真宗無明論       紅楳英顕

  

はじめに

   

平成二十七年度の本学会(『印仏研』第六十四巻第一号)で「親鸞における智慧」と題して発表し、真宗の無明論についても論じた①。古来の真宗教学では無明について痴無明(総無明、通途、煩悩妄念心)と疑無明(別無明、別途、本願疑惑心)に分けるのであるが、それに異を称える村上速水氏の論考「真宗無明義に関する一試論―痴無明と疑無明の問題」②に筆者は反対の意見を述べた。

  本願寺派、大谷派を問わず、古来の教学では無明を痴無明(煩悩妄念心)と疑無明(本願疑惑心)に分けるのであるが、法雷学派③(本願寺派)がそうでないことを最近知った。

 今回は法雷学派の無明論を参考にしながら 真宗無明論の考察をすることにする。

 

 一、法雷学派の無明論

 

法雷学派の『教行信証大系』第一巻 教の卷④に、次のようにある。

  「無明」と云えば、常に一切の無明を指すものであって、古来一部の学者が、本願を疑う無明は「疑無明」であって、凡夫の貪瞋煩悩は、一般の無明であると云う説は、正しい説とは申されません。彼の学者たちは、正信偈の「已能雖破无明闇、貪愛瞋憎之雲霧、常覆真実信心天、譬如日光覆雲霧、雲霧之下明無闇」(すでに能く無明の闇を破すと雖も、貪愛瞋憎の雲霧、常に真実信心の天を覆えり、たとえば日月の雲霧に覆はるれども、雲霧の下明らかにして闇無きが如し)の句を説明して、「已に能く無明の闇を破す」といえる、此の「無明」は「疑無明」であって、信の一念に「疑無明」は破られるが、その後と雖も、日々起こるところの「貪愛瞋憎の雲霧」は、此れは一般の無明であると云う。然し是れはその様に解すべきではありません。行卷には「衆生一切の無明を破しとあり、真要鈔(本二十二)には「無始已来輪転六道の妄業、一念南無阿弥陀仏と帰命する仏智無生名願力にほろぼされて」⑤とあって、無碍光の力によって、南無と帰命する一念のところに、一切の無明は照破されつくすのであります(密に破す密益である)。「雲霧の下明らかにして闇なし」とは、無明無き意味で、信心の人の領解の心中を指してのお言葉であります。(中略)「無明の闇を破す」とは、現生の利益であります。正信偈には「摂取心光常照護」(摂取の心光常に照護したまふ)とあります。是れが即ち「信心の天」であります。たとい雲霧の煩悩に覆われていても、往生一定のおもいに住して、極楽荘厳を眼に見る心地がします。されば心が朗らかであります。これが「闇無き」すがたであります。また「無明無き」意味であります。「疑い」も、「貪瞋煩悩」も、同じく「無明」でありますが、本願を疑う疑惑は、明かに「顕に」破られるのであるが(顕益)、貪瞋煩悩は(仏の知見にたてば)、「密に」は(密益)破られておるのであります。貪瞋は命ある限り起こるものであります。要するに此の問題は、「顕益」と、「密益」を以て解釈すべきであって、「疑無明」などと云った名目を新たに造つて解釈すべきではありません。(教行信証大系 第一巻 教の卷 一三三・一三四頁。)

 

「「無明」と云えば 常に一切の無明を指すものであって、古来一部の学者が、本願を疑うは「疑無明」であって、凡夫の貪瞋煩悩は、一般の無明であると云う説は、正しい説とは申されません。」と述べているように、古来一般的に言う無明について痴無明(煩悩妄念心)と疑無明(本願疑惑心)に分けることに反対しているのである。しかしこれは村上氏等の言う痴無明・疑無明反対説とは、また全く違うのである。

「無明の闇を破す」ことを現生の益とする、「疑い」も、「貪瞋煩悩」も、同じく「無明」であるが、本願を疑う疑惑は、明かに「顕に」破られるのであるが(顕益)、貪瞋煩悩は(仏の知見にたてば)、「密に」(密益)破られておるのであり、命ある限り起こるものとするのである。

要は、本願を疑う疑惑は、信によって明らかに(顕に)破られるのであり(顕益)、貪瞋煩悩は密に破られている(密益)とするのである。即ち本願を疑う疑惑(一般的に言う疑無明)も貪瞋煩悩(一般的に言う痴無明)も共に現生に信によって破られるのであるが、本願を疑う疑惑が破せられるのは顕益である一方で、貪瞋煩悩が破せられるのは密益であるとし、無明について、痴無明・疑無明と名目を設けて分けることに反対するのである。

  

三、法雷学派の無明論の特徴

 

本願寺派、大谷派の古来の宗学において語られる痴無明・疑無明に分けることに反対した法雷学派の無明論は、信心による「破無明」の利益を顕益と密益とに分けたのが大きな徴である。本願を疑う疑惑(無明)は顕益で信心によって消滅し、貪瞋等無明は密益で信後も相は存し継続してはいるが、往生には全く障りなしとするものである。
『教行信証』
「信卷」断四流釈に

  断と言うは、往相の一心を発起するが故に生として当に受くべき无し、趣として更到る応き趣く无し。已に六趣・四生因亡じ果滅す、故に即頓に三有生死を断絶す。故に断と日ふ也。(真聖全二の七四)。

とある所等により、往相の一心(信心)によって生死の断絶がなされることが強調されているのである。

 信心決定するということは、本願を疑う心の消滅することであり、それを顕益とし、また信心決定すれば、煩悩具足の身でありながら(密益により、即頓に三有生死を断絶す)、 往生決定の身になる事が強調されており、信心決定の自覚、往生一定の確信を強く語っているのが特徴と言えるであろう。

  

 四、村上速水氏の見解と法雷学派の見解の相違点     

 

村上氏は前掲論文に

  以上、『正信偈』(無明闇)→『尊号真  像銘文』(無明の闇、生死のながき夜)→『高僧和讃』『正像末和讃』(無明長  夜の左訓)、の用語から推測すれば、 親鸞においては無明は煩悩の意味で用いられており、後の学者が解釈するように本願疑惑の意味で用いているとは考えにくい。これに準じているならば、親鸞のおける無明の意味は煩悩と同じ概念であると理解するのが至当であろう。(龍谷大学論集第四一二号、龍谷学会一九七八年五月発行、十二頁。)

と述べているように、氏の見解は親鸞における無明の意味は、疑無明と痴無明と分けて考えることはなく、全て煩悩の意味で用いられているとするのであり、本願疑惑の意味で用いられている部分はないというのである。

 法雷学派はの無明について「疑無明」「痴無明」二つの名目に分けて語ることに反対するのであるが、信心によって(破される(消滅する)無明と生涯続く無明とがあることが考慮されている。これに対し村上氏の見解は無明に疑無明、痴無明に分けず、すべて煩悩の意とするのである。、信心によって破される(消滅する)無明と生涯消滅しない無明についての考慮がどのようになされているのかについての疑問を感ずるのである。

 法雷学派の無明論は無明について痴無明・疑無明の二義を語ることには反対するのであるが、内容的には村上氏の見解とは全く異なり、むしろ痴無明・疑無明の二義を語る見解に類すると言えるであろう。

   

五、村上氏の見解の問題点

   ()信仰体験について。

 

氏は

  真宗学における従来の聖教解釈の姿勢には反省すべきものがあるように思われる。  端的にいえば、親鸞がその著述の上に書き記した文字は、すべて第十八願に帰入した上で述べた言葉である。親鸞のそういう信仰体験を述べた言葉を、従来の宗学においては、ともすればその信をぬきにして、客観的な立場からただ合理的に解釈しょうとしていなかったか、ということである。(村上氏前掲論文、十六頁)。

と述べている。村上氏がここで言う「親鸞が著述の上に書き記した文字は、すべて第十八願に帰入した上で述べた言葉である。」ということには全く賛成であるが、「従来の宗学においては、ともすればその信をぬきにして、客観的な立場からただ合理的に解釈しょうとしていなかったか、ということである」と言うことには賛成し難い、無明についてそのような意見の人こそが、果たして、十八願に帰入しているのであろうかと、むしろ疑問を感ずるのである。信心正因称名報恩義を否定する意見も多い現代ならともかく⑥、曾ては宗学者の多くは救済体験のある信決定の人であったことと思う。

 

()機の深信と罪悪感の混同について。

氏は

  『正信偈』における無明を煩悩の意味としたならば、文章が消釈しにくいことは前に述べた通りである。けれどもここで検討を要することは、闇が破られるということは、闇がなくなるということなのかどうか、ということである。たしかに『銘文』にも「無明の闇はれ、生死のながき夜すでにあかつきにになりぬ」という。しかし「無明の闇はれ」とは無明を知ったということではないであろうか。無明が自らを無明と知ったということ、それが無明の闇がはれたという意味ではないであろうか。それは「摂取心光常照護」においてはじめて可能である。闇は光に遇うことによって自らを闇と知ることができる。自ら煩悩具足の身でありながら、それに気づかなかったものが、今まさに「煩悩具足の身」と信知したこと、それが無明の闇がはれた相ではないか。つまり自力無功と信知したことであり、それがとりもなおさず機の深信にほかならない。(同前掲論文、十二頁)。

と述べている。

 先ず、「正信偈」の「已能雖破無明闇」にある「破無明闇」について、氏は「闇が破られるということは、闇がなくなるということなのかどうか」、と述べて、闇がなくなるのではないとし、親鸞の「正信偈」解説である『銘文』に「無明の闇はれ」ある文については、無明を無明と知ったということではないであろうかと述べいるのである。しかし同じ『銘文』の日本源空聖人真影の中の劉官(隆寛)の讚文に疑雲永

晴」とあり、その説明を親鸞は「疑雲永晴といふは、疑雲は願力をうたがふこころをくもにたとへたる也。永晴といふは、うたがふこころのくもをながくはらしぬれば、安楽浄土へかならずむまるる也。(真聖全二の五九四)。と述べている。

 上述のように村上氏は『銘文』に「無明の闇はれ」ある文については、無明の闇がなくなるのではなく、無明を無明と知ったということではないであろうかと述べいるのであるが、そうではなく、うたがふこころのくもがながくはれるのであり、なくなるということであろう。「はれる」「晴れる」については『浄土文類聚鈔』に「三有生死之雲晴る」(真聖全二の四四八)とあるが、この「晴る」も「雲が晴れてなあくなる」と言う意味に他ならないのである。     

 さらに氏は「自ら煩悩具足の身でありながら、それにきづかなかったものが、今まさに煩悩具足の身と信知したこと、それが無明の闇がはれた相ではないか。つまり自力無功と信知したことであり、それはとりもなおさず機の深信にほかならない」と述べるのであるが、『銘文』の「無明の闇はれ」とは、上述のように、うたがうこころがなくなるということであることは明らかであり、「煩悩具足の身と信知したこと」ではないのである。それから「つまりは自力無功と信知したことであり、それはとりもなおさず機の深信にほかならない」と言うのであるが、単に煩悩具足、自力無功と信知してもそれが機の深信であるとは限らないのである。

 周知のように機の深信とは法の深信(無疑無慮乗彼願力定得往生)と一具の信であり、本願に疑いのはれた往生一定の安堵心と一具の信なのである。単なる煩悩具足と自覚した罪悪感とは全く異なるのである。この事は極めて重要な事である。

 

(三)「破無明」の「破」について。

氏は

  無明を闇に喩え、樹に喩え、水(海水)に喩えることによって、あるいは破といい、截といい、転といい、滅といっているが、それらは必ずしも消滅、滅亡を意味しておらず、むしろそれらを基本的に貫いているのは、無碍の意味と理解せられる。(中略)故に「正信偈」には「煩悩、眼を障えて見ずと雖も、大悲倦きことなくして常に我  を照らしたもう」といい、『高僧和讃』には「尽十方の無碍光は 無明の闇をてらしつつ」とも表現する。闇を破るという用語が、闇を消滅するという意味であったならば、このような表現はできないはずである。親鸞においては、光に照らされているということにおいて闇(煩悩)の深さが知  られたのである。故に「不断煩悩得槃」ということもいえるのである。(上掲同論文、十四頁)。

と述べている。「それらは必ずしも消滅、滅亡を意味しておらず、むしろそれらを基本的に貫いているのは、無碍の意味と理解せられる。」と氏はあくまでも、「破無明」の「破」に消滅の意を否定するのであるが、果たしてそのように言えるのであろうか。前に述べたように親鸞は『銘文』に「疑雲永晴といふは、疑雲は願力をうたがふこころをくもにたとへたる也。永晴といふは、うたがふこころのくもをながくはらしぬれば、安楽浄土へかならずむまるる也。(真聖全二の五九四)。と述べているのである。すなわち「晴らす」を「なくす」の意味につかっているのであり、『銘文』の「正信偈」の釈にも

  无明のやみはれ、生死のながきよすでに  あかつきになりぬと也、「已能雖破无明闇」といふはこのこころなり。(真聖全二の六○二)

とあり、「无明のやみはれ」と「破无明闇」が同義で使われているのである。従って親鸞は「破无明闇」の「破」を「消滅する」、「なくする」意味で使用していることが明らかである。

   

むすび

 

村上氏は上掲論文の結びとして、

  以上のように、「無碍光仏によって無明の闇が破られる」という言葉も、「煩悩を具足しながら往生す」という言葉も、 親鸞においては信の中でいわれた言葉である。(上掲同論文、十八頁)。

と述べている。氏はここでも「「無碍光仏によって無明の闇が破られる」という言葉も、「煩悩を具足しながら往生す」という言葉も、親鸞においては信の中でいわれた言葉である。」と述べているのである。確かに親鸞の言葉は信の中の言葉であるが、氏の言葉はそうとは言えないのである。これが大きな問題なのである。

 上に論じたように氏は「無明の闇が破られる」と言うことは「煩悩具足と信知」することと言うが、そうではなく、本願疑惑心が破られることなのである。氏は罪悪感と機の深信との違いを理解しているとは言い難い。機の深信とは、単にわが身の罪悪を感ずるだけでなく、本願に疑心あることなく往生一定と安堵した法の深信と一具のものである。

 因みに法雷学派ではこの点について、「「無明の闇を破す」と言うことが現生の益とし、「疑い」も、「貪瞋煩悩」も、同じく「無明」であるが、本願を疑う疑惑は、明かに「顕に」破られ(顕益)、貪瞋煩悩は「密に」は(密益)破られておる。貪瞋は命ある限り起こるものである。⑦」と述べている。即ち本願疑惑心の消滅(破無明闇)を顕益、貪瞋は命ある限り起こるが往生成仏の障りにはならない(即横超截五悪趣)を密益としているのである。 村上氏は「信後にもにもなお煩悩の存在するという事実についての合理的な解釈はできたとしても、反対に、信の一念に一切の煩悩が断滅せらたということの、証明は何も得られてはいない。(氏前掲論文、八頁)と述べているが、これも罪悪感と機の深信の区別がついていない(第十八願に帰入した上で述べた言葉ではない)ことに起因しているのであろう。

 ここで氏の言う「信の一念に一切の煩悩が断滅せられたということの、証明は何も得られていない」と言う語が極めて重大な意味を示していると思われる。親鸞が自己の信体験による救済の実感・事実として述べた言葉が、先に示した「断と言うは、往相の一心を発起するが故に生として当に受くべき无し、趣として更到る応き趣く无し」(真聖全二の七四)であり、また前に述べた「正信偈」の「即横超截五悪趣」(真聖全二の四四)なのである。このことは何かの証明によって知るのではない。信体験の事実によって知らされるのである。

今回は無明について、古来の教学の中で痴無明、疑無明に分けることに反対する法雷学派の無明論を検討し、前回の論考に加えて、真宗無明論を考察した。法雷学派は形式上では痴無明、疑無明に分けることに反対するする立場ではあるが、内容は近年痴無明、疑無明と分けることに反対する村上氏等の見解より、むしろ古来の教学に近いと思われ、また親鸞の意にも近いと考えられる。         

 

    『印度学仏教学研究』第六十四巻第一号(二○一五年十二 月発行)六六頁。

    『龍谷大学論集第四一二号』(龍谷学会、一九七八年五月   発行、一頁以下)。

   この村上氏の見解について、内藤知康氏は浄土真宗本願寺派発行(二○一二年八月) の『教行信証』の研究第一巻『顕浄土真実教行証文類』解説論集中の「第二章 行文類の諸問題」(一三五頁以下)に村上氏の見解に賛成している。 また『真宗研究第五十九輯』(真宗連合学会、二○一五年一月発行)に掲載されている玉木興隆氏の「正信念仏偈の文言の異同について」(二一頁)にも村上氏の見解に賛成の意が述べられている。

    初代断鎧(一八○八ー一八六九)、二代隆英(一八二○ー一九○三)、三代利剱 (1八七二ー一九四四)、 四代瑞剱 (一八八五ー一九八一)

    『教行信証大系 第一巻 『教の卷』(法雷会刊、百華苑刊、一九五五年二月発行)

    『浄土真要鈔』(真聖全三  の一二八)

  ⑥「浄土真宗における信前信後について」(『宗教研究九十卷、別冊、(二○一七年二月、第六部会二八○)。

    『教行信証大系同』一三四。

 

(参考文献)

  紅楳英顕「親鸞における智慧」『印仏研』第六四卷第一号、二0一五

  紅楳英顕「浄土真宗における信前信後について」『宗教研究』第九0卷別冊、二0一七

玉木興隆「「正信念仏偈」の文言の異同について」『真宗研究』第五十九輯、二0一五

内藤知康「行文類の諸問題」『 『教行信証』の研究』第一卷、浄土真宗本願寺派宗務所、

二0一二

村上速水「真宗の無明義に関する一試論―痴無明と疑無明の問題―」『龍谷大学論集』第四一二号、一九七八

 

(キーワード) 無明、痴無明、疑無明、

        法雷学派。

          (相愛大学名誉教授)

『印度学仏教学研究』第六十六卷第二号(2018年<平成30年>3月発行。所収。