「続㉕近年の本願寺派に想う]
      これは「続㉔近年の本願寺派に想う」e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku24.html  に続くものです。

本願寺新報(2021,5,1)の8面、中より少し下に、「13、14日は聖徳太子1400回忌法要」と出され、そこに「15日は御門主ご出座で立宗開宗記念法要が共通勤行(和訳正信偈)で営まれ、150人が参拝。」と書かれています。
何度か述べたことでありますが、『和訳正信偈』では(  )内。
摂取心光常照護 (摂取<すくい>のひかり あきらけく)
已能雖破無明闇 (無明<うたがい>の闇<やみ>晴<は>れ去<さ>るも)
貪愛瞋憎之雲霧 (まどいの雲<くも>は 消<き>えやらで)
常覆真実信心天 (つねに信心(まこと)の 天<そら>覆<おお>う)
とあるように、ここの無明を<うたがい>の意とし、「疑無明」(本願疑惑の意)
と、痴無明(煩悩妄念の意)とは別としているのであります。ところが親鸞聖人七百五十回大遠忌の記念事業として『顕浄土真実教行証文類』解説論集が浄土真宗本願寺派宗務所より発行され、本願寺派の全寺院に配布されました。(2012年8月31日)。その中の『教行信証』の研究、第一巻「行文類」解説(九五頁以下)に無明について、痴無明(煩悩妄念心)と疑無明(本願疑惑心)との二義を語ることに反対する意見が述べられているのであります。このことは極めて重大な問題であり、はっきりしなければならないことであります。もし全寺院に配布した『教行信証』の研究、第一巻「行文類」解説(九五頁以下)を正しいとするなら、真宗十派連合の『意訳正信偈』を早急に改正しなければならないはずであります。私は痴無明(煩悩妄念心)と疑無明(本願疑惑心)違いの分からない人は宗教体験(救済体験、獲信体験)のない信心不決定(未決定、未安心)の人だと思っています。
「信心正因称名報恩」の問題も同様でありますが、このように信心(安心)の問題が曖昧にされるままでは教団の発展振興は望みえないこととかねがね思っております。合掌
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(2021,4,28)。
意訳正信偈(しんじんのうた)は70年ほど前に西本願寺で出来たものであり、50年ほど前に真宗教団連合で共通勤行として制定されたものであります。(本願寺新報2001(平成13)年51日号掲載)。
参考のために記しますが、大谷派の清沢満之氏、曽我量深氏は「信心正因称名報恩」義を述べ、曽我氏は「痴無明」(煩悩妄念心)と「疑無明」本願疑惑心とが相違すると述べています。(拙論『親鸞における往生の問題』大阪聖徳保育・福祉論叢26、( R、2<2020>3)http://e-kobai424.sakura.ne.jp/ojonomondai.html 4,清沢満之と曾我量深の下、および註⑰。合掌 「続⑰近年の本願寺派に想うhttp://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku17.html
「意訳正信偈」(しんじんのうた)が出来たのが今から70年ほど前(1951年頃)でありますなら、私はまだ10才の頃であります。信楽氏、岡氏が教団改革運動を始めて「信心正因称名報恩」義を否定したのが、1971年であり、宗会で問題が上がりながら勧学寮が何の処置もしなかったのが、1981年のことでありました。
その後教団の信心不在体質は急速に進行し、信心教義についての宗制宗法遵守義務放棄は公然となされ、一番大事な儀式であるはずの「改悔批判」も完全形骸化となっているのであります。
「意訳正信偈」(しんじんのうた)が出来ました70年ほど前(1951年頃)も、戦後の急変時で諸問題は山積していたことではありましょうが、教団が現在のように信心不在の体質ではなかったであろうと私は思います。教団の責任担当者(教学面、行政面)が「信心正因、称名報恩」義の分からない人や、痴無明と疑無明の違いの分からない信心不決定(未決定、未安心)の人達の集団ではなかったであろうと思うのであります。
「伝える伝道」でなくて「伝わる伝道」でなければならないと言われますが、蓮如上人の言われますように「われは物をもたずして人に物をとらすべきといふの心なり。人承引あるべからず」(『浄土真宗聖典』P,1261)であります。「自信教人信」でなければ教えは伝わらないのであります。合掌
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  (2021,4,29)。
『本願寺新報』(2021,5,10)の1面に「ご親教をいただいて 勧学寮頭 徳永一道」の記事が出ています。
何度も申したことでありますが、今の勧学寮は宗制第三章 教義に定められている「信心正因称名報恩」義に遵おうともせず、さらに宗法第59条3に、勧学寮は、宗制に定める教義に相異する義を主張した者に対し、教諭する。(2012,4,1)にも遵わない宗制宗法遵守義務放棄の信心不決定(未決定、未安心)者の集団となり果てているのであり、その最高の責任者が寮頭の徳永一道氏なのであります。
また「信心正因称名報恩」義の分からない人は宗教体験(救済体験、獲信体験)のない人であり、信前信後の違いが分からない故に、信前念仏(カラ念仏<僧侶なら営業念仏>、自力念仏)と信後念仏(他力念仏<真実信心の称名>、報恩念仏)の違いの分からない人たちなのであります。徳永氏が信前信後の違いの分かっていない人であることは明らかであります。
 徳永一道氏『浄土文類聚鈔講讃』(2004,7.永田文昌堂。研究編P,185以下)。
 同「親鸞における回心について」(真宗研究 第41,1997,永田文昌堂。P,97以下)。
 同「浄土真宗における儀礼論」(日本仏教学会年報 第63、日本仏教学会西部事務所。
   P,73以下)。等。
このように信前信後の念仏の違いの分かっていない徳永氏でありますから、ご親教にあります『高僧和讃』善導讃の「信は願より生ずれば 念仏成仏自然なり 自然はすなはち報土なり 証大涅槃うたがはず」(『浄土真宗聖典』P,592)の説明においても、ここの念仏が自力念仏とは全く異なる他力念仏(真実信心の称名、機の想いは報恩念仏)であることが分かっているとは思われません。「私どもの称える念仏がそのまま救うという如来さまの願いであり、同時にそのよび声であるということでもある」とも書いていますが、これも真実信心の称名(他力念仏)ならば、そうですがカラ念仏や自力念仏ではそれは言えないのであります。それから終わりの方に「私どもは幸いにして弥陀の本願の教えに遇うことができ、それをもって自らの人生の礎とすることができるご縁に恵まれている。」と述べていますが、ここで徳永氏は「遇う」をどんな意味で言っているのでしょうか。親鸞聖人は『教行信証』「総序」に「遇ひがたくしていま遇うことを得たり」(『浄土真宗聖典』P,132)と述べられていますが、これは単に出会ったとか見たとかと言う意味ではなく、『一念多念証文』(一念多念文意)に「遇はまうあうといふ、まふあふと申すは本願力を信ずるなり。」(『浄土真宗聖典』P,691)と述べられていますように「本願力を信ずる」ことであります。信心獲得(信心決定)することに他ならないのであります。
信心不決定(未決定、未安心)の氏が「私どものとなえる念仏が」と言ってみたところで、それが親鸞聖人の説かれる念仏と同じであろうはずはありません。
要するに宗教教団の生命である信心教義につての宗制(国で言えば憲法)、宗法(国で言えば法律)<「信心正因称名報恩」義>の遵守義務放棄をしているのが勧学寮であり、その最高責任者が徳永氏なのであります。罪状は賦課金納付義務放棄に勝ると言えると思います。親鸞聖人の説かれる念仏の意味は全く分かってはいない人と言えるであります。このような人が教学担当の責任者である現教団の信心不在体質は一刻も早く改善しなければならないと思います。そうでなければ、教団の発展振興は到底望めないことと思います。
ついでに申しておきますが、こうような宗教体験(救済体験、獲信体験)のない人は、人がそれを語るとすぐに「一念覚知」の異義者だと陰で非難するのであります。合掌
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A氏) 徳永和上には御恩がありますが敢えて申します、和上は御文章批判しています、異安心です。

勧学寮の関係者およびその悪影響をうけた人たちが、陰で私(紅楳)のことを「一念覚知の異義者だ」と言っているとよく聞きますが、こんな教義上の大事な問題を陰でゴソゴソ言うのではなく勧学寮に呼び出して、懇切に御教諭頂きたいと思います。勿論私の考えも遠慮なく申し上げます。
それからこれも以前に申したことでありますが、三業惑乱時の「信心獲得時の年月日時を覚えていなければならないと執じた」一念覚知と「十劫の昔から助かっているとした」十劫安心(無帰命安心)を異義と裁断した『御裁断御書』において、三業惑乱問題の裁断の文の前に「この信決定のうえには、昼夜朝暮にとなふるところの称名は、仏恩報謝の念仏とこころうべし。かようにこころえたる人こそ、まことに当流の信心をよくとりたる正義とはいふべきものなれ。」(『浄土真宗聖典』P,1414)とあります。
「信心正因称名報恩」義の意味も分からず、宗制宗法遵守義務放棄の勧学寮は他者を「一念覚知の異義者だ」と陰で非難する資格があるどころか、『御裁断御書』で言われている浄土真宗の「正義」にも反している人たちだと言えると思います。合掌
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(2021,5,10)。
現在の勧学寮が宗門法規に定められた「信心正因称名報恩」義の意味さえ分からない信心不決定(未決定、未安心)者の集団であり、これは正常な教団ならば賦課金納付義務放棄より重罪とすべき信心教義についての宗制宗法遵守義務放棄の大罪者の集団のあることは既に何度も述べました。
この度本願寺派の一住職より(上記、A氏))徳永氏について「異安心」という語が述べられています。この問題は宗教教団において重大問題であり、勧学寮が見て見ぬふりで放置するなら極めて無責任なことであります。
総局や宗会、その他教団の責任担当者、その他教団将来を考える人達は、この問題を真剣に取り上げ、曖昧にすることなく徹底的な対処をし、問題を解明すべきであります。そして教団の信心不在体質を早急に抜本的に改善しなければならないと思います。
もしそれが出来なければ、2023年の慶讃法要も形骸ばかりの全く無意味なものなり、教団の発展振興は到底望み得えないと考えます。合掌
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A氏)
紅楳 英顕 さん 勧学寮全てと言う言い方はお辞めになった方が良いです。なかにはわかっていても、立場を捨てられず、忸怩たる心を抱えている人も居ますから。御文章を批判し、蓮如上人を批判する人を異安心とおっしゃることは同意いたします。
ご意見拝見しました。あなたの言われるように「なかにはわかっていても、立場を捨てられず、忸怩たる心を抱えている人も居ます」が事実ならば、それこそ勧学寮は御信心まで誤魔化す娑婆泳ぎ名人の欺瞞者の集団ということになり、益々悪質な宗制宗法遵守義務放棄者の集団ということになります。そういうことであるなら尚のこと早急に閉鎖すべきであります。
それから念のために申しておきますが、私はあなたが尊敬されていたと思われるI勧学も本当の信心決定者であったかどうかにつては疑問をもっています。これについてはすでに何度か述べましたが、庄松同行の『庄松ありのまま記』について改竄断章をしていることであります。『庄松ありのまま記』には興正派の御門主が庄松同行に「汝は信を頂いたか」と質問したことに対し庄松同行は「へえ頂きました」と述べているのであります。この箇所をI氏は改竄断章し『開かれた信心と閉じられた信心』(永田文昌堂、2005,6。p、77)等に「かれは門主の部屋に呼び出され、逆に門主の側から、貴兄の覚悟はいかに、と反問されたのである。その時、彼は即座に、オレのことは知らん、アレに聞け、と云って御本尊を指したという。」と書いています。すなわち庄松同行が「へえ頂きました」と述べている部分を改竄断章して「信心決定」の事実の確信を否定するひとであったのであります。これは「生涯不決定説」、「一往再往論」とか言われる「十劫安心」に類する誤りであります。この類のひとは大体において信前信後の念仏の違いの分からない人であり、信心正因称名報恩の意味も正しくは分からないのです。今の勧学寮もこの傾向の人がほとんどで徳永氏もその一人であると言えます。取りあえずご返信まで。 合掌
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A氏)
有り難うございます、南無阿弥陀仏。
  (2021,5,15)。



先日(5月15日)に書きました『庄松ありのままの記』の改竄断章問題」も十劫の昔から救われていると考える十劫安心と同類だと思います。

十劫の昔から救われていると考えるわけですから「往生一定」「信心決定」の心は衆生の側には必要ないのであり、あるはずはないと考える「生涯不決定」の主張となるのであります。この考えでありますと、念仏についても信前信後の違いがあるようには考えず、その違いを言うことが寧ろ自力のはからいであり間違いであると思うのでありましょう。この考えは率直に言いますと救済体験(獲信体験)のない人の謬見であります。

この『庄松ありのままの記』の「改竄断章問題」がいつから始まったかは分かりませんが、少なくとも1981年に信楽氏、岡氏の「信心正因称名報恩」義反対問題について異義断定保留、疑義断定保留として何もしなかったK勧学寮頭は改竄断章者であり 、それを継承したのがI勧学であり、またそれを継承したのが現T勧学寮頭であります。この方々は明確な「改竄断章問題」の継承者であります。

 K氏。「続⑤近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html  (2017,2,5記)等。

  I氏。「続㉕近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku25.html   (2021,5,15記)等。

  T氏。「続⑧近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku81.html  (2018,3,16記)等。

現在の勧学寮はこの流れで動いています。この故に信心不決定(未決定、未安心)者の集団となり果て、宗制宗法遵守義務放棄という常識を越えた大過がまかり通っているのであります。一刻も早くこの悪流を遮断しなければなりません。そうしなければ教団の発展振興は到底不可能であります。 合掌
  (2021,5,18)。
「続㉖近年の本願寺派教学に想う」e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku26.html に続きます。

 

 

 

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