「続⑯近年の本願寺派教学に想う」
これは「続⑮近年の本願寺派教学に想う」 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku15.html に 続くものである。
続前(3月30日)

 信心正因称名報恩義を信楽氏と共にやたらと批判したのが岡氏でありました。(「宗祖における信心と念仏」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/syusoniokeru.html「仏教をいかに学ぶかー真宗学の場合ー」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/Bukkyooikani.html 等参照)。その岡氏が 『宗教12月特大号、特集、真宗安心の問題、大原性実和上の生涯』(教育新潮社、昭和54年、p、94以下)に「大原先生に教えをうけて」と題する小論を載せています。信楽氏、岡氏の信心正因称名報恩批判が問題になった時の勧学寮頭が大原氏でありました。大原氏は信楽氏、岡氏の師でもありました。岡氏はその小論の中に、自分は大原氏にお宅に呼ばれ氏から「道を間違えている以上、自分は勧学寮頭として君たちをさばかねばならない。そう言って、私の手を握られた。申しわけありませんと言う言葉さえ発することができず、ただ黙しておいとまをこうた。」(p、99)と記しています。文中の「君たち」とは信楽氏、岡氏の事でありますが、この時から間もなく大原氏は急逝されたのでありました(昭和54年4月)。しかし両氏を裁くつもりであったことは間違いないと思われます。
ところが次期勧学寮頭は信楽氏に対しては「異義断定保留、今後の教学活動を見守る」(昭和56年3月)、岡氏に対しては「疑義断定保留、今後の教学活動を見守る」(昭和56年10月)とし、具体的には何もなされることはなかったのであります。私はこの勧学寮頭の裁定には実のところ大変驚きました。この人は信心決定の人なのだろうか。 浄土真宗 の信心、念仏を体得しているのだろうかと思いました。とくに岡氏は「かくて、大行としての称名は、 衆生の信の有無にかかわらず、称名の存するところ、仏行としての無限の行徳が、そこに具わっていることになり、あらゆる称名が、そのまま大行であると定められねばならぬこととなる。」(岡 亮二著『親鸞の信心と念仏』、永田文昌堂、昭和52年11月発行、p、122)。等と述べて信の有無にかかわらず称名(念仏)は全て大行であり、演劇で役者が唱える称名も、またわらべが謳歌する称名もすべて同一価値である(同著P、117)等と主張するのであります。また信についても『教行信証』「信巻」の「疑蓋无雑」の信について「疑い晴れた无疑心」とすることに反対して、『教行信証』「信巻」の「悲しきかな愚禿鸞」の文、『一念多念文意』の凡夫といふは、無明煩悩」の文、『歎異抄』第九の唯円に対する聖人の応答の文等により、親鸞聖人は生涯「自力の執心」になげき続けられたというのです。(同著P、270)。しかしこれは氏が、信楽氏も同様ですが、救済体験(入信体験)のない信心不決定(未決定)者であるが故に生じた見解であり、全くの謬見であります。このような親鸞聖人の信心、念仏の理解が全く出来てない上に信心正因称名報恩義を批判する人に対して「異義断定保留」よりまだ軽い「疑義断定保留」と裁定したことは決して、慈悲の精神からだと言うことは出来ません。宗門の将来を全く考えようとしない無責任極まる杜撰な処置であったと言わざるをえません。 私のこの不信感はその直後の親鸞会問題で更に深まることになりました(「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm 参照)。
 考えてみると、この頃から宗門の信心不在体質は急速に進んだのだろうかと思われます。、勧学寮関係者の中にも十劫安心の異義が横行し、『安心論題綱要』(勧学寮編、2002年10月発行)にも十劫安心の項は無くなっています。(「続②近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku2.html 参照)。「自信教人信」も言われはしているものの言葉だけの憾があり、この度の宗法遵守義務放棄というようなことにまでなったのでありましょうか。極めて遺憾至極であります。
   合掌   紅楳英顕



今も全く同じ想いであります。 合掌     「続⑮近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku15.html  (2020,4,5)。

何度も申したことでありますが、教団の教学の責任担当者までが信心不決定(未決定、未安心)者の集団と成り果て、念仏の信前信後の違い、自力(真門)他力(弘願)の違いも分からず、口に称える念仏はすべてが他力念仏(弘願念仏)であるかのように思い込み、信心正因称名報恩の意味も分からず、宗制宗法遵守義務放棄と言うとんでもない大罪(五逆罪の破和合僧)がまかり通っているのであります。教団の生命である教義信心についての宗制宗法遵守義務放棄がまかり通ると言う事は、最早正常な教団とは言えないと言って過言ではないと思えます。

このような事で教団の発展振興は到底の望めないと思いますし、また親鸞聖人立教開宗800年慶讃法要も聖人の御意が体されているのであろうかと甚だ疑問を感ずる次第であります。 合掌  (2020,4,5)。

親鸞聖人の御晩年の『正像末和讃』に「無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,617)。とあることから、称える念仏のすべてが「弥陀の回向の御名」と誤られることがありますが、これは信心不決定(未決定、未安心)者の思う誤りであります。同じ『正像末和讃』に「真実信心の称名は弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,607)とありますように、真実信心の称名のみが「弥陀回向の法」なのであり、口から出る念仏のすべてが弥陀回向(他力回向)の念仏ではないのであります。このことは救済体験(獲信体験)によって知ることであり、それのない信心不決定(未決定、未安心)者には分かることの出来ない大変大事な点であります。このことから同じ『正像末和讃』に「釈迦弥陀の慈悲よりぞ 願作仏心はえしめたる 信心の智慧に入りてこそ 仏恩報ずる身とはなれ」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,606)とあるのです。教団の責任担当者でありながら、信心正因称名報恩の意味が分からず、宗制宗法遵守義務放棄をしている人達は、自分では他力の念仏を称え称名報恩の意味が分かっているつもりかも知りませんが、頭の中の知識だけであり、正しくは分かっていない救済体験(獲信体験)のない信心不決定者の集団であるのです。これが現教団の大悲劇であります。 合掌 (2020,4,5)。



『読売新聞』(2020,4,11、夕刊)に、目下のウイルス問題に関し「元より、人間の生と死を見つめ、人々に救いや癒しを与えてきたのが宗教だろう。多くの人の死を前に、宗教が力になることもあるのではないか。」と書かれていました。密閉、密集、密接の三密のスローガンが出されていますが、歎異抄14「即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,847)とありますように、三密とは真言仏教で言う身密(身業)、口密(口業)、意密(意業)の事であり、意味は全く異なりますが元は仏教の身口意の三業の事であります。
緊急事態宣言の下、生命を守るための十分な注意は必要でありますが、『大経』に「生死勤苦の本を抜く」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,14)とあるのが仏教であり、特に浄土真宗の篤信者は「生きてよし、死してよし」と死を超えた慶びを述べているのであります。親鸞聖人がそれまでの死後のみの救済を説いた浄土教を脱皮して、現生正定聚、平生業成、臨終来迎否定を説かれ、現世からの救済を強調された教えを広く世にひろめる好機だと私は思います。合掌  ( 2020、4,11)

何度も申しておりますように、本願寺派教団の現状は、教団の責任担当者(教学面、行政面)までが信心正因称名報恩の意味も分からない救済体験(獲信体験)のない信心不決定(未決定、未安心)者の集団と成り果て、宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通っている、とても正常とは言えない信心不在,頽廃堕落の、誠に歎かわしい状態であります。「念仏とか念仏者」とかは盛んに言われはするものの、「カラ念仏」、「自力念仏」(真門念仏)、「他力念仏」(弘願念仏<報恩念仏>)の違いが全く分からない惨状であります。従って種々の御意見(私の考えに反対)の方がおられることも、またやむをえないことと思います。
「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm ~⑯を御一見頂ければと思います。 合掌(2020、4,11)。

(続4月11日記)
御賛同有難うございました。人類の危機と言えば少し大袈裟かもしれませんが、この度の新型コロナウイルス問題は、第二次世界大戦以来の大事件であると世界を震撼させています。
しかし私はこの度のコロナウイルス問題を「浄邦縁熟の時」(真実の教えである浄土真宗が世界に広くひろまる時)と考えたく思います。長らく述べて来ましたが、(「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm)等、今や本願寺教団は大変な危機に直面していると思います。国であれば憲法に当たる宗制、法律に当たる宗法、しかも宗教団体の生命である教義・信心についての「信心正因称名報恩」義について遵守義務放棄が公然とまかり通っているのでありますから、最早 生命喪失状態と思われても仕方ないようにさえ思われます。
今回も4月11日の返信の項で述べましたが、教団の責任担当者(教学面、行政面)までが信心・念仏の正しい領解のない人達の集団と成り果てているのであります。この信心不在,頽廃堕落体質の改善がなされない限り教団の前途はありえませんし、「浄邦縁熟の時」もただむなしく過ぎ去るのみとなりましょう。
ついでに申しますが、このF・Bの<2019,2,14>に述べましたように、私は2019,2,13に「安居特別論題事前研修会」に参加しました。論題は「念仏者の社会実践について」であり、講師は内藤知康氏でありました。その時念仏について、自力、他力の話は全くなく、ただ口に南無阿弥陀仏を称えるだけを念仏者とする話でしたので、私はそれでは浄土真宗で言う念仏者の社会実践ということにならない。と意見を出しましたが、全く聞こうとはしませんでした。私は他の部署の研修会ならともかく勧学寮の研修会ならそのこともキチンとすべきだ、と更に述べましたが、事務局の方から安居のための事前研修会ですから、辞めて下さいといわれました。私は安居のための研修会であるからこそ、浄土真宗の社会実践はカラ念仏や自力念仏でなく、他力念仏(報恩念仏)者であるべきことを言おうと思ったのですが、事務局に迷惑をかけてはいけないと思ってその場は打ち切りました。(「続⑪近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku11.html 2019,2,14.以下参照)。 
ところで先日、2019(令和元)年度 『安居講業記』を目にしました。そこに「特別講義概要奉告」とあり、内藤知康氏の「念仏者の社会的実践」が掲載されておりました。(p、56以下。尚同文が『宗法』<2019、11・12、p32以下>にも掲載されている。)
そこに述べられている念仏者は、口に南無阿弥陀仏を称えさえすれば、浄土真宗の念仏者とする扱いであり、念仏についてカラ念仏(僧侶においては営業念仏)、自力念仏(真門念仏)、他力念仏(報恩念仏)の違いがあることについては一切述べられてはおりません。このような念仏の理解では信心正因称名報恩の意味も分からないでありましょうし、宗制宗法遵守義務放棄がどれほどの誤りであるかも分からないことでありましょう。教団の教学担当責任者までが信心不決定者の集団と成り果てた正に悲しき歎かわしき現状であります。 合掌
 (2020,4,13)。

繰り返しますが、今は教団の責任担当者までが称える念仏はすべて他力念仏と思い込む、カラ念仏、自力念仏、他力念仏の違いの分からない信心不決定(未決定、未安心)者の集団となり、「信心正因称名報恩」の意味が分からず、(信心決定者でないので、救済体験、獲信体験がないから分からないのです。) 宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通っているのであります。この現状は到底正常な教団の姿とは言えませんし、発展振興の可能性もありません。何とかしなければなりません。『正像末和讃』に「如来の遺弟悲泣せよ」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,600)とありますが、「親鸞聖人の遺弟悲泣せよ」と声を大にして言いたいと思います。 合掌
 (2020,4,15)。

「親鸞聖人の遺弟悲泣せよ」、これを残る人生のスローガンにしたいと思います。合掌  (2020,4,16)
‘So lament, Shinran Shonin’s disciples of later times’, I want to make this word the slogan of the rest of my life. Gassho (2020,4,16)



『中外日報』(2020,4,17発行)の第3面に、本願寺派総長石上智康総長の「新型コロナウイルス感染症に関する『念仏者』としての声明」(14日付)が掲載されています。(本願寺派のH・Pに全文が掲載されています。http://www.hongwanji.or.jp/project/news/n002981.html )。
石上氏は声明の文中に「『そのまま救いとる』とはたらいてくださるお念仏の心をいよいよいただき」とありますが、大変失礼なことを申し上げて誠に恐縮ですが、私には誠に虚しく感じられます。ここで石上氏のいわれる「お念仏の心」とはどのような意味なのでしょうか。念仏には「カラ念仏(僧侶なら営業念仏と言うべきかもしれません。」、「自力念仏(真門念仏)」、「他力念仏(弘願念仏、報恩念仏)」等があります。石上氏(本願寺派総長)の仰るお念仏はよもや「カラ念仏」や「自力念仏」、ではなく「他力念仏(弘願念仏、報恩念仏)」のことであろうとは思います。
しかしそうであるならば、教団の最高責任の立場にある石上氏(総長)は、なぜ勧学寮の宗門の生命である信心教義についての宗制宗法遵守義務放棄の大過(五逆罪の一、破和合僧)について、何の処置もなさないのでしょうか。宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通る現状は、まさに教団の危機状態であり、まことに歎かわしきことであります。コロナ問題は重要なことではありますが、宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通る現状の方が教団の大問題だと私は思います。石上総長の御英断を懇願する次第です。合掌
「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「続⑪近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku11.html
「続⑯近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku16.html   (2020,4,18)。

浄土真宗本願寺派における正しい念仏の意味(信心正因称名報恩)を定めた宗制(第三章 教義)、宗法(第59条3)の遵守義務放棄が公然とまかり通っている、正常な教団とは言えない異常事態が放置されたままで、「お念仏の心をいよいよいただき」と言われても、何のことやら何をどうする事やら、分からないように思えます。合掌

  (2020,4,19)。


(続4月18日記)
親鸞聖人の説かれた念仏は「カラ念仏」や「自力念仏」(要門念仏、真門念仏)ではなく、「他力念仏」(弘願念仏、報恩念仏)でありました。このことは、『正像末和讃』に「真実信心の称名は弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,607)とありますように、真実信心の称名のみが「弥陀回向の法」なのであり、口から出る念仏のすべてが弥陀回向(他力回向)の念仏ではないのであります。このことは蓮如上人の『御文章』の諸所にも「されば世間に沙汰するところの念仏といふは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、たすかるやうにみな人おもへり。それはおぼつかなきことなり。(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,1137)等とあり、口に称える南無阿弥陀仏がすべて他力の念仏ではないことを述べられています。このことは救済体験(獲信体験)によって知ることであり、それのない信心不決定(未決定、未安心)者には分かることの出来ないことではありますが、大変大事な重要な点であります。このことから同じ『正像末和讃』に「釈迦弥陀の慈悲よりぞ 願作仏心はえしめたる 信心の智慧に入りてこそ 仏恩報ずる身とはなれ」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,606)とあるのです。すなわち信心の智慧(獲信体験)によって仏恩報ずる身(報恩念仏の人)となるのであります。従って獲信体験のない信心不決定(未決定、未安心)の人には他力念仏(報恩念仏)の世界を実感出来ませんので、報恩念仏を否定することにもなるのであります。私が長年、報恩念仏および宗制 教義(信心は正因称名報恩)を間違いとする意見に反対しました理由は、決して伝統に固執するのではなくこのことに他ならないのであります。
2014年(平成26年)4月に新宗法が制定され、「勧学寮は、宗制に定める教義に相異する義を主張した者に対し、教諭する。」と定められました。私はこのことを、信心の不在化現象が進む宗門の、再生のチャンス到来かと期待しました。私は、新宗法の実施を勧学寮、総局、監正局に、再三お願いしたのですが、何もなされることはありませんでした。そして、さらに宗制宗法遵守義務放棄の勧学寮に対しても何もなされることはなかったのであります。その上、現在は宗教教団の生命であるはずの信心教義についての宗制宗法遵守義務の放棄が当然のことのようにまかり通っている有様であります。
この度石上総長から「新型コロナウイルス感染症に関する『念仏者』としての声明」(前記)が出されました。この度の新型コロナウイルス問題は、第二次世界大戦以来の人類の危機であると世界を震撼させています。声明の文中にも「お念仏の心をいよいよいただき」とありますが、
ここで言われている「念仏者」、「念仏」の意味が曖昧で不明瞭に私には思われます。浄土真宗で言う念仏は親鸞聖人のお説き下された念仏でありますから、「カラ念仏」や「自力念仏」ではなく、「他力念仏(報恩念仏)」であります。前に述べましたように「真実信心の称名(念仏)」であります。この「真実信心の称名」(他力念仏、報恩念仏)が浄土真宗の念仏なのであります。口先だけの南無阿弥陀仏が浄土真宗の念仏ではありません。『歎異抄』第七に「念仏者は無碍の一道なり」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,836)とありますが、それに続いて「そのいはれいかんとならば信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。」(同)とありますように、そこの念仏者は信心の行者であり、信心の念仏者のことであります。浄土真宗の念仏を語る場合はこのことが大変重要だと考えます。これが曖昧でありますと折角新宗制、新宗法が定められながら、当初から宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通る誠に悲惨な状況となってしまうのであります。
「新型コロナウイルス問題」は人類の危機ともいわれ大変なことではありますが、これで人類が滅亡することはないでしょうし、ほどなく解決することでありましょう。私はそれよりもこの人類に恐怖を感ぜしめる「新型コロナウイルス問題」を真実の教えをひろめる「浄邦縁熟」の時とすべきだと思います。そのためには先ず教団の責任担当者が信心不決定(未決定、未決定、未安心)の集団と成り果て、折角新しく定めた宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通る教団の信心不在体質の早急の改善が必要だと思います。それなくしては教団の再生はあり得ないことと思います。      合掌      「続・近年の本願寺派教学に想う

 (2020,4,20)。

上の問題に関連して、ある人がご紹介下さった「信は願より生ずれば」https://www.youtube.com/watch?v=KnvLM6xrNT8... を観させて頂いて。

私も寺に生まれて僧侶になりましたので、氏(石田智秀師)のお気持ちがよく分かる所もあります。しかし氏の不幸は、今まで善き師に遇うことが出来なかったことであろうと思います。(信心正因称名報恩義を否定した信楽氏中心の龍大真宗学、また信楽氏に対して異義断定保留として、以後何もしない勧学寮にも、善き師は不在と言えると思います。)

御承知のように『教行信証』「信巻」に「聞といふは、衆生仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし。これを聞といふなり。(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,252)とあります。「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし。これを聞といふなり。」とありますように、「疑心あることなし」とあります。これが大事な所です。また『一念多念文意』には「信心は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,678)とあり、「疑ふこころのなきなり」とあります。「聞即信」とは言いますが、ただ「聞いたままが信心」ではありません。聞いて疑いが晴れたのが信心です。近頃「聞いたままが信心」と言い、それが他力の至極のように言う人が多いようですが、それは十劫の昔から救われていると考える十劫安心(無帰命安心)であります。あるいは無自覚安心と言ってもいいと思いますが、これは間違いであります。これでは親鸞聖人の強調された現生正定聚の実感はないでありましょうし、報恩の念仏も起こらないことでありましょう。合掌
(お断りしておきますが、私は石田氏ご自身を云々するのではありません。前から申しておりますように、教団の責任担当者までが信心不決定<未決定、未安心>者の集団と成り果てた、教団の現状を憂慮しているのであります。) (2020,4,23)。

何度か述べましたが、私はこの度の全人類を不安に陥らせている新型コロナウイルス問題を「浄邦縁熟」の時と受け止めたいと思います。御承知のように親鸞聖人は『教行信証』「総序」に「しかればすなはち浄邦縁熟して、調達(提婆達多)、闍世(阿闍世)をして逆害を興ぜしむ。」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,131)と述べられています。いわゆる「王舎城の悲劇」のことです。悲劇によって韋提希夫人が真実の救いの世界である浄土往生を願うことになったのであります。今こそ真実の教えである浄土真宗を世にひろめる時だと思います。『御和讃』「生死の苦界ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば 弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,579)とあります。今こそ人類が「生死の苦界」(生まれ死ぬ、煩悩の苦悩の世界)から真実の常楽の世界に目覚める時だと思います。「弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける」とありますが、ここの「のせて」が命の終わる時のことではなくこの世における信心決定の時であります。信心決定の人は現世から大きな利益(幸せ)を賜るのです。称名報恩(他力念仏、報恩念仏)を否定する人や宗制宗法遵守義務を放棄する人、またそれを容認する人達は、この現世からの救いを体験してない人だと思います。 合掌 (2020,4,28)。

「続⑰近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku17.html に続きます。