獲得の体験である。体験は自力の体験でないから、無体験である。本願力にて往生す、と、本願力を仰ぎ、己をわすれて、仰ぎ切っておることが体験である。それで、自覚、とは “無体験の体験” とでも申しましょうか。」(法雷特集(7)300号記念、平成14(2002)年発行、永田文昌堂、p、182)と述べています。
要するに、「信心正因称名報恩」を否定する人は信心決定(往生一定)の自覚のない、宗教体験(救済体験、獲信体験)のない信心不決定(往生不定)の人達なのであります。何度も申して来ましたように、教団の現状は教団の責任担当責任者(行政面、教学面)の人達が「信心正因称名報恩」の意味も分からない宗教体験(救済体験、獲信体験)のない信心不決定(往生不定)の人達の集まりと成り、宗制宗法遵守義務放棄が公然と罷り通る信心念仏(他力念仏)不在の集団と成り果てているのであります。このようなことでは教団の前途はありません。一刻も早い抜本的改善を念願する次第であります。合掌
「続⑪近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku11.html
「続⑮近年の本願寺派教学に想う」 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku15.html
(2020,9,7)。
(R氏)
自覚といふ言葉は、『日本大百科全書』によれば、
ソクラテスが古代ギリシアの格言「汝(なんじ)自身を知れ」を自己の課題としたように、自覚は哲学にとって出発点でもあり目標でもあった。しかし自覚とは、自分が自分を知ることである以上、知る自分と知られる自分とは、区別されねばならないと同時に、同一の自分でもあり続けねばならない。ここに、自己の分裂と統一という反省にまつわるパラドックスが生ずる。
と、いいます。
「自覚」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%87%AA%E8%A6%9A
その意味では、知る私を知る者は何であるか?といふ無限遡及に陥ります。
「トーク:自覚」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E8%87%AA%E8%A6%9A
教団の高等遊民には本願力回向のなんまんだぶを称えるといふ信心が無いといふことは首肯できるのですが、私が如来を知るのでは無い、如来が私を知って下るのだといふ主体の転換を知らないから、なんまんだぶと称えて私が聞くご法義がワカランのです。どうでもいいけど。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
ソクラテスが古代ギリシアの格言「汝(なんじ)自身を知れ」を自己の課題としたように、自覚は哲学にとって出発点でもあり目標でもあった。しかし自覚とは、自分が自分を知ることである以上、知る自分と知られる自分とは、区別されねばならないと同時に、同一の自分でもあり続けねばならない。ここに、自己の分裂と統一という反省にまつわるパラドックスが生ずる。
と、いいます。
「自覚」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%87%AA%E8%A6%9A
その意味では、知る私を知る者は何であるか?といふ無限遡及に陥ります。
「トーク:自覚」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E8%87%AA%E8%A6%9A
教団の高等遊民には本願力回向のなんまんだぶを称えるといふ信心が無いといふことは首肯できるのですが、私が如来を知るのでは無い、如来が私を知って下るのだといふ主体の転換を知らないから、なんまんだぶと称えて私が聞くご法義がワカランのです。どうでもいいけど。
(紅楳)
何時も貴重な資料を御紹介頂き有難うございます。
ここで私が言っています「自覚」とは、「玄義分」でいう「自覚」でもなければ、恐らくソクラテスの言う自覚(翻訳語)とも異なると思います。御引用の『日本大百科全書』の解説の中の「自己意識、自己認識」のことの意味で、病気でいう「自覚症状」の有無をいう場合の「自覚」とほぼ同義であります。頭痛や腹痛は自覚症状がありますように、信心獲得、往生一定の自覚はあります。ただその最初の時が何時であったかを覚えていなければならないと執じたのが「三業惑乱」で異義とされた「一念覚知」であります。三業惑乱時に同様に異義とされたのが十劫の昔から救われているとする「十劫安心」、「無帰命安心」であります。(私はこれを<無自覚安心>ともいっています。)近年は教団の教学責任担当者の中に「十劫安心」、「無帰命安心」の信心不決定(未決定)の人が多いように思われますが、これは大変歎かわしい事であります。信心獲得、往生一定の自覚がなければ、仏恩報ずる思いもない訳でありますので、称名報恩の意味がわかるはずはないのであります。
このように教団の責任担当者までが信心不決定(未決定)の集団と成り果て、あってはならない信心念仏についての宗制宗法遵守義務放棄が公然と罷り通っている教団の惨状は、何とも情けない次第であります。合掌
「続⑤近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html
いずれにせよ。お東のことは知りませんが、「信心正因称名報恩」の意味も分からない、宗教体験(救済体験、獲信体験)のない信心不決定(未決定、未安心)の人達が、教団の(行政、教学)の責任担当者となり、宗制宗法遵守義務放棄が公然と罷り通る有様では、教団の発展振興はあり得ないと思います。合掌 (2020,9,8)。
前に述べましたが、大谷派の清沢満之氏、曽我量深氏は共に自らの宗教体験(救済体験、獲信体験)を語り、信心正因称名報恩を強く主張しています。合掌
拙論「親鸞における往生の問題」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/ojonomondai.html
4、清沢満之と曽我量深の下。 (2020,9,10)。
ある浄土真宗の御法義に熱心な方から、下記のメールを頂きました。
(質問者)
私が桐渓和上の説明で、違和感を感じていますのは二種深信に矛盾性がある。救われない者が救われる。
これを信後も繰り返す循環構造がある。
と言う説です。
信心自身に矛盾性がある。と桐渓和上は説明になっておられます。
信後の罪悪を悲しみながらも、救済に疑いがない、と言うならわかるのですが
信後に、罪悪深重の私が間違いなく救われるとはと繰り返す循環性が信心に内在する、と言う説明に違和感を感じます。
罪悪深重の私を仏辺に仰ぐ事に矛盾があるとは思えないのです。
信心決定の喜びは、阿弥陀様にまかせきったすがたであり、そこには落ちる落ちないの論理を持ち込むと言うより
罪悪を悲しみながらもお慈悲のかたじけなさに満足するすがたがあるのではないか。と感じました。
言葉遣いだけの問題かもしれません。もし、宜しければ、ご意見を頂ければ、有難いです。
合掌
(紅楳)
桐渓氏の領解については、氏が信楽岡問題において、異義断定・疑義断定保留としてなにもしなかったことや、庄松同行が信心を得たかどうかについて、そんなことは分からない阿弥陀様に聞けと言ったということやらで、私は氏の領解には疑問をもっております。
「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「続④近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku4.html (2016,9,16記)。
二種深信については、御承知のように二種一具ではありますから、信後も信機の相(罪悪深重無有出縁)はあるのですが、往生一定の想いと一具のものであり、そこには往生に疑いや不安は全く存しないものであります。あなたが疑問に思われる文を直接みたいと思いますが、信後においても往生について、疑いや不安が残るというのであれば、完全な間違いと言えると思います。合掌
(質問者)
https://www.zengyou.net/?p=1064#.X3AVDGj7Tic
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空華学轍の思想/桐谷順忍 | Zengyou.Net
こちらが元の文章です。桐渓和上は《宗祖は信巻末の真仏弟子釈の結文(大信の結文とも見るべき)のところに用いられているもので「誠に知りぬ、悲しき哉愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべし」とある。》この御文を機の深信として見ておられます。その根拠が二種深信の矛盾性にあると言われます。
私は捨機託法の捨機が機の深信にあたると頂いております。弘願に乗託したものは、法の手強さにほれぼれと報恩のお念仏をすると思います。その機相を矛盾と言われることに違和感を感じます。
(紅楳)
ネットの空華学轍の思想/桐渓順忍の中に
「信仰の味道がたえず深まり、思想が常に深まって行くのには、その内面に含む矛盾性によるものであるといってよいでしょう。しかし、それは信心自身のもつ、二種深信の矛盾性であるというべきであり、それは慶びの内容を深めるものであって、往生の因法である信心が深まったり、動くと考えてはならないのである。」とあり、その中に「その場合に信心の内容としてその反対性である「疑」があるといってはならないのである。」とある所から、「二種深信の矛盾性」という言葉は、この説明を誤りとすることはできないと思いますが、私が桐渓氏の領解に疑問を持ちますのは、前にも述べました信心正因称名報恩義反対者に対し、何もしなかったことと、庄松同行につてのことであります。『庄松ありのままの記』に御門主が庄松に「併汝は信を頂いたか」と言う問いに 庄松は「ヘエいただきました」。自分が獲信したことを述べていますのに、桐渓氏は「お前は信心いただいておるか」と御門主がきいたら「私に聞いてもわかりません。聞くところが違いますよ。阿弥陀様にきいてください」と申したと伝えられております。「こころでこうなったから」と決めたのではあぶない。(桐渓順忍『信心について』探究社、一九八二年七月発行、四五頁)。と述べているのであります。桐渓氏は信心獲得の自覚は人間(機)にはないものと考えていたようであります。これは十劫安心(無帰命安心、無自覚安心)に相当するものであります。近年の教団の教学責任担当者にもこのタイプが多いようでありますが、これでは報恩念仏の意味もわからないことでありましよう。 合掌
「続⑤近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html
(2017,2,5記)。(2017、2,8記)。
(2020、9,27)。
上の問題に関連して大事なことに「若存若亡」の問題があります。
この語は『高僧和讃』曇鸞讃に、「不如実修行といへること 鸞師釈してんたまはく 一者信心あつからず 若存若亡するゆえに」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,586)にあるものです。「若存若亡する」のは真実信心ではないと述べられているのであります。「若存若亡」の左訓に親鸞聖人は「あるときには往生してんずとおもひ、あるときには往生はえせじとおもふを若存若亡といふなり」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,587)と述べられています。往生できるのであろうか、できないのであろうか、という疑いや不安のある心は真実信心ではないのであります。「悲しき哉、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑し・・」とある言葉も、断じて往生に不安や疑いがあるのではないのであります。これを悲歎でなく慶嘆というのは正しいと思います。痴無明疑無明二義説反対者はここの所が分からない人達であります。要する信心正因称名報恩義の分からない人や痴無明疑無明二義説反対者や領解文の「往生一定おんたすけ冶定」の世界(往生の確信)のない人は信心不決定(未決定、未安心)の人だと思います。現教団の責任担当者にこう言う人の多いことを極めて遺憾に感ずる次第であります。合掌
「近年の本願寺派教学に想う」追加 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnentsui.htm
「続⑯近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku16.html
「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm に述べていますように、桐渓氏は当時から宗制教義に定められていた「信心正因称名報恩」義を真向から批判した信楽岡氏に対して何の処置もせず、また直後の「親鸞会問題」においても、本願寺からの出版でありながら、私の書いた原稿『派外からの異説について』を別冊にして、勧学寮頭、伝道院長監修としなかったことは勧学寮頭として無責任であったと思います。合掌
(2020,9,30)。
R氏の意見に対して、(詳細はFB<2020,9,30>)。
R様、御門徒様の貴重な御意見とは思いますが、私の意が全く御理解頂けてないようで大変残念に思います。「紅楳さんの教団批判は判るのですが、ある意味では信楽さんの伝統教学批判と同じ轍を踏んでいるのかもです。打っても叩いても変化しない教団は、我ら門徒からすれば教団などどうでもいい存在です。」といわれますが、これは全く違います。
「ある意味では信楽さんの伝統教学批判と同じ轍を踏んでいるのかもです。」と言われますが、私の批判は信楽氏等が「信心正因称名報恩」を批判することにあるのです。これは宗教体験(救済体験、獲信体験)のない人の所論であるからです。こういう所論が罷り通るようでは教団全体が信心不在(他力念仏不在)となってしまうからであります。信楽氏等は宗教体験(救済体験、獲信体験)がないので親鸞聖人の説かれた正しい信心念仏(他力の信心、念仏)が体得できず、過去の戦争責任問題等を理由に伝統教学を批判しているのですから、全く内容が違います。
それから「打っても叩いても変化しない教団は、我ら門徒からすれば教団などどうでもいい存在です。」とも言われますが、このことは御門徒様の貴台と寺の長男に生まれて僧侶となった私との決定的な考えの違いでありましょう。
御承知のようにいくら意見を述べても、宗制宗法遵守義務放棄が公然と罷り通るのが教団の現状であります。仰るように「打っても叩いても変化しない教団」かも知れません。しかし私はあきらめることなく信心不在の教団の改善を願い、そのための努力を続けるつもりでおります。
それから「往生浄土を期して、愚直になんまんだぶを称えている門徒は「信心正因称名報恩」義や、「痴無明疑無明」説や「若存若亡」の意を知らなければ浄土へ往生できなのでしょうか?」と言う御質問ですが、「本願を信じ念仏もうせば仏に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや」(『歎異抄12、『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,839)とありますように、往生に学問は不要であります。「往生浄土を期して、愚直になんまんだぶを称えている門徒」で結構でありますが、信心正因称名報恩義に反対する想いや、痴無明疑疑無明の違いを反対する心や、若存若亡の想いがあるのであれば、その人は信心不決定(未決定、未安心)でありますので、真実報土に生まれることは出来ないと思います。(貴台の言われる愚直はこれではないと思いますが、) 合掌
(2020,9,30)。
前に述べましたように、「往生一定、御たすけ治定」と確信(決定心)と安堵の心に恵まれるのが浄土真宗の信心であります。これのない信は親鸞聖人は不如実の心とされ「若存若亡」とされたのであります。ここは極めて大事なことであります。昨今この機辺の決定心を自力心だと否定する人もおりますが、これは間違いであります。上に御紹介頂いた「他力の信の特色」稲城選恵和上(稲城選恵 深川倫雄 『如来をきく』[1]より抜粋) http://www.hongwan.net/.../%E4%BB%96%E5%8A%9B%E3%81%AE%E4... の中に、先に私が桐渓氏の件で取り上げました「庄松同行」の話が、桐渓氏と全く同じ形で紹介されているのであります。先に述べましたように『庄松ありのままの記』では御門主が庄松に「併汝は信を頂いたか」と言う問いに 庄松は「ヘエいただきました」。と自分が獲信したことを述べていますのに、桐渓氏は「お前は信心いただいておるか」と御門主がきいたら「私に聞いてもわかりません。聞くところが違いますよ。阿弥陀様にきいてください」と申したと伝えられております。「こころでこうなったから」と決めたのではあぶない。(桐渓順忍『信心について』探究社、一九八二年七月発行、四五頁)と同じように、庄松同行が「ヘエいただきました」と自分が信心決定したと述べている言葉を省略しているのであります。このょうに衆生の決定心(信心決定、往生の確信)を否定するする十劫安心(無帰命安心、無自覚安心)の傾向が勧学寮関係に継承され、現在に至っているのであります。往生決定の心がなければ「たのむ一念の時往生一定御たすけ治定と存じ、このうえの称名は御恩報謝と存じよろこび申し候」とある報恩念仏の意味も本当には分からない事と思われます。この件につきましては「続②近年の本願寺派に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku2.html の(2015,2,7記)、(2015,7,5記)に述べています。また(2015、4,5記)には、信楽氏と一緒に「信心正因称名報恩」義を否定した時の勧学寮頭であった大原誠実氏に呼び出され、大原氏から「道を間違えている以上、自分は勧学寮頭として君たちをさばかねばならない。」と言われたことを述べています。大原氏が急逝し、次の勧学寮頭が桐渓氏でありました。桐渓氏が信楽氏、岡氏に対し、何の処置もしなかったのであります。そして今は宗制宗法遵守義務放棄というとんでもない事が公然とまかり通ているのであります。宗門人全体で真剣に考えねばならない事と思う次第であります。合掌
宗教体験(救済体験、獲信体験)のない信心不決定の人には往生の確信もなく、「信心正因称名報恩」の意味が正しくは分かりませんので「信心正因称名報恩」批判を悪いようには思わず、逆にそれを問題視し批判する者の方が悪いように思うのでありましょう。これがとんでもない間違いであり、まったく情けない信心不在の教団の現状なのであります。早急の抜本的改善が必要であろうと思われます。合掌
教団の責任担当者(教学面、行政面)までが信心不決定(未決定、未安心)者の集団と成り果て、宗制教義に定められている「信心正因称名報恩」の意味も分かず、宗制宗法遵守義務放棄が公然と罷り通ている教団の、信心不在の現状を深く憂慮しております。信心教義についての宗制宗法遵守義務放棄ということは、正常な宗教教団ならば、賦課金納付義務放棄より大罪に値すると思います。何よりも早急の改善を願うのであります。合掌
「続⑤近年の本願寺派教学に想う」
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html
「続⑪近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku11.html
「続⑲近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku19.html
(2020,10,3)
信心といへる二字をば、まことのこころとよめるなり。まことのこころといふは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆゑにまことのこころとは申すなり。(『御文章』1の15、(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,1106)とあります。
御承知のこととは思いますが、これは信心は他力回向の信心であるがゆえに、まことのこころともいえる、と述べられているのあり、凡夫のこころから煩悩のこころが消えてなくなるという意味ではありません。
それから「たのむ一念の時往生一定おんたすけ治定と存じ、このうえの称名は御恩報謝と存じよろこびまうし候。」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,1227)とありますように、往生一定おんたすけ治定と存じる(確信、自覚)ことができるのであります。(上に述べましたように、この自覚は悟りの意味ではではなく、病気で自覚症状というような自己意識、自己認識の意味)。「往生一定おんたすけ治定と存じ、」てないなら、そのひとは信心不決定(未決定、未安心)の人であります。近年教団の教学担当責任者までが信心正因称名報恩の意味も分からない信心不決定(未決定、未安心)の人達の集団となっていますので、色々な事を言う人がいると思いますがこれは間違いです。
ついでに申しますが、前に述べました桐渓氏と同様に「庄松同行」の話の肝心な箇所を変えて語る稲城氏が「往生に確信をもてるものではない、確信を持つのは誤りである」といいますので、私はそれなら領解文に「往生一定おんたすけ治定と存じ、」とあるのは間違いなのでしょうか、「存じ、」は衆生(機)の心ではないのでしょうか、と質問を返しましたら、氏は「領解文は蓮如上人の書かれたものかどうかは分からない」と答えました。
要するに宗制宗法遵守義務放棄が公然と罷り通っている、信心不在が教団の現状であります。合掌
(2020,10、4)。
ついでに申しておきますが、『庄松ありのままの記』に「信心は如何にすれば得られるぞと問う。<庄松答えて曰く「聖人一流の御文又は末代無智の御文を百辺よむべし、然らば信心はえられるであろう>と申候。」(永田文昌堂、昭和36年4月、p、37)とあります。庄松同行は信心決定、往生決定の確信(自覚)ははっきりあったのであります。これを上述のように庄松同行が、御門主からの「汝は信を頂いたか」と言う問いに「ヘエいただきました」。と自分が獲信したこと、獲信の自覚を述べているのに、それを省いて(悪く言えばそれを改ざんして)庄松同行に信心決定、往生の決定の確信(自覚)がなかったように述べているのが、上に述べました桐渓氏稲城氏等その他の近年の教団の教学責任担当者であるわけであります。この考えは十劫の昔から往生が定まっていると考えて、信心を不要とする十劫安心(無帰命安心、無自覚安心)に相当するものであり、明らかな謬見であります。
それから信心は非意業であるから、衆生(機)の意識には全くかからないという意見もありますが、これには賛成しかねますし、また非意業という言葉自体が仏教語としては穏当でなかろうと思います。合掌
「続②近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku2.html http://e-kobai424.sakura.ne.jp/shinitinen.htm
非意業については「続⑤近年の本願寺派教学に想う]
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html 所収
「信一念と信の覚不について」
(2020、10,5)。
この度ある浄土真宗の御法義に熱心な方からの問題提起により、近年の教団の教学責任担当者が 「庄松同行の話」の信心についての大事な部分を自分の都合の良いように勝手に書き換えたり、またそれに全く疑問を感じることもない, 信心不決定(未決定、未安心)者の集団と成り果て、そのため「信心正因称名報恩」の正しい意味も分からず、宗制宗法遵守義務放棄(正常な教団なら賦課金納付義務放棄より重罪)というあるべからざる事態に至ったことを、よくお分かり頂けたことと思います。
このような信心不在体質の儘では到底教団の発展振興は望めません。何度も申すことでありますが、一刻も早くこの教学担当責任者までが信心不決定者の集団と成り果てた教団の信心不在体質の、抜本的改善が必要と思います。合掌
(2020,10、6)。
「続㉑近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku21.html に続きます。