「続㉜近年の本願寺派教学に想う」
   これは「続㉛近年の本願寺派教学に想う」e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku31.html に続くものです。

昨年(2021)9月、関西大学で開催されました日本宗教学会二〇二一年学術大会(八〇回)の研究発表内容が掲載された『宗教研究』95巻別冊(2022)がネットで公開されました。https://jpars.org/journal/bulletin/vol_95 (私の発表内容はp、308)。
私のテーマは前に述べました「浄土真宗本願寺派における一念覚知説と生涯不決定説」であり、内容はこれも前に述べました。

【浄土真宗本願寺派において、江戸時代に三業惑乱(一七九七頃―一八〇六)と言われる教義論争があった。この時の本願寺第十九代宗主本如の『御裁断御書』(一八〇六、一一、六)には「シカルニ近頃ハ 当流ニ沙汰セサル三業の規則を穿鑿シ 又コノ三業にツキテ自然ノ名ヲタテ 年月日時ノ覚不覚ヲ論シ 或ハ帰命ノ一念ニ妄心ヲハコヒ マタハ三業ヲイメルママ タノムノコトハヲキラヒ 此ノ余ニモ マトヘルモノ是有ヨシ マコトニモテ ナケカシキ次第ナリ」(『浄土真宗聖典』一三四七)とある。『御裁断御書』には「三業の規則を穿鑿シ…年月日時ノ覚不覚ヲ論シ…」(三業派)、と「マタハ三業ヲイメルママ タノムノコトハヲキラヒ…」とあるように三業派、十劫秘事(十劫安心)派双方に対しての裁断であったのである。
ところが当時の寺社奉行が三業派を不正義と裁決した(一八〇六、七、一一)こともあった故か、以後本願寺派教団において年月日時ノ覚不覚ヲ論ずること(一念覚知説)については厳しく扱われたが、十劫秘事(十劫安心、無帰命安心)については極めて曖昧な扱いがされ、機辺の決定心を自力として否定する傾向があったように思われる。  三業惑乱終結の間もない頃と思われるが南渓(一七九○ー一八七三)は「心得たと思は心得ぬなりと云ひ機辺の決定を排する邪義、御一代記聞書末三十四丁(真聖全三の五八四) に云云とあれば我等がたすかるわけは仏辺に成してあれば夫れを聞くばかり、機辺と信心決定の安堵のと云へは皆自力なり夫れこそ心得たとおもふになるなり。評云此は一句一言を截りとり妄義を搆ふるなり、(中略)察する処三業の後意業運想などおこりて、機辺の受け前を己れが妄情穿鑿して御裁断ありしより機辺に領解を語れば自力なりと、偏へに心へて、如是妄説を成す、全く他の無相離念に同じ何ぞかかる安心あるべきや、(中略)領解文には往生一定御助け治定と存じとある、存は亡に対して心内にあることなり、仏智を凡心に領受したる処なり。此御文にはしばしばこころえよとの玉ふ。何ぞ機受決定を排却せんや、(中略)御助けは一定往生治定と存ずと云ふ往生安堵の思ひに住するをこそ決定心を得たる人と云べし、この決定を排却するときは生涯不決定を以て安心とするや、若決定不決定を機受に求めずと云はば十劫秘事なり。(『新二十邪義批評』<『六条学報』第二十二、1903刊>)」と述べ、機辺の決定心を否定すること(生涯不決定説)を十劫秘事とし、誤りとしているのである。
 三業派を論伏し『御裁断御書』の礎となった大瀛の『横超直道金剛錍』においても、一念覚知と十劫秘事の双方の誤りが指摘されている。そして注意すべきは「一念覚知」を誤りとする意味は、三業派が獲信時の年月日時を必ず覚えてなければならないと主張していることであり、その記憶があるはずはない、と述べてはいないのである。(拙著 『親鸞聖人の念仏論』(永田文昌堂、二〇一八、六。七頁以下)。
 『御裁断御書』の少し前に出された『御裁許書』に「近来心得違ノ輩ラコノ一念ニ付三業ノ義則ヲ穿鑿シ或ハタノミシ年月日時ヲオホヘサレハ信心ニアラストサタスルヲ頌テ却テ御正化ニモトツカサルタクヒコレアルヨシ大キニ歎キ思召ルル処ナリ(享和元辛酉<一八〇一>稔初秋下旬 龍谷第十九世釈本如 越前福井坊舎法中門徒中)とあることからもこのことは明らかである。一念覚知の異義とは「タノミシ年月日時ヲオホヘサレハ信心ニアラス」と主張したことであり、決定心を否定する生涯不決定説を述べたのではないのである。】

であります。
これに関しましては以前に「続㉙近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku29.html に述べましたが、現在の本願寺派教団の信心不在体質に関わる諸問題が多く存していますのであらためて論じたいと思います。 合掌
『宗教研究』は字数に制限がありますので言葉足らずの点がありますが、私が言いたいことは「一念覚知説」も「生涯不決定説」も誤りではありますが、とくに「一念覚知説」については現在、間違った理解が多くあります。正しい理解が必要であると論ずることが私の意図するところであります。合掌  (2022,1,30)。

「一念覚知説」についての問題点。
獲信(信心決定)の自覚を語ることが一念覚知であるという意見がありますが、これは間違いであります。ここに示しました『御裁許書』に「近来心得違ノ輩ラコノ一念ニ付三業ノ義則ヲ穿鑿シ或ハタノミシ年月日時ヲオホヘサレハ信心ニアラストサタスルヲ頌テ却テ御正化ニモトツカサルタクヒコレアルヨシ大キニ歎キ思召ルル処ナリ(享和元辛酉<一八〇一>稔初秋下旬 龍谷第十九世釈本如 越前福井坊舎法中門徒中)とありますように、「獲信(信心決定)時の年月日時を覚えていなければ信心ではない」ということが間違いであるとしたのであり、獲信(信心決定)の自覚を語ることが一念覚知の異義であるとしたのではありません。
もし獲信(信心決定)の自覚を語ることが一念覚知であるというのであれば、 『教行証文類』「化土巻」に「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雜行を棄てて本願に帰す。」(『浄土真宗聖典』P,472)。「ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり」(『浄土真宗聖典』P,413)等と述べられている親鸞聖人御自身が、一念覚知の異義者であるという、とんでもないことになりましょう。
私自身も今の教団の教学責任担当者の方々から陰で、一念覚知の異義者であるといわれていると複数の人々から聞いております。陰でいわずに呼び出して、教諭なり処分なりして下さい。私も遠慮なく意見を述べ、教団のあるべき方向を申し上げます。

「生涯不決定説について」
これは我々凡夫は死ぬまで一生涯、往生一定の確信をもつことは出来ないと考える間違いであります。親鸞聖人は「わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏こころにいれて申して」(『浄土真宗聖典』P,784)等と述べておられ、御自分の往生の確信を述べておられます。
大変残念なことですが、現在の教団の教学責任担当者の中にも、この間違いの人が多いようであります。上に述べました獲信(信心決定)の自覚を語ることが一念覚知であるという意見の人にこの誤りが多いようです。『庄松ありのままの記』の改竄断章をする人達が大体この誤りの人であります。
このような謬見の人達が現在の教学責任担当者には多いのです。それに加えて1981年以来、宗制教義、信心正因称名報恩に反対する者に「今後の教学活動を見守る」と言っただけで何もせず、宗制宗法遵守義務放棄という大過者のままで、片方では平然と「改悔批判」として「信心正因称名報恩」を強調する「領解文」の発声出言を行い続けるとは、全く一般寺院住職、僧侶、門信徒に対する欺き行為、背信行為であると思います。早急の大改善が必要と思います。  合掌
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(2022/02/01)。

信心決定の自覚のない人や、往生一定に確信のない人は、救済体験(獲信体験)のない人でありますから、信前の念仏(カラ念仏<僧侶なら営業念仏>、自力念仏)と信後の念仏(他力念仏、報恩念仏)の違いの分からない、信心不決定(未決定、未安心)の人であります。それで信心正因称名報恩の意味も本当には分かっていない人達と言っても過言ではなかろうと思います。合掌
  (2022,2,1)。



教学責任担当者までが「信心正因称名報恩」の意味も分からない、営業念仏と報恩念仏の違いの分からない、救済体験(獲信体験)のない、宗制宗法遵守義務放棄者の集団と成り果て、「御正忌報恩講法要」の一番重要な儀式である、「改悔批判」も全く形骸化しているのが教団の悲しむべき現状であります。

一句浮かびましたので、下記します。

悲歎教団現状 (教団の現状を悲歎す。)
                          紅楳英顕

信因称報反対倫  信因称報(しんいんしょうほう)反対(はんたい)倫(りん)。
不識念仏自他違  念仏(ねんぶつ)の自他(じた)の違(い)を識(し)らず。
真言衰退等法滅  真言(しんごん)は衰退(すいたい)し、法滅(ほうめつ)に等(ひと)し。
応慮立開慶讃幾  応(まさ)に慮(おもんばか)るべし。立開慶讃幾(りっきょうきょうさんけ)。

<意訳>
「信心正因称名報恩」に反対する倫(人達)は、救済体験(獲信体験)のない信心不決定(未決定、未安心)の人達でありますので、自力念仏(信前の念仏、カラ念仏<営業念仏>)、と他力念仏(信後の念仏、報恩念仏)の違い(ちがい)が分からないのです。
悲しむべきことに、今の教団は真言(浄土真宗の教え)は衰退し、法滅の時代に等しい状態であります。
深く考慮しなければなりません。諸問題山積であります。親鸞聖人御誕生850年、立教開宗800年慶讃法要は間近であります。  合掌
2022,2,9

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 (2022,2,9)。


先日(2022,1,17)、浄土真宗本願寺派勧学寮の2021(令和三)年度『例会研究紀要』を手にして驚きました。新しく勧学、司教になったお二人の研究論文が掲載されていたのですが、お二人の論文の内容は両方とも本願寺宗制三章 教義に定められている(2008,4,1.再制定)「信心正因称名報恩」義を否定する内容のものでありました。また「信心正因称名報恩」義を否定するということは勧学寮に関する宗法第五十九条3の「勧学寮は、宗制に定める教義に相異する義を主張した者に対し、教諭する。」(2012,4,1)に反することであります。従って勧学、教が「信心正因称名報恩」義を否定するということはあってはならないはずのことであり、現在の勧学寮は全く正常に機能していない形骸化したものといえるでありましょう。
何度も述べましたが、今の勧学寮は「信心正因称名報恩」の意味すら分からない、宗制宗法遵守義務放棄者、救済体験(獲信体験)のない、信前の念仏(カラ念仏<僧侶であるなら営業念仏>、自力念仏)と信後の念仏(他力念仏、報恩念仏)の違いの分からない、信心不決定(未決定、未安心)者の集団であるといっても過言ではなかろうと思います。
最近教団の門信徒の方の中にも勧学寮に疑問を持つ人達が現れておりますが、教団の信心不在体質は一刻も早く改善しなければならないと考えます。合掌
「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「続⑪近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku11.html
「続㉜近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku32.html
尚、「信心正因称名報恩」については、拙著『親鸞聖人の念仏論』(永田文章堂、2018,6、20。)第五章 現代における念仏論に関連する諸問題 p、234以下に述べています。
  (2022,2,19)。

<一般寺院住職F氏>
勧学、司教が「信心正因称名報恩」を否定するとは、信じられません。私は、「信心正因称名報恩」を大切にして現生においては正定聚のお仲間として生き、信心し、決定の予定です。「往還回向由他力 正定之唯信心」です。

<紅楳>
一般寺院の御住職には信じられないことが起こっているのが教団の現状なのであります。
教団の生命である教義について、宗制に定められている「信心正因称名報恩」を無視し、宗法に定められているそれに反する者に対する教諭義務をも放棄しているのが、現在の勧学寮なのであります。40年程前のことになりますが、当時龍谷大学の真宗学の現職教授であった信楽氏、岡氏の「信心正因称名報恩」反対問題に対して、勧学寮は何の教諭も処置もしなかったのですが、その頃から現在まで、その流れが続いているのであります。私がFB等で今の勧学寮は営業念仏と報恩念仏の違いの分からない、宗制宗法遵守義務放棄の、信心不決定(未決定、未安心)者の集団だといっているのはこの意味であります。
勧学寮に問い質してみられたら良いと思います。
それからこの「信心正因称名報恩」に常日頃は反対する一方で、『御正忌報恩講法要』の一番重要な儀式である「改悔批判」では、御門主の安心正否批判の代理をする勧学が「信心正因称名報恩」を強く説く『領解文』を発声し、一同出言するのであります。これは勧学寮の全くの矛盾欺瞞行為であり、「信心正因称名報恩」を浄土真宗の正義と頂いている一般寺院住職、僧侶、門信徒に対する重大な欺き行為、背信行為と言えると思います。
最近門信徒の方々の中で勧学寮に対する不審の声が上がっています。御住職方もお声を上げられたらどうでしょうか。それが教団の発展に繋がることと私は考えます。 合掌
「近年の本願寺派教学に想うhttp://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
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「続㉜近年の本願寺派教学にう想う」

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<一般寺院住職F氏>
ありがとうございます。「『信心正因称名報恩』に常日頃は反対する一方で、『御正忌報恩講法要』の一番重要な儀式である『改悔批判』では、御門主の安心正否批判の代理をする勧学が『信心正因称名報恩』を強く説く『領解文』を発声し、一同出言するのであります。」は信じられません。勧学、司教となるかたは、仏教学、真宗学に精通された方々だと思っているので。

<紅楳>
大変結構な御意見を頂戴したと思います。何度も申してきたことでありますが、教団の責任担当者(教学面、行政面)までが、信心正因称名報恩の意味も分からない、営業念仏と報恩念仏の違いさえ分からない、信心不決定(未決定、未安心)者の集団と成り果て、宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通る信心不在の頽廃堕落の状態となっているのが教団の現状であります。
このままではただ衰微の一途を急速に辿るのみだろうと思われます。
浄土真宗にご縁のある者の全員が力を合わせ、教団幹部の方々にも遠慮なく意見を述べて、真実の教である真宗復興の為に尽力すべき時がすでに来ていると決意すべきであろうと思います。
「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm を書き始めて10年になりました。㉜までになっていますが、同じ頁で御覧いただけますので、お読み頂ければ幸甚であります。合掌
  (2022,2,21)。



龍谷大学の真宗学のみならず、勧学寮までが宗制教義に定められている{信心正因称名報恩の意味さえ分からない救済体験(獲信体験)のない、信前の念仏(カラ念仏<僧侶なら営業念仏>)と信後の念仏(他力念仏、報恩念仏)との違いの分からない、信心不決定(未決定、未安心>者の集団となり果てて、宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通ているのが教団の現状であります。

こんな信心不在体質のままで、教団の発展振興があるはずはありません。最近門信徒の方々や、一般寺院の方々、宗会議員の方々からも将来を憂う声が上がっております。
私が「近年の本願寺派教学に想う」→㉜ http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm を書き始めたのは10年前のことでありました。信心不在体質改善のための抜本的な大改善がなされねばならない時は、もうとうにすでに来ていると思います。合掌
  (2022,3、5)。

親鸞聖人は『教行証文類』「総序」の終わりのところに「ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西番・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇うことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を教信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。(『浄土真宗聖典』P,131)と述べられています。
聖人は信心獲得(信心決定)の身となられて、「慶ばしいかな」と大きな慶びを得られ、「ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ」と如来の御恩のまことに深いことを実感されたのであります。
近年の本願寺教団では教学責任担当者が信心不決定者の集団となり果てて、「信心正因称名報恩」の意味が分からないのみならず、「称名報恩」義は親鸞聖人にはなかったという意見や、信心決定によって消滅する「疑無明(本願疑惑の心)」と生涯続く「痴無明(煩悩妄念の心)」の違いの分からない人や、十劫の昔から助かっていると考えて信心決定、往生一定の想いは凡夫にはないものと考える十劫安心、生涯不決定説の人が多いのであります。
このような信心不決定(未決定、未安心)者が教学責任担当者に多いため、あってはならないはずの宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通っているのが誠に情けない教団の現状であります。そして困ったことはこのような救済体験(獲信体験)のない信心不決定者は「信心決定、往生一定」の想いはないものと思い込んで「信心決定、往生一定」の想いを語るとすぐにその人を「一念覚知の異義者」と決めつけるのであります。
私も随分陰で「一念覚知の異義者」といわれたものであります。複数の証人もいることであり、このことははっきりしなければならないと思っています。
教団の現状は「信心不決定者」(未決定者、未安心者、十劫安心者、生涯不決定者)が正安心者であり、信心決定者が一念覚知の異安心者とされる全くおかしなこととなっているのであります。このおかしな現象(信心不在体質)が教団衰微の一番大きな原因と言えると私は思います。早急に改善しなければならない重大事だと思います。三業惑乱の比ではなかろうと私は考えます。
他にもありますが、私が「一念覚知の異義者」呼ばわりをされた一例を示します。「続⑪近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku11.html の中の(2,018,11,9記)です。(これは一例です。他にもあります。)  合掌
      (2022,3,9)。

教団内の教学者は自らが救済体験(獲信体験)がないことと、一念覚知の異義者といわれることを恐れて、「信心決定の自覚」を語ることが間違いとする傾向がありますが、笠原一男氏は「現代の教団人にもっとも切望されるものは、信心決定の自覚であるといえよう。」(『現代人と仏教、日本人の行動と思想21』評論社、1971,P,187)と述べています。
いみじくも、信楽氏岡氏等が「信心正因称名報恩」に反対して、教団改革運動をはじめた年でもあり、生かじりのマルクス主義洗脳者による現代教学樹立が盛んに叫ばれた頃のことでありますが、私は今も笠原氏の意見が正しいと思っています。 合掌
    (2022,3,9)。
これは「続㉝近年の本願寺派教学に想う」e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku33.html に続きます。