「続㉔近年の本願寺派教学に想う」     

     これは「続㉓近年の本願寺派教学に想う」  http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku23.html に続くものです。

本願寺派新報(2021,3,20)に想う。

東日本大震災が10年前の2011年3月11日の事でありました。私はたまたまその翌日の3月12日の午後に築地本願寺で講座の予定がありました。東北で地震や津波が発生したことはテレビで知ってはいましが、東京も大変であったことは知りませんでした。新幹線は通っていましたので予定通り築地本願寺まで出向いたのでありますが、東京も大変であったことをその時知らされたのであります。2万人以上の犠牲者を出した大惨事であったのであります。多くの犠牲となった方々に謹んで哀悼の意を表す旨が新報に述べられています。
私は多くの犠牲となった方々を悼み哀悼の意を表する事も尊い事でありますが、浄土真宗の御流れを頂く者として、それより大事な事は、常日頃から、信心決定による現世からの救いを頂く、現生正定聚、平生業成、生きてよし死してよし、の教えを良く説く事であると思います。浄土真宗の将来を考えるためには、この事が大変大事であろうと思います。
この日の新報の第6面に石上総長の『宗務の基本方針策定にあたって』とあり、終りの方に【親鸞聖人が「お念仏こころにいれて申して、世の中安穏なれ、仏法ひろまれ」と願われたお心を、改めて深くうけとめ、・・・】と述べられているのでありますが、何故かこの御文の大事な部分が省かれているのであります。ここの親鸞聖人の御文は「わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏こころにいれて申して、世の中安穏なれ、仏法ひろまれととおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ。」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,784)とあるのであります。すなわち大事な部分であります「わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために」が抜けているのであります。
即ち信心決定して、往生一定の身〈現生正定聚)となり、報恩の念仏を称える、真宗信者としての要の部分が抜けているのであります。大変困った事と私は思います。
こんな事では信心正因称名報恩の意味も分からない、勧学寮の賦課金納付義務放棄に勝る重罪の宗制宗法遵守義務放棄が罷り通ったり、「改悔批判」完全形骸化がまかり通るのもやむを得ない事かもしれませんが、教団の信心不在体質は益々深刻となるでありましょうし、誠に歎かわしく思う次第であります。  合掌   
       (2021,3,23)。

私が、信心正因称名報恩批判者に対し、教団が早々に教諭し、永年に亘ったこの問題が解決することを願って、ネットに出しましたのは、2012年11月19日でありました。8年と4か月前と言う事になります。
信心正因称名報恩義が本願寺派の宗制教義に定められたのは1941年だと思います。そして宗法第59条3に勧学寮は、宗制に定める教義に相異する義を主張した者に対し、教諭する。と定められたのが、2012年4月1日でありました。私はネットに出した後、新宗法の下、信心正因称名報恩批判者に対し、早急に教諭し、永年に亘ったこの問題を解決することを、総局には2013年3月18日、勧学寮には同7月5日にお願いしたのであります。その後何度か総局、勧学寮に督促したのでありますが、全く何もなされる事はなく、今日に至っているのであります。 総局、勧学寮が、何故か宗制教義に反する信心正因称名報恩批判者を擁護する傾向がある事にかねて疑問を感じていたのでありますが、この度(本願寺新報、2021,3,20)の言葉でよく分かりました。上に述べましたように総長は親鸞聖人のお言葉の大事な部分であります「わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために」を抜いて、ただ「お念仏こころにいれて申して、世の中安穏なれ、仏法ひろまれ」のみを述べているのであります。(前に述べましたある人が、庄松同行の話の中で、改竄断章をしているのと同類であります。)この事は、信心決定して、往生一定の身(現生正定聚)となり、報恩の念仏をする身となる事を説かれている親鸞聖人の御心が全くお分かりでない事が明らかであります。これは宗法第59条3の遵守義務放棄の勧学寮も全く同じ事であります。何度も申すことでありますが、このような事がまかり通る教団に未来はなかろうと思います。 信心正因称名報恩反対義を批判する私の意見を教学論の相違だという意見もあるようですが、それは違っています。これは単に教学論レベルではなく、宗教体験(救済体験、獲信体験)の有無の問題なのであります。 信心正因称名報恩義を否定する人は「御報恩のため」のお念仏の世界の分からない信心不決定(未決定、未安心)の、現生正定聚に住していない人と言えると思います。こういう人達が教団の責任担当者である事が、現在の教団の悲劇と言えるでありましょう。 合掌
「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「続⑳近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku201.html
  (2021,3,24)。


上(2015,4,5)にありますように大原氏は信楽氏、岡氏の師でもありました。岡氏はその小論の中に、自分は大原氏にお宅に呼ばれから【道を間違えている以上、自分は勧学寮頭として君たちをさばかねばならない。】と言ったのですが、次の勧学寮頭は両氏に対して何もせず、その後両氏は基幹運動の委員になり、信楽氏は監正局長にもなったのであります。教団は宗制教義反対者を教諭することもなく裁くこともなく、何故かむしろ優遇したのであります。そして宗法第59条3に、勧学寮は、宗制に定める教義に相異する義を主張した者に対し、教諭する。(20124月)と定められたのに勧学寮は何もすることはありませんでした。
信楽氏も岡氏も「信心正因称名報恩」義批判を改める意思は最後まで全くありませんでした。これ信楽氏は遺著『親鸞はどこにいるか』(法蔵館、2015,10)、岡氏は晩年の著『親鸞の念仏』(法蔵館、2006,4)で明らかであります。
このように、信心教義について宗制宗法遵守義務を放棄しているのが現在の勧学寮であります。(これは正常な教団であるなら、賦課金納付義務放棄より重罪といえると思います。)、またこれを容認しているのが総局である言えます(御門主様が何も言われないのに我々が何も言う権利はないと言った寮頭もいましたが、これは狡い逃げであります。安心問題で御門主に意見をし、切腹した能化<今の勧学寮頭>がいたと聞いています。)何度も申してきたことでありますが、このような有様では教団はただ衰微の一途を辿るのみであろうと悲歎するのであります。 合掌

「続⑬近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku13.html (2019,6,19記)。
「続⑰近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku17.html (2020,5,12記)。   (2021,4,7)。


6年前

2015416  ·
今年は戦後70年の年であり、また 蓮如上人 降誕600年の年である。私は終戦の頃からの記憶のある年代であるが、教団の戦争協力の問題については大いに反省すべきところはあると思う。しかし私が大変遺憾に思うのは、教団内の一部の知識人等が宗教否定主義のマルクス主義に影響されて『教行信証』「化土巻」の 「主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨みを結ぶ。(主上臣下、背法違義、成忿結怨、)」( 浄土真宗聖典p、471)。とある漢字にしてたったの12文字が、6万8千文字と言われる『教行信証』の思想の全てであるように考えて、専ら反権力的行動をすることこそが親鸞聖人の信心であるかのように言う全く誤った主張をしたことである。 この誤った親鸞聖人の信心理解により、不必要な権力との摩擦を避けようとされた蓮如上人 の姿勢が全く親鸞聖人の教えと異なるものと断ぜられ、 蓮如上人の教えは親鸞聖人の教えを歪めるものと非難されたのである。 これに影響されて現在なお、誤った蓮如上人 非難が横行しているのである。そしてこの戦後における誤った親鸞聖人理解の発生が現教団の信心不在体質を生んだ大きな原因の一つであろうと思うのである。 戦後70年、ソ蓮崩壊からももう24年経過した。マルクス主義の悪影響によって生じた変質した親鸞聖人理解による、見当はずれの蓮如上人批判はもうこれ位で完全に終息されるべきである。 蓮如上人降誕六百年の慶賀なる今年こそが、宗門再生の好スタートの年と考えたい。
  合掌   紅楳英顕

今も全く同感であります。マルクス主義の影響による誤った親鸞聖人理解が、蓮如上人理解の誤りともなり、宗制教義に定められている「信心正因称名報恩」義までも誤りとする謬見が横行しているのであります。
そして教団の責任担当者(教学面、行政面)の人達までが、「信心正因称名報恩」義の意味の分からない、宗制宗法遵守義務公然放棄の信心不決定(未決定、未安心)者の集団となり果てているのであります。信心不在の全く情けない教団の現状であります。
近日中に私の『浄土真宗がわかる本―親鸞聖人とその教え』(1994,12)のロシア語版がロシア(永年、宗教を否定するマルクス主義<共産主義>の国であった旧ソ連)で出版されるとのことであります。大変有難く慶ばしく思っています。 合掌

「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「続⑧近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku81.html
「続㉔近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku24.html
  (2021,4,16)。



『本願寺新報』(2021,4,20)の第2面に、ある教学責任担当者の記事が載せられ、途中の見出しに「感謝の念仏を申して、・・・・」とありましたので、宗制宗法遵守義務放棄(「信心正因称名報恩」義反対者対して何の処置もしない)という自分達の大罪についての慚愧心が少しは生じてきたのかと思ったのでありますが、内容を読んで甚だ失望致しました。
「感謝の念仏を申して、・・・・」とは、その最後のところにあるのですが「やがては、阿弥陀さまのお浄土で本当のしなやかな心をいただける私たちなのですから、感謝のお念仏を申して、すこしでも心安らかな仏さまのお心にかなうよう努力し、・・・・」とあります。
「やがては、阿弥陀さまのお浄土で本当のしなやかな心をいただける私たちなのですから、」とありますが、信心がなければ浄土に生まれることはできません。この記事には信心のことは全く述べられてはいないのです。無信心往生説は浄土真宗ではありません。
こういう無信心往生説が、「十劫安心」「無帰命安心」と言われているのであります。
親鸞聖人は「信心定まるとき往生また定まるなり」(『浄土真宗聖典』P,735)といわれています。弥陀成仏の十劫の昔に我々の往生が決定しているのではないのです。信心決定(信心獲得)の時に往生決定するのです。このことを浄土真宗のお流れを頂く我々はよく承知させていただく必要があると思います。
「未信の者はどんな気持ちで念仏すればよいのでしょうか?」という質問に、私は「その人なりに報恩の気持ちで念仏したら良いと思います」と答えました。浄土真宗の念仏は往生のための念仏でもなければ、信心を生じさせるための念仏でもありません。阿弥陀仏に対する感謝の念仏であります。それは信心決定の上での報恩の念仏であります。
何度も申すことでありますが、本願寺派教団の現状は教団の責任担当者(教学面、行政面)までが、信心正因称名報恩の意味も分からない信心不決定(未決定、未安心)者の集団となり果てているのであります。このままでは教団の発展振興は到底望むべくもありません。早急の体質(信心不在)改善を要すると思います。 合掌
「続②近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku2.html
「続⑪近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku11.html
「続㉓近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku23.html

「信心正因称名報恩」義を否定する人。宗制宗法遵守義務を放棄する人、並びにこれを容認する人。無信心往生(十劫安心、無帰命安心)を語る人。痴無明(煩悩妄念心)と疑無明(本願疑惑心)の違いを否定する人等。
これらの人々は現在の教団の責任担当者(教学面、行政面)に大勢おられるように見えますが、これら人々は宗教体験(救済体験、獲信体験)のない、信心不決定(未決定、未安心)の人であろうと思います。その人々の称える念仏、語る念仏は、親鸞聖人の言われる「真実信心の称名」(『浄土真宗聖典』P,607)、「弥陀の回向のみ名」(同P,617)、「御報恩のために御念仏」(同P,784)とある念仏とは甚だ異なるものであり、「現生正定聚の人」の念仏でもないのであります。
こんな状態が続く限り、教団の発展振興は到底あり得ないことと考えます。合掌
「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「近年の本願寺派教学に想う」追加。http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnentsui.htm
 (2012,4,18)。



誕生日のお祝いのメッセージ有難うございました。
私が生まれたましたのが昭和16年(1941)4月24日でありますので、今日が80
才の誕生日であります。お陰様で今日まで生かさせて頂きましたことを大変有難く思っています。
色々なことがありましたが、私にとって一番大きなことは浄土真宗に出遇わさせて頂いたことであります。
ここで言います出遇いとは、親鸞聖人が『一念多念証文』に「遇はまうあうといふ、まふあふと申すは本願力を信ずるなり。」(『浄土真宗聖典』P,691)と述べられています「本願力を信ずる」ことであります。
本願寺派の寺院の長男に生まれた私ではありますが、私の人生における一番大きな出来事はこのことに他なりません。(61年前の19才の時)。
それ以来、私なりに浄土真宗の僧侶としての「自信教人信」の道に精進してまいりました。
幸いにしてインターネットの時代となり、大勢の外国の人達と浄土真宗の教えを語ることができたことを大変嬉しく有難く思っています。
今や人生100年と言われています。それなら、まだ20年あることになります。
残りの人生も浄土真宗の復興発展のために精進したいと思っています。
今後とも宜しく御高誼の程、御願い申し上げます。 合掌
Thank you for my birthday congratulatory message.
I was born on April 24, 1941, so today is 80. It's my birthday.
Thanks to you, I am very grateful that I have been able to keep it alive to this day.
There were many things, but the biggest thing for me was that I encountered to Jodo Shinshu.
The term " encounter" here means that Shinran Shonin wrote in the "Ichinentanenshomon" (NOTES ON ONCE-CALLING AND MANY-CALLING) that "Encounter means to entrust oneself to the power of the Primal Vow."   It is to "believe in the power of the Primal Vow" as stated.
I was born to the eldest son of a Honganji sect temple, but this is the biggest event in my life. (When I was 19 years old 61 years ago).
Since then, I have devoted myself to the path of "confidence instructorship" as a priest of the Jodo Shinshu sect.
Fortunately, in the age of the Internet, I am very happy and grateful to be able to talk with many foreigners about the teachings of Jodo Shinshu.
It is said that we have 100 years of life now. Then there are still 20 years.
I would like to devote myself to the reconstruction and development of Jodo Shinshu for the rest of my life.
I look forward to working with you in the future. Gassho
(2021,4,24)。
今日の80才(傘寿)の誕生日に当たり、一句浮びましたので記します。(下記)
今迎傘寿日  今(いま)迎(むか)える傘寿(さんじゅ)の日(ひ)。
深憶衆人恩  深(ふか)く衆人(じゅうじん)の恩(おん)を憶(おも)う。
無明濁世仲  無明(むみょう)濁世(じょくせ)の仲(なか)。
念仏唯真言  念仏(ねんぶつ)唯(ただ)真言(しんごん)なり。
<意訳>
今満80才を迎えました。お陰様で生かされて今まで生きて参り、御厚誼を賜りました大勢の方々に深く御礼を申し上げます。
しかしながら、現実の世の中は、無明煩悩のみちみちた迷いの濁りの無常の世であります。
すべてそらごとたわごとでありますが、ただ阿弥陀様から頂いたお念仏だけが真言(真実、まこと)であります。 
ここに述べます「念仏は」親鸞聖人の『正像末和讃』に「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」(『浄土真宗聖典』P,607)とあります「真実信心の称名」(他力念仏)のことであり、「自力の称念」(自力念仏)ではありません。
また蓮如上人も『御文章』(3の3)に「ただ声に出して念仏ばかりをとなふるひとはおほやうなり、それは極楽には往生せず。この念仏のいはれをよくしりたる人こそほとけにはなるべけれ。なにのようもなく、弥陀をよく信ずるこころだにも一つに定まれば、安く浄土へはまいるべきなり。(『浄土真宗聖典』P,1139)と述べていますように、信心のない念仏(無信単称)の念仏(信心のない自力念仏)ではだめだと言われています。このことが大変大事なことであります。浄土真宗の念仏は信心の具わっている念仏であり、御恩報謝の念仏であります。
それなら信心のない人(未信の人)や幼児はどんな気持ちで念仏すればよいのでしょうか、と尋ねられたことがありますが、浄土真宗のお流れを頂くものは、その人それぞれの気持ちで報謝の念仏をしたら良いであろうと思っています。 合掌    (2021,4,24)。
現在の教団の大問題は教団の責任担当者(教学面、行政面)までが、親鸞聖人の説かれた念仏の意味が全く分からなくなってしまっていることであります。
上にも述べましたように親鸞聖人は「真実信心の称名」(他力念仏)をすすめられ、信心のない自力の称念(自力念仏)は嫌われ、廃されたのであります。同様に蓮如上人も「信心のない念仏」(無信単称の念仏)は廃されました。
ところが現教団の現状は責任担当者(教学面、行政面)までが宗教体験(救済体験、獲信体験)のない人達で、信前の念仏(カラ念仏<僧侶なら営業念仏>、自力念仏)と信後の念仏(他力念仏<真実信心の称名>、報恩念仏)との違いが全く分からず、「信心正因称名報恩」意味も分からない、宗制宗法遵守義務放棄という、正常な教団であるならば、賦課金納付義務放棄にも勝さる大罪を公然と行う集団となっているのであります。このようなことで教団の発展振興があるはずはないのであります。
今や、コロナ禍対策どころではないと思われます。信心不在体質の早急の抜本的改善が必要だと思います。  合掌
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  (2021,4,25)。