「続㉚近年の本願寺派教学に想う」      これは「続㉙近年の本願寺派教学に想う」  e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku29.html に続くものです。 <2018年11月9日> 続(10月28日)
とうとう十一月になりました。下川氏の徳永勧学寮頭に対する公開質問(中外日報、8月31日)から2ヶ月以上が過ぎました。その後勧学寮からも総局からも何の返信も回答もないとの事であります。勧学寮頭が下川氏の質問に何も答える意思がないことが明らかであります。
この事は勧学寮頭の極めて無責任、不誠実の姿勢が明白に露呈したと言えると思います。教団の教学の最高責任者がこのようなことで、教団の発展振興は到底望めない事と思います。
前述(10月28日の後半)のように勧学寮の権威を笠に着て、自分に都合の悪いことは無視し、誤魔化し通そうとする姿勢は今に始まったことではありません。
私の知人二人(本願寺派住職)が2005(平成17)年<第1回は5月16日付>~2007(平成19)年にかけて、当時の勧学寮頭(普賢氏)宛てに「勧学寮における勧学選考基準」、「宗意安心問題」等について再三質問書を送ったことがありました。(少なくとも9回)。所が寮頭からの返信は「勧学寮は貴殿の質問にはお答えできません。」のみでありました。
「勧学寮における勧学選考基準」についてのことは、前回述べましたように、概要は中外日報、平成17年<2005>11月22日の4面、読者のひろば、に掲載されていますので、今回は宗意安心問題を中心に以下述べます。
2006年(平成18年)10月17日付で、知人二人は当時の勧学寮頭(普賢氏)宛てに、以下の内容の質問書を送りました。
[質問・Ⅰ]、[質問Ⅱ]。  勧学寮における勧学選考基準について。
[質問・Ⅲ]。(1)    本願寺派第281回定期宗会における西郷和生氏の通告質問に関して。
     (2)    「龍谷教学第40号」の「浄土真宗の証果論』(岩崎正衛氏述)について
[質問・Ⅳ]。      『龍谷教学第41号』の内藤知康氏の「宗祖の証果論」についての疑問。
[質問・Ⅴ]。      2003年(平成15年)の安居での徳永勧学講義の著『浄土文類聚鈔』(永田文昌堂発行)に見られる疑問。
            ①「疑心往生の主張」(p、207)。
            ②「宗祖における三願転入の事実の否定」(p、207)。
            ③「真門・弘願の混同」(p、209)。
            ④「行一念・信一念の混同」(p、214)。
[質問・Ⅵ](5)。   徳永氏の発言について
           ①信心決定を否定し、「信心はなくても全ての人救われるのだ」と述べられたと仄聞しています。もしこのような発言が、本願寺派勧学からなされたとするならば、真宗教学を根底から覆すことになる大問題であると思考致します。同様に
           ②紅楳氏の信心の考え方に賛同した某氏に対して「一念覚知の異安心だ」と言われた、ということは紅楳氏の考え方も同様に「一念覚知」と考えておられると受け止められます。
            上記、仄聞いたしております徳永氏の御発言について、勧学寮頭様から明確な形での御回答をお願い致します。
《質問書は常に、御門主様、総局、宗会にコピーが送られていました、この後、2006年
<平成18年>12月21日付、2007年<平成19年>5月25付で、これ(2006
年<平成18年>10月17日付)とほぼ同内容の質問書が出されましたが、勧学寮からの
返信は下記のみのものであり、以後ありませんでしたので、 2006年(平成18年)1
0月17日付の質問書の内容を上に書きました。》 
勧学寮からの返信は
勧学寮部長    2006(平成18)年11月24日
お問い合わせの件について
先般、ご送付いただきました、1017日付のお問い合わせの件について、下記の通りお
答えいたします。
また、以後、同様のご質問については、返答はいたしません。
             記
1,1・Ⅱ・Ⅲの(1)については既にお答えしている通りであります。
2,Ⅲの(2)・Ⅳ・Ⅴ・Ⅵについては、勧学寮は貴殿の質問にはお答えできません。
以上
でありました。御覧頂く通り、教義安心に関する問題については、「2,Ⅲの(2)・Ⅳ・Ⅴ・Ⅵについては、勧学寮は貴殿の質問にはお答えできません。」と述べて、一切答えようとしなかったのであります。勿論以後、回答は全くありませんでした。
Ⅲの(2)、Ⅳの内藤氏の証果論も問題はありますが、Ⅴの徳永氏の問題は極めて重大であり、信心・念仏の全く体得できてない信心不決定(未決定)者の所論と言えるものであります。これに一切答えないとは、当時の勧学寮頭の対応は何と無責任・不誠実なことでありましょうか。それとも徳永氏と見解を全く同じにする信心不決定(未決定)の人と言うことでありましょうか。全く理解に苦しむことであります。
それから、次のⅥ(5)。徳永氏の発言について、がまた大問題であります。①は全く教義に無知者の発言と断ぜざるを得ないものでありますが、②紅楳氏の信心の考え方に賛同した某氏に対して「一念覚知の異安心だ」と言われた、ということは私(紅楳)の考え方も同様に「一念覚知」と考えておられると受け止められます。この点については、特に明確にしたいと思います。
このことは2007年<平成19年>5月25日付の質問書には、
“徳永勧学の問題発言について。仄聞する所、2006年(平成18年)9月7日に愛知学院大学で開催された『日本仏教学会』に出席された際に、紅楳英顕氏より『信心につて』の質問をうけられたが、十分な回答はされなかったとのことであります。その学会終了後の発言として、徳永勧学は数名の方と語り合い(紅楳氏は不在)、紅楳氏の信心理解を批判し、そして真宗教義の根本義である『信心決定』を否定し「信心はなくても全ての人はすくわれるのだ。」と述べられた、と仄聞しております。
その中におられた某氏が、紅楳氏の意見に賛同する意向を述べた所、徳永勧学は、その某氏に対し、「君は一念覚知の異安心だ」と述べた、とも仄聞しています。その場におられた方は、皆様聞いておられる事であり、既に、既成の事実ですので、誰が告げたということでは無く、徳永勧学ご自身が、この御発言に就いての御説明をされるべきであります。“
と書かれています。
回答をえるために質問者はより具体的に述べたのでありますが、当時の勧学寮頭(普賢氏)からも徳永氏(現勧学寮頭)からも何の回答もなかったとのことであります。普賢氏の教義安心理解も、問題だらけの徳永氏と全く同様と考えざるをえないのでありましょうか。
徳永氏が私(紅楳)を「一念覚知の異安心」だと言っているということは他の人達からも聞いています。
私は徳永氏に限らず私のことを「一念覚知の異安心」だと言っている人は、十劫の昔から助かっていると考える十劫安心(無帰命安心)の人達だと考えています。この人達は救済体験
(獲信体験)がないため、信心決定の実感がなく、往生一定の確信もなく、報恩念仏の慶びの世界も分からないのであります。それで信心正因称名報恩の意味も分からず、平然と宗制宗法遵守義務放棄の法令違反者となるのであります。自分に信心決定の実体験がないために、それを語る人を一念覚知の異義者だと言うのですが、これは「一念覚知」の正しい意味が分かっていない信心不決定(未決定)の人なのであります。教団の教学の最高責任担当者がこの有様とは実に情けないことであります。
私の考えが間違いだと思われる方は、遠慮なく私の考えに反対の意見を述べて下さい。私はこの度『親鸞聖人の念仏論』(永田文昌堂、2018年6月発行)を書きました。その序論 第二章 第三項 一念覚知と無帰命安心(十劫安心)、第三章 浄土真宗における回心について <11頁以下> に、それについての私の考えを述べています。   合掌


上記は3年前(2018年11月9日 )のものですが 《「続⑪近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku11.html 、( 2018,11,9~2018,11,12記)》、勧学寮からも総局からも何の返事もありませんでした。信心正因称名報恩の意味も分からない信心不決定者の集団であるのみならず、極めて不誠実な方々の集団であると言えるでありましょう。
この現状を歎かれる御住職や御門徒の方々のご意見も出てきております。《「続㉙近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku29.html、(2021,9,27記)以下》
既成教団の危機現象は色々な場所で語られ、中外日報(2021,10,29)の社説に「教団の可能性を阻む無関心」の見出しで、本願寺派を含む既成教団の危機が語られています。
私はいつも申しておりますが、今の本願寺派教団にとって一番考えねばならないことは、信心不在体質の早急の改善であります。教団の責任担当者(教学面、行政面)の人々までが信心不決定者(未決定、未安心)者の集団となり果て、宗制宗法遵守義務放棄がまかり通るような体質は一刻も速く破壊改善すべきだと思います。 合掌
「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
(2021,11,9)。
繰り返し申すことでありますが教団の責任担当者(教学面、行政面)が不誠実に加えて、信心不決定(未決定、未安心)者の集団となり果てているのが教団の現状であります。「伝える伝道でなくて伝わる伝道」でなければならないと言われますが、それも蓮如上人が言われますように「自信教人信」(御一代記聞書93)でなければなりません。利井鮮妙師も「信なき者の説教は、人も渡さず己も堕つる」と言われています。信心決定が一番大事なことであります。
これが忘れられては教団の発展振興は到底あり得ないことと考えます。   合掌
  (2021,11,11)。


37回教聞会のお知らせ

「親鸞聖人の教えを聞く会」 ―本当のよろこびを知ろう

 この会(親鸞聖人の教えを聞く会)の第1回は2011年3月12日(土)で、あの東北大震災の翌日のことでありました。東京も大変な被害でありました。大阪高槻に住んでいました私はこの日の東京の被害は想像しておりませんでした。
あれから10年が過ぎました。コロナ禍のため昨年の3月からしばらくお休みになりましたが、皆様方のお力のよりこの度再開の運びとなりましたことを、大変嬉しく有難く思います。10年前に私は、この会テーマを「本当のよろこびを知ろう」としました。『教行証文類 』「信巻」に親鸞聖人は「たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもって極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり」(『浄土真宗聖典』P,221)と述べられています。
親鸞聖人は信心のよろこびを「大慶喜心」と述べられています。このよろこびは何物にも制約されることのない、時間空間をを超えたよろこびなのであります。このよろこびを現世で我々は賜るのであります。合掌

『教行証文類』「化土巻」に親鸞聖人は「誠に知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。ゆえに宗師(善導)はかの仏恩を念報することなし。」(『浄土真宗聖典』P,412)と述べられています。即ち、専修にして雑心なるもの(自力念仏の人)は大慶喜心(信心)を獲てない人であり、仏恩を報ずる心はないと言われているのであります。
私が報恩念仏を重視するのはこの意味からであります。称名報恩を否定する人は信心決定してないひとなのであり、大慶喜心もない人なのであります。
このような人達(信心正因称名報恩義を否定する信心不決定の人達)が教団の責任担当者である限り、教団の発展振興は極めておぼつかないものと私には思われます。 合掌
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「続⑧近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku81.html
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最近見た本で「われ称える我聞くなれど南無阿弥陀 連れて行くぞの親の呼び声」とある言葉より、称える念仏がすべて阿弥陀仏の呼び声という意見がありますが、信の上の念仏ならそれが言えると思いますが、信前の念仏(自力念仏)ではそれは言えないと思いますし、カラ念仏(営業念仏)では当然そうだとは言えないと思います。また本願を信ずることと、念仏を称えることとが同じという人もいるようですが、これも明らかな間違いであります。
親鸞聖人は『正像末和讃』に「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」(『浄土真宗聖典』P,607)と述べられていますように、真実信心の称名が弥陀回向の法(念仏)であって、信前の念仏(自力の称念、カラ念仏<営業念仏>)はそうではないと述べられているのであります。
このことの分からない人は信心決定してない人であり、恐らく大慶喜心のない人だと思います。
信心念仏の関係については,既に種々述べてきましたが、拙著『親鸞聖人の念仏論』(永田文昌堂、本論第五章 現代における念仏論に関連する諸問題 p、234以下)に詳しく述べてあります。  合掌
  (2021,11,28)。



第34回 仏教漢詩の会が開催されました。
生涯不決定非信心(生涯不決定は信心に非ず)
            紅楳英顕
真実信心獲得人  真実信心獲得(しんじつしんじんぎゃくとく)の人(ひと)。
即入如来等同倫  即(すなわ)ち如来等同(にょらいとうどう)の倫(りん)に入(い)        る。
謬見生涯不決定  生涯不決定(しょうがいふけつじょう)は謬見(びゅうけん)なり。
速成報恩念仏者  速(すみ)やかに報恩(ほうおん)の念仏者(ねんぶつしゃ)と成(な)るべし。
<意訳>
真実信心を獲得した人は、そのときに如来等同(如来と等しい)の身となります。煩悩をもったままではありますが、すでに間違いなく如来(ほとけ)になることに定まっているという意味で、如来に等しいといいます。現生正定聚とも平生業成ともいいます。領解文にありますように「往生一定御たすけ治定と存じ、このうえの称名は御恩報謝と存じよろこび申し候」と安堵と慶びをいただけるのであります。これを否定して「往生一定御たすけ治定と存じるこころ」が凡夫には生涯あるわけはない、とする考えが生涯不決定説なのであります。これは信心が決定していない、仏恩報ずる気持ちも起こっていない、間違っている人の考えであります。
速やかに信心決定の身となり、仏恩報ずる念仏者となることが大事なことであります。
 合掌   (2021,9,7)。
憶傘寿秋(傘寿の秋に憶う)
             紅楳英顕
今幸叵値弘誓逅   今幸いに値(あ)い叵(がた)き弘誓(ぐぜい)に逅(あ)い、 
億劫難獲浄信恩 億劫(おくこう)にも獲(え)難(がた)き浄信に恩(めぐ)まる。
仮令身止諸苦毒   仮令(たとい)身(み)を諸(もろもろ)の苦毒(くどく)に止(お)くとも、
我勤精進弘真言   我(われ)勤(つと)め、精進(しょうじん)し、真言(しんごん)<註>を弘(ひろ)めたし。
<註>浄土真宗の教え。
<意訳>
私は今幸いに出あうことのむつかしい阿弥陀仏の本願に出会うご縁にめぐまれ、また得難い浄信(他力回向の信心)に恵まれることができました。
色々なことはありましたが、お陰様で傘寿(80才)の歳まで生かさせて頂きました。
残りの人生は、どのような苦難の中においても、私自身が「お救い」と「慶び」(大慶喜心)を頂きました浄土真宗の御教えを世に弘めることに勤め励みたいと思います。  合掌
(2021,9,25)。
とうとう私も傘寿(80才)の歳の年末を迎えました。今日まで生かされましたことを有難く思いますと共に御厚誼を賜りました多くの方々に篤く御礼申し上げます。
若年の時より、私なりに教団の発展、真宗興隆復興を願って努力してきたつもりではありますが、何かができた訳でもないまま歳月が経ってしまったことが大変残念であります。
何度も申してきたことですが、今の教団にとって一番肝要なことは、教団の責任担当者までが、宗制教義に定められている「信心正因称名報恩」の意味も分からない、信前の念仏(カラ念仏<僧侶なら営業念仏>)と信後の念仏(他力念仏、報恩念仏)との違いの分からない、信心不決定(未決定、未安心)者の集団となり果てている信心不在体質の早急な抜本的な改善だと思います。 合掌
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 (2021,12,11)。


上記(2016年12月13日 )は5年前でありますが、今も全く同じ想いであります。                  
賦課金納付義務放棄に勝る大罪である、信心教義についての宗制宗法遵守義務放棄が、公然とまかり通る教団の信心不在体質は、早急に抜本的に改善しなければならないと思います。
丁度80年前(1941,12,8)に日本がハワイ真珠湾を攻撃したように、間違いと思いながらも、是正できず、ずるずると破滅の道を選ぶようなことをしてはならないのであります。幸いに日本は破滅の後、復興しましたが、教団の破滅後の復興は、甚だ不謹慎ではありますが、あり得ないと懸念します。
最早猶予はないと思います。信心不在現象改善のための大英断が必要だと思います。
合掌
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(2021,12,13)。


1981年以来本願寺派教団は宗制教義に定められている「信心正因称名報恩」
義を正義(正しい)か異義(間違い)かを曖昧にし続けてきたのであります。
私に言わせれば、「信心正因称名報恩」義が正義であるということが分からない人達は、救済体験(獲信体験)のない信心不決定(未決定、未安心)の人々であると思います。即ち信前の念仏(カラ念仏<僧侶なら営業念仏>、自力念仏)と信後の念仏(他力念仏、報恩念仏)の違いの分からない人々であると思います。こういう人達が教団の責任担当者(教学面、行政面)であるために、今日の状況となり、信心教義についての宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通る、極めて堕落衰退の現状となっているのであります。慶讃法要を間近にしてこれ以上の曖昧無責任は到底許されないことと思います。教団当局は「信心正因称名報恩」義が間違いであるとするのなら(私はこの考えは信心不決定の人の考えであり、間違いであると考えています。)、早急に、その関連の宗制宗法(宗制 第三章教義、宗法 第53条3)を削除し、『御文章』、『領解文』の拝読出言を取りやめるべきであります。そうでなくて「信心正因称名報恩」義は正義であるとするのなら、1981年以来その反対者に何もせず、むしろ擁護した勧学寮を直ちに閉鎖すべきであります。この問題は教団の将来のため,浄土真宗の教えを正しく伝えていくために、教団の構成員全員で真剣に考えねばならないことだと思います。 合掌
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   (2021,12,22)。
『歎異抄』の著者唯円はその後序の終わりに「かなしきかなや、さいはいに念仏しながら、直に報土に生まれずして、辺地に宿をとらんこと。一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、なくなく筆を染めてこれをしるす。なづけて『歎異抄』といふべし。」(『浄土真宗聖典』P,854)と述べています。唯円の歎異の一番大きな問題は親鸞聖人の説かれた念仏についての理解の誤りであったのであります。《拙論「歎異抄の中心問題」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/tantyu.html
最近本願寺派教団におきまして、念仏念仏という声は盛んに聞きますが、それが果たして親鸞聖人のお心に適う他力の念仏であるかどうかは甚だ疑わしいものであります。何度も申すことでありますが、教団の責任担当者(教学面、行政面)までが「信心正因称名報恩」の意味も分からない、信前の念仏(カラ念仏<僧侶なら営業念仏>、自力念仏)と信後の念仏(他力念仏、報恩念仏)の違いさえ分からない、信心不決定(未決定、未安心)の人達の集団となり果て、宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通る惨状となっているのであります。唯円もこの現状をさぞかし、歎異・悲歎していることでありましょう。 合掌
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  (2021,12,24)
 これは「続㉛近年の本願寺派教学に想う」e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku31.html に続きます。