回答をえるために質問者はより具体的に述べたのでありますが、当時の勧学寮頭(普賢氏)からも徳永氏(現勧学寮頭)からも何の回答もなかったとのことであります。普賢氏の教義安心理解も、問題だらけの徳永氏と全く同様と考えざるをえないのでありましょうか。
私は徳永氏に限らず私のことを「一念覚知の異安心」だと言っている人は、十劫の昔から助かっていると考える十劫安心(無帰命安心)の人達だと考えています。この人達は救済体験
(獲信体験)がないため、信心決定の実感がなく、往生一定の確信もなく、報恩念仏の慶びの世界も分からないのであります。それで信心正因称名報恩の意味も分からず、平然と宗制宗法遵守義務放棄の法令違反者となるのであります。自分に信心決定の実体験がないために、それを語る人を一念覚知の異義者だと言うのですが、これは「一念覚知」の正しい意味が分かっていない信心不決定(未決定)の人なのであります。教団の教学の最高責任担当者がこの有様とは実に情けないことであります。
私の考えが間違いだと思われる方は、遠慮なく私の考えに反対の意見を述べて下さい。私はこの度『親鸞聖人の念仏論』(永田文昌堂、2018年6月発行)を書きました。その序論 第二章 第三項 一念覚知と無帰命安心(十劫安心)、第三章 浄土真宗における回心について <11頁以下> に、それについての私の考えを述べています。 合掌
既成教団の危機現象は色々な場所で語られ、中外日報(2021,10,29)の社説に「教団の可能性を阻む無関心」の見出しで、本願寺派を含む既成教団の危機が語られています。
私はいつも申しておりますが、今の本願寺派教団にとって一番考えねばならないことは、信心不在体質の早急の改善であります。教団の責任担当者(教学面、行政面)の人々までが信心不決定者(未決定、未安心)者の集団となり果て、宗制宗法遵守義務放棄がまかり通るような体質は一刻も速く破壊改善すべきだと思います。
合掌
(2021,11,9)。
繰り返し申すことでありますが教団の責任担当者(教学面、行政面)が不誠実に加えて、信心不決定(未決定、未安心)者の集団となり果てているのが教団の現状であります。「伝える伝道でなくて伝わる伝道」でなければならないと言われますが、それも蓮如上人が言われますように「自信教人信」(御一代記聞書93)でなければなりません。利井鮮妙師も「信なき者の説教は、人も渡さず己も堕つる」と言われています。信心決定が一番大事なことであります。
これが忘れられては教団の発展振興は到底あり得ないことと考えます。 合掌
(2021,11,11)。
第37回教聞会のお知らせ
「親鸞聖人の教えを聞く会」 ―本当のよろこびを知ろう
この会(親鸞聖人の教えを聞く会)の第1回は2011年3月12日(土)で、あの東北大震災の翌日のことでありました。東京も大変な被害でありました。大阪高槻に住んでいました私はこの日の東京の被害は想像しておりませんでした。
あれから10年が過ぎました。コロナ禍のため昨年の3月からしばらくお休みになりましたが、皆様方のお力のよりこの度再開の運びとなりましたことを、大変嬉しく有難く思います。10年前に私は、この会テーマを「本当のよろこびを知ろう」としました。『教行証文類 』「信巻」に親鸞聖人は「たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもって極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり」(『浄土真宗聖典』P,221)と述べられています。
親鸞聖人は信心のよろこびを「大慶喜心」と述べられています。このよろこびは何物にも制約されることのない、時間空間をを超えたよろこびなのであります。このよろこびを現世で我々は賜るのであります。合掌
『教行証文類』「化土巻」に親鸞聖人は「誠に知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。ゆえに宗師(善導)はかの仏恩を念報することなし。」(『浄土真宗聖典』P,412)と述べられています。即ち、専修にして雑心なるもの(自力念仏の人)は大慶喜心(信心)を獲てない人であり、仏恩を報ずる心はないと言われているのであります。
私が報恩念仏を重視するのはこの意味からであります。称名報恩を否定する人は信心決定してないひとなのであり、大慶喜心もない人なのであります。
このような人達(信心正因称名報恩義を否定する信心不決定の人達)が教団の責任担当者である限り、教団の発展振興は極めておぼつかないものと私には思われます。 合掌
「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「続⑧近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku81.html
「続㉚近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku30.html
最近見た本で「われ称える我聞くなれど南無阿弥陀 連れて行くぞの親の呼び声」とある言葉より、称える念仏がすべて阿弥陀仏の呼び声という意見がありますが、信の上の念仏ならそれが言えると思いますが、信前の念仏(自力念仏)ではそれは言えないと思いますし、カラ念仏(営業念仏)では当然そうだとは言えないと思います。また本願を信ずることと、念仏を称えることとが同じという人もいるようですが、これも明らかな間違いであります。
親鸞聖人は『正像末和讃』に「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」(『浄土真宗聖典』
P,607
)と述べられていますように、真実信心の称名が弥陀回向の法(念仏)であって、信前の念仏(自力の称念、カラ念仏<営業念仏>)はそうではないと述べられているのであります。
このことの分からない人は信心決定してない人であり、恐らく大慶喜心のない人だと思います。
信心念仏の関係については,既に種々述べてきましたが、拙著『親鸞聖人の念仏論』(永田文昌堂、本論第五章 現代における念仏論に関連する諸問題 p、234以下)に詳しく述べてあります。 合掌
(2021,11,28)。
生涯不決定非信心(生涯不決定は信心に非ず)
紅楳英顕
真実信心獲得人 真実信心獲得(しんじつしんじんぎゃくとく)の人(ひと)。
即入如来等同倫 即(すなわ)ち如来等同(にょらいとうどう)の倫(りん)に入(い) る。
謬見生涯不決定 生涯不決定(しょうがいふけつじょう)は謬見(びゅうけん)なり。
速成報恩念仏者 速(すみ)やかに報恩(ほうおん)の念仏者(ねんぶつしゃ)と成(な)るべし。
<意訳>
真実信心を獲得した人は、そのときに如来等同(如来と等しい)の身となります。煩悩をもったままではありますが、すでに間違いなく如来(ほとけ)になることに定まっているという意味で、如来に等しいといいます。現生正定聚とも平生業成ともいいます。領解文にありますように「往生一定御たすけ治定と存じ、このうえの称名は御恩報謝と存じよろこび申し候」と安堵と慶びをいただけるのであります。これを否定して「往生一定御たすけ治定と存じるこころ」が凡夫には生涯あるわけはない、とする考えが生涯不決定説なのであります。これは信心が決定していない、仏恩報ずる気持ちも起こっていない、間違っている人の考えであります。
速やかに信心決定の身となり、仏恩報ずる念仏者となることが大事なことであります。
合掌 (2021,9,7)。
憶傘寿秋(傘寿の秋に憶う)
紅楳英顕
今幸叵値弘誓逅 今幸いに値(あ)い叵(がた)き弘誓(ぐぜい)に逅(あ)い、
億劫難獲浄信恩 億劫(おくこう)にも獲(え)難(がた)き浄信に恩(めぐ)まる。
仮令身止諸苦毒 仮令(たとい)身(み)を諸(もろもろ)の苦毒(くどく)に止(お)くとも、
我勤精進弘真言 我(われ)勤(つと)め、精進(しょうじん)し、真言(しんごん)<註>を弘(ひろ)めたし。
<意訳>
私は今幸いに出あうことのむつかしい阿弥陀仏の本願に出会うご縁にめぐまれ、また得難い浄信(他力回向の信心)に恵まれることができました。
色々なことはありましたが、お陰様で傘寿(80才)の歳まで生かさせて頂きました。
残りの人生は、どのような苦難の中においても、私自身が「お救い」と「慶び」(大慶喜心)を頂きました浄土真宗の御教えを世に弘めることに勤め励みたいと思います。 合掌
(2021,9,25)。
とうとう私も傘寿(80才)の歳の年末を迎えました。今日まで生かされましたことを有難く思いますと共に御厚誼を賜りました多くの方々に篤く御礼申し上げます。
若年の時より、私なりに教団の発展、真宗興隆復興を願って努力してきたつもりではありますが、何かができた訳でもないまま歳月が経ってしまったことが大変残念であります。
何度も申してきたことですが、今の教団にとって一番肝要なことは、教団の責任担当者までが、宗制教義に定められている「信心正因称名報恩」の意味も分からない、信前の念仏(カラ念仏<僧侶なら営業念仏>)と信後の念仏(他力念仏、報恩念仏)との違いの分からない、信心不決定(未決定、未安心)者の集団となり果てている信心不在体質の早急な抜本的な改善だと思います。 合掌
(2021,12,11)。
上記(2016年12月13日 )は5年前でありますが、今も全く同じ想いであります。
賦課金納付義務放棄に勝る大罪である、信心教義についての宗制宗法遵守義務放棄が、公然とまかり通る教団の信心不在体質は、早急に抜本的に改善しなければならないと思います。
丁度80年前(1941,12,8)に日本がハワイ真珠湾を攻撃したように、間違いと思いながらも、是正できず、ずるずると破滅の道を選ぶようなことをしてはならないのであります。幸いに日本は破滅の後、復興しましたが、教団の破滅後の復興は、甚だ不謹慎ではありますが、あり得ないと懸念します。
最早猶予はないと思います。信心不在現象改善のための大英断が必要だと思います。
合掌
1981年以来本願寺派教団は宗制教義に定められている「信心正因称名報恩」
義を正義(正しい)か異義(間違い)かを曖昧にし続けてきたのであります。
私に言わせれば、「信心正因称名報恩」義が正義であるということが分からない人達は、救済体験(獲信体験)のない信心不決定(未決定、未安心)の人々であると思います。即ち信前の念仏(カラ念仏<僧侶なら営業念仏>、自力念仏)と信後の念仏(他力念仏、報恩念仏)の違いの分からない人々であると思います。こういう人達が教団の責任担当者(教学面、行政面)であるために、今日の状況となり、信心教義についての宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通る、極めて堕落衰退の現状となっているのであります。慶讃法要を間近にしてこれ以上の曖昧無責任は到底許されないことと思います。教団当局は「信心正因称名報恩」義が間違いであるとするのなら(私はこの考えは信心不決定の人の考えであり、間違いであると考えています。)、早急に、その関連の宗制宗法(宗制 第三章教義、宗法 第53条3)を削除し、『御文章』、『領解文』の拝読出言を取りやめるべきであります。そうでなくて「信心正因称名報恩」義は正義であるとするのなら、1981年以来その反対者に何もせず、むしろ擁護した勧学寮を直ちに閉鎖すべきであります。この問題は教団の将来のため,浄土真宗の教えを正しく伝えていくために、教団の構成員全員で真剣に考えねばならないことだと思います。 合掌
『歎異抄』の著者唯円はその後序の終わりに「かなしきかなや、さいはいに念仏しながら、直に報土に生まれずして、辺地に宿をとらんこと。一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、なくなく筆を染めてこれをしるす。なづけて『歎異抄』といふべし。」(『浄土真宗聖典』P,854)と述べています。唯円の歎異の一番大きな問題は親鸞聖人の説かれた念仏についての理解の誤りであったのであります。《拙論「歎異抄の中心問題」
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/tantyu.html》
最近本願寺派教団におきまして、念仏念仏という声は盛んに聞きますが、それが果たして親鸞聖人のお心に適う他力の念仏であるかどうかは甚だ疑わしいものであります。何度も申すことでありますが、教団の責任担当者(教学面、行政面)までが「信心正因称名報恩」の意味も分からない、信前の念仏(カラ念仏<僧侶なら営業念仏>、自力念仏)と信後の念仏(他力念仏、報恩念仏)の違いさえ分からない、信心不決定(未決定、未安心)の人達の集団となり果て、宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通る惨状となっているのであります。唯円もこの現状をさぞかし、歎異・悲歎していることでありましょう。 合掌
(2021,12,24)
これは「続㉛近年の本願寺派教学に想う」
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