誕生日のお祝いのメッセージ有難うございました。
私が生まれたましたのが昭和16年(1941)4月24日でありますので、今日が80
才の誕生日であります。お陰様で今日まで生かさせて頂きましたことを大変有難く思っています。
色々なことがありましたが、私にとって一番大きなことは浄土真宗に出遇わさせて頂いたことであります。
ここで言います出遇いとは、親鸞聖人が『一念多念証文』に「遇はまうあうといふ、まふあふと申すは本願力を信ずるなり。」(『浄土真宗聖典』P,691)と述べられています「本願力を信ずる」ことであります。
本願寺派の寺院の長男に生まれた私ではありますが、私の人生における一番大きな出来事はこのことに他なりません。(61年前の19才の時)。
それ以来、私なりに浄土真宗の僧侶としての「自信教人信」の道に精進してまいりました。
幸いにしてインターネットの時代となり、大勢の外国の人達と浄土真宗の教えを語ることができたことを大変嬉しく有難く思っています。
今や人生100年と言われています。それなら、まだ20年あることになります。
残りの人生も浄土真宗の復興発展のために精進したいと思っています。
今後とも宜しく御高誼の程、御願い申し上げます。 合掌
Thank you for my birthday congratulatory message.
I was born on April 24, 1941, so today is 80. It's my birthday.
Thanks to you, I am very grateful that I have been able to keep it alive to this day.
There were many things, but the biggest thing for me was that I encountered to Jodo Shinshu.
The term " encounter" here means that Shinran Shonin wrote in the "Ichinentanenshomon" (NOTES ON ONCE-CALLING AND MANY-CALLING) that "Encounter means to entrust oneself to the power of the Primal Vow." It is to "believe in the power of the Primal Vow" as stated.
I was born to the eldest son of a Honganji sect temple, but this is the biggest event in my life. (When I was 19 years old 61 years ago).
Since then, I have devoted myself to the path of "confidence instructorship" as a priest of the Jodo Shinshu sect.
Fortunately, in the age of the Internet, I am very happy and grateful to be able to talk with many foreigners about the teachings of Jodo Shinshu.
It is said that we have 100 years of life now. Then there are still 20 years.
I would like to devote myself to the reconstruction and development of Jodo Shinshu for the rest of my life.
I look forward to working with you in the future. Gassho
(2021,4,24)。
今日の80才(傘寿)の誕生日に当たり、一句浮びましたので記します。(下記)
今迎傘寿日 今(いま)迎(むか)える傘寿(さんじゅ)の日(ひ)。
深憶衆人恩 深(ふか)く衆人(じゅうじん)の恩(おん)を憶(おも)う。
無明濁世仲 無明(むみょう)濁世(じょくせ)の仲(なか)。
念仏唯真言 念仏(ねんぶつ)唯(ただ)真言(しんごん)なり。
<意訳>
今満80才を迎えました。お陰様で生かされて今まで生きて参り、御厚誼を賜りました大勢の方々に深く御礼を申し上げます。
しかしながら、現実の世の中は、無明煩悩のみちみちた迷いの濁りの無常の世であります。
すべてそらごとたわごとでありますが、ただ阿弥陀様から頂いたお念仏だけが真言(真実、まこと)であります。
ここに述べます「念仏は」親鸞聖人の『正像末和讃』に「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」(『浄土真宗聖典』P,607)とあります「真実信心の称名」(他力念仏)のことであり、「自力の称念」(自力念仏)ではありません。
また蓮如上人も『御文章』(3の3)に「ただ声に出して念仏ばかりをとなふるひとはおほやうなり、それは極楽には往生せず。この念仏のいはれをよくしりたる人こそほとけにはなるべけれ。なにのようもなく、弥陀をよく信ずるこころだにも一つに定まれば、安く浄土へはまいるべきなり。(『浄土真宗聖典』P,1139)と述べていますように、信心のない念仏(無信単称)の念仏(信心のない自力念仏)ではだめだと言われています。このことが大変大事なことであります。浄土真宗の念仏は信心の具わっている念仏であり、御恩報謝の念仏であります。
それなら信心のない人(未信の人)や幼児はどんな気持ちで念仏すればよいのでしょうか、と尋ねられたことがありますが、浄土真宗のお流れを頂くものは、その人それぞれの気持ちで報謝の念仏をしたら良いであろうと思っています。 合掌
(2021,4,24)。
現在の教団の大問題は教団の責任担当者(教学面、行政面)までが、親鸞聖人の説かれた念仏の意味が全く分からなくなってしまっていることであります。
上にも述べましたように親鸞聖人は「真実信心の称名」(他力念仏)をすすめられ、信心のない自力の称念(自力念仏)は嫌われ、廃されたのであります。同様に蓮如上人も「信心のない念仏」(無信単称の念仏)は廃されました。
ところが現教団の現状は責任担当者(教学面、行政面)までが宗教体験(救済体験、獲信体験)のない人達で、信前の念仏(カラ念仏<僧侶なら営業念仏>、自力念仏)と信後の念仏(他力念仏<真実信心の称名>、報恩念仏)との違いが全く分からず、「信心正因称名報恩」意味も分からない、宗制宗法遵守義務放棄という、正常な教団であるならば、賦課金納付義務放棄にも勝さる大罪を公然と行う集団となっているのであります。このようなことで教団の発展振興があるはずはないのであります。
今や、コロナ禍対策どころではないと思われます。信心不在体質の早急の抜本的改善が必要だと思います。 合掌