「続⑧近年の本願寺派教学に想う」   これは「続⑦本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku7.htmlに続くものです。


本願寺新報2018年3月1日号の、いのちの栞に、『正像末和讃』の「如来の作願をたづぬれば・・・・大悲心をば成就せり」の説明がなされていた。
ここで大変大事なことは、大悲が成就した時、即ち十劫の昔に我らの往生が已に定まっているのではない、ということである。十劫の昔に往生が定まっているという考えは十劫安心の邪義である。
親鸞聖人が『親鸞聖人御消息』一、に言われているように「信心さだまるとき往生またさだまるなり」(浄土真宗聖典p、735)であり、信心決定の時が往生決定の時なのである。
これを間違えてはとんでもないことなのである。
この間違いから起こっているのが、源左同行の「ふいっとわからしてもらった」とある言葉の批判(「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm <2013、12、22記>参照。)、庄松同行の信心について「ヘエ、いただきました」とある語の抹消、信前と信後の違いの否定(「続⑤近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku...5.html <2017,2,8記>参照。)等の謬見であり、また「宗門では<安心はおのれ一人のしのぎの問題>ということに集約しすぎたきらいがあります。つまり、ご法義を個人の専有物のように捉える傾向がつよいのです。(『宗報』2017年5月号)と言うような間違いになるのである。(「続⑤近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html <2017、5,27。2017、5,28記>参照。)
要するに教団の教学の最高責任者が信心不決定(未決定)であり、十劫安心の邪義に陥っているのが、教団の現状なのである。これでは信心正因称名報恩の意味も全く分からず、宗制宗法遵守義務放棄と言う,あるべからざる現象もやむ得ないことではあるが、誠に情けないことである。不謹慎ながら、こんなことでは振興発展の可能性皆無と言わざる得ないのではなかろうか。合掌
              (2018、3、4)

   FBの反応


(S氏)南無阿弥陀佛

(紅楳)大峯先生の事は何も知りません。信楽氏は信心正因称名報恩の意味の分からない人であり、異義者でもあり、信心不決定(未決定)者でありました。合掌
     (これは大峯さんと信楽さんについての質問に答えたものです。)

(R氏)  南無阿彌陀佛

(紅楳)偶々、下の一年前の思い出で述べています。
「1981年(昭和56年)に信楽氏、岡氏を裁定した当時の勧学寮頭も上記の故勧学と同型と思わざるをえないことであります。この頃から教団の信心不在体質が加速したように思われます。過ぎ去ったことを元にもどすことは出来ませんが、これからのことは何とかすべきではないでしょうか。宗制宗法遵守義務放棄がまかり通る、教学の責任担当者までが信心不決定(未決定)者の集団と成り果てた現状は、そうでなくても問題山積の中で、三業惑乱時以上の惨状と言っても過言ではなかろうと思います。」と。
現勧学寮頭は上記の1981年(昭和56年)に信楽氏、岡氏を裁定した当時の勧学寮頭、及び上記の故勧学等の謬解者にまさる信心不決定(未決定)者、十劫邪義者だと思います。そうでなくても問題山積の中で、三業惑乱時以上の惨状と言っても過言ではなかろうと思います。
何度も申すことでありますが、この信心不在堕落体質の何の改善なしに、いくら教団の振興発展を叫んでみた所で、所詮過去50年~60年同様、徒な試行錯誤を繰り返すのみであろうと慨歎するのであります。合掌

(K氏) 沢山の資料をお教え頂き有難うございます。とても重宝に、学ばせて頂き有難うございます。
2
(紅楳)  ついでに申しておきますが、宗教教団において、教義信心についての法令違反者(宗制宗法遵守義務放棄者)に対して、全く何の処置もなされないということは、極めておかしな現象だと思います。合掌
            (2018、3,7)    



「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm で論文名を述べていました「親鸞における疑蓋无雑について」(印度学仏教学研究26の1、S、52<1977>、12)http://e-kobai424.sakura.ne.jp/gigaimuzou.html と「宗祖における信心と念仏(二)」( 龍谷教学15,S、55<1980>,6) http://e-kobai424.sakura.ne.jp/syuuso2.html をネットに出しました。御一見頂ければ幸甚です。
40年程前に書いたものですが、私の考えは当時と全く同じです。

当時龍谷大学の現職の真宗学の教授であった信楽氏と岡氏に若手の龍谷大学の教員,その他の人が加わった教団改革運動が行われておりました。(『教団改革への発言』(永田文昌堂、昭和46年<1971年>8月発行))。その中心人物であった信楽氏岡氏が共に宗制教義に定められていた信心正因称名報恩義に反対したのです。
  ...
上の論文にも書きましたが、<両氏の所論は教学の現代化、時代即応の教学樹立の営みの気持から生じたものではあろう。勿論私もそのこと自体に異論はない。しかし我々が浄土真宗を信奉する者である限り、宗祖と仰ぐ親鸞聖人の意を曲げるようなことがあってはならないのである。勝手な自見の覚悟による解釈の吹聴はまさに「みづから他力の信心かくるのみならずあやまて他をまよはす」⑩ことにしかならないであろう。しかも念仏・信心(行信)の問題は真宗の要である。この根本義に誤まりが生ずるならば、何が真宗の教えなのか、何が真宗のすくいなのかが全く混乱し、それこそ宗門の一大事といわねばなるまい。以上のような想いから私見を述べた次第である。(「宗祖における信心と念仏(二)」のむすび)>が当時の私の気持ちでありました。この想いは40年後の今も全く同じであります。

信楽氏も岡氏も救済体験(獲信体験)のない人であったのです。それで親鸞聖人のいわれる信心、念仏の意味が分からず、信前信後の念仏の違いも分からず、信心正因称名報恩の意味も分からなかったのであります。合掌
        (2018,3,9)
  
   FGの反応

(K氏) 先日来、度重なる御厚情を賜り有難うございます。沢山の資料をリンクして頂きましたが,愚鈍な、私故ほとんどプリントアウトさせて頂きました。落ち着いてゆっくり、拝見致します。ありがとうございました。

(Y氏)南無阿弥陀仏

(K氏) 宗祖における信心と念仏、先生御著書(S.53作)拝見しました。   信心生因、称名報恩について私なりに、浅はかではありますが、学んでまいります

(紅楳) 40年ほど前の、上の論文の、むすびに、私は「それこそ宗門の一大事といわねばなるまい」と書きました。何度も申しましたように、両氏の見解は宗会で問題として取り上げられ(1980、1)、勧学寮頭に説明が求められたのでありますが、当時の勧学寮頭は信楽氏については異義断定保留(1981、3)、岡氏に対しては疑義断定保留(1981,10)として、実際にはなにもなされることはなかったのであります。しかも両氏はその後まもなく基幹運動の本部員となり、信楽氏に至っては1995年4月に本願寺の監正局長に就任しました。これは教団当局そのものが宗制教義を全く無視したことであり、納得しがたいことでありました。
それから信楽氏、岡氏は信心正因称名報恩義の意味も分からない救済体験(獲信体験)のない信心不決定(未決定)の儘で、定年までの長年に亘り、龍谷大学真宗学で教鞭をとり続け、信楽氏は学長まで務めたのであります。この弊害は計り知れないものであったと思います。
これに加えて、この度定められた新宗法(2012年4月1日施行)には、宗制教義(信心正因称名報恩)に反対する者には、勧学寮の教諭義務がはっきり定められたのであります。
しかし勧学寮は何一つなすことはありません。まさしく宗制宗法遵守義務放棄であります。法令違反であります。しかしこのことについても教団当局初め誰も咎めようともしないのであります。全くの信心不在の教団と成り果てているのであります。まさに私が40年前に述べました「宗門の一大事」は益々深刻な状態だと思います。絶対に大改善が必要と考える次第です。合掌


(紅楳)  上述のように50年近く前に、龍谷大学真宗学の教授であった信楽氏岡氏を中心に、教団改革が叫ばれて、教学刷新という名目で当時も宗制教義に定められていた信心正因称名報恩義に、両氏は反対したのであります。論文にも述べましたように私は「教学の現代化、時代即応の教学樹立の営みの気持」には決して吝かではありませんが、両氏の致命的欠陥は両氏共に救済体験(獲信体験)のない信心不決定(未決定)の人であったということです。このことが当時の勧学寮、教団当局、それから現在の勧学寮、教団当局の方々はお分かりなのでしょうか。私には甚だ疑問であります。

何度も申しますが、蓮如上人は『御一代記聞書』九三に
  
信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われはものをもたずしてひとにものをとらすべきというの心なり 、人承引あるべからずと、前住上人申さると順誓に仰せられ候き。「自信教人信」と候時は、まづ我が信心決定して人 にも教えて仏恩になるとのことに候。自身の安心決定して教えるは、すなはち「大悲伝普化」の道理なる由、同く仰られ候。 (『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,1261

と言われております。とくに教団当局の方々には教団の発展振興を真剣にお考えになるのであれば、よくよく御考慮の程、お願い申し上げる次第であります。 合掌
           (2018、3、13)



続前(3月9日)
『中外日報』の3月14日号(3)に、下記の記事がありました。

本願寺派定宗通告質問として

...

浄土真宗本願寺派の第313回定期宗会(7日閉会)の通告質問で、下川弘暎議員(樹心会)は昨年の『宗報』5月号で紹介された第五回宗門教学会議の徳永一道・勧学寮頭の発言を取り上げ「『伝灯奉告法要御満座の消息』の御心に沿わないのでは」と指摘、「内容をなぜそのまま掲載したのか」とただした。

会議で徳永寮頭は「過去の宗門では、『安心はおのれ一人のしにぎの問題』ということに集約し過ぎたきらいがあります」「『個の救い』に終始する態度は・・・・大乗の精神に全く反しています」と発言した。

一方会期初日の執務方針演説で石上智康総長は消息を引用して「私たち一人一人が真実信心を頂き、お慈悲の有難さ、尊さを人々に正しく分かりやすくお伝えすることが大切」と言及していた。(以下略)

これについて私(紅楳)はこのFBの2017年5月27日に、続前(5月23日)と書いて述べています。(「続⑤近年の本願寺派教学に想う」 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html <2017,5,27~2017,5,28>参照)。
徳永氏は「過去の宗門では・・・・」と言うのでありますが、これも信楽氏、岡氏と同様に致命的欠陥は、氏には救済体験(獲信体験)がないということであります。即ち信心不決定(未決定)の人であることであります。2017年5月27日に書いたことでありますが「往生は一人のしのぎなり」と言う言葉は、まさか氏がこれを不承知であったとは思いませんが、『蓮如上人御一代記聞書』171の「往生は一人のしのぎなり。一人一人仏法を信じて後生をたすかることなり。よそごとのように思ふことは、かつはわが身をしらぬことなりと、(『浄土真宗聖典(註釈版)』P,1284)とある文によるものです。往生の問題は自分自身の問題でありますから、「往生は一人のしのぎなり。一人一人仏法を信じて後生をたすかることなり。」と蓮如上人が言われているのです。
前回も言いましたように氏は源左同行の「ふいっとわからしてもらった」とある言葉の批判(「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm <2013、12、22記>参照。)、庄松同行の信心について「ヘエ、いただきました」とある語の抹消、信前と信後の違いの否定、真門と弘願の違いの否定(「続⑤近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html <2017,2,8記>参照。)。それから
問題多岐の講演録(2015、1、28) http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kouenroku.html 「続②近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku2.html <2015、6,30~2015、7,15まで>参照。等に見られる問題点は全て救済体験(獲信体験)の欠落、信心不決定(未決定)より生じている所であります。従って念仏の信前(自力念仏、カラ念仏、営業念仏)と信後(他力念仏、報恩念仏)の違いが分かる筈もなく、信心正因称名報恩の意味もさっぱり分かる筈もないのであります。宗制宗法遵守義務も果たせる筈もないのであります。しかしそのような法令違反は許されることではありません。
この度ようやく勧学寮頭の安心領解についての疑問点、問題点が宗会で取り上げられました。教団の発展振興のためにはまことに結構なことであったと思います。何度も申すことでありますが、このことが相変わらずうやむやに終わったり中途半端になったりして、教学の責任担当者までが信心不決定
(未決定)の集団と成り果てた、信心不在の堕落体質の改善がなされない限り、教団の振興発展は全く望めないことと思います。合掌
           (2018,3,16)。      

  FBの反応

(Y氏)  南無阿弥陀如来

(紅楳) 徳永氏は『歎異抄』の親鸞聖人の「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり、されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,853)とある、本願に救われた慶びの言葉の意味も分からないことであろう。合掌

(K氏) 証道今盛。


(紅楳) 親鸞聖人は『教行証文類』「化土巻」に「ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,471)と述べておられます。
現代では浄土の真宗は「自信教人信」の実践によるなら、「証道いま盛んなり。」と言うことになると思いますが、教学担当責任者までが信心不決定(未決定)者の集団と成り果てているようでは、「行証久しく廃れ」ることになるだけだと懸念するのであります。合

(紅楳) 親鸞聖人は『正信偈』の道綽讃に「三不三信の誨慇懃にして、像末法滅同じく悲引す。」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,206)と述べられていますように、三不信(不淳心、不一心、不相続心)を真実信心にあらずと誡められたのであります。この不淳心が「若存若亡」の「あるときには往生してんずとおもひ、あるときには往生はえせじとおもふ」心のことであります(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,587、下註)。即ち往生に確信のない心は真実信心ではないと述べられているのです。凡夫に往生の確信がもてるはずはないとか、信前信後の違いがある筈はないとか、真門念仏(自力念仏、信前念仏)と弘願念仏(他力念仏、報恩念仏)の違いがある筈はないとか、『歎異抄』第九の「親鸞もこの不審ありつるに」を「私もこの不審が今もある」と解することは、悉く「三不信」者、信心不決定(未決定)者の所論なのであります。
教団の教学責任担当者までが信心不決定(未決定)者の集団である限り、親鸞聖人が800年前に『教行証文類』に述べられた「聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,471)とある「浄土の真宗は証道いま盛んなり。」とある言葉が空しくなるであろうことを悲歎するのであります。合掌

(Y氏) 南无阿彌陀佛       (2018、3,18)。


続(3月30日)

私がこの度「真宗無明論」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/shinmumyou.html 
で反対の意見を述べた村上速水氏の論文「真宗無明義に関する一試論―痴無明と疑無明の問題―」
(『龍谷大学論集第四一二号』(龍谷学会、一九七八年五月 発行)には色々な出来事が関連していました。 ...
「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm に述べましたように、私は昭和52年(1977)の印度学仏教学会で、岡氏の考えに反対して「親鸞における疑蓋无雑について 」<単> 印度学仏教学研究26の1、(S、52、12)。http://e-kobai424.sakura.ne.jp/gigaimuzou.html を発表し、終りに「以上により本願に疑心のない決定心である疑蓋无雑の心が親鸞の信心であることが明らかである。親鸞の深い内省による自己悲歎の言葉を本願に対する疑惑心と考え、親鸞には本願にうたがいはれた決定心はなかつたとする岡氏の所論はいわゆる痴無明(煩悩妄念の心)と疑無明(本願疑惑の心)とを混同した全くの謬見といわねばならないであろう。」と述べたのです。するとその会場にいた村上氏が「親鸞聖人は痴無明、疑無明と言う言葉を使ってないからその言い方は問題ではないか」と言われたのです。それに対して私は「言葉はありませんが、その意味はあります」と答えました。氏が発病されたのはそれから余り間のない昭和53年1月でありました。(氏の著『病いに生かされてー親鸞を慕う人生ー』による)。氏が「真宗無明義に関する一試論ー痴無明と疑無明の問題ー」を脱稿 したのは恐らく発病の直前のことであったろうと思われます。発病後一生懸命に聴聞に励んだと述べていますので、考え方が変わったのかと思ったのですが、そうではないようでありました。(近年の本願寺派教学に想う、追加 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnentsui.htm 参照)。

私は村上氏の論文が『龍谷大学論集第四一二号』(龍谷学会、一九七八年五月 発行)に掲載されていることは発行当初から知っていましたが、その内容は、単なる罪悪感と機の深信との違い、即ち信罪心と機の深信との違い、の全く分からない信心不決定(未決定)者の所論でありますので、誰もが無視するものと思っていました。

所がこの度 親鸞聖人七百五十回大遠忌の記念事業として『顕浄土真実教行証文類』解説論集が浄土真宗本願寺派宗務所より発行されました。(2012年8月31日)。その中の『教行信証』の研究、第一巻「行文類」解説(九五頁以下)に内藤知康氏の解説があり、無明について、痴無明(煩悩妄念心)と疑無明(本願疑惑心)との二義を語ることに反対する村上氏の意見に賛成するものであります。このことは極めて重大な問題であります。個人の見解として済まされることではありません。はっきりしなければならないことであります。もし内藤氏の考えを正しいとするなら、真宗十派連合の『意訳正信偈』を早急に変更せねばなりませんし、内藤氏の考えが誤りとするならば、これも早急に『顕浄土真実教行証文類』解説論集を回収せねばならないと思います。(「続⑤近年の本願寺派教学に想う」http://ekobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html
2017、4,29 記 参照)。

教義信心を曖昧にした儘の、信心不在堕落体質の儘では、教団の発展振興は断じてありえないと思います。 合掌 (2018、4、2)

    FBの反応

(S氏) 南無阿弥陀佛

(紅楳) 当時龍谷大学の教授であった信楽氏、岡氏を中心に叫ばれた「教団改革の発言」がなされたのは1971(昭和46)年でありました。約50年(正確には47年)前のことであり、近く親鸞聖人誕生800年と浄土真宗立教開宗750年の記念法要が計画されていたことが記されています。
現代にも通ずる最もな点もあるのではありますが、教学についての根本的大問題は信楽氏、岡氏が共に救済体験(獲信体験)のない信心不決定(未決定)の人であったことであります。その故に信前信後の念仏の違いが分からず、報恩念仏が分かりませんでした。また信心が「疑蓋无雑」であることも分からないのでありました。彼等は自分達の主張を現代教学と言い、それまでの教学を伝統教学といいました。この言い方は現代も続いていますが、これは大変な誤りです、彼らの教学は救済体験(獲信体験)のない無体験教学なのであります。伝統教学者の中にも救済体験(獲信体験)のない無体験教学者は大勢いました。村上氏もそうですし、今も大勢いると思います。
真宗教学は救済体験(獲信体験)に基づいた体験教学でなければなりません。とくに教学の責任担当者はそうでなければならないのです。この整理がなされない限り、何を計画しても教団の発展振興はありえないことと思います。合掌


(R氏) 紅楳和上、50年ずれてますですよ。
Rは信心と称名をセットにした「信因称報説」はあまり好かんのですが、紅楳和上のおっしゃる称名報恩といふ表現は、信の継続という意味でとると理解しやすいです。
ただ現代では恩という思想が判りにくくなっているので回向された信というものが説きにくいのかもと思っていたりします。
ともあれ浄土真宗は「信方便易行をもつて疾く阿惟越致に至る」(十住毘婆沙論)ご法義ですから教学者や坊さんに信が無いのは困ったものです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだ


(紅楳) 何度も申したことでありますが、「真実信心の称名」であれば、能修の用心(称える者の心持ち)から言えば報恩行であります。報恩行でないというならば、その人は真実信心の人でない、信心不決定(未決定)の人ということになります。合掌

(H氏)分かりやすく 述べてくださって 有り難うございます

(紅楳) 
御賛同御意見有難うございました。この問題は極めて大事なことであります。信心正因称名報恩に反対した信楽氏、岡氏が信心不決定(未決定)の人であっただけでなく、村上氏もそうであったということであります。(尤も真宗学の先生も信心決定の人とは限らないと、私に最初に思わせたのは村上氏でありました。)村上氏に賛成する人達も同類と言えると思います。
このような教学責任者までが信心不決定(未決定)者の集団と成り果て、信心教義についての宗制宗法遵守義務放棄は公然とまかり通る、信心不在、堕落腐敗体質の改善が一向になされない儘では、教団の発展振興は望めないと思われます。親鸞聖人が800年前に『教行証文類』に述べられた「浄土の真宗は証道いま盛んなり。」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,471)とあるお言葉が空しく感じられます。 合掌

   (2018、4、5)



続(4月2日)、関連(3月9日)、(3月30日)
痴無明(煩悩妄念心)と疑無明(本願疑惑心)の違いの分からない見解を批判した「親鸞における疑蓋无雑について(二)」 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/gigaimuzou2.html
をネットに掲載しました。御一見頂ければと思います。
この論文も40年程前に書いたものではありますが、信心正因称名報恩問題と同様、現在尚存在し続けている信心に関する大きな問題であります。救済体験(獲信体験)に関わることであります。教団はここ50年~60年発展振興のために色々試みがなされて来ましたが、救済体験(獲信体験)の上からの発案であったかどうかの整理が必要であると考えます。  合掌
    (2017,4,17)

  FBの反応

(紅楳) 
御賛同有難うございました。信因称報問題、痴無明疑無明問題は私が取り上げてから、もう40年になります。
浄土真宗において一番の要である信心についての問題であります。これを曖昧にした儘では教団の発展振興は期待できないと思います。
もし信因称報反対を認めるなら、早急に宗制宗法を改訂すべきでありますし、痴無明疑無明否定を認めるならば、十派連合の意訳正信偈を早急に改訂すべきであります。それをしないのであれば、宗制宗法遵守義務放棄及び痴無明疑無明否定に対し、これも早急に何らかの処置がなされるべきだと思います。
相変わらず一向に何もなされることなく曖昧なことが続くのであれば、正に信心不在の教団と言うことになろうと懸念致す次第であります。  合掌

   (2018,4,21)