「続⑨近年の本願寺派教学に想う」

これは「続⑧近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku81.html  に続くものです。

今朝、奈良のある有名寺院(自力聖道門)の管主が“不適切な女性問題で辞任”ということが、報じられました。奥さんが居ながら女性問題をおこしたということらしいです。
日本の仏教において浄土真宗は宗祖である親鸞聖人が肉食妻帯をされてましたので、僧侶の肉食妻帯は許されるのですが、他宗の事を云々するつもりは毛頭ありませんが事情は異なると思います。
浄土真宗以外でも僧侶の肉食妻帯が法律の上で許されたのは、明治5年(1872)4月の、明治政府による「僧侶の肉食妻帯蓄髪の許可(浄土真宗以外も)」からであります。
親鸞聖人も蓮如上人も肉食妻帯をされ、門弟信者を「御同行、御同朋」と言われましたが、「非僧非俗」とも、「自信教人信」とも言われています。御自分が他者に法を伝える立場であり、「生死いづべき道」の解決である「信心決定」が一番大事なことであるという思いは強く持たれていたことと思います。
浄土真宗は僧俗共に他力の御救いによる同朋教団ではありますが、僧侶は御布施を頂く立場であります。信心決定の人でなければならないのです。...
何度も申しましたが我が教団の現状は教学担当責任者までが、信前信後の違いが分からない救済体験(獲信体験)のない人たちの集団と成り果て、信心正因称名報恩の意味も分からず、営業念仏・カラ念仏と他力念仏・報恩念仏の違いも分からない、宗制宗法遵守義務放棄者の集団であります。この儘では、教団の振興発展は望むべくもなかろうと思います。こんな信心不在状態では、得度式の御領解出言も殿試の安心論題もまた改悔批判も単なる形骸に過ぎないと言うことになりましょう。誠に歎かわしきことであります。  合掌
  (2018,5,17)。

   FBの反応

(M氏) 私たち真宗僧侶への厳しい提言、ありがとうございます。恥ずかしい限りです。

(Y氏) 
南無阿弥陀佛
南無阿弥陀佛
南無阿弥陀佛
..

(Y氏) 浄土真宗においては要獲信の教えである。
..
不要獲信の異安心は真宗を滅ぼすものである。
蓮如上人御一代記聞書を読むべきである。 南無阿弥陀佛

(紅楳) 何度も申すことでありますが、教団の教学担当の責任者までが、獲信体験がないために、救済の実感がないので称名報恩の意味も分からず、信心に関係なく十劫の昔から助かっていると考える人が多いことは極めて情けないことであります。 合掌

(Y氏) 他宗教、聖道門、浄土異流が何を言ったところで、論争には必ず勝てる
浄土真宗であるが、
..
浄土真宗内部の
異安心特に不要獲信の異安心無自覚獲信の異安心が問題である。

     (紅楳)
  同感です。 合掌

(M氏) 南无阿弥陀佛

(紅楳) 
2008(平成20)年9月10日発行の浄土真宗本願寺派「宗制」解説に、「本宗門は、その教えによって、本願名号を聞信し念仏する人々の同朋教団ではあり、…」(12頁)とあります。我が教団は僧俗共に他力の御救いによる同朋教団ではありますが、教学担当責任者までが「本願名号を聞信し念仏する人々」に非ざる信前信後の念仏の違いも分からない、信心不決定(未決定)者の集団と成り果てている現状を、同朋教団と言えるのであろうかと疑問を感じます。いずれにしろ、信心不在体質の抜本的な改善がなされない限り、教団の発展振興はなかろうと思います。 合掌


(F氏) 
お念仏を頂いて暮らしている浄土真宗の僧侶の社会的倫理観が問われていると思います。或いは社会性の問題でしょうか。無自覚な僧侶が結構おられますから

     (M氏) 仏教は道徳や倫理に非ず、だから世俗の価値観など一切関係ない。それを守らなくてはならないという考え方は自力だ」として、何をやっても許されるかのように思ってある方々がおられるのは残念です。

     (F氏)  ご賛同いただき有難うございます。南無阿弥陀   (2018,5,19)


御承知頂いているかと思いますが、40年程前に発表しました信楽氏、岡氏の信心・念仏についての反対論文をネットに出しました。誤解されている所もあるようでしたので事実を御承知頂くためであります。

親鸞における疑蓋无雑について (昭和52<1977>、12)。
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/gigaimuzou.html

.宗祖における信心と念仏 (昭和53<1978>,6)。
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/syusoniokeru.html

親鸞における疑蓋无雑について(二) (昭和54<1979>、12)。
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/gigaimuzou2.html

宗祖における信心と念仏(二) (昭和和55<1980>,6)。
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/syuuso2.html

これは当時龍谷大学の真宗学の教授でありました信楽氏、岡氏が宗制教義に定められていました「信心正因称名報恩」義に反対するものでありましたので、当然大きな問題と成り宗会でも取り上げられ(昭和55<1980>年1月)、当時の勧学寮頭(桐渓順忍氏)に説明を求めることになったのであります。所が桐渓氏の回答は信楽氏については、異義断定保留、今後の教学活動を見守る(昭和56<1981>年1月)、岡氏については、疑義断定保留、今後の教学活動を見守る(昭和56<1981>10月)と裁定しただけで、具体的には何もなされることはなかったのであります。御承知のようにその後両氏は基幹運動の委員となったり、信楽氏は監正局長にもなりました。《近年の本願寺派教学に想う http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm 等、参照。》
私はこの問題は教団の将来を考える上で看過する事のできない極めて大事なことと思っています。忌憚のない御意見を頂戴したいと思っています。合掌
     (2018,5,18)。

  FBの反応

(Y氏) 南無阿弥陀

(M氏) 南无阿弥陀佛

(紅楳) 「続②近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku2.html の2015,4,5の記に、岡氏が、桐渓氏の前の勧学寮頭であった大原性実氏に呼ばれて「道を間違えている以上、自分は勧学寮頭として君たちをさばかねばならない。そう言って、私の手を握られた。申しわけありませんと言う言葉さえ発することができず、ただ黙しておいとまをこうた。」と述べています。もし大原氏がもう少し御存命であったならば、勧学寮の裁定も異なり、現在のような宗制宗法遵守義務公然放棄のまかり通る、信心不在の教団体質にはならなかったのではないかと思うのであります。 合掌

(R氏)  紅楳和上のシンパの方が、
「南無阿弥陀仏」と共感の意をしめしていますが、信心絶対主義の紅楳和上さまから見れば、これらの念仏は、承認欲求の営業念仏・カラ念仏なのですね。
信楽氏や岡氏は、ただ頭が悪かっただけですが(それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす)、Rを育ててくれた越前の門徒は愚直に〔なんまんだぶ〕を称えている方でした。

↓、ちなみにRが、なんまんだぶと文字にして投稿する背後には、なんまんだぶの声のお称名がありますです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

 
     (紅楳) 誤解のないように申しておきますが、私が営業念仏と言うのは僧侶についての事です。 合掌

(Y氏) それは違う  ご信心さえいただいていれば、ふと申すお念佛も、佛恩をありがたく思って申すお念佛も、妄念いっぱいで申すお念佛も、全て報恩です。
御文章と蓮如上人御一代記聞書から言うと。


(Y氏) 信心絶対主義が、親鸞さま、蓮如さまで、それを和上はちゃんといただいているとうかがいます。

(R氏) 現在本願寺派で依用している『蓮如上人御一代記聞書』の冒頭には、安心も信心も論ぜずに、

 一 勧修寺村の道徳、明応二年正月一日に御前へまゐりたるに、蓮如上人仰せられ候ふ。道徳はいくつになるぞ。道徳念仏申さるべし。

と、あるのですが、念仏為本ということを説かれている文だと思いますよ。
御開山は「同一念仏無別道故(同一に念仏して、別の道無きが故に)」を釈しておられますが、貴兄が「信心に狂うならこの文を正しく釈してくださいましませ」

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


(Y氏) 念佛爲本の中身が、信心正因、称名報恩です。

でないと
先祖供養の念佛
現世利益の念佛
聖道門の念佛
19願の念佛
20願の念佛
18願の念佛

区別がつかなくなるのではないでしょうか?


(Y氏) 阿弥陀佛に南無阿弥陀佛で救われるばかりですよ。

極重悪人無他方便唯称念佛得生極楽

極と極とで二種深信


(紅楳)} 親鸞聖人は晩年(85歳)の時の『正像末和讃』に「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,607)と述べられています。浄土真宗の念仏は他力回向の念仏と言いますが、真実信心の称名が他力回向の念仏であって、信心のない念仏は自力の念仏なのであります。同じ『正像末和讃』の愚禿悲歎述懐(86歳)に「無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,617)とあります。功徳が十方にみちわたるのは弥陀の回向の御名、即ち真実信心の念仏であるからです。信楽氏も岡氏も獲信体験のない信心不決定(未決定)の人でありましたので、このことが分からず、私の論文を見て頂ければお分かりのように、岡氏は念仏は信に関係なく称えればすべて大行だと言い、信楽氏は信心は念仏する事によって生ずるものだと主張し、二人とも報恩念仏を否定したのであります。所詮は信心不決定(未決定)の人であったが故であります。このことは、二人について「異義断定保留」「疑義断定保留」として、実際には何もしなかった当時の勧学寮頭も果たして信心決定の人であったのであろうかと、率直に言って疑問を感じます。  合掌

《「浄土真宗における信前信後について」
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/shinzenshingo.html 、

「続⑤近年の本願寺派教学に想う」
 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html 2017,2,5.2017,2,8. 2017、2,11記 参照 》


(Y氏) 信心絶対主義が、親鸞聖人、蓮如上人であるが、遡れば、
法然聖人の信疑決判、

善導大師の六字釈、要弘廃立、往生礼讃の、安心、起行、作業

曇鸞大師の往生論註

天親菩薩の浄土論

龍樹菩薩の信方便易行となる。
ゆえに信心正因称名報恩は
覚如上人、存覚上人、蓮如上人はもちろん、
親鸞聖人、七祖が、信心正因、称名報恩です。

南無阿弥陀佛

紅楳) 上記の論文で取り上げたもう一つは。
親鸞における疑蓋无雑につて、親鸞における疑蓋无雑につて(二)で問題にしました、疑無明、痴無明の件であります。本願に疑いが晴れることはない、と述べて、痴無明と疑無明を分ける事に反対するのは、信心正因称名報恩に反対するのと同様、信心不決定(未決定)であることが原因だと考えます。(法雷学派の考え方は分けることと内容的には同じ)
このことも現教団の信心不在堕落体質を改善する上で看過できない極めて大事な問題だと考えます。 合掌
《「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm 
近年の本願寺派教学に想う、追加 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnentsui.htm 
「真宗無明論」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/shinmumyou.html
 「続⑧近年の本願寺派教学に想う」 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku81.html 2,018,4,2記 等 参照 》



2018年5月22日 第21回 仏教漢詩の会が催されました。
私は下の二句を出しました。(一往古詩の型です。)

憶雲西寺継職法要(雲西寺継職法要に憶う)                紅楳英顕

...

豊前耶馬雲西庵    豊前(ぶぜん)耶馬(やば)雲西(うんさい)庵(あん)。

法統四百我生郷    法統(ほうとう)四百(しひゃく)、我(わが)生郷(しょうきょう)なり。

帰省新住継職会    新住(しんじゅう)の継職(けいしょく)会(え)に帰省(きしょう)し、

諄語現生得大慶    諄(じゅん)に語(かた)る、現生(げんしょう)に大慶(だいきょう)を得(う)ることを。

<意訳>

豊前(大分県)耶馬渓の雲西寺。法統は四百年で、私の生まれ故郷であります。

先日(3月25日)、住職継職(甥<19世、私は17世>会(法要)で帰省しました。

私は心を込めて、浄土真宗の法(教え)は現生(現世)に大きな慶(よろこび)を得るものであるこを語りました。    合掌

       (2018,3,25)

憶喜寿(喜寿におもう)                          紅楳英顕

平成三十戊戌年   平成三十戊戌(へいせいさんじゅう、つちのえいぬ)の年(とし)。

幸迎喜寿摂取中   幸(さいわい)に喜寿(きじゅ)を迎(むか)う、摂取(せっしゅ)の中(なか)。

煩悩具足愚鈍性   煩悩具足(ぼんのうぐそく)の愚鈍(ぐどん)の性(しょう)なれど、

余生精進法興隆   余生(よしょう)は法(ほう)の興隆(こうりゅう)に、精進(しょうじん)せん。

聖人懇曰御本典   聖人(しょうにん)は懇(ねんご)ろに、御本典(ごほんでん)に曰(のたまわ)く。

浄土証道今盛崇   浄土(じょうど)の証道(しょうどう)は今(いま)盛崇(じょうしゅう)なりと。

立教開宗八百近   立教開宗(りっきょうかいしゅう)八百(はっぴゃく)近(ちか)し。

応願真言世普充   応(まさ)に願(ねが)うべし。真言(しんごん)の世(よ)に普(あまね)く充(みつ)ることを。

<意訳>

平成三十戊戌年(へいせいさんじゅう、つちのえいぬ)の年(とし)<平成30年、2018年>。

私は幸に、阿弥陀仏の摂取の光の中で喜寿(77歳。)を迎えました。

煩悩具足の愚鈍の性の者ではありますが、余りの人生は法(浄土真宗の教え)の栄えるために精進したいと思います。

親鸞聖人は懇ろに『御本典』(教行信証)にいわれています。

「ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,471)と。

親鸞聖人が『御本典』(教行信証)を書かれた立教開宗の年からもうすぐ800年であります。

共に願いましょう。真言(浄土真宗の教え)の世の中にあまねく充ちわたっていくことを    合掌
   (2018,4、24)。
                (2018,5,22)

 これは「続⑩近年の本願寺派教学に想う」 「続⑪近年の本願寺派教学に想う」に続きます。