FWの反応
(K氏) こんにちは。今日もお元気でお過ごし下さい合掌
(Y氏} 南無阿弥陀佛
(M氏) (南無阿彌陀佛
(紅楳) The theme of my daruma talk was the benefit of Jodo Shinshu in the present life. Gassho
(N氏) 浄教寺のある方は、「カントによると、神はいないと言ってる」そうですが、仏教を論難する哲学者はいないです。むしろその思想の基盤としている。ただ、西田とかは難しいです。
( 紅楳) カントのことはよく知りませんが、西田さんは石川県の真宗大谷派の御門徒の出身であり、浄土真宗と禅宗(臨済宗)に造詣の深い人であります。完全な仏教徒であります。合掌
(G氏) 南無阿弥陀仏
(M氏) 南無阿彌陀
(紅楳) 有難うございました。御蔭様で私も喜寿を迎える事が出来ました。残りの人生も意義あるものであってほしいと思っています。
最後の「立教開宗八百近 応願真言世普充」が大変気懸かりな所です。
信心不在体質の早急の改善を願う次第であります。 合掌 (2018,5、28)。
続<続前(6月15)>
信心正因称名報恩反対、痴無明疑無明二義反対が、如何に大きな間違いであるかと言うことと、それが獲信体験のない信心不決定(未決定)者である故に生じた謬見であることを、御承知頂くために、下記の拙稿等を御覧頂きたいと思います。合掌
親鸞における疑蓋无雑について (昭和52<1977>、12)。
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/gigaimuzou.html
宗祖における信心と念仏 (昭和53<1978>,6)。
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/syusoniokeru.html
親鸞における疑蓋无雑について(二) (昭和54<1979>、12)。
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/gigaimuzou2.html
宗祖における信心と念仏(二) (昭和和55<1980>,6)。
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/syuuso2.html
浄土真宗における信前信後について (平成29<2017>2)。
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/shinzenshingo.html
真宗無明論 (平成30<2018>3)。
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/shinmumyou.html
「近年の本願寺派教学に想う」 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「近年の本願寺派教学に想う」追加 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnentsui.htm
(紅楳) ここ5~60年教団は時代即応のために種々の試みがなされてきました。それは大変結構なことであったと思います。しかしその試みは救済体験(獲信体験)のある信心決定の人達によってなされねばならないのであり、またなされねばならなかったのであります。残念なことに教団の教学担当責任者までが、救済体験(獲信体験)のない、信心正因・称名報恩の意味すら分からない、信心不決定(未決定)者の集団と成り果てた現状のままでは、教団の発展振興は到底あり得ないと思われます。合掌。 (2018,6,19)。
(紅楳) 念仏には信前(自力念仏、カラ念仏<営業念仏>)と信後(他力念仏、報恩念仏)の違いがあります。教学の責任担当者でありながら、信心正因称名報恩を否定する人達は、救済体験(獲信体験)のない、この事さえ分からない人達なのであります。早急の改善がなされない限り、教団の発展振興は望めないと思います。合掌
(紅楳) 6月19日(続<続前(6月15)>)に述べましたように念仏に信前、信後の違いのあることや、痴無明、疑無明の違いの分からない人は、救済体験(獲信体験)のない信心不決定(未決定)の人なのであります。このような人達が教団の教学担当責任者になったり、このような人達の主張する意見を重視した教団にも考えねばならない所があったと思います。いずれにせよ。早急の抜本的改善が必要と思います。合掌
(紅楳) 要するに救済体験(獲信体験)のない信心不決定(未決定)の人達が時代即応とか現代教学樹立とか言ってみた所で成果はないのであります。ここ5~60年の教団の歩みがその事を物語っていると思います。何度も申しますが、蓮如上人は『御一代記聞書』93に
..
信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われはものをもたずしてひとにものをとらすべきというの心なり 、人承引あるべからずと、前住上人申さると順誓に仰せられ候き。「自信教人信」と候時は、まづ我が信心決定して人 にも教えて仏恩になるとのことに候。自身の安心決定して教えるは、すなはち「大悲伝普化」の道理なる由、同く仰られ候。 (『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,1261
と言われていますように、救済体験(獲信体験)のない信心不決定(未決定)の人達、すなわち(「われはものをもたずしてひとにものをとらすべきというの心」の人達)がいくら尤もらしく何を言ったところで、成果があるはずはないのであります。教団の責任ある立場におられる方々には、よくよく御考慮頂きたく存じます。合掌
(紅楳) ついでに申しておきますが、現在の勧学寮は宗制宗法遵守義務放棄の法令違反の集団であります。これが公然とまかり通っていること自体が現教団の大変な異常現象であります。
信心正因、称名報恩は宗制教義に定められているものであり、安心論題にも貴重な論題として定められているものであります。信心正因、称名報恩の意味も分からず、宗制宗法遵守義務を放棄している勧学寮は、恐らくその他の安心論題についても正しい意味は理解出来ず、単なる語句の解釈、形式のみで、放棄しているのと同様の現状であろうと思われます。
このような状況では、学階取得のための殿試、安居における会読・判決、御正忌報恩講における改悔批判の領解文の解説(「往生一定おん助け治定と存じ、このうえの称名は御恩報謝と存じよろこび申し候」)も全て形骸化と成り果てているように思われます。このようなことで、教団の発展振興は期待できないと思います。 合掌
(N氏) 紅楳先生 総長の談話に「信心をいただいた念仏者」という言葉があることが報じられたことを取り上げられましたが、2017年4月発行 勧学寮編『親鸞聖人の教え』222頁第4項 信心正因・称名報恩、2017年3月第二版『新編安心論題綱要』106頁 、十四 称名報恩には、信後の念仏、つまり他力の念仏のことが明確に説明されております。問題はあるのでしょうか?ご指導お願いいたします。合掌
(紅楳) 確かに、勧学寮編『親鸞聖人の教え』222頁第4項 信心正因・称名報恩、2017年3月第二版『新編安心論題綱要』106頁 十四 称名報恩には、信後の念仏、と述べてはいますが、私が6月19日記の 続<続前(6月15)> 等に書いていますように、勧学寮は1981年には信心正因称名報恩に反対した信楽氏、岡氏に対して何の処置もせず、また2012年4月1日施行に定められている信心正因称名報恩義反対者に対する教諭義務も放棄しているのであります。信心正因称名報恩義を守る意思はないのでありますし、信心不決定(未決定)者の集団である故に、信心正因称名報恩義が体得理解が出来ていないと言うのが、正しかろうと私は思っています。私が<学階取得のための殿試、安居における会読・判決、御正忌報恩講における改悔批判の領解文の解説(「往生一定おん助け治定と存じ、このうえの称名は御恩報謝と存じよろこび申し候」)も全て形骸化と成り果てているように思われます。> と申しますのもこの意味であります。合掌
(N氏) 紅楳先生 勧学寮編のテキストに信後の念仏が説明されてあっても、信心正因称名報恩義を守る運用ができていない。ことを問題とする。ご指導ありがとうございました。合掌
(紅楳) 親鸞聖人は『正像末和讃』に「信心の智慧にいりてこそ 仏恩報ずる身とはなれ」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,606)、『教行信証』「化土巻」三願転入の文には「ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,413)と述べられています。人は信心決定して、正定聚の人となって仏恩を知るのであります。即ち報恩念仏を称える人となるのであります。称名報恩を否定する人達は、現生正定聚の人でない信心不決定(未決定)の人と言うことになります。真宗学の教員がこのような状態であったことは極めて憂うべきことでありますが、これに対して何の指導も処置もせず、宗制宗法遵守義務も放棄する教学担当責任者も全く同類と思います。 合掌 (2018,6,20)。
(紅楳) 大瀛師も指摘するように十劫邪義の人には仏恩を報ずる心はないのであります。
報恩念仏が分からないのでありますから、宗制宗法遵守義務放棄の法令違反者となることもやむを得ないこととは言いながら、教学担当責任者がこのようなことでは教団の発展振興はとうてい望めないことであります。
最近、昨年の宗報5月号での勧学寮頭の「過去の宗門では、安心はおのれ一人のしのぎの問題、ということに集約しすぎたきらいがあります」の発言が問題にされているようです。
これは大変結構な事だと思います。勧学寮頭等の教団の教学担当責任者が信前念仏(自力念仏、カラ念仏<営業念仏>)と信後念仏(他力念仏、報恩念仏)の違いも分からない、宗制教義に定められた、信心正因称名報恩の意味も分からない信心不決定(未決定)者の集団と成り果てているのは何とも情けないことであります。
このようなことでは近く行われる安居の会読の判決も、御正忌報恩講の改悔批判も、ただ形式のみのものと成り果てることでありましょう。誠に憂うべきことであります。合掌
(2018,7,1)
(紅楳) 「土の橋は人を渡して、自分は落ちる。信なき人の説法は人も渡さず、自分も堕ちる」とは
鮮妙師の言葉と言われています。今の教団において大変重要なことと思います。
何度も申すことでありますが、現教団においては教学担当責任者が救済体験(獲信体験)のない、信心不決定(未決定)の「人も渡さず、自分も堕ちる」人達の集団なのであります。このようなことでは安居も改悔批判もどれほど意味があるのだろうかと想う次第であります。合掌 (2018,7,2)
親鸞聖人の教えの特徴は悪人正機であるとよく言われますが、私は聖人が経典や七高僧の当面の意を読み替えて、現世からの救済を強調された現生正定聚であると考えます。
漢詩が一句浮かびましたので、記します。
一切罪悪深重人 一切(いっさい)の罪悪深重(ざいあくじんじゅう)の人(ひと)。
唯信弥陀本誓深 唯(ただ)、弥陀(みだ)の本誓(ほんぜい)の深き(ふかき)を信(しん)ずべし。
煩悩熾盛雖不変 煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)は不変(かわらず)と雖(いえど)も、
即得定聚大慶心 即(すなわ)ち、定聚(じょうじゅ)、大慶心(だいきょうしん)を得(う)。
<意訳>
一切の罪悪深重の人は、お慈悲の深い弥陀の本願を信ずることが大事である。
煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)であることには変わりはありませんが
信心獲得することにより、現生で正定聚の人となり、不顛倒(ひっくり返ることがない)
不虚偽(うそ偽りでない)、大慶心(大慶喜心)を賜るのであります。
信巻」に「たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず、ここをもって極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,211)と述べられて、信心を大慶喜心と讃嘆され、現世で得る真実の本当の大きな喜びと述べられているのであります。この現世で真実の大きな喜びを得ることが強調されている所が、親鸞聖人の教えの一番大事な所であると私は思っております。合掌
(2018,7,8)。
FWの反応
(D氏) Namo Amida Bu
(紅楳) 御賛同有り難うございました。私は親鸞聖人の教えの一番の特徴は「信心定まるとき往生また定まるなり」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,735)とある、信心決定による現生正定聚、臨終来迎否定、を主張した現世からの救済の強調にあったと思います。この事は現代に生きている人々の大きな救いになると私は思っております。合掌 (2018,7,10)。
現代人に通ずる教学樹立と言うことで、信心正因称名報恩義批判をした人達は信心決定によって賜る「大慶喜心」を知らない人達でありました。またその誤りを指導教諭する責任がありながら、何もしない宗制宗法宗法遵守義務放棄の法令違反者である、教学担当責任者の人達も同様に信心不決定(未決定)の「大慶喜心」のない人達だと言えると思います。
一句浮かびましたので記します。
極悪深重邪見群 極悪深重(ごくあくじんじゅう)の邪見(じゃけん)の群(ぐん)。
応信如来真実言 応(まさ)に如来(によらい)の真実(しんじつ)の言(みこと)を信(しん)ずべし。
顛倒虚偽苦悩処 顛倒(てんどう)虚偽(こぎ)の苦悩(くのう)の処(しょ)で、
獲得大慶知仏恩 大慶(だいきょう)を獲得(ぎゃくとく)し、仏恩(ぶつおん)を知(し)る。
<意訳>
大変罪が深くよこしまな考えしかもつことのできない我々は、仏の真実の言(阿弥陀仏の本願)を信ずることが大事なことであります。
真実のない、うそ偽りの苦悩の多い、この現実の世において、崩れることのない真実のよろこび (大慶喜心)を得て、仏の御恩を知る身になるのであります。
何度も申した事でありますが、称名報恩義批判者は念仏についての信前(自力)と信後(他力)の違いの分かっていない信心不決定(未決定)の人達であります。これに対し何の批判も教諭もできない教団の教学担当責任者、宗制宗法宗法遵守義務放棄の法令違反者、も全く同様な信心不決定(未決定)の人達であり「大慶喜心」のない人達であります。親鸞聖人の言われる「助正間雑し、定散心雑するがゆえに、出離その期なし」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,412)とある往生の可能性のない人達であります。このような現状で教団の発展振興は到底望めないことでありますし、またこのような人達によって取り仕切られる安居の会読の判決や、報恩講の改悔批判にどんな意味があるのだろうかと思う次第であります。 合掌 (2018,7,11)。