親鸞浄土教における救済の理念と事実
                    紅楳 英顕
 
   はじめに
 本稿は昨年本学会で発表した「信一念と信の覚不について」に続くものである。本願寺派教団においては「三業惑乱」終結に当たっての『御裁断御書』において、信心獲得の日時を記憶するか否かによって信心の有無を論ずることは禁じられ、信一念の日時の記憶がなければ信心ではないとする一念覚知説は異義とされているのである。しかし信心そのものが不覚であるということは『御裁断御書』に述べられているのではなく、親鸞、蓮如においてもそのような見解はみられないのである。すなわち親鸞浄土教においては救済の理念は絶対他力(無条件の救い)であるが、救済の事実(信の覚)については、その存在は明確に語られているのである①。
本稿ではこの点について、三業惑乱を終結せしめた正義派の総帥大瀛(一七五九ー一八〇四)自身の所論を窺いながら、とくに救済の事実の問題について考察したいと思う。
一、『願生帰命弁』と『横超直道金剛錍』
大瀛の功存(一七二〇ー一七九六)の『願生帰命弁』②に対する反論書に『浄土真宗金剛へい』(真宗叢書十所収)と『横超直道金剛へい』とがある。後者の方が後年のものであり、詳細であるので、本稿では主として後者に依ることにする③。
周知のように『願生帰命弁』は越前の龍養のたのむ一念(帰命)を軽視した「十劫秘事」(無帰命安心)を糾明することを目的としたものであったが、それが行き過ぎとなり三業惑乱の原因となったのである。大瀛はこれについて『横超直道金剛錍』(以下『金剛錍』)に
  然るに近来一師(功存)。新に願生帰命の唱を作し。盛に三業一念の宗を立つ。  蓋し当時一類の邪徒あり。妄情横議して帰命を呵棄し。以て信楽を僻解して幾ど空慧④に同ず。一師の弁(願生帰命弁)之が為に作と云。然る則ち幣を救し邪を矯む。当時おいて何ぞ功なしとせん。(中略)凡そ世の曲を矯る者。左は則ち之を右にし。右は則ち之を左にす。其矯るや必過ることあり。而して後に者をして中正をえしむ。今彼の有弁意は亦是の如き乎。当時の邪徒帰命を廃棄する者歪めるの甚だしきなり。彼に対して之を弁ずる者。蓋し亦過ぎたり。(傍註横超直道金剛へい⑤上の一左)と述べている。そして」『願生帰命弁』の二大過として
  一に欲生正因。二に三業帰命(上の二左)と述べている。(『浄土真宗金剛錍』上、真宗叢書十の五二八、には「一には本願三信中、別して欲生を取りて帰命の一念とす、これ大過、二には行者自身の三業を並起して帰命の一念を成ず、是れ安心相状と云ふ、これ大過、」とある)。
要するに信心不覚的傾向の主張である龍養の「十劫秘事」(無帰命安心)を是正せんがための主張が行き過ぎとなり、三心即一心の無疑の信楽を正因としない欲生正因、行者の三業(身、口、意)を並起して往生を自力で祈願すべきとする三業帰命、さらに一念覚知説(記憶だのみ)の主張等⑥となったのであろう。
  
   二 大瀛における信一念⑦と信の覚不の問題
 大瀛は一念覚知説(記憶だのみ)について『金剛錍』に
真宗の肝要ただこのたのむ一念なる故に。  若し之無き者は真宗の徒に非ず。然りと雖も之に就て記憶不記憶を論ずることは。 理無し文なし益なし。云何が理なし。夫れたのむとは他力信心なり。その正不を督んと欲せば。宜しく現前の心相云何と問うべし。如何ぞその過去について記憶不記憶を論ずるの理あらん。(中略)六字の全体を心得たる。信の一念が即ち行者帰命の一念なり。何ぞ此中に就て。これが我が曾て手弁の帰命願にてありしと。  取わけて記不記を論ずるの理あらんや。  相続の故に彼の一度限に異なり。執者は帰命を僻解して。自力所作の祈願とおもふ。故に一度とり行ふを以て一念とす。  自力の一念は水に画くが如くなれば。往生の大事望めて極めて不安心なり。故に勉めて記憶を責む。又一度限の事ゆへ。  記不記といはるべきことなり。今は他力信心決定の初念を。たのむ一念と名るゆへに。この一念臨終まで通りて。由若金剛。初後不二にして。初一念のとき。已に相続心の名を得。常に自ら現前して少しも改むことなし。白道百歩唯乗彼願力之道耳。何ぞ記不記の論を容んや。故にいくたびもただ現前の信相に就て。如実不如実を督すのみ。過ぎ去る已曾の事業に就て。記不記を論ずるは。他力真宗の安心於ては絶て無きことなり。応知。次に文無しとは。理已に此の如くなれば。何処にか其の文あらんや。故に相承の訓告の中。たのむ一念をおぼえよとの教は絶えて一文もなし。唯是二十年来の新説なり。(中の三一右)
とある。信の一念(たのむ一念〈他力信心 決定の初念〉)は真宗の肝要であると述べるのであるが、これについて
「記憶不記憶を論ずることは。理無し文なし益なし」と否定しているのである。「執者は帰命を僻解して。自力所作の祈願とおもふ。故に一度とり行ふを以て一念とす。自力の一念は水に画くが如くなれば。往生の大事望めて極めて不安心なり。」とあるように、大瀛は一念覚知の主張者は信の一念(たのむ一念)を自力所作の一念と思い往生の大事について不安心であるが故に記憶不記憶を論じ、記憶せよと責めるのであろうと述べている。他力信心は信心決定の初念のたのむ一念が臨終まで通りて、初後不二にして、常に自ら現前するもので、記不記を論ずる必要は全く無いと述べている。また「相承の訓告の中。たのむ一念をおぼえよとの教は絶えて一文もなし。唯是二十年来の新説なり」と信の一念(たのむ一念)の年月日時を記憶せよという主張は未だあったことのないものであり、二十年来の新説(三業惑乱で初めて生じたものだ)と述べている⑧。また『浄土真宗金剛へい』には
  凡そ事一たび挙して後廃する者に於いて記不記をいうべし、汝輩羯磨帰命(三業帰命)の事相も亦是の如し、一たび作法して二たびせず、故に記る不記といはる、 又事の常に自ら現前するものは記不記といはず、人の子の其の父を父とするが如し、我曾て我が父を父とせり。何の年月日時なりといはず、然るに其の父是れ父なりと知る、初起の一念なきにはあらず、(巻下、真宗叢書十の五七八)
と信の一念(たのむ一念)の年月日時の記憶・不記憶を論ずる必要のないことを、自分の父を何の年月日時から父としたかという記憶・不記憶を論ずる必要はないという譬えで述べている。
以上のように大瀛は信の一念(たのむ一念)は初念が初後不二で臨終まで相続し、自ずから現前するものであるので、信の一念(たのむ一念〈他力信心決定の初念〉の覚不(記憶・不記憶)を論ずる必要はないと述べているのである。
次ぎに信心そのものについてであるが、上述のように大瀛は『願生帰命弁』の欲生正因、三業帰命を二大過としている。
 『金剛錍』に 三心その言は異なりと雖もただ他力の一心、信楽の異名、をあらはせるなりと釈成し。ただ他力の信心を以て真宗の肝要とおきたまふ。(上の二八左)
等と述べて、欲生正因を否定し、信楽(信心)正因であることを述べ、またその信楽について
仏その徳を全して。これを六字の名号となして。衆生に回施したまふ。その名号の義を。彌陀如来の真実信心と云り。行者これを聞き得て是の如く決定して。少も疑心なければ是れ仏心を全領せるものなる故に。是を彌陀智願の回向の信楽とも云り。(上の三左)
等と信楽(信心)は無疑心であると述べている。さらに
今たのむ一念をもて。機辺結構の欲生一心とし。是の如く願救すれば。仏即ちたすけ給ふ。是を阿弥陀仏の義とするものは。全く是四字名号の見にして。他の奴隷となるものに非ずや。この疑惑位の願心を以て真宗一念帰命の信心に充ては。 深く他力の宗意を害せざらんや。(上の七右)
と述べ、たのむ一念を欲生一心とし、往生を願救(自力の祈願心)することは他力の宗意を害するものと述べている。また
今家の彌陀をたのむとは。本願を信楽する他力安心。別に帰命の相あることなし。(上十四左)
と、たのむと信楽(無疑心)は同意であり、これが他力安心であり、このほかに帰命の相があるのではない、また「たのむと信と。ただ漢和の不同」(上の十三右)等と述べて欲生正因、三業帰命を否定しているのである。
 信の覚不に関するものとしては
信の相は。六字のいはれを御教化のままに領解し。本願の命にかしこまるばかりなり。故に信機信法の安心決定して。その余さらになにの様もなし。此の領解の心中をさして。彌陀をたのむといふなれば聞と云ふに信相甚だ明なり。故に御文に六字のいはれをくはしく知りたるが聞、信決定のすがたなりと云へり。人或いはおもへらく。信一念といふは黯然たる頑物にて。何のすがたもなからんと。これ聞のいはれを知ざるに由てなり。  
(中の二一左)
とある。ここは信相について述べているところであるので、ここの信一念は時剋についてではなく心相についてのことと考えるべきであるが「黯然たる頑物にて。何のすがたもなからん」と思うようなひとは、聞のいはれを知らないひとであると述べている。このように信の不覚説をはっきり否定しているのである。また
六字の義をよくききわけぬれば。かかるあさましき徒者を。本とたすけたまへる。  彌陀願力の不思議を深く信じ。一心一向に大悲願力に託て。信一念のとき。往生は已にさだまりぬと決定歓喜して。正覚華に昇るまで。少も動乱せぬ安心の初念を。帰命の一念とも。たのむ一念とも。 金剛堅固の信心のさだまるとも云なり。 (中の一三右)
とあり、また
改悔の口上は即ち知識伝持の仏語なり。 此のとほりを心中に領解し信受するが謂はゆるたのむ一念肝要のことなり。これが心中におちつかぬ間は。いつまでも彌陀をたのみたるに非ず。(中の三三右)
等とあるが、ここに「往生は已にさだまりぬと決定歓喜して。正覚華に昇るまで。少も動乱せぬ安心」、「これが心中におちつかぬ間は。いつまでも彌陀をたのみたるに非ず」とある処から大瀛自身はっきりと自分自身の信心決定、往生一定を確信(自覚)していたと窺うことができよう。
信心の覚不に関するかと思われている意業運想の問題があるが、『金剛錍』に
自己の三業の行を憑で。これを以て摂取を蒙んと希求し。自力をふりすてて。仏願力の不思議を深信することあたはず。 縦令ひ其の唯意業に於いて論ずるも。亦唯運想努力の立願にして其の計全く同じ。(中の二右)
  三業帰命などと努力構造自力の一念は宗義の中に於いて絶えて容地なし。三業にもせよ。機の方に自ら一物を構て。是でたすからんと擬ふものは此一念の義には称はず。(中の三九右)
等とあるように、意業運想とは三業ではなく、唯意業のみにおいて運想努力し往生のために立願(自力の祈願)することである。大瀛はこれも三業帰命と同計として退けたのであって、信の覚不に関連するものではないのであり、また信心そのもの(心想)の覚を否定するものでもない。
以上の考察により大瀛は信一念の時剋の覚不(記憶・不記憶)を論ずる必要はないと述べるのであるが、信そのものの覚不については自分自身の信心決定、往生一定を確信(自覚)していたことは明らかであり、信の不覚を否定した、覚の立場であったといえるのである。
  
   三、大瀛の十劫秘事についての見解
 上に述べたように大瀛は功存の非難した越前の龍養の「十劫秘事」(無帰命安心)について「当時一類の邪徒あり。妄情横議して帰命を呵棄し。以て信楽を僻解して幾ど空慧に同ず」と述べ、これを邪義としているのである。『金剛錍』に
次ぎに十劫秘事のこと。御文の中に三処 その計を叙して破斥したまへり。(下三九左)
と述べて、十劫秘事を批判した『御文章』第一帖の十三(真聖全三の四二〇)、第二帖の十一(真聖全三の四四一)、第三帖の八(真聖全三の四六二)の文を引き、彌陀の十劫正覚はじめより往生定まったといういうことを知っただけでは往生決定しないのであり、信心が必要であることを蓮如の意によって述べ、十劫秘事を批判し、次下に
此等の文意に依に十劫秘事は聞不具足のひとなり。彼等も疑はず信ずるなどといへども。その所信の義。大不足なり。絶て往生の因果のすがたなきが故に。往生の因果とは。我等が往生すべき他力信心のいはれ。即六字のいはれなり。此信心のいはれもこころへずして。ただ十劫正覚の初より。我が往生を定玉へるを忘れず疑はずが信心なりとばかりこころえたるは。甚だ麁昧の至なり。夫れ衆生往生の法門こそは。正覚同時になしたまひけん。一機一機の往生に至ては。信楽時至らずしてはいかでか定まりなん。故に衆生帰命の一念の時。彌陀は必ず摂取して。 往生治定せしめたまふ。(中略)十劫者はこの義をしらず。往生法門成就の時を以て我が往生治定の時と取り誤る聞不具足の故にその信心ぞと云うふもの。大疵物なり。(下の四一左)
と述べているように十劫秘事(無帰命安心)者を聞不具足のひとと否定し、十劫正覚の初めに衆生往生の法門は成就するのであるが、衆生の往生が治定(決定)するのは信心決定のときであり、彌陀の摂取もこのときであると述べるのである。大瀛の立場が十劫の昔にすでに往生が決定していると説き、無帰命、無信心(信不覚)を説くものとは全く相違するものであったことが明らかであろう。
  
   四、「心得たと思ふは心得ぬなり」について
 行者の信心決定の自覚を否定し、信心不覚説の根拠とよくされるのが、『蓮如上人御一代記聞書』末二一三に
  心得たとおもふは心得ぬなり、心得ぬ思ふはこゝえたるなり。彌陀の御たすけあるべきことのたふとさよ思が心得たるなり。少も心得たると思ことはあるまじきことなりと仰られ候。(真聖全三の五八四)
とある文である。この文を信心不覚説の根拠とすることが誤りであることは前回述べた⑨が、新たな資料を目にしたので重ねて論ずることにする。大瀛とともに三業惑乱の終結に働いた道隠と親交があり、三業の毒が東派に波及することを怖れていたといわれる⑩深励(一七四九ー一八一七)の『肥後国異法義御教誡』に
なんぼ一文、我が勝手のよい文がありても、外の九文にさしつかえることなれば、通釈して通るが学問をするものの心得なり。一文に屈執してそれで云ひ立てるやうになると、法幢がごとき異解者になるなり。御小屋の尼どもが、信心を得た云ふは得ぬのなりとある文を一つ覚えて居て、諸方の信心者の処へ往き、お前方はまだ自力の心でござる、信心得たと云ふて居る間はまだ信心を得ぬのじゃと云ふなり。これは心得違へなり。八十通の『御文』に信心をえよ。信心を取れとの給ふに、『御一代記聞書』に局つて、得たとおもふは得ぬとあればとて、八十通の『御文』は捨てられぬ。(続真宗大系十八の二一八)
と述べている。この文によって「諸方の信心者の処へ往き、お前方はまだ自力の心でござる、信心得たと云ふて居る間はまだ信心を得ぬのじゃと云ふ」事は間違いであると述べているのである。
 また南渓(一七九○ー一八七三)は『新二十邪義』批評に
  心得たと思は心得ぬなりと云ひ機辺の決定を排する邪義、御一代記聞書末三十四丁に云云とあれば我等がたすかるわけは仏辺に成してあれば夫れを聞くばかり、機辺と信心決定の安堵のと云へは皆自力なり夫れこそ心得たとおもふになるなり。
評云此は一句一言を截りとり妄義を搆ふるなり、(中略)察する処三業の後意業運想⑪などおこりて、機辺の受け前を己れが妄情穿鑿して御裁断ありしより機辺に領解を語れば自力なりと、偏へに心へて、如是妄説を成す、全く他の無相離念に同じ何ぞかかる安心あるべきや、殊に毫善師は此機の上に保つ処の仏智をつのりとせんほか如何でか凡夫往生の得分あるべきとの玉へり、已に此機の上に保つとあれば機辺に領得すべし、領解文には往生一定御助け治定と存じとある、存は亡に対して心内にあることなり、仏智を凡心に領受したる処なり。此御文にはしばしばこころえよとの玉ふ。何ぞ機受決定を排却せんや、(中略)御助けは一定往生治定と存ずと云ふ往生安堵の思ひに住するをこそ決定心を得たる人と云べし、この決定を排却するときは生涯不決定を以て安心とするや、若決定不決定を機受に求めずと云はば十劫秘事なり。⑫
と述べている。最初に「心得たと思は心得ぬなりと云ひ機辺の決定を排する邪義」とあるように、南渓はこの文によって機辺の決定心(信の自覚)を否定する考えを誤りとするのである。「領解文には往生一定御助け治定と存じとある、存は亡に対して心内にあることなり、仏智を凡心に領受したる処なり」と信心は自覚されるものであることを述べ、決定心を否定して生涯不決定を安心とすることを否定し、それは十劫秘事であると述べているのである。
 『肥後国異法義御教誡』は惑乱終結の翌年(文化四年)になされたものであり、『新二十邪義批評』は無論惑乱以後のものである。
ともに機辺の決定心を否定することを間違いとしていることは、惑乱を終結させた正義派
(大瀛)の意も同様に機辺の決定心を否定することを間違いとしたもの、即ち信を覚としたものであったことのさらなる裏付けとなろう。
むすび
以上論じたように大瀛の主張は三業帰命を否定し、無疑の信楽一心を説き、一念覚知説(記憶たのみ)を否定するものではあったが、信心決定の自覚(信の覚)を否定するものではなかったのである。上引の南渓の『新二十邪義批評』の文に「御裁断ありしより機辺に領解を語れば自力なりと、偏へに心へて、如是妄説を成す、全く他の無相離念⑬に同じ何ぞかかる安心あるべきや」とある。近年見られる決定心を否定する十劫安心的「信心不覚説」は蓮如時代からあったものであるが、南渓によれば三業惑乱以後にまた生まれてきたもののようである。
 往生一定と安堵する救済の事実(信心決定の自覚)を否定することは親鸞、蓮如の意に反するものであり、また『御裁断御書』にも反し、さらに生命を賭して惑乱を終結せしめた大瀛の意にも反するものであることが明らかである。
①「信一念と信の覚不について」(印度学仏教学研究第五十五の二、平成十九・三所収)。尚、書き落としたが、『自謙日誌』に出る「覚知成興之心」の語は『浄土文類聚鈔』(真聖全二の四五一)にある。
 また「愚鈍の衆生覚知易から令めんが故に」 (『同上、』同四五〇)ともあり、親鸞は信の覚を当然の事実としていたであろうことが窺える。
②宝暦十二年(一七六二)著。
③両書共に寛政九年(一七九七)十月と記されているが、『本願寺年表』(浄土真宗本願寺派、昭和五十六年十一月刊)では『浄土真宗金剛へい』は寛政九年に著され、『横超直道金剛へい』は享和元年(一八〇一)五月の刊行となっている。
④空の道理を観ずる智慧(中村 元『仏教語大辞典』、二八〇頁。)
⑤興教書院(明治十二年五月刊)。以下これに依る。
⑥一念覚知説は『金剛錍』、『自謙日誌』に 三業派の主張として挙げられているものであるが『願生帰命弁』にはそれは窺えない。 また天明六年(一七八六)に功存が著述した美濃の国の異義の判裁に「一念帰命せし年月日時を記憶せよということ。これなきことなり。但たまたまは年月日時をおぼえたるありとも。これまたわすれよと云ふに及ばざる事」(真全七二の四五〇)とある。 一念覚知説は三業派の主張であったことは確かであるが、功存自身にあったかは不明確である。
⑦信一念については時剋と心相の二釈があるが、ここは初一念の時剋釈についてである。
⑧前回も触れたが大瀛等正義派も三業派も一念覚知説に関した蓮如の所見のある『拾遺蓮如上人御一代記聞書』十六(真聖全五の六〇七)は見ていなかったのであろう。
⑨拙稿「他力信心と日常生活ー浄土真宗におけるー」(日本仏教学会年報六三、一九九 八・五)で、深励が『蓮如上人御一代記聞書講義』(真宗大系三〇の三二一)に『蓮如上人御一代記聞書』二一三は機辺の信心決定心を否定するものではないと論じていることを述べた。
⑩知切光歳『三業惑乱騒動』(百華園、昭和 五二年八月刊、四一一頁)。また『本願寺史』第二巻(三九五頁)に、深励は御裁断御書拝読の当日その席に加わり、御書を聴 いて随喜の涙を流した、とある。
⑪上に論じたように大瀛の『金剛錍』では「意業運想」とは、三業で帰命するのではなく、たとえ意業のみの立願であっても、 三業帰命に類するものとされたものである。 それが少し時代の下がった南渓の頃(現代もこの傾向がある。)は、機辺に信心決定の安堵等をいうことの意味となり、自力心とされるようになっていたようである。
⑫『六條学報』第二三(明治三六年八月刊)。
⑬聖道門の所談。機辺に領解を語ることを否定する見解。大瀛が十劫秘事を批判し「幾ど空慧に同ず」といっているのはこの意であろう。
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     (相愛大学教授)(印仏研究56の2,平成20年3月)