「続⑮近年の本願寺派教学に想う」
これは「続⑭近年の本願寺派教学に想う」 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku141.html に続くものです。
Y → 紅楳 英顕 (FWに入ったもの)
12月1日 9:41 ·
<Y氏>浄土真宗の御僧侶御住職であるあなた様への私からの質問
こんにちは!私は滋賀県で平成19年3月末日まで、浄土真宗本願寺派の住職をしていた Y といいます。
私は寺院の長男として誕生して自ら18歳の時に得度をさせていただき、約30年間、僧侶住職として寺院護持や浄土真宗の僧侶としてその使命を全うしてきましたが、これから申し上げる理由により、この浄土真宗の教えの根本的な信心や信仰がおかしいことを悟らせていただき、住職解任、僧籍返上しました。
現在は日蓮大聖人の大法であり、真実の仏法である日蓮正宗に家族で帰依させていただき本当の信心や幸せの意味や信仰の行動的意味や生き方を命で実践させていただいております。そして生きることは自分との大いなる闘いであることを浄土真宗ではなく、この日蓮正宗で悟らせていただきました。
そこで浄土真宗で今も御僧侶や御住職をされているあなた様に私の赤裸々な思いを聴いていただき、ご意見やご感想をいただきたいと思い投稿させていただきました。
ご返答いただいたことは、自分の今後の生き方のための糧にさせていただきたいと思いますので御忌憚のないご意見やご感想をいただけることを願っています。
順を追って浄土真宗本願寺派での現実の信仰上の矛盾や僧侶、住職としての在り方について述べていきますので、ご返答いただければ幸いです。
また、内容が順不同になることをお許しください。
1、浄土真宗は結局、死後に西方極楽浄土を願う宗教なので現実の今の世界、この世で成仏できないとされていると思います。この世で幸せを望むより死後を夢見る信者様の精神的潜在的な現実逃避志向が生まれ、自殺者が増えている現実をどう思われますか?
僕はそういう信者様をいっぱいみてきてなす術がなかったのです。それはあたかも浄土真宗で生きていることは光明どころか、闇をむやみに彷徨い歩いているようなものでした。
「御信心をいただく」というが、それは頭での夢物語で現実の厳しいこの世の糧にはなりえなかったのです。
あなた様は、浄土真宗の根本的な救いについて本当に具体的に私どもに教えていただけますか?どうかお答えください。
2:仏教では輪廻転生を説き、三世の理法を説く教えであるはずなのに、なぜ阿弥陀の浄土だけに行くことに固執するのでしょうか?諸経の王と言われる法華経では阿弥陀は南無妙方蓮華経によって成仏しています。つまり過去世、今世、来世に生まれ変わってくることについて浄土真宗はそのことを曖昧にして、阿弥陀が迎えにくるというのですが、本当にそうなるのでしょうか?
そして、葬儀の時など絶対に亡くなった人には礼拝せず御名号(南無阿弥陀仏)を拝むという今考えてみれば滑稽なことをわざわざしていたなあって思います。人には仏性が備わると言いながら、人として前向きにシンプルに御本尊様だけをみつめて生き抜ける生命力がみなぎってはこなかったのです。それは全部いただく信心ーとして自分の能動的な行動力の源を削がれていた自分や信者様がいました。人生の荒波は仕方がないという諦めにも似た悲愴感があったのです。今日の命に生き抜く自分の力は本当に阿弥陀はくれるのでしょうか?
いただくまで聞法しろってきいているだけで、人間として行動しなくて本当に幸せがつかめるのでしょうか?
そして浄土真宗でいう慈悲心が生まれるのでしょうか?
3:全ての生き方や信仰について阿弥陀がそのはからいで衆生、つまり娑婆世界の人々を導いていかれるとされ、その信者はこの世界を生き抜いていくための祈りや望み、そして人生をよりよいものに変えていくという行動力が完全否定されていき、自分の主体性を無くし、他に生き方を依存したり、自分に起こったことを他人のせいにしていこうとする生き方が本当に幸せであると言えるのでしょか?
最近、元いた浄土真宗の住職をしていた信者様のお宅を訪問するのですが、ほとんどの方が、この世での真の幸せを求めてもがいておられます。
誰だって悩みがあり、この世の厳しい悲しみや苦しみに直面した時、何かにすがろうとします。それが私がまた通う元信者様のところでは、浄土真宗にその人生の課題解決を求めておられないのです。ほとんどの方が真如苑や真光教、霊波の光等の新興宗教に身を寄せておられます。そしたら浄土真宗は辞めたらいいのに、それはみんなしないのです。その理由は死んだ時は浄土真宗でしないとバチが当たるとか、みんながそうしてるとか、理由は様々ですが、話を戻しますが、この世での幸せについて、浄土真宗の阿弥陀には求めないという非常に変わった光景を垣間見て不思議に感じました。
つまり、ずばり浄土真宗にはこの世での現実の生活についての幸せにつながる利益は望んでおられないというこの悲惨な信仰の現実をあなた様は、浄土真宗の僧侶として、阿弥陀に帰依しておられる方としてどう思われますか?教えてください。
4:真宗の根本信仰姿勢が絶対他力であるため、信仰上の阿弥陀の計らいや阿弥陀自身がするといわれる回向や願いに対して信者様は
阿弥陀への一任をして生きて幸せをいただく喜びのあまり、念仏が自然に生まれると言われるが、本当にそんなことが幸せとして念仏で救われていくのでしょうか?
他力による自分の求道心や求道的な人間の行動そのものを否定しているのに、どうして念仏が行動としておこることが現実にあるのでしょうか?
5:死後、即得往生として成仏するとされる浄土真宗であるのに、人の死後に七日七日の法要を執行したり、一周忌や三回忌等の法要を行うことは矛盾しないのですか?
6:信者様には他力の世界観が捉えにくく、通常は、仏事や法要も僧侶に任せて信者様は何も教義も作法も知らない人が多く、人任せの信仰という姿勢になっている現実をどう思われますか?浄土真宗の信者様の概ねの傾向として念仏の信仰を命を守かけてやっていこうといった能動的な仏教的な信心は生まれない現実をどう思われますか?
7:非僧非俗って一体何なのでしょうか?
私は寺院の経営を、僧侶をしながら、中学校の教師をしていました。学校が忙しい時は俗で、誰かが亡くなられたら、有無を言わされることなく黒衣を着て僧侶の格好をして、亡くなった方の枕経(亡くなられた方に最初にあげるお経)をあげに行くんです。その使い分けはできませんでした。僧侶でいる時は、死者を浄土に送る執行人のようには振る舞えなかったのです。そして教師でいる時も僧のような心の広い人にはなれませんでした。
やっぱり僧は僧で俗は俗ではないのでしょうか?
あなた様は髪の毛を伸ばして僧侶と俗をどう生き抜いておられますか?
私にはできませんでした。僧侶と俗は違うと命で知りました。結局その場その場の局面で僧と俗をうまく使い人生に逃げていたのが僕です。
僧侶ほど偉い存在でもないし、かといって俗でいることも楽でいいなんて本音で言うとそういう悪い意味での臨機応変に自分をうそぶいて生きていたと言えるでしょう。
あなた様の非僧非俗を教えてください!
8:なぜ浄土真宗では自分で追善供養ができないのですか?ーーうちの前の門徒様は誰かが亡くなられたら必ずお墓にいっていつも手を合わせおられました。その姿は追善供養がしたいという願いに他ならないのです。亡くなられた人のためにお墓に通い、仏壇に手を合わせておられたと思います。私が住職として「浄土真宗では、なくなった人の追善供養はしません。そんなことができる資格が自分にないってことを悟ってください!」そういっていましたが、そんなことは檀家様は無視して、いつもいつもお寺ではなくお墓に手を合わせにいっておられたのです。特に不意の事故や急病で亡くなられた方のご遺族はそうでした。
私も浄土真宗の僧侶でしたので、追善供養は自分がさせていただくほどの存在でないという否定的な信心ー絶対他力に生きていましたから、追善供養の意味がー命から亡くなられた人への人としての能動的な行動を禁じてしまう浄土真宗の教えは、今、日蓮正宗に帰依してみて、人間の根源としての慈悲心を削ぐものだと悟らせていただきましたが、あなた様は追善供養は本当に衆生にできないと思っておられるのでしょうか?追善供養のできない仏教である浄土真宗では人の命についてその死後の幸せを曖昧にせず、具体的に人として納得のいく実践を無理なくしていければいいのか、あるものなら教えてください。
9:浄土真宗で「信心をいただく」とよく言いますし、お説教の中でもそう自分も言ってきましたが、わかりません。
信心を阿弥陀からいただくとは具体的にどうなった時なのですか?微に細に具体的にこう人がなった時を言うのだという確信をお聞かせください。
10:私は今、信心即この世の生活というように毎日の信仰姿勢が変わりました。それは信心を自分がしていくことによって自分も人も幸せになれる、させていただける確信が日蓮大聖人の教えにはあるからです。つまり、自分の実生活の中に信心ーー朝夕の勤行、唱題、折伏、寺院参詣、大石寺の本門戒壇の御本尊へのお目通り等の日々の信仰的生活を通して、今を生きることは感謝であり歓喜、感激であり、この今でしか、この世で確かに自分が実践している信心である菩薩行を自信を持って「仏様と生きているのだ!」と確信しているのですが、あなた様の信仰的生活の確信を教えてください。毎日の信仰的生活をどのように門徒様信者様にわかっていただきお寺は笑顔に包まれていますか?
11:浄土真宗にいた頃は世俗の慣習にも無頓着にまみれていました。他の寺院も参詣しましたし、神社も参拝していました。またキリスト教でもないのにお寺でクリスマス会までやっていました。結局なんでもありだったのです。親鸞は自然法爾という思想を晩年に生み出していますが、阿弥陀一仏を信じきるべき浄土真宗の現在のなんでもありの現状を僧侶としてどうみつめておられましか?教えてください。
12:私は浄土真宗の僧侶住職の頃、いつも有頂天になっていたことを思い出します。それはお寺が繁盛することはお寺に人が集まることだという大いなる勘違いをしていたことに他なりません。
黒衣やふほうを着て、ギターを持って歌を歌ってイベントをしたり、漫才のようなイベントを企画したり、お寺でやる座布団エアロビクス等々、あらゆる工夫を凝らして人集めに奔走していました。
それをご縁に阿弥陀の教えを伝えていければという願いがあったからだと思います。
でもそれは信仰における本末転倒でした。
今、世間では、浄土真宗の僧侶が坊主バーを経営して人集めをしたり、坊主バンドを組んで仏様を茶化す歌を歌って話題を集めたり、最近では「えしんりょう」と言って衣を着て漫才をし、テレビのM1にも登場するというような話題性のみが先行した僧侶がでてきています。
そのほとんどがお寺に生まれた私のような寺族の青年子女がその担い手になっていたりします。
さて、本当の意味で人集めをするだけが浄土真宗の信心にご縁をいただけることになるのでしょうか?
私は浄土真宗の目的はご本尊様の教え、つまり阿弥陀の教えに人々が集まらないとだめではないのか、もっともっと削ぎ落として申しあげますと、阿弥陀への信仰にもう魅力や効力がないのだということを寺院にいるものが悟らなけらばならない時代に来たのではないかと思うのですが、どうでしょうか?
若いこれからの人生を逞しく生き抜くために浄土真宗のお寺に参詣する人々が本当に存在するのでしょうか?どうかお答えください。
今日はこの12の質問に一つでもお答え下されば嬉しいです。よろしくお願いします!
<紅楳 > 私も大分県の浄土真宗本願寺派の寺院の長男に生まれ僧侶となり、今は高槻市
に住んでいますが、お参りもし、短い間ではありましたが、住職もしましたので貴方の
お気持ちはよく分かるつもりです。折角の御質問でありますので、私の感想を率直に述べさせて頂きます。
教団の現状は御指摘の通り諸問題山積であります。御尤もであります。しかしお考え頂きたいことは貴方御自身が未だ、浄土真宗の信心決定の人でないことであります。そうである故に浄土真宗は死後の救いばかりを説く教えのようにお考えになるのです。浄土真宗の教えは、成仏は死後の事になりますが、現世において正定聚の位に住する事を説く、現世からの救いを強調した教えであります。この事をよくご承知願いたく思います。
この点については、私のホームページ http://e-kobai424.sakura.ne.jp/の中の論文等 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/gyohyo.html や「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm を御一見頂ければと思います。取りあえず、御返信まで。合掌
<Y氏> 紅楳 英顕 様お返事ありがとうございます!現世のその位は具体的にどうなるのですか?私も教学では習い住職をしながら考えてきました。しかし、親鸞教学は机上の学問でしかなく、一般の信徒様門徒様に優しく現世で具体的にどうなるのか言えませんでした。現世の救いを具体的な日常の生活の言葉で教えてください。僕はわからなかったのです。具体的に人がどんな状況に変化することができるのか?そしてその位に住するために自分は何をすればいいのか?
絶対他力は阿弥陀佛の本願力で、おはからいにお任せするのだと学んできました。
でも阿弥陀に任せるとはなんですか?自分の自己肯定感やポジティブな行動力無くして人は前に歩めないのではないでしょうか?
理論や教えだけでなく仏教は仏になる教えと命より信じます。文証、理証、現証が揃ってこそ仏教ではないでしょうか?
今の浄土真宗の信仰に具体的な現証は命にどう起きるのですか?観念論や哲学的見地で信仰は人々に弘まってはいないはずです。
浄土真宗を信仰するということも自分の意思でありはからいではない!
そのことが解決しないかぎり、浄土真宗で人が本当にこの世で幸せになれることはないのではないですか?
この世でこそ成仏するという人の意思と本物の仏の力が結ばれて救いが成就すると思うのですが、違うでしょうか?
なぜ死なないと成仏しないのでしょうか?釈迦はこの世に出てこの世で成仏しています!
<Y氏> 信心決定の人とはーどうすれんばー具体的に何をすればなれますか?
<紅楳 >ご承知のように親鸞聖人は29才の時、自力の道を捨てて他力の道に入られたのであります。全て他力によるものであり、自分の力によるものではありません。しかし何もしないでよいと言うものではありません。親鸞聖人も蓮如上人も聴聞が大事であることを言われています(現代では学習することも含まれると思います)。率直に言いまして、全て他力だから何もする必要はないと言っている人は、恐らく信体験のない人だと思います。因幡の源左(1842-1930)は「ただのただでも ただならず。ただは きかねばもらわれぬ。きけばきくほど、ただのただ。はいのへんじも あなたから。」と言っています。
私の論文「信心をえるということ」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/shinjino.htm
「現世からの大きな救い」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/higasi.htm をお読み願います。それから私の入信体験については拙著『親鸞聖人の念仏論』(永田文昌堂、2018、6.p、3以下。)私の入信、を御一読頂ければと思います。合掌
<Y氏> 紅楳 英顕 さんーゆっくり拝読させていただきまた、コメントさせてください。
仏道を歩む者として真実を生き抜きたいと思います。よろしくお願いします。
<紅楳 >そのお気持ちは大変結構と思います。合掌 (2019,12,2)。
<紅楳 > この件は諸問題山積の現教団において憂慮すべき極めて大きな問題であります。色々考えねばならない事があるとは思いますが、根本的な問題は何度も申しますように、近年教団の教学担当責任者までが信心不決定(未決定、未安心)者の集団と成り果て、宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通る教団の信心不在体質、無秩序堕落体質にあると思います。
この度の件についても、他の事ではなく、信心不在体質の早急改善が第一と考えます。合掌 「続⑪近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku11.html
( 2019,12,3)。
<紅楳> 平成19(2007)年3月まで30年間住職をされたのであれば、その期間は1977年~2007年と言う事になる。ちょうど教団の信心不在現象が急激に進行した時期である。
当時龍谷大学真宗学の教員であった信楽氏と岡氏が中心となって教団改革運動を始めたのが昭和46(1971)年8月の事であった。その時に既に宗制に定められていた信心正因称名報恩義に反対したのであった。当然その事が問題となり、宗会でもこれが取り上げられ、勧学寮に説明が求められたのである。これについて当時の勧学寮頭は信楽氏については「異義断定保留」、岡氏については「疑義断定保留」(昭和56<1981>年)と、裁断しただけで具体的には何もなされなかったのである。事実上宗制(国で言えば憲法)無視である。この事が教団の信心不在化現象の大きな弾みになったと思う。しかも、その後間もなく両氏ともに何の咎めもなく基幹運動の委員と成り、信楽氏に至っては教団の諸問題(教義安心問題を含む)について監督責任者である監正局長に就任したのである。(平成7<1995>年4月)。極めて理解に苦しむ現象であった。
そして平成24(2012)年4月には、宗制に反する義(信心正因称名報恩義に反する義)を称える者には勧学寮の教諭義務が定められたのである(信楽氏は存命中)が、勧学寮は何もしなかったのである。
このような信心不在現象のままでは教団の発展振興はあり得ないと思う。合掌
「続近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zokukinnen.htm
「続②近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku2.html
「続⑤近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html (2019、12、4)。
<Y氏〉こんばんは!あなたの論文を読ませていただきました。
『信心をうること』ですが、「信心とは如来より頂くものではあるが、衆生の心の上にも現れるものである」
「この心が往生の正因であり、涅槃の真因なのである。大事なことはこの心は「如来よりたまはりたる信心」であり、そして衆生の心の上にも現れる心なのである。この心が生ずることを信心をえる(御信心を頂く)というのである。」
「それに信心が具足していてこそ、真実信心の称名であり、彌陀回向の法なのであり、親鸞聖人の説かれた念仏なのである。」
あなたの文章で私がわからないと言っているのは、この具体的に信心を得るということが
事実として人間にどう作用したり現象として現れてくるというのですか?
そしてその信心を得る方法は聴聞でしかないと言われるのですが、何をどう聞けばいいのですか?私の意思で聞こうとしていいのでしょうか?それともどういう具体的な方法で
聴聞をしてー信心を得たと言えるのはどういった自分(私)の中に何が起こるのか具体的に教えてください。
よろしくお願いします!
蓮如上人は『御一代記聞書』に「いかに不信なりとも聴聞を心にいれまうさば、御慈悲にて候ふあひだに、信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきはまることなりと云々」とあるように、聴聞が信心への道と述べられている。
このように浄土真宗における信心への道は聴聞にはげむ(現代では仏法を学ぶことも含まれる)ということであろう。ーーーとありますが
聴聞に励む自分は自力ではないのですか?
学ぶということも自分の力ではないのですか?
教えてください!
またこの世で現生正定聚不退の位につくにはどういう実践を自分がすればいいのですか?具体的に教えてください。
よろしくお願いします! (2019,12,7)。
<紅楳> 聴聞するということは、言うまでもありませんが、世間話や落語や漫才を聞くことではありません。親鸞聖人は『『教行証文類』「信巻」に「聞といふは衆生仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,251)と言われています。ここに聞とは仏願の生起本末を聞くとあります。仏願とは阿弥陀仏の本願のことであり、生起とは起されたわけ、すなわち本願がなぜ起されたのかと言う事でありますが、それは罪悪深重、地獄一定の私がここにいるからであります。本末の本は弥陀の5劫思惟と兆載永劫の修行の事であり、末は本願成就(名号成就)の事であります。衆生がこの事を聞いて疑心がなくなったことを聞と言うのであります。聞いているだけでは、本当の聞ではありません。疑いがなくなったのが聞なのであり、聞即信といわれるのはこの意味です。ここが体験として分かれば、すべてが解決するのです。取り敢えず、御返信まで。合掌 (2019,12,7)。
<Y氏> こんばんは!友達になっていただきありがとうございます。今日は私の体験記をお送りします。デジタル書籍ですが、自分の命をかけた体験記録です。どうかご拝読いただき、ご感想などお寄せいただければ幸いです。
よろしくお願いします。『体験記録https://drive.google.com/file/d/1HNWgxkl9LBWkUGDtXiDjSX_wIxWljS3X/view?fbclid=IwAR2dc0WIM4uivZWbVsrruRx2lI-PNzvyRlZMRVXSugT00XboFylqDOxtrPg へのリンク
(2019,12,8)。
<Y氏> 紅楳 英顕 様のまず仏教者に対するというのか、仏法に対する疑念や疑問についてお答えくださるお振る舞いは尊敬に値する素晴らしいものだと拝します。
浄土真宗は信中心の教えとして学んできましたし、他力も阿弥陀佛の本願力であることは知っています。また、質問を改めてさせてください。よろしくお願いします!
<Y氏> 今日はもう廃刊になった私の書籍なのですが、読みたいと言ってくださる方から多くのお電話やメール等をいただきました。
今回はデジタル書籍ですが、自分の命をかけた体験記を公開したいと思います。二、冊あります。お時間のおありの時にどうかご拝読いただき、ご感想などお寄せいただければ幸いです。
よろしくお願いします。
https://drive.google.com/.../1HNWgxkl9LBWkUGDtXiD.../view...
https://drive.google.com/.../19zdwnXr5fx74jgGrMbf.../view...
<紅楳>
有難うございます。ゆっくり読ませていただきます。もう少し前にお知り合いに成れていたらと、残念に思います。 合掌 (2019,12,9)。
4年前(2015、12,21))、ある本願寺の御門徒の方から、
次のメッセージを頂きました
<新報、12月20日号、示談「蓮如上人の教えは違う?」を読んで感じたこと、
この質問をされた方は、(信楽氏の著書を読んだのでは?)と、推察します。
回答に、「親鸞聖人と蓮如上人の違いを明らかにすることに精力を注いでいるように思えるのですが、そのような姿勢でいいのだろうかと思います。」とありますが、相変わらず、「他力本願回向」の『信心』がわからない人の、コメント と、感じました。
蓮如上人は、宗祖の『他力信心』を、漢文(教行信証)を理解できない大衆に、理解できるようにと伝道されたと、何故、ハッキリと説明できないのか?
「信心未決定者」が、衆生(門徒)を迷わすコメントに、唯々号泣します。
南无阿彌陀佛>
以上が頂いたメッセージですが、私も同感です。とくに最後の <「信心未決定者」が、衆生(門徒)を迷わすコメントに、唯々号泣します。> とありますように、御門徒の方から悲歎の声が生ずることが、現教団の極めて大きな問題点であり、猛省すべきことだと思います。
本願寺新報の示談担当者については前に述べましたが(10月5日記等)、氏は親鸞聖人の無明に痴無明(総無明、煩悩妄念の心)と疑無明(別無明、本願疑惑心)の二義があることを否定します。即ち信心決定によって消滅する疑無明と生涯続く痴無明との違いの分からない人、つまり救済体験のない、門徒の方の歎かれる信心不決定(未決定)者なのであります。念仏について言えば信前の念仏(自力念仏、カラ念仏)と信後の念仏(他力念仏、報恩念仏)との違いが分かってない人なのであります。(これは氏に限ったことではありませんが。)こんなことで正しい御示談ができるはずはありません。
.
本願寺新報 12月20日号、示談「蓮如上人の教えは違う?」における質問は
<最近読んだ本に、蓮如上人は親鸞聖人の教えをねじ曲げたと書いてありました。>
と、ありますから、この本は信楽氏の著書であり、蓮如上人の言われる称名報恩等が親鸞聖人の教えをねじ曲げたと述べていたのでありましょう。御示談に称名報恩批判の件は全く出されず、称名報恩批判が間違いであるということが少しも述べられていないのは極めて遺憾に思います。
ついでに申しておきますが、10月20日の御示談には
<まさに親鸞聖人のお念仏は「・・・のための念仏」ではないということです。>
と述べていますが、親鸞聖人は『親鸞聖人御消息』(浄土真宗聖典p、784)に
<わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、御報恩のために御念仏こころにいれて申して >
...
と述べられているのであり、「御報恩のための念仏」を述られています。
また12月1日の御示談には
<意識して念仏するのも阿弥陀さまのはたらき>
と述べていますが、意識して称える念仏がすべて阿弥陀さまのはたらきではありません。
親鸞聖人の『正像末和讃』に
<真実信心の称名は 彌陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる(浄土真宗聖典P、607)>
とありますように、信後(信のうえ)の念仏は阿弥陀さまのはたらきによる他力回向の念仏ですが、自力念仏やカラ念仏はそうとは言えません。他から言われて念仏することが悪いこととは思いませんが、それが全て他力念仏とは言えません。
、
要するに信心不決定(未決定)者には信前、信後の念仏の違いが分からないでありましょうし、称名報恩批判がなぜ悪いかも分からないことでありましょう。
正しい御示談もできないことだと思います。合掌
(紅楳)
全く今も同じ想いであります。教学責任担当者までが、信心正因称名報恩義の意味も分からない信心不決定(未決定、未安心)者の集団と成り果て、宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通る教団の信心不在、無秩序堕落体質は何を差し置いても、早急に改善しなければなりません。ここにもありましたが、教学責任担当者の中には親鸞聖人の無明に痴無明(総無明、煩悩妄念の心)と疑無明(別無明、本願疑惑心)の二義があることを否定する人がいます。これも大変な間違いであります。もしこれが間違いではなく正しいと、本願寺派教団が考えるならば、十派連合の意訳正信偈を直ちに修正すべきであります。こんな信心不在、無秩序堕落体質のままでは教団の発展振興はあり得ないと思います。どうかこのような情けない現状は今年一杯で終わりにして頂きたいと思います。合掌
「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「続⑧近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku81.html (2019,12,22)。
年末になりましが一句浮かびましたので下記します。
現生往生論考(2)
宗祖我身内省深 宗祖(しゅうそ)、我身(がしん)の内省(ないせい)深(ふか)し。
偏貶自性唯心倫 偏(ひとえ)に自性唯心(じしょうゆいしん)の倫(ともがら)を貶(へん)す。
大経往生難思議 大経往生(だいきょうおうじょう)は難思議(なんじぎ)<註>なり。
是含現世不退人 是(これ)現世(げんせ)の不退人(ふたいにん)を含(ふく)む。
註、親鸞聖人は大経往生を難思議往生、観経往生を双樹林下往生、阿弥陀経往生を難思往生と言う。
<意訳>
親鸞聖人は自己内省の心の大変深い人でありました。当時の自力聖道門の人達の自性唯心(自己の心に内在する清浄な本性の外に仏や浄土は存在しないとする立場)に反対でありました。親鸞聖人がご己証により、真実の往生と示される難思議往生は現世からの救いを強調するものであり、現生正定聚もそれに含まれるものでありました。
先日(12,16.現生往生論考)申しました是に関する論文が一往完成しました。私が現在奉職しております大阪教育福祉専門学校の『大阪聖徳保育・福祉論叢』(2020年3月発刊予定)に掲載の予定です。序文を記しておきます。 合掌
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親鸞における往生の問題
紅楳英顕
The problem of Ojo in Shinran
Eiken KOBAI
はじめに
親鸞の言う往生は現世か来世かについては、過去屡々論じられたものである(『岩波仏教辞典』追記<1989年>等)①。所が最近再びこの問題が論じられるようになった②。これは真宗教義の上で大変重要な事であるので、私見を述べる事にする。
大体において、真宗大谷派には現世往生派が多く浄土真宗本願寺派には来世往生派が多いのである。実は私は以前「親鸞における往生の問題についての私見」③に考えを述べた事がある。この時は、現世往生否定の来世往生派の立場で論じた。それから25年を経た今は少し考えに変化が生じている。尤も現世で、正定聚不退の位を得ることが煩悩の消滅した悟りの境地(涅槃)を得るように考える事には賛成しかねるが、経典の当面や先人の釈を読み替えて、現世の不退(正定聚)を主張し、現世からの救いや利益を強調したのが親鸞であったのである。これは親鸞の深い宗教体験より生じたものなのである。
私は本願寺派における信心正因称名報恩義に反対する意見に批判を続けてきた。そしてその反対の原因は反対論者の宗教体験(救済体験、獲信体験)の欠落によるものと考えている④。真宗学においてはただ文献を表面的に学習するのみでは不十分であり、そこに体験と言うものが必要であると思うのである⑤。往生の問題についても当然その事が言えるのであり、今回は特にその点を考慮に入れながら、考察をしたいと思う。
註①大谷派には現世往生の意見が多く、本願寺派には来世往生の意見が多い。1989年10月発行の『岩波仏教辞典』の親鸞の項に「他力信心による現世での往生を説き」とあったことに本願寺派から訂正の要請があり、追加説明がなされた。
②「親鸞における往生の理解―即得往生を中心にー」<第67回学術大会パネル発表報告>(印度学仏教学会研究65の2、
平成29<2017>年3月等。
③中西智海先生還暦記念論文集『親鸞の仏教』所収、(永田文昌堂、1994,12)
④拙著『親鸞聖人の念仏論』(永田文昌堂、平成30<2018>年、6月)。P.234以下。拙論「仏教をいかに学ぶかー真宗学の場合ー」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/Bukkyooikani.html (日本仏教学会年報66、平成13<2001>年8月)。
⑤拙著同上。P.274。拙論「真宗無明論」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/shinmumyou.html (印度学仏教学研究66の2、(平成30<2018>年3月)
(2019,12、28)。
新年を迎えて早半月が過ぎました。昨日は長年奉職致しました相愛学園の御正忌報恩講に参拝させて頂きました。一句浮かびましたので下記します。
現生救済 (現生の救済) 紅楳英顕
聖人強調現生拯 聖人(しょうにん)、現生(げんしょう)の拯(しょう)を強調す。
即入定聚獲信秋 即入定聚(そくにゅうじょうじゅ)は獲信(ぎゃくしん)の秋(とき)。
有漏穢身雖不変 有漏(うろ)の穢身(えしん)は変わらずと雖(いえど)も、
心遊弥陀清浄州 心(こころ)は弥陀(みだ)の清浄(しょうじょう)の州(しゅう)に遊(あそ)ぶ。
<意訳>
親鸞聖人は現生の救い(拯)を強調されました。正定聚の位に入るのは信心を獲得したときであります。煩悩具足の身であることには変わりはありませんが、心は弥陀如来の清浄の国(浄土)に遊ぶのであります。
後半の二行は『帖外和讃』の「超世の悲願ききしより われらは生死の凡夫かは 有漏の穢身はかはらねど こころは浄土にあそぶなり」の後半の句の意より採ったものであります。帖外和讃は九首の和讃からなり、京都常楽台の宝庫より出でたるものと伝えられ、親鸞聖人の真作であることを疑う説もありますが、私は少なくともこの和讃は親鸞聖人の意にまさしく適っていると考えます。 合掌 ( 2020、1、17).。
浄土真宗から他宗に転宗した人が浄土真宗には現証がないと言いますが、これは間違いです、現世における入正定聚が立派な現証です。また阿弥陀様の救いは十劫の昔から決まっているとして、機辺の決定心を否定する十劫安心、無帰命安心、無自覚安心も間違いであります。合掌。
「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「続⑤近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html 参照。 (2020、1、19)。
『教行証文類』「信巻」にある他力信心の相である「疑蓋无雑」、「疑蓋无有間雑」と言う事は、「無念無想」、「無帰命」、「無覚決定」の心ではありません。残念なことに教団の教学責任担当者までが、信心不決定(未決定者)の集団と成り果てて、この事が分からず、信前信後の念仏違いも分からないために、称名報恩義も分からず、宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通り、教団の住職であった人が浄土真宗には現証(現世の救い)がないと歎いて、他宗に走ると言う惨状が生じているのであります。何度も申しますが、現教団の一番大切な急務は信心不在体質(教学責任担当者までが救済体験<獲信体験>のない、信心不決定者であるため現生正定聚の世界が分からない現状。この事がまた報恩念仏が分からない現状にもなっているのであります。)の早急の改善であると思います。合掌
「続⑪近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku11.html
「続⑮近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku15.html
上記の浄土真宗から他宗に転宗した経緯については、上記「続⑮近年の本願寺派教学に想う」の(2019,12,8)記中の、当人の『体験記録』等に述べられています。 合掌 (2020,2,2)。
浄土真宗の教えの中で親鸞聖人が一番強調したいと思われていた事はこの事であったであろうと私は思います。
『浄土和讃』には「真実信心うるひとは すなはち定聚のかずに入る 不退のくらいに入りぬれば かならず滅度に いたらしむ(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,567)とあり、『正像末和讃』には「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」(同p、607)、とあります。信心獲得すれば現生で正定聚の位に入るのであり、真実信心のひと(正定聚のひと)の念仏は他力回向の念仏(他力念仏)であり、自力の称念(自力念仏)とは全く異なるものであり、この真実信心のひと(正定聚のひと)の念仏(他力回向の念仏)が報恩の念仏なのであります。
情けないことに、昨今の現状は教団の教学責任担当者までが信前(自力)信後(他力)の念仏の違いの分からない、信心正因称名報恩の意味も分からない人達の集団と成り果て、宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通っている惨状であります。こんなことでは教団の発展振興はなかろうと憂う次第であります。昨日(1月17日)の『読売新聞』の第6面に「止まらぬ檀家離れ」と大きく見出しが出ておりました。世間の評も厳しいものであります。
昨年末(FB,2019,12,28)に記しました拙論「親鸞における往生の問題」掲載の研究誌が近く発刊される事と思います、onlineにも載せますので御一見頂ければと思います。合掌 (2020,2,18)。
上に引用しました『正像末和讃』の「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P, 607)は親鸞聖人の念仏を頂く上で極めて大事な御和讃であります。ここの「真実信心の称名」が信後(信心具足)の他力念仏(弘願念仏、報恩念仏)であり、「自力の称念」が信前(信心不具足)の自力念仏(真門念仏、策励念仏)であります。この二つをはっきり峻別されたのが親鸞聖人であり、これが親鸞聖人の念仏論の大きな特徴であります。
称名報恩を否定する人達はこの事が分からない信心不決定(未決定)の人であり、正定聚の機(ひと)ではない邪定聚・不定聚の機(ひと)である事は言うまでもありませんが、この事が分からず、宗制宗法遵守義務放棄を公然と行う教学責任担当者も、またそれを認める行政責任担当者も、全く同類の信心不決定(未決定)の邪定聚・不定聚の機(ひと)の人達の集団に他ならないのであります。こんな現状で教団の発展振興は到底望めない事と思います。
合掌
「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「続⑪近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku11.html
「続⑮近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku15.html (2020,2,19)。
『宗報2月号』(2020,2)の(録事)5に、法規違反者に対する僧籍剥奪処置の記事が出ておりました。法規違反者に対しての処置は当然の事と思います。
しかし、宗教教団にとって一番大事な事、生命は教義信心であります。これについての宗制(憲法)、宗法(法律)遵守義務放棄が公然とまかり通る現状は全く異常と言う他はありません。教団の存続を願う気持ちがあるのなら早急の大改善が必要と思います。 合掌
「近年の本願寺派教学に想う」
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「続⑪近年の本願寺派教学に想う」
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku11.html (2020,2,25)。
新型コロナウイルスの影響で全国的にお彼岸の御法座の中止が相次いだと報じられている。公の行政からも「不要不急の外出は自粛せよ」との指示もあった。しかしながら「散る桜残る桜も散る桜」とは仏教の教えの理であります。「生きてよし、死してよし」に恵まれるのが浄土真宗の御信心の慶びであります。「火の中を 分けても法を聞くべきに 雨風雪は もののかずかは」と言う言葉があります。私はこの度の彼岸会の御法座に、この言葉をよく使わさせていただきました。 合掌 (2020,3,30).
江戸時代の三業惑乱のためか自力と非難されることを恐れ、教学の責任担当者までが、十劫安心(無帰命安心、無自覚安心)に陥り、聴聞は「寝て聞けばよい」とか「テレーと聞けばよい」とか言ったり、宗教体験(獲信体験)を語ることが一念覚知の異義であるという傾向が現在もあります。これは大いに考え直す必要があると想います。合掌
「近年の本願寺派教学に想う」e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「続⑤近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html (2020,3,31)。
新元号が発表されました。一句浮かびましたので記します。
近今学生法義昏 近今(きんこん)の学生(がくしょう)法義(ほうぎ)に昏(くら)く、
信因称報不能知 信因称報(しんいんしょうほう)をよく知(し)ること能(あたわ)ず。
宗門唯辿衰微路 宗門は唯(ただ)辿(たど)る衰微(すいび)の路(みち)、
期待改元新年時 改元新年(かいげんしんねん)の時に期待(きたい)する。
(意訳)
近年の学者の方々は救済体験(獲信体験)がない故に浄土真宗の法義を正しく理解することができず、宗制教義に定められている信心正因称名報恩の意味さえお分かりでない有様であります。
このような事では、宗門は唯衰微の一途を辿るのみであろうと懸念する次第であります。
改元号の年にあたり、これを機縁として、宗門が長らく続いた信心不在の体質を脱皮して、復興発展振興の真のスタートの年となることを念願する次第であります。
合掌
一年前と全く同じ想いであります。新型コロナウイルスの感染拡大の今こそ、真の宗教の役割を世間に知らしめる時であり、自信教人信に基づいた伝道活動に邁進すべき時であると思います。そのためには教学の責任担当者までが信心不決定(未決定、未安心)者の集団と成り果て、宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通ったり、十劫安心(無帰命安心、無自覚安心)が正義とされるような体質の儘では到底不可能な事であります。今年度こそ永らく続きました教団の信心不在、頽廃堕落体質の早急の抜本的改善を念願致します。
<私の感じる所では、1981年に当時の勧学寮頭が信楽氏、岡氏の「信心正因称名報恩批判問題」について「異義断定保留、疑義断定保留として何もしなかった」時から、教団の信心不在体質が急速に進んだと思う。>
そうでなければ宗門は何を試みた所で、唯衰微の一途を辿るのみであろうと慨歎いたします。 合掌
「続②近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku2.html
「続⑯「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku16.htmlに続く。