「続⑱近年の本願寺派教学に想う」
これは「続⑰近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku17.html に続くものです。
4年前
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紅楳 英顕
2016年5月28日 ·
続前(2016年5月25日)
有り難うございます。信心正因称名報恩義は本願寺派宗制教義に、昭和16年(1941年)以来定められてきたものであります。それについて反対したのが、当時(昭和46年<1971年>)龍大真宗学若手教員を中心とした教団改革運動 が行われていたのですが、その代表者であった信楽氏、岡氏でありました。
私はこの二人が浄土真宗の救済体験のない信心不決定(未決定)の人であると分かっていました。信前念仏(カラ念仏、自力念仏)と信後念仏(他力念仏、報恩念仏)の違いの分からない人だということも分かっていました。それで書きましたのが「 宗祖における信心と念仏」〈龍谷教学十三、昭和五十三<1978年>年六月〉 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/syusoniokeru.html
で あります・(岡氏の所論に関連して疑無明、痴無明について「親鸞における疑蓋无雑について」、印度学仏教学研究26の1、昭和52年<1977年> 12月、を発表しています。尚、岡氏には「一宗学徒の惑い」<真宗学第41、42合併号、昭和45年・1970年>がありますが、この論文は当時の龍大真宗学の無信心体質を象徴するものであると思われます。)
岡氏は『宗教12月特大号、特集、真宗安心の問題、大原性実和上の生涯』(教育新潮社、昭和54年、p、94以下)に述べています。信楽氏、岡氏に対して「異義断定保留、疑義断定保留。今後の教学活動見守る。」として何もしなかった勧学寮頭の、一つ前の、その時勧学寮頭であった大原性実師が、岡氏を自宅に呼び「道を間違えている以上、自分は勧学寮頭として君たちをさばかねばならない。そう言って、私の手を握られた。申しわけありませんと言う言葉さえ発することができず、ただ黙しておいとまをこうた。」(p、99)と岡氏自身が記しています。文中の「君たち」とは信楽氏、岡氏の事でありますが、この時から間もなく大原師は急逝されたのであります。(昭和54<1979>年4月)。しかし両氏を裁くつもりであったことは間違いないと思われます。 (続②近年の本願寺派教学に想う。 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku2.html 2015年4月5日 記 参照。)
所が前記(5月25日)に述べましたように、昭和56年<1981年>に 信楽氏、岡氏に対して「異義断定保留、疑義断定保留。今後の教学活動見守る。」として何もしなかった当時の勧学寮頭が信心決定の人であったかどうかは甚だ疑問なのであります。(これについては、近年の本願寺派教学に想う、 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm でも述べました。同様に現寮頭についても述べています。)
この勧学寮頭は翌年、昭和57年<1982年>7月発行(探究社)の『信心について』(p、46)に
庄松同行に「お前信心いただいておるか」ときいたら「わたしに聞いてもわかりません。聞くところが違いますよ。阿弥陀様に聞いてください」と申したと伝えられております。
と述べていますが、これは不注意であったということでは断じて済まされないことであります。5月25日に記しましたように庄松同行は「ヘエ頂きました」とはっきり述べているのであります。もしこのことを知らなかったならば、勧学寮頭として余りにも知識不足ということになります。恐らく信心とはあるのかないのか分からないものと思い込んでいた信心不決定(未決定)の「若存若亡」の人に相当する人であったと思われます。同様にある教学責任担当者が 、『開かれた信心と閉じられた信心』(2005年<平成17年>6月発行、永田文昌堂、p、77)に
彼は門主の部屋に呼び出され、逆にに門主の側から「貴兄の覚悟はいかに」と反問されたのである。その時、彼は即座に「オレのことは知らん、アレに聞け」と云ってご本尊を指したという。
と述べていますが、これも全く同様のことが言えると思います。もしかして故意に庄松同行の「ヘエ頂きました」とある言葉を削除したのであるのなら、もっと悪いことになると思います。
それから現勧学寮頭もこの間違った考えに、全くの賛同者、継承者であります。(続②近年の本願寺派教学に想う http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku2.html 参照 2015年6月30日記 以降。) 講演録 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kouenroku.html には <讃岐の庄松が、「お前の救いはどうなっているんだ」と興正派のご門主から聞かれたときに、「わしの救いのことは知らん、あれに聞け」と阿弥陀様を指差したという。>とあります。(この講演録はネットに出ていたのですが、何故か今は削除されています。)
はじめに述べましたように、信心正因称名報恩義が本願寺派宗制教義に定められたのが昭和16年(!941年)のことでありました。本願寺派教団に所属する者は当然のことながら遵守義務があり、教学、行政の責任者にはそれに遵守させる義務があると思います。しかも 本願寺派の新たな始まりとして制定された新宗制、新宗法が施行されて(平成24年4月1日施行)、周知のように、宗制 第三章 教義に
信心は、阿弥陀如来の大智大悲の徳を具えた名号をいただくことであるから、往生の正因となる。信心決定の上は、報恩感謝の思いから、仏徳を讃嘆する称名念仏を相続する。これを信心正因、称名報恩というのである。
と定められており、 宗法第59条3に、新たに
3,勧学寮は、宗制に定める教義に相異する義を主張した者に対し、教諭する。
と定められたのであります。
にも拘わらず、信心正因称名報恩義に反対している者に、何もなされることはなく、宗教教団の生命であるはずの教義信心に関する宗制宗法が公然と無視された有様であります。これは行政担当にも責任はあることですが、篤信者である庄松同行の語録の意味が理解できないだけでなく、不都合な箇所は平然と削除して素知らぬ顔をするような、信心不決定(未決定)に加えて、不誠実と言える教学責任者の体質を、早急に改善しなければ、教団の将来はないように思います。
200余年前の三業惑乱の比ではないと私には思えます。
要するに 蓮如上人が言われますように 「 信もなくて、人に信をとられよとられよ と申すは、われはものをもたずしてひとにものをとらすべきというの心なり 、人承引あるべからず。」(『浄土真宗聖典(注釈版』)P、1261)であります。教学責任担当が信心不決定(未決定)者の集団であっては教団の振興発展の可能性は皆無であるような気がします。 合掌。
「続⑯近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku16.html
「続⑰近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku17.html
に述べましたように、信心正因称名報恩義を否定した信楽氏岡氏は共に宗教体験(救済体験、獲信体験)のない信心不決定(未決定、未安心)者であったのであります。宗制教義違反者に対し当時の勧学寮頭は昭和56年<1981年>に 信楽氏、岡氏に対して「異義断定保留、疑義断定保留。今後の教学活動見守る。」と述べただけで、実は何もしなかったのであります。(信楽氏も岡氏も最後まで一向に主張を改める事はありませんでした。)宗制教義違反者に対して、「今後の教学活動見守る。」と言っただけで、 何もしなかったということは、勧学寮は極めて無責任であったと思います。それから信心正因称名批判を一向に改めず、しかも勧学寮を揶揄し批判する信楽氏に対し勧学寮は何か言うべきではないでしょうかと述べた私に対し「勧学寮の現寮頭(当時は司教)や当時の部長が<そんなことは、あなたが個人でやったら良い>と激しい口調で反対し、当時の寮頭(昭和56<1981>年時とは別人)も「そう言う問題は、御門主様が何も仰らないのに、我々が何もする権限はない」と言い放ちました。信楽氏の主張や態度に全く疑問を持たない信心不決定(未決定、未安心)者であり、また無責任者の集団であることを明らかに知らされたことでありました。「続②近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku2.html <2015,4,7記>)
このようなことでありますから、宗法第59条3に、新たに定められた
3,勧学寮は、宗制に定める教義に相異する義を主張した者に対し、教諭する。(平成24<2012>年4月1日施行)
も遵守しようとする責任感も義務感も皆無なのでありましょうが、全くとんでもない事であります。今は新型コロナ問題で医療崩壊ともいわれ、教団においても様々な問題が発生していますが、教団の責任担当者までが信心不決定(未決定、未安心)者の集団と成り果て、教団の生命である信心教義についての宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通る信心・念仏(カラ念仏や自力念仏とは異なる親鸞聖人や蓮如上人の説かれた他力念仏<報恩念仏>)不在の現状は、まさに教団崩壊と言うことになるのではなかろうかと悲歎する次第であります。合掌 (2020、4,28)。
6年前。この日の思い出を見る
紅楳 英顕 2014年6月2日 ·
信心正因称名報恩批判者に対して正しい教諭がなされることを念じます。それが宗門再生の道と思います。 合掌 紅楳英顕
「続・近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zokukinnen.htm に追記しました。
「 勧学寮は、宗制に定める教義に相異する義を主張した者に対し、教諭する。」と定められたものは、平成24(2012)年4月1日施行でありました。にも拘らず、それの2年以上も後の本願寺派の宗報 2014年5月号に、この件がやっと掲載されたということが、抑々不可解なことであり、勧学寮の怠慢さと無責任さとそれから信心不在さが知らされることであります。「続・近年の本願寺派教学に想う」に述べてありますように、信楽氏の『真宗求道学』(平成23年<2011年>9月発行、法蔵館、160頁。)にも「信心正因称名報恩」を批判し、また『真宗の本義』(2014年7月10日発行、法蔵館、179頁等)にもそれを述べ、その他『親鸞の真宗か 蓮如の真宗か』<方丈堂出版、2014年12月発行、それから
『親鸞はどこにいるのか』(遺稿)<2015,10.法蔵館>にも「信心正因称名報恩」批判が述べられているのであります。
「近年の本願寺派教学に想う」
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm に述べましたように私は「新宗法の下、信心正因称名報恩批判者に対し、早急に教諭し、永年に亘ったこの問題を解決することを、総局には2013年3月18日、勧学寮には同7月5日にお願いした。」のでありますし、その後も再三催促したのですが、何故か総局も勧学寮も全く動こうとはしませんでした。恐らく総局も勧学寮も教義信心はどうでも良いことだという認識しかなかったのでありましょう。監正局にも申し込みましたが、委員の集まる日程が決まらないとか、勧学寮頭を裁く規定はないと言って取り上げず、監正局から来た返信は2014(平成26)年10月3日付けで「先般、貴台より申告のありました件につきましては、平成26年9月26日、嫌疑者死亡につき、当該事務処理を中止いたしましたので、該申告書を返戻いたします。以上」でありました。
「宗制宗法遵守義務放棄」をしても勧学寮頭の責任が問われないということが事実であるなら、何とも納得し難いことであります。これが本当ならば、早急に改善する必要があると思います。これでは現教団の惨状は三業惑乱の比ではないと思います。
教団の生命であるべき教義信心についての「宗制宗法遵守義務放棄」が公然とまかり通るのであれば教団崩壊と言っても過言ではないように思えます。目下、コロナウイルス問題で教団も新たな対処や考慮が必要ではありましょうが、枝葉末端の問題ではなく、真実信心・真実念仏(カラ念仏、自力念仏と異なる他力念仏<報恩念仏>)が不在と成り果てた現教団の抜本的体質改善がなされるべき時であり、またなすべき時であると思います。合掌 (2020、6,2)。
この際申しておきますが、私が監正局に具体的な手続き方法をたずねて監正局の懲罰委員会に申告書を出したのは、平成26(2014)年1月27日付けでありました。その時相変わらず信心正因称名報恩義を否定し続けていた信楽氏と、新宗法第59条3に
3年前
この日の思い出を見る 紅楳 英顕 2017年6月15日
信楽峻麿氏の遺著『 親鸞はどこにいるのか』(2015年10月発行、法蔵館)が出版されています。最後まで宗制 教義に定められた「信心正因称名報恩」義に反対した人でありました(p、9.p、99等)。信前の念仏(20願の真門念仏)と信後の念仏(18願の他力念仏<報恩念仏>)の違いが分からないままであったのでありましょう。
氏ははじめに、に
今日では、過疎問題や社会構造の変化などで、地方の寺院も、都市の寺院も大きな岐路に直面しておりますが、教団当局は、いまもって何らの解決策を示しえず、自然淘汰にまかせているですが、これでは西本願寺の末寺は絶望的でしょう。いまこそ徹底した教団改革が必要でありましょう。... (以下略)。
3年前
この日の思い出を見る 紅楳 英顕 2017年6月18日
·続前(6月15)
想えば1970年(昭和45年)信楽氏が龍谷大学真宗学の教授になった時に、龍谷大学の真宗学から信心は消失したと言えるでありましょう。信楽氏自身が言うように(『
親鸞はどこにいるのか』P,4)、氏が自分の周辺の、「信心正因称名報恩義」反対に賛同する真宗学教員と語らって、「教団改革をすすめる会」を結成し、旗あげをしたのがその翌年1971年(昭和46年)のことでありました。
1981年(昭和56年)、当時の勧学寮頭は宗制教義に反対する信楽氏に何の処置もしなかったのです。この時勧学寮からも信心は消えたと言っても良いと思います。今は寮頭自身が十劫安心(十劫邪義)に陥り、宗制教義の信心正因義
に反対するのですから、信心は完全に勧学寮からも消滅したと言っても過言ではないと思います。(以下略)
上文に述べましたように、信楽氏が教授となった1970年(昭和45年)から龍大真宗学から信心が消失したと言えると思いますし、1981年(昭和56年)、当時の勧学寮頭が宗制教義(信心正因称名報恩)に反対する信楽氏、岡氏に何の処置もしなかった、この時勧学寮からも信心は消えたと言っても良いと思います。(信楽氏も岡氏も生涯考えを改めることはなかったのに、勧学寮は何もしなかった。)
しかもその後、宗法第59条3に、勧学寮は、宗制に定める教義に相異する義を主張した者に対し、教諭する。(2012<平成24>年4月1日施行)<岡氏は既に逝去していたが、信楽氏は生存>が定められたのに、勧学寮はまたこれも一向に遵守しようとしなかったのであります。まさしく勧学寮の宗制宗法遵守義務放棄であります。教団の生命である信心教義についてのことでありますので、この上ない大罪大過と言えると思います。これを監正局に尋ねましたところ、「勧学寮頭を裁く規定はない」と言うことでありました。これはとんでもないことであります。勧学寮頭は「如来聖人」ではありません。はっきり言って教義安心上間違いだらけの人だと思っています。「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm 等。