浄土真宗における回心について


      紅楳英顕

  About conversion in Jodo Shinshu

       Eiken KOBAI
 
   はじめに

 回心( conversion) と言う語は広く宗教で用いられる語であり、『宗教学辞典』によると
  広い意味では、宗教的に新しく生まれ変わる宗教体験をいう。したがって、あることを契機として特定の宗教に目覚め、その宗教の信仰をもつようになる入信も、また、ひとつの信仰から心を転じ  て他の宗教の信仰に入る改宗も、回心として考えることができる。狭い意味では、突発的に起こった烈しい宗教体験によって、それまでの不安定な心身の状態が、転じて安定した状態になり、宗教的自我  が発見されるような心理的・身体的変化  をさして回心と呼ぶ。(東京大学出版会、  1973年12月発行、P,82)
とある。
 また西田幾多郎は「場所的論理と宗教的世界観」に
  我々の自己が宗教的信仰に入るには、我々の自己の立場の絶対的転換がなければならない。これを回心というのである。(中略)自己の転換をいうのである。入信というと同一である。如何なる宗教にも、自己転換  と云うことがなければならない、即ち廻心ということがなければならない。これがなければ、宗教ではない。(西田幾多郎全集11の418以下)
と述べている。回心とは宗教全般で用いられる入信を意味するものであり、広い意味をもつ語であるが、本稿においては回心を他力信心への入信(信心獲得)の意味として論をすすめることにする。
 
   1 ,回心の二つのパターン

 回心(入信)のパターンに突然的回心(Sudden conversion)と漸次的回心(Gradual conversion)の二つがあることはウイリアム・ゼイムス(1842-1910)によって主張されたことでよく知られている①。ところが、日本においてゼイムスより早く浄土真宗本願寺派の玄智(1734-1794)の『考信録』卷三に同様のことが述べられているのである。即ち
  人の心は、頓機漸機とて、二品に候也。頓機はききてやがて解とる心にて候。(中略) 頓機は獲信の時を知るべし。漸機は知るべからず。頓機とは宗祖の始めて吉水に謁した まふの日、立ち処に真心を 決定 し在すが如き是なり。その外、臨終迴心往生の機またしか り。最初聞法の時、直ちに獲信すれは、獲信時知りぬべし。漸機とは曾って聞法し帰命し、念仏すと雖も、或いは信じ或いは疑て、しか会得することもなかりしに、仏力冥に加被して、いつとなく疑尽きて往生一定、尊や難有やと信をえて、歓喜念仏するの安心になる。これ凡夫情慮の及はさるところ、何そまた何の時日獲信といふことを記すへけんや。獲信の時を知らされとも、烟を見て火を知る如く、疑亡し喜生し、念仏勇進するに由て、信をうることを比知す。(真宗全書64の85)
とある。この「頓機は獲信の時を知るべし。漸機は知るべからず」とする玄智の考えは妥当だと思える。(頓機について玄智は「頓機とは宗祖の初めて吉水に謁したまふの日、立ち処に真心を決定し在すか如き是なり。その外、臨終廻心往生の機またしかなり。最初聞法の時、直ちに獲信すれは、獲信時知りぬべし」と述べているが、最初の聞法の時ではなく、聞法の過程である時突然的に回心体験をすることもあり得る。この場合も頓機というべきであり、獲信時も知ると思う。例、因幡の源左等)。
 釈尊は成道したのが35歳の12月8日早朝であったと伝えられており、キリストは30歳頃、天より声を聞いて自分が神の子であることを自覚したといわれ、使徒パウロのダマスコの回心は有名な話である。マホメットは40歳頃天啓をうけて自分が神に選ばれた預言者であると自覚したといわれている。近いところでは法然上人は43歳の時に念仏に帰し、親鸞聖人は29歳の時に本願に帰入している。その他、回心(入信)の年時が記されている高僧は多くいる。以上のような人達は頓機(突然的回心の機)に相当すると考えて良いと思われる。浄土真宗でいうなら「獲信の時を知る機」である。
私の知るところで、その他頓機(突然的回心の機、獲信の時を知る機)と思われる人にオーガスチン(アウグスチヌス)<354-430>(入信32歳)、お軽<1801-1856>(入信35歳)、源左<1843-1930>(入信30歳頃)、真田増丸<1877-1926>(入信32才)②等がおり、最近の人では河村とし子<1920-2013>(入信25歳頃)が挙げられよう③。漸機(漸次的回心の機、獲信の時は知らないが救済を確信している機)と思われる人に清九郎<1678-1750>(入信40歳頃)、トルストイ<1828-1910>(入信 50歳頃 )④、 才市<1850-1932>(入信50歳過ぎ)等がいる。それから最近の人として海辺忠治<1917-2011>(入信90才頃)⑤を挙げることが出来る。
 本願寺派の三業惑乱終結時(1806年)に出された御裁断御書に
  年月日時の覚・不覚を論じ、あるいは帰 命の一念に妄心を運び(浄土真宗聖典P, 1、414)
とあるが、これは信心獲得した年月日時の覚・不覚を論じ、どちらかに執着したり、(三業派は覚に執着したと思われる)。帰命の一念に意業のみでなく身口意の三業での帰命の想いをなせ、といったことを戒めたのであり、信一念の記憶があってはならないと不覚を正義としたのではないのである⑥。
上に論じたように、頓機(突然的回心の機)は本人が入信(獲信)の時を認識できるのである。もしそれが間違いだというならば、親鸞聖人はじめ源左、お軽等は皆間違いということになるのである。それから玄智のいう漸機(漸次的回心の機)とは、上文に「獲信の時を知らされとも、 烟を見て火を知る如く、疑亡し喜生し、念仏勇進するに由て、信をうることを比知す。」とあるように、入信(獲信)の時は知らないのではあるが、入信(獲信)の事実 (救済の事実)は確信している機なのである。ここが大変大事な所なのである。
 よく聞くことに, 「信心というものは頂いているのかどうか、凡夫に分かるものではない」とか「往生一定の確信が凡夫にあるわけはない」と言い、「それが分かるとか確信があるとかいうなら、それは自力であり間違いである」という意見があるが、これは間違いなのである。こんなことをいう人は「若存若亡」<あるときには往生してんずとおもひ、あるときには往生はえせじとおもふ>(親鸞聖人全集2の100)の人であり、機辺の決定心を否定する信心不決定(未決定)の人と言えるであろう。この主張は生涯不決定、一往再往論等の異義とされたものである。   
   
   2,親鸞聖人と蓮如上人の回心

 親鸞聖人は回心について、二つの意味で述べている。
 一つは自力仮門の心の意とするもので、
  1,回心回向の善なり。故に浄土の雑行といふなり。(『教行信証』「化土巻」、(真聖全2の155)。
  2,一乗円満の機は他力なり。漸教回心の機は、自力なり。(『愚禿鈔』、真聖全2の460)。
  3,直入回心対 明闇対。(『愚禿鈔』、真聖全2の460)。
  4,亦回心の行と名づく。故に浄土の雑 行と名づく. 是を浄土の方便仮門と名づく、亦浄土の要門と名づく也。凡そ聖道浄土、聖道定散皆な是れ回心之行なりと也。 (『愚禿鈔』真聖全2の473)。
等であり、二は自力をすてて他力に帰する入信(信心決定)の意味である。
  1,回心といふは自力の心をひるがえして、すつるをいふなり。実報土に生まるるひとはかならず金剛の信心のおこるを、多念仏と申すなり(『唯信鈔文意』真聖全2の646)。
  2,小聖・凡夫・五逆・謗法・無戒・闡   提みな回心して真実信心海に帰入しぬ   れば、衆水の海に入りてひとつ味はひ   となるがごとしとたとへたるなり。こ   れを「如衆水入海一味」といふなり。   (『尊 号真像銘文』真聖全2の601)。
  3,一向専修のひとにおいては、回心といふこと、ただひとたびあるべし。その回心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀のちえをたまはりて、日ごろのこころにては往生かなふべからずとおもひて、もとのこ  ころをひきかへて、本願をたのみまひらするをこそ回心とはまふしさふらへ。(『歎異抄』真聖全2の788)。
 このように親鸞聖人においては「回心」の用法に二義が見られるが、上に述べたように宗教学一般において使用する回心の意味は入信の意味であるから、ここでは、二の入信(獲信)の意味で論を進めて行くことにする。
 親鸞聖人の入信(十八願転入)時については、29歳説、42歳説、52歳説、59歳説等諸説があるが、私は『教行信証』「化土巻」後序に
  然るに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて、本願に帰す。(真聖全2の203)
と親鸞聖人自身が述べている29歳説が正しいと考えている⑦。そして親鸞聖人は自分の入信(獲信)の時を知っているのであり、頓機, 漸機で言えば頓機であり、突然的回心の人なのである。
 これに対して蓮如上人はどう考えることができるであろうか。蓮如上人は生まれながらの僧侶であったので回心(入信、獲信)はなかったという意見もあるが、私はこれに賛成しかねることは既に述べた⑧。
 三業惑乱の影響で本願寺派において,入信時(獲信時)の覚、不覚の問題は屡々議論がなされたようである。利井鮮妙(1835-1914)は「一念覚不論」所収の「意業非意業之論」に  
  年月を知るも障とせず、知らざるも亦功  とせず。覚もよし、覚ぬもよし、共に仏智に信順するを以て当流安心の正義とす。故に前々住上人⑨も年月日時覚不覚を論すべからず、御相承多く年月を記し給はず。高  祖之を記し給ふ。その義云何と云へば親の懐で育ったものは、年月を認めて親と知りたることなし。何時の間にやら親を知る。生来真宗の教示に育せられたるもの如此。又生れてより他人に育てられて生長の後父  母の家にかへる者は親を知るの年月をしる。高祖上人聖道の預子となり、法然上人の親を知り給ふは浄土門の我家に帰り給ふゆへなり。覚たが好と計するもよからず。不覚が正義なりと認むるも悪し。乃ち覚不   覚を論ずべからずと御裁断なされたものなり。(『宗学院論輯第五輯』永田文昌堂、1976年1月発行、P,95)。
と述べている。鮮妙には、「土橋は人を渡して自ら落つるが, 未信の人は朽ちた橋の如く、人も渡さず自らも落つるなり。」と言う至言があるが、真摯な碩学であったのであろう。上の説明も的確明瞭である。
 先ず「年月を知るも障とせず、知らざるも亦功とせず。覚もよし、覚ぬもよし、共に仏智に信順するを以て当流安心の正義とす。」と述べている。信一念について「覚もよし」と言うことには勇気が必要であったと思われるが、これが正しいのである。上述のように機には頓機と漸機とがある。入信(獲信)の時を頓機は知ることができ、漸機は知ることが出来ないのである。しかし漸機も獲信の時は知らないが、仏智(本願)に信順して、往生一定の安堵心には住しているのである。もし本願に信順していないのなら、若存若亡の信心不決定(未決定)の人であり、漸機とも言えないのである。
 次に親鸞聖人は 「 聖道の預子」、即ち入信の直前まで聖道門に修行をしていたので、入信(獲信)の時を知り、蓮如上人等相承は「親の懐で育ったものは、年月を認めて親と知りたることなし。何時の間にやら親を知る」ので入信の時は知らないで、何時の間にやら入信すると述べているのであるが、これも尤もなことと思う。しかしこの場合も注意が必要なのは「親の懐で育ったものは、年月を認めて親と知りたることなし。何時の間にやら親を知る。」とあるように何時から親を知ったと言うことは知らないが、いつの間にか親を知る身となり、親と信ずる心に些かの疑心は間雑していないのである。即ち往生一定の不動の安堵心に住しているのである。
 前にも述べたが⑩、 蓮如上人は『御文章』1の1に
  古歌にいはく うれしさをむかしはそでに つつみけり、こよひは身にもあまりぬるか な

  うれしさをむかしはそでにつつむといへる こころは、むかしは雑行・正行の分別もな く、念仏だにも申せば、往生するとばかり おもいつるこころなり。こよいは身にもあ まるといへるは、正雑の分別をききわけ、   一向一心になりて信心決定のうへに仏恩報 謝のために念仏まうすこころはおほきに各別なり。(真聖全三の四〇三)
と述べている。ここに、むかしは雑行・正行の分別もなく、念仏だにも申せば、往生するとばかり思っていたが、こよい(今)は正雑の分別をききわけ、一向一心になりて信心決定のうへに仏恩報謝のために念仏まうす心になっており、むかしとは大きく変わった、と述べているのである。この御文章は文明3年、蓮如上人57歳の時のものである。蓮如上人の著述には自身の入信(獲信)の時は記されていない。しかしこの御文章によって入信の時が確かにあったということが分かるのである。それから『御文章』の諸所に「信心未決定のひと(2の3,真聖全3の429)、未安心のひと(3の9、同464)、「未安心のともがら(3の9、同464。4の7、同486)等とあるように「信心未決定」、「未安心」と言う語を使用していることは自分に回心(信心決定)の確信があったと考えるべきだと思う。(蓮如上人の回心の時を真宗再興の志をたてた15歳の時であるとか、得度の時の17歳とする意見があるが、宗教的回心の時としては早いように思われるし、本人の意志を示す資料がないので賛成しかねる)。その入信の時がこの御文章が書かれた遅くとも57歳以前ということが明らかなのである。(蓮如上人の入信時は本願寺第八代を継承した43歳以前のことであると私は推測する)。この意味において私は蓮如上人に回心がなかったという意見には賛成できないのである。
尚、御文章2の13(文明6年、蓮如上人60歳)に「かるがゆえに、行者のおこすところの信心にあらず、彌陀如来他力の大信心といふことは、いまこそあきらかにしられたり」とある文の 「 いまこそあきらかにしられたり」(真聖全3の445)とある文によって蓮如上人の入信(信心獲得)時をこの時(60歳)とする意見があるが、これにも賛成できない。「いまこそあきらかにしられたり」と言っているのは他力信心の説明をしているのであって蓮如上人がこの時獲信したと述べているのではないのである。例えば親鸞聖人も『教行信証』総序に  
  爰に愚禿釈の親鸞慶ばしい哉、西蕃月支の聖典、東夏日域の師釈に、遇ひ難くして今遇ふことを得たり、聞き難くして已  に聞くことを得たり。(真聖全2の1)と述べて、ここに「今遇ふことを得た」と述べているが、ここの「今」は『教行信証』執筆中の今であり、初めて本願に遇ったと言う意味ではなく、今已に遇っていると言う意味に他ならないのである。  要するに親鸞聖人は頓機の人であり、入信の時はみずからが書き記しているように29歳の時である。それに対して蓮如上人はみずから入信の時を書き記していないし、それに関する記録はない。従って鮮妙の言葉によれば「親の懐で育ったものは、年月を認めて親と知りたることなし。何時の間にやら親を知る。生来真宗の教示に育せられたるもの如此。」の漸機と考えることができよう。

  3,親鸞聖人の教えと蓮如上人の教え

 以上論じたように、私は親鸞聖人は入信(信心決定)の時を知っている頓機でありであり、蓮如上人は入信(信心決定)の時を知らない漸機であったと考える。しかし両者ともに信心決定の人であり、往生一定の安堵心に住した人である。ところが近年蓮如上人は親鸞聖人の教えをねじ曲げたと非難する意見がある。以下これについての私見を述べる⑪。
 蓮如上人が親鸞聖人の教えをねじ曲げたと非難する内容は
  1,蓮如上人は親鸞聖人の念仏論と異なる称名報恩を主張した。
  2,親鸞聖人は反権力の人であったのに、蓮如上人は権力に迎合した。
と主張するものである。
 先ず1につてであるが、親鸞聖人も報恩の念仏を説いているのである。即ち
  彌陀仏の本願を憶念すれば、自然に即の 時に必定に入る。唯だ能く常に如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ず応しといへり。(『教行信証』「行巻」『正信偈』、真聖全2の44)
  爰に久しく願海に入りて、深く仏恩を知  れり。至徳を報謝せんがために、真宗の  簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。
   ( 『教行信証』「化土巻」三願転入、真 聖全2の166)。
  わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候。(『御消息集』、真聖全2の6  97)
等とあるように、「唯だ能く常に如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし」とあり、「至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。」とあり、「御報恩のために御念仏こころにいれて申して」とあるように報恩の念仏(称名報恩)を勧めているのであり、このことだけで称名報恩が親鸞聖人の意に反するという主張が間違いであることは明白である。
 それでは何故このような間違いが起こるのであるか。このことについては私は前から述べているように、称名報恩批判者には未だ仏恩報謝の心がないからである。上の文から分かるように仏恩を報ずる身になるには、信心決定が前提なのである。人は信心決定の身になることによって、仏恩を知り、仏恩を報ずる身になるのである。このことは
  真宗の教行証を敬信して、ことに如来の 恩徳深きことを知んぬ。(『教行信証』 総序、真聖全2の1).
  釈迦・彌陀の慈悲よりぞ願作仏心はえし めたる 信心の智慧にいりてこそ 仏恩報 ずる身とはなれ(『正像末和讃』、真聖  全2の520)。
とあり、「信巻」の「金剛の真心」を獲得することによってえるとする現生十種の益の第八に「知恩報徳の益」(真聖全2の72)とあるのもこれを示すことである。また信心がなければ、仏恩を報ずる心がないということは
  助正ならべて修するをば すなはち雑修となづけたり  一心をえざるひとなれば   仏恩報ずるこころなし (真聖全2の509)
等と述べられている。
 このように親鸞聖人は報恩念仏(称名報恩)を諸所で語っているのであり、決して否定してない。信心正因称名報恩が親鸞聖人の意に反するという人はとんでもない考え違いをしているといわねばならないのである。
また2,についてであるが、親鸞聖人は権力に反対した反権力の人であったという人は、反宗教主義のマルクス主義の影響を過剰に受けた誤った考えの人達である。『教行信証』「化土巻」に親鸞聖人の書かれている 「主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨みを結ぶ。(主上臣下、背法違義、成忿結怨、)」(真聖全2の201)とある漢字にしてたったの12文字が、6万8千文字と言われる『教行信証』の思想の全てであるように考えて、親鸞聖人の信心が本願を信ずる心ではなく、専ら反権力的行動をすることが信心であるように思い込んでいる人達なのである。ここの『教行信証』の言葉は真実の教えである念仏に対する不当の弾圧に対する憤りを親鸞聖人が述べたのであり、親鸞聖人が反権力の人であったことを示すものではないのである。もし親鸞聖人が権力そのものを否定するのであるのなら、「和国の教主聖徳皇」(真聖全2の526)と聖徳太子を敬うことはなかったことであろうし、また「朝家の御ため」(『御消息集』、真聖全2の697)と述べることもなかったであろう。とんでもない考え違いである。
 また蓮如上人が『御文章』(3の10)等に
  一、守護・地頭を 粗略にすべからず。 (真聖全3の466)
と述べられている所等から、蓮如上人が権力に迎合した人であるとして、親鸞聖人と異なると主張するのであるが、これも大変な間違いである。蓮如上人は争いを好まない平和主義者であったのである。
 それから親鸞聖人が反権力の人であったという人は、親鸞聖人が善鸞を義絶した最大の理由は善鸞が異義を説いたからではなく、権力者と結びついたからであるとか、『御消息集』の諸所に見られる「世をいとうしるし」(真聖全2の683、同688,同691等)とある言葉が、反権力的社会実践を意味することのように主張するのである。しかし善鸞義絶の『御消息』には
  まことにかかるそらごとどもをいひて、六波羅のへむ、かまくらなむどに、ひろうせられたること、こころうきことなり。
  これらほどのそらごとはこのよのことなれば、いかでもあるべし。それだにも、そらごとをいうこと、うたてきなり。いかにいはむや、往生極楽の大事をいひまどわして、ひだち・しもづけの念仏者をまどわし、おやにそら  ごとをいひつけたること、こころうきことなり。(真聖全2の728)。
とあるように、義絶の理由は権力者の問題ではなく「往生極楽の大事」をいい惑わしたことにあったことが明らかである。また「世をいとう」という意味も、親鸞聖人が『教行信証』「信巻」に引用している善導の『観経疏』
「序分義」の
  苦の娑婆を厭ひ、楽の无為を忻て、永く常楽に帰すべし。(真聖全2の68)。
とある「 苦の娑婆を厭ふ」と言う意味なのであり、人間世界の範疇の権力・反権力レベルのことではないのである。
 上に論じたように蓮如上人は親鸞聖人の教えを正しく継承したと言えるのである。

むすび

 以上、回心をテーマとして親鸞聖人と蓮如上人につて考察した。親鸞聖人は回心(入信、信心決定)の時を自覚していた、所謂頓機であり、蓮如上人は回心(入信、信心決定)の時を自覚していない、所謂漸機であったと言えると思う。繰り返す必要はないが、勿論蓮如上人も信心決定の人であり、往生一定の安堵に住した人である。
それから蓮如上人が親鸞聖人の教えをねじ曲げていると言って非難する人達は回心(入信)体験のない人達だと思われる。西田の表現を借れば「自己転換」のない人達である。即ち、人間世界の範疇でしか思考しない、仏の世界へと方向転換をしていない人達であり、宗教の本質の分かっていない人達だと思う。浄土真宗の言葉で言えば信心不決定(未決定)の人達と言って過言ではないと考える。

註①『宗教的経験の諸相 上』(岩波文庫、桝田啓三郎訳)第九講、回心P,287以下)。
 ②仏教済世軍の設立者。
 ③萩女子短期大学名誉学長。著書『ほんとうのしあわせ』(真宗大谷派宗務所出版  部、1990年12月発行P,35)、『み仏様との日暮らしを』( 樹心社、1999年6月発行P,35)等に自分の入信体験について述べて  いる。
 ④トルストイの著『懺悔』(1882年刊) に述べられている。
 ⑤相愛大学名誉教授。著書 『苦悩とけて絶対の信へー西田哲学を契機と してー』 (法蔵館、2007年6月発行P、7以下)。
 ⑥拙稿「一念覚知説の研究」、(伝道院紀要19、1977年3月)。「親鸞浄土教における救済の理念と事実」(印度学仏教学研究56の2,2008年3月)。「信一念と信の覚不について」印度学仏教学研究55の2、20 07年3月)   等参照。
 ⑦拙稿「三願転入についての考察」(印度学仏教学研究38の1、1989年12月)。
 ⑧拙稿「仏教をいかに学ぶかー真宗学の場合ー」(日本仏教学会年報66、2001年8月)。
 ⑨三業惑乱終結時(1806年)の本願寺派第十九代宗主、本如上人のこと。
 ⑩ 同⑧
 ⑪これにつては拙著『続・浄土真宗がわか る本ー親鸞聖人と蓮如上人 ー』 (教育 新潮社1997年11月発行)にも述べ た。

追記。
本稿に御紹介させて頂きました海辺忠治先生(1917-2011),河村とし子先生(1920-2013)は大変御熱心な浄土真宗の信仰者でありました。直接謦咳に接し、永らく御高誼を賜わりました。21世紀の現代に本願名号の流行・躍動を実証された方々であります。この場をお借りして、謝意を表させて頂きます。

<『大阪聖徳保育・福祉論叢第21』(2016年3月刊)所収>。