「続㉝近年の本願寺派教学に想う」   これは「続㉜近年の本願寺派教学に想う」e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku32.html  に続くものです。 この度ある御熱心な一門徒の方から本願寺の御門主様に「口上書」が出されました。
本人の御希望でありますので、ここに掲載致します。合掌
「口上書」
https://drive.google.com/.../1EGdI3CxVlZaAh.../view...
『歎異抄』易行の一門に入る ー信心の学びはこれでよいのかー
https://drive.google.com/.../1TbdUov5.../view...
  (2022、3,11)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

上記(2019323日、3年前)にありますように定期宗会で勧学寮頭についての質問に対し総長が「勧学寮頭には何も言う権限は我々にはない」といったとのことですが、実は私も現勧学寮頭は信心正因称名報恩の意味さえ分からない、はっきり言うなら営業念仏(僧侶のカラ念仏)と報恩念仏の違いも分からない人であり、信心不決定(未決定、未安心)の人だと思っています。それ故に宗制宗法遵守義務放棄という賦課金納付義務放棄に勝る大罪を犯し続けているのであります。正常な教団ならば、こんな惨状はありえないことであります。
それで前にも述べましたように、私は監正局に「宗制宗法遵守義務放棄の勧学寮頭を処罰すべきだ」と訴えたのですが、監正局の回答は「勧学寮頭を裁く規定はない」と言うことで全く取り上げようとしなかったのであります。 【「続⑱近年の本願寺派教学に想うhttp://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku181.html (2020,6,15記】
こんなことがまかり通るようなことで教団の発展振興があるはずはないのであります。もし本当に「勧学寮頭を裁く規定はない」のであるのなら、営業念仏者や信心不決定者が勧学寮頭になることのない規定を、大至急に作成し、来年の慶讃法要までには、勧学寮の信心不在体質を抜本的に改善しなければならないと思います。そうでなければ折角の御法要も形骸のみとなるであろうと懸念致します。合掌 「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm 

ついでに申しますが、このような営業念仏(僧侶のカラ念仏)と報恩念仏の違いも分からず、宗制宗法遵守義務放棄を平然を行う人達は救済体験(獲信体験)のない人でありますので「一念覚知」の意味も分からず、救済体験(獲信体験)を語るとそれが「一念覚知」の異義であると思い込み、陰で「一念覚知」の異義者であると非難するのであります。私も随分陰で非難されたのでありますが、この問題も早急にはっきりしなければならないことと思います。合掌
「続㉜近年の本願寺派教学に想うhttp://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku32.html
《特に(2022,3,9記部分)》
(2022,3,25)。



『中外日報』(2022,3,30)に、本願寺派において「現代版領解文制定へ検討委」24年度末日目指し宗則、とありました。
「現代版領解文制定」は大変結構なことと思います。
しかし、「信心正因称名報恩義否定」・「獲信体験の否定(獲信体験を一念覚知の異義とする謬見)」・「信前信後の否定」、および「十劫安心(無帰命安心)肯定」・「生涯不決定肯定」等、の領解文とならないことを切に念願致します。そうでなければ、教団は益々信心不在化が衰微の一途を急速に辿ることになるであろうと懸念する次第であります。合掌 「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm ~㉝
  (2022,4,3)。

1970年ごろ現代教学樹立の掛け声の下で、「信心正因称名報恩」義に反対した龍谷大学真宗学の現職教授であった信楽氏岡氏、それに従った真宗学の教員、並びに生かじりのマルクス主義による親鸞聖人解釈者(単なる反権力主義者と理解する人)は皆、獲信体験のない人達であったと言って過言ではなかろうと思います。
それに加えて、時の勧学寮頭は1981年に信楽氏岡氏に対して、「異義断定保留」、「疑義断定保留」、として以後何もすることはなかったのであります。(高森親鸞会問題の折りも、本願寺出版本の際、私の原稿だけを別冊にして、勧学寮頭・伝道院長の監修はなしとした。)
このことはこの時の勧学寮頭自身が「信心正因称名報恩」義の意味が本当には分かっていなかった獲信体験のない信心不決定の人であった言えると思います。しかもこの人は「庄松ありのままの記」の改竄断章者でもありました。
この「庄松ありのままの記の改竄断章」は多くの勧学寮関係者に受け継がれ、現在の勧学寮頭もその一人であります。この類いの人達は獲信体験がありませんので、信前の念仏(カラ念仏<僧侶ならば営業念仏>、自力念仏)と信後の念仏(他力念仏、報恩念仏)の違いが分からず、「信心正因称名報恩」義の意味も分からないのであります。従って宗制宗法遵守義務放棄(2012,4)という、あってはならないはずの大過を犯しているのでもあります。さらに困ったことには自分に獲信体験がない故に「一念覚知」の意味も分からず、獲信体験が一念覚知と思い込み、獲信体験を語る人を一念覚知の異義者であると陰で非難するのであります。すでに述べましたが、私も陰で非難されていることは複数の人から聞いています。
勧学寮頭であるなら、陰で非難するのではなく呼び出して教諭なり、処分なりするべきでありますが、全くそれはないのであります。勧学寮も信心不決定者の集団ということでありましょう。
現代人に教えを伝えるための「現代版領解文制定へ検討委」も大変結構なことと思いますが、教えは「自信教人信」でなければ伝わりません。そのためには勧学寮の閉鎖がまず先に行われるべきだと私は思います。 合掌
「近年の本願寺派教学に想うhttp://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm ~㉝
  (2022,4,4)。


 

昨日(2022,4、14)勧学寮より、『2021(令和3)年度、安居講業記』が送られて来ました。昨年の安居の会読論題に「称名報恩」があったのを知っていましたので、どのように判決がなされたのか興味があり、早速拝見致しました。

「最初に【題意】
第十八願文には信心と称名が誓われてあるが、往生の正しき因は信心であって称名ではない。信後の称名は、行者の心持ちから言えば、ご信心をいただいた感謝の思いが声となってあらわれた報恩行であることを、明らかにする。」とありました。
私はこの【題意】に不自然さを感じました。私の手元にあります最近の本願寺出版の『安心論題綱要』(1985初版)、『新編 安心論題綱要』(1982初版)には、その題意に「本願には信心と称名とが誓われているけれども、信心が正因であって称名は正因ではなく、その称える心得からいえば、報恩感謝の営みにほかならぬ旨を明らかにする。(『安心論題綱要』p、59)、「本願には信心と称名念仏とが誓われているが、信心こそが往生成仏のまさしき因(正因)であり、称名念仏は、称える私たちの心持ちからいえば、阿弥陀如来の救いの光の中に摂めとられていることをよろこび、その感謝のおもいが声となってあらわれてきたものであることを明らかにする。(『新編 安心論題綱要』p、106)とあります。いずれにも「信後の称名」という条件はないのであります。何故この度の安居ではわざわざ「称名報恩」に「信後の称名」という条件をつけたのだろうかと疑問を感ずるのであります。「信後の称名」と言うのであれば、それと異なる「信前の称名」(19願、20願の自力念仏)の存在を認めるということになりますが、その信前の称名(自力念仏)も浄土真宗の正しい念仏と容認しようとするのでしょうか? もしそうであるならば、『教行証文類』「化土巻』や『正像末和讃』に「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる(『浄土真宗聖典』P,607)等と述べられた親鸞聖人のお心に全く反する、大変なことになると思います。 合掌
「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「続⑤近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html
(2022,4,15)

2008年41日施行の浄土真宗本願寺派宗制の第三章教義に「信心正因称名報恩」と定められています。(1941年以来)。即ち浄土真宗本願寺派における正しい称名は仏徳を感謝する「報恩の称名(念仏)」なのであります。
この度の『安居講業記』の「称名報恩」の判決の【題意】にこの称名(念仏)を信後の称名(念仏)と制限をして述べています。こうなりますと浄土真宗教団の実際における大多数の信前の人はカラ念仏でも自力念仏で良いということになり、論題そのものがおかしなことになると思います。もともこのような杜撰なことが、宗制宗法遵守義務放棄というとんでないことにもなっているのでありましょう。
このように今の勧学寮は「宗制宗法遵守義務放棄集団」であるのみならず、「宗制違反集団」と言うことになるのであります。何度も申したことでありますが、このような信心不在集団をどうすべきか、ということを皆で考えねばならない時が既に来ていると思います。合掌
「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm~~
  (2022,4,17)。


長びくウクライナの戦火に人類滅亡の危機を感じ、一句浮かびましたので下記します。

想烏克蘭戦火(ウクライナ戦火に想う)

紅楳英顕

戦火発生烏克蘭   戦火(せんか)烏克蘭(ウクライナ)に発生(はっしょう)す。
人知我身罪業深   人(ひと)知(し)るべし、我(わ)が身(み)の罪業(ざいごう)の深(ふか)きことを。
偏願露国大元首   偏(ひとえ)に願(ねが)う、露国(ろこく)の大元首(だいげんしゅ)、
値遇如来大悲心   如来(にょらい)の大悲心(だいひしん)に値遇(ちぐ)することを。

<意訳>
戦火がウクライナに発生し、今尚続いています。過去の戦争とは異なる人類の滅亡ともなりかねない大変な出来事であります。
しかしながら、大事なことは、たがいに人は我が身の罪業の深きことを知ることであります。
ひとえに願います。露国大元首(プーチン氏)が、如来の大悲心に値遇(出会うこと)し、我が身の罪の深きことと如来の御恩の高きことを知ることを。

前に申しましたが昨年(2021年)7月に私の著『浄土真宗がわかる本』のロシア語訳が出来ました。https://drive.google.com/.../1hA5z7oAIAVQME0936JBS86.../view
ネットに載せられています。是非プーチン氏に、私の本のロシア語訳が目に止まることがあって欲しいと思うのです。
御承知のように、ロシアはソ連時代(1922-1991)は、マルクスの言う「宗教は民衆のアヘンなり」、レーニンの言う「宗教は毒酒なり」等の言葉のように、宗教が否定される時代がありました。しかしロシアは元々ロシア聖教の栄えた国で、ドストエフスキー、トルストイという宗教的文豪も生まれた国であり、特にトルストイの著『懺悔』には有名な「黒白二鼠の譬え」が出てくるように、彼は仏教にも深く興味を持った人でありました。
きっとプーチン氏も仏教に御縁のある方であろうと私は期待致します。  合掌
(2022,4,17)。

コロナ禍に加えてウクライナ戦火、人間の無力性と罪悪性が深く知らされています。今や浄邦縁熟の時と言えると思います。
浄土真宗こそが人類を救う真の宗教であることを世界に示す時だと思います。
そのために忘れてならないことは「自信教人信」と言う聖者の語であります。 
念のために申しますが、「信心正因称名報恩」義を否定する人達、並びにそれに賛同・擁護する人達も、「自信教人信」の人ではありません。合掌
「近年の本願寺派教学に想うhttp://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm33
  (2022,4,18)。


『本願寺新報』(2022,4,10)の3面に、【高僧のことば】として「信心とは己がゼロになること」と、勧学寮頭 徳永一道氏の言葉があります。
そこの記事を直接読んで頂けば一番良いのでありますが、氏は30年ほど前にあるところで、「信心とは、阿弥陀様のすくいを固く信ずるのではなく、阿弥陀様のすくいのはたらきにすべてゆだねることである」、と話をしたそうであります。その時の「阿弥陀様のすくいのはたらきにすべてゆだねることである」とはどういうことですか、と言う質問に、「赤ちゃんが、お母さんの腕に抱かれて無心にスヤスヤと眠っているのと同じ心である」と述べたそうであります。
この話は随分以前(60年程前)に、私もある人から聞いたことがありますが、これは浄土真宗の信心の説明としては、大変間違っていると思います。
赤ん坊の心は無心でありゼロと言えるかも知れないが、信心には上に述べましたように「総序」の御文に親鸞聖人は獲信の慶びを「慶ばしいかな」と述べ、「真宗の教行証を敬信してことに如来の恩徳の深きことを知んぬ」と報恩の思いも述べておられるのであります。
赤ちゃんの無心(ゼロ)とは全く異なものと言えると思います。
率直に言ってこれは大変な誤りだと思います。  合掌
「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「続②近年の本願寺派教学に思う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku2.html

何度も申すことでありますが、宗教体験(獲信体験)がないため、営業念仏と報恩念仏の違いも分からず、信心正因称名報恩の意味さえ分からない人達が、教学の責任を担当することが、まさに教団の悲劇と言えると思います。合掌
(2022,4,20)。



『本願寺新報』(2022,5,1)の1面に「本山で春の法要営む」とあり、・・・・共通勤行「和訳正信偈」がつとめられた。と記事が出ていました。
何度も申しましたように、「和訳正信偈」は無明を「痴無明」(煩悩妄念心)と「疑無明」(本願疑惑心)とに分ける「疑無明」の意で述べられているのであります。
私は親鸞聖人の無明義は「痴無明」と「疑無明」とあることに賛成ですが、教団の中には二種あると考えるのに反対の人もいます。本願寺から一般寺院に配布された本の中にも「痴無明」と「疑無明」に分けることに反対の考えがあります。「信心正因称名報恩」も同様ですが、教団の中でこんな不統一があってはならないことであります。 私は無明を「痴無明」(煩悩妄念心)と「疑無明」(本願疑惑心)とに分けることに反対する人は「信心正因称名報恩」義に反対する人と同様、信前信後の違いの分からない、宗教体験(獲信体験)のない信心不決定(未決定、未安心)の人だと思います。合掌
「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「近年の本願寺派教学に想う」追加 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnentsui.htm
「続㉘近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku28.html
「続㉙近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku29.html

「本山春の法要」で永年勤められている共通勤行「和訳正信偈」は、以前から述べましたように、
  《「続⑤近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html(2017,5,3記)。》
『正信偈』の「已能雖破无明闇」を「无明<うたがい>の闇 晴れ去るも」と、ここの无明を疑無明(本願疑惑の心)と解しているのであります。即ち本山では「无明」を「痴无明」(煩悩妄念の心)と「疑無明」(本願疑惑の心)の二義ありとする考えによっているのであります。(私もこの考えが正しいと思っています。)
それなら本山出版本で痴无明・疑无明二義を否定している本は直ちに回収すべきでありますが、一向にその様子はありません。
これは「信心正因称名報恩」義についても、言えることであります。宗制教義に反する者にさえ何の処置もなされないのであります。まさに教義信心はどうでもよいというのが教団の現状なのであり、責任担当者の方々のお考えなのでありましょうか? これは宗教体験(救済体験、獲信体験)のない信心不決定の人の思うことであり、親鸞聖人の御心に全く反することであろうと私は思います。信心不在体質を改善することなしに、いくら「伝わる伝道」を標榜したところで成果はなかろうと思われます。合掌
「続⑧近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku81.html
「続㉕近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku25.html
(2022,4,28)。



伝灯奉告法要の円成は5年前(2017)のことであり、来年(2023)は親鸞聖人御誕生850年、立教開宗800年 慶讃法要の年であります。教団の振興発展計画は例の如く、種々語られるのでありますが、一番肝心なことは5年前にも申しました(前記)教団の責任担当者の自信教人信であります。これが欠落したままでは、過去4~50年間と同様いたずらな試行錯誤の繰り返しとなるのみでありましょう。 
何度も述べましたが、40年余り前、当時龍谷大学の真宗学の現職教授でありました信楽氏岡氏が「信心正因称名報恩」に反対したことを当時の勧学寮頭大原性実氏は許そうとはしなかったのであります。
 《「続②近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku2.html(2015,4,5記)、「続⑱近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku181.html(2020、4,28記等)》
これは大原氏は救済体験(獲信体験)のある信心決定の人でありましたので、勧学寮頭として、信心正因称名報恩の意味も分からない、信心不決定(未決定、未安心)の、信前の念仏(自力念仏、カラ念仏<僧侶なら営業念仏>)と信後の念仏(他力念仏、報恩念仏)の違いの分からない信楽氏、岡氏の主張を許すことは出来なかったのでありましょう。
私は大原氏は救済体験(獲信体験)のある人だと思っていましたが、ここに一例を述べます。
山田無文氏と対談した『禅と念仏』(1976刊、潮文社)に大原氏は 「その見性が真宗で言う入信にあたります。信心をいただいて仏の懐に飛び込んだということですね。(中略)飛び込んだということは、仏の光によって、私の心に目が開けたってことになります。心に目が開けたってことは禅でもうされる見性ですよね。見性したら、必ず仏に成るに違いないという身にしていただくんですからなあ、そこに凡夫は凡夫であっても一つ展開があるんですね。(p、70) と述べています。見性と獲信とは内容は異なるとは思いますが、最後の「凡夫は凡夫であっても一つ展開があるんですね。」と言うことは、救済体験(獲信体験)者、信心決定者には分かることなのです。
「信心正因称名報恩」反対者に何の裁きもせず、むしろ庇い賛同して、宗制宗法遵守義務放棄を継続している勧学寮の人々、及び教団の責任担当者には、このことが分からないのでありましょう。 教団の現状は、「自信教人信」消滅のまさに悲しむべき現状だと思います。合掌
「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「続⑤近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html
「続㉜近年の本願寺派教学に想うhttp://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku32.html
 (2022,5,24)。

上(2016,5.25<6年前>)にも述べましたように、当時から宗制教義に定められていた「信心正因称名報恩」義に反対した信楽、岡問題について当時の勧学寮頭が「異義断定保留、疑義断定保留、今後の両者の教学活動を見守る」として、何もなされなかった昭和56年(1981年)以降、教団の信心不在体質が急速に進んだように思われます。
信心不在体質の早急の改善が現教団の最重要課題信楽、岡問題について異義断定保留、疑義断定保留、今後の両者の教学活動を見守るとして、何もされなかった昭和56年(1981年)以降、教団の信心不在体質が急速に進んだように思われます。現教団の最重要課題はこの信心不在体質の早急の改善だと思います。
近年教団は責任担当者に「信心正因称名報恩」義否定に賛同する人が増加し、宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通る傾向がみられますが、私は「信心正因称名報恩」義否定者、及び擁護者、賛同者は救済体験(獲信体験)のない、信心不決定(未決定、未安心)者であると思っています。 合掌
「近年の本願寺派教学に想うhttp://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「続⑪近年の本願寺派教学に想うhttp://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku11.html
「続㉕近年の本願寺派教学に想うhttp://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku25.html
「続㉛近年の本願寺派教学の想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku31.html
(2022,5,26)。



6月4日(土)稲垣瑞雄(久雄)先生の一周忌法要(於・大阪、了照寺様)にお参りさせて頂きました。
先生との最初の御出会いは昭和35(1960)年、私が龍谷大学の1回生の時に英訳『正信偈』を習った時でありました。もう60年以上も前のことになります。その後御晩年まで色々と御教導を賜りました。
その中で私の心に一番強く残っておりますのは、平成29(2017)年1月、先生の御尊父稲垣瑞劔師の37回忌の法要の折り、瑞雄(久雄)先生が『信心獲得のすすめ』を御出版されたのでありますが、その序文を先生のご依頼により僭越ながら書かせて頂いたことであります。
 《「続⑤近年の本願寺派教学に思う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html(2017年1月16日記)》
先生の御聖教についての英文翻訳の御功績は実に甚大でありますが、教団の信心不在体質には深く慨嘆しておられたことを申し伝えておきたいと思います。合掌
「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「続㉙近年の本願寺派教学に想うhttp://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku29.html
これについては拙著『親鸞聖人の念仏論』(永田文昌堂、2018,6刊。)P、11以下にも述べています。

因みに申しますが.稲垣瑞劔氏は、昭和54(1979)年の10月号から昭和55(1980)年の1月号まで3回に亘って本願寺発行の『宗報』に「称名報恩論争について」と題して「信心正因称名報恩」を肯定する立場の論を述べております。
この少し前の昭和53(1978)年に私は「宗祖における信心と念仏」(龍谷教学会議13)に発表し、「信心正因称名報恩」義に賛成の意見を述べたのでありました。また稲城選恵氏もこの頃著書『最近における真宗安心の諸問題』で「信心正因称名報恩」反対意見を批判しました。
ところが何度も述べましたように昭和56(1981)年勧学寮はこの問題について何の処置もしなかったのであります。(この時点で前勧学寮頭であった大原性実氏 《(昭和54<1979>年4月)往生》は「信心正因称名報恩」義反対者を許すつもりはありませんでした。)このことが教団の信心不在体質を大きく推進させたと私は考えます。合掌
「近年の本願寺派教学に想うhttp://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「続㉝近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku33.html
  (2022,6、9)。

5年前(2017624日 )
続前(6月23日)
一句浮かびましたので記します(下記)。

悲哉近世知識連   悲(しき)哉(かな)、近世(こんせ)の知識連(ちしきれん)。
甚多信心未決師   甚(はなは)だ、信心未決(しんじんみけつ)の師(し)多(おお)し。 賢者言有不浄説   賢者(けんじゃ)の言(ごん)に有(あ)り。不浄説(ふじょうせつ)は、
不渡他者自己堕   他者(たしゃ)を渡(わた)さず、自己(じこ)も堕(お)ちると。

<意訳>
悲しいことであります。この頃の教学の責任担当者の人達に、信心のない人(信心未決定のひと)が多いようであります。ある賢者が言っています。不浄説法(信心のない人の説法)は、他者を浄土に渡すことは出来ず、自分も地獄に堕ちると。  合掌

今(2022,6,23)も全く同じ気持ちです。
上句の
「賢者言有不浄説   賢者(けんじゃ)の言(ごん)に有(あ)り。不浄説(ふじょうせつ)は、
不渡他者自己堕   他者(たしゃ)を渡(わた)さず、自己(じこ)も堕(お)ちると。」
とある「賢者の言」とは利井鮮妙氏の言葉です。
《「続②近年の本願寺派教学に想うhttp://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku2.html 2015、5,28~2015,5,30記 》
宗制教義に定められている「信心正因称名報恩」義に龍谷大学真宗学の当時の現職教員が反対の意見を述べ始めたのが1970年頃でありました。このことが教団で問題になってきたのでありますが、勧学寮は何の処置もしませんでした。(1981年)。 その後も勧学寮は何もせず、2212年にはこの問題につて宗制宗法遵守義務を放棄し、そのままで、現在に至っているのであります。
率直に申しまして、私は「信心正因称名報恩」義に反対する人達は救済体験(獲信体験)のない信心不決定(未決定、未安心)の人達だと思います。 それからそれについて何の処置もせず、さらにそれについて宗制宗法遵守義務を放棄した人達も全く同じ信心不決定(未決定、未安心)の人達だと思います。
このような教団の責任担当者までが無信心者《他者(たしゃ)を渡(わた)さず、自己(じこ)も堕(お)ちる》の集団と成り果てた体質のままでは、教団の発展振興は当然のことながら望むべくもありません。来年の慶讃法要までには是非解決して頂きたいものであります。 合掌 「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「続㉜近年の本願寺派教学に想うhttp://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku32.html
「続㉝近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku33.html  (2202,6,25)。



信心教義についての宗制宗法遵守義務放棄ということは、正常な宗教団体であるなら賦課金納付義務放棄にまさる大過であるはずであります。「信心正因称名報恩」義反対意見の容認をあくまで継続するつもりならば、少なくとも来年の慶讃法要までに、宗制教義の「信心正因称名報恩」義を変更すべきであります。これ以上いい加減なことは断じて許されるべきではないと思います。合掌
  (2022,7,8)。
「続㉞近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku34.html に続きます。