http://issei-no-kai.blog.eonet.jp/default/2015/03/post-bac0.html より転載。二箇所ほどあきらかにタイポだと思われる語句の修正を施した。

さる平成27年1月28日、大阪・ミナミの「敦煌」」にて「一声の会」の勉強会を開催しました。講師に勧学寮頭の徳永一道師をお迎えして約一時間お話しを伺いました。会場での質疑応答では時間が足らないとばかりに後の会食中も熱い議論が交わされました。



 徳永でございます。
 私がお話できることは法義のお話しかありません。昨年6月5日に法統が継承され新しい御門主が誕生されました。うちの宗派は法義で成り立っているわけでご門主というのは法義の代名詞なんです。お人柄も立派なお人なんですがご門主は法義を継承した法義のシンボルなんですということをご承知願いたい、生きた教えの象徴なんです。


 昔は法主といいましたけれどもそのほうがよっぽどいいですね。ご法義の中心的人物であるわが教団はご法義で成り立っている、これがなかったら教団はいらないです。このご法義の一番要になるのは勧学寮です。勧学寮はご法義を守っているところ一般寺院もすべてご法義のためにあることを再認識する必要があるんじゃないでしょうか。


 ご門主がお代がわりになったと言うことで新しい決意の元にご法義をますます伝えていかなければならない。そういう時期にさしかかったわけですね。ところがこのご法義というのが厄介でございまして浄土真宗の教えというと難しい。教義とか教学むずかしい、素人では分からない、こういうことがイメージが行き渡ってどれだけ障害になっているか。これを具体的にいいますと皆さんご存知かどうか知りませんが行信論というのが中心になって展開してきたわけです。念仏・信心ですね。私が救われるのは念仏・信心によって救われるのだと。この行信論の背景を議論するのが教学とか教義の役割だとされていたわけです。行信論というのは極めて込み入った煩瑣な議論になるわけであります。これをやらなきゃ宗学は分からないという印象です。


 私が如何に救われるかという問題。私から外に出て行かない隣りの人と関係ない、そういうことでしょう。そういうことをご法義だと皆様方も認識してこられた。これが一番癖もんなんです。これが問題なんです。


 行信論がなぜこれほど煩瑣に発展したか。江戸時代仏教は自分の救いとか悟りのことだけ問題にしておけ、権力者の側からは一向一揆とか起こされたら困るので保護してやるけれども社会のことは一切関係するな、江戸時代になるとそれが徹底されまして浄土真宗以外は私の「悟り」、浄土真宗は「救い」この問題に集中してきた。私の隣の人は関係ない。この風潮がいまだに続いているのです。安心は一人ひとりのしのぎの問題こういう行き方が根強く行き渡ってしまった。家族さえ関係ない。私が如何に救われるかがご安心の問題であると。


 皆様方これはご理解いただけると思います。都呂須先生、皆さんご存知ですね。都呂須先生が津村別院行かれたときにね、法話の後で控え室にお同行が挨拶に来られた。初めての方だったそうですね、都呂須先生にとったら。その方はずっと別院の法座に来られている方で「私は法座を欠かしたことがありません」そういうことを誇らしげに仰った。都呂須先生は冷静な人ですから、「ほう、そうですか。お仕事は何をなさっているんですか?」と言ったら。「コウコウ、こういう商売をしている」「お忙しいですね」「大変忙しいです。忙しいのを無理して聴聞に来たのです」「あなたを聴聞に出してくださるご家族の方、大変ご立派ですね」と褒められたら、「うちの家族はみんな普通の人間です」”偉いのは私だ”と、こういうわけですね。なんで自分が救われることに熱心になっていることを自慢せなあかんのかね。こういう風潮ありますでしょう。私の救いの問題熱心だ。しかし家族には関係ない。「家族が聴聞してくれればいいんですがね」の一言も出なかった。浄土真宗はこういうお同行を時々生み出しますね。これ厄介ですね。私から外へ出て行かない。


 しかし私一人が生きているんじゃない。社会の中に生きてるんだ。家族に中に生きてるんだ。そういう視点がまったくない。うちの行信論には。これを何とか打破したいというのが私の願いなんです。


 ところが何百年と続いてきた伝統は打ち壊すのは難しいですね。それをやり始めると異端ということになってしまう。あいつはいったい何を言い出すんだこういうことです。だけど仏法というのは私一人が救われるだけの問題ではありませんよ。禅はそうかもしれませんがね。浄土真宗の場合は、私が救われるという事は万人が救われるということ、一切の人が救われるという視点に立たないと浄土真宗の法義の意味がなくなるということなんですね。今日は皆様方にそれをお伝えしたい、あるいはお願いしたいということですね。 これ公共性ということ。この宗門に浄土真宗教学研究所がありますね。そこに浄土真宗の法義の公共性の問題を議論するというそういう会が出来ましてですね。世間から一般の社会から有識者をお招きして話し合いをするということがあるわけですね。


 わたしはメンバーの一人でありまして勧学寮とまったく関係がないんですけれどもそこに参加しているわけですね。公共性ということを強調される先生、この方浄土真宗の人でないんですけれども非常に学ぶことが多かった。
 別の言葉でいえば社会性ということですね。行信論の大家に「公共性」とか「社会性」とかいえば顔をしかめられますよ。「そんなもん関係ない。浄土真宗の行信は念仏、信心は私一人のしのぎの問題であって社会のこと関係ない」、とこういうことになるわけですね。


 東北の大震災のときに、われわれ浄土真宗のみならず、日本の仏教そうですけど、うろたえてなす術を知らなかった。おろおろしてしもうて、どういう風に対応してよいか分からなかった。はじめはそうだったですね。しばらくしましたら落ち着いてきましたけれども。この辺が一番深刻な問題だと思いますよ。わが宗門が日本という、世界という社会の中で存続していくということはそういう社会のことを考慮しない限りは存続し得ない。一人ひとりのしのぎの問題ではすまない。こういう点を今日はみなさががたに聞いていただきたいと思って来たのです。うちの宗門は割合そういうことに関心を持って靖国に反対したということは大きな実績がありますね。そのおかげでもうちょっとで火を点けられそうになった。もうちょっとで阿弥陀堂燃やされそうになった。それでも靖国には賛同することは出来ない。ちゃんと表明しましたですね。あるいは原発にも反対している。特に前門様は公然と原発に反対するという態度をとっておられる。


 まじめに取り組まないと社会的姿勢が欠落しているといえる深刻な問題ですね。うちの宗門としてはやるべきことはやっているのですがそのことが一般の法座にはいかないという、こういう問題がありますね。


 法座になると阿弥陀様に如何に救われるかというこの問題にしかならない。私一人の「後生の一大事」の問題を否定はしませんが、果たしてその問題にとどまって、果たして救いというものが成立するのかどうかという問題。これを是非とも考えていただきたい。


 ご文章の英訳、これは蓮如上人500回忌のときエキストラでやったのですが、「英訳浄土真宗聖典」、国際センターにそういうプロジェクトがあるんですね。私はそれに関係して40年になるんです。一番最初から関係してる。これが仕事ですね、私の宗祖の教学理解にどれだけ大きな影響をもたらしたか。「英訳浄土真宗聖典」これはご開山のものは全部すでに15年ほど前に出来上がってますよ。その後「浄土三部経」に入って、その後「七高僧」に入りましてね、今は曇鸞大師にはいってるんです。浄土真宗のお聖教を全部英語に訳してるんです。何でそういうことをするのかというと需要があるからです。英語というのは国際語だ。わが宗門はフランス語とかドイツ語にする能力がないんです。英語が出来る人間しかいないんです。
それほど浄土真宗の法義が興味を待たれているという事実があるわけです。ところが日本のお方に聞いたらこんな深い教義、英語になるんですかというわけです。何度これを聞かされたか分からない。しかし浄土真宗の元はインドですよ。インド語ですよ。「浄土三部経」はインド語じゃないですか。サンスクリッドじゃないですか。「大経」と「阿弥陀経」サンスクリッドで今でもちゃんとありますよ。サンスクリッドが漢訳されて日本へ伝わってきた。我々はそれを頂いている。日本人の占有物ではありませんよね。
そういう視点を持たないと本当の「浄土三部経」の意味は分からないと思いますがね。浄土真宗を自分の中に閉じ込めて日本人独自の深い教えだと思っている。そんなことはありませんよ。日本人が分かるなら世界の人間誰でもわかるはずです。そういう視点を持たないと教義の普遍性、深さあるいは広がりが伝わっていかないということになりますね。
アメリカの大学で1年間講義したことがあります。ハーバードの神学部でキリスト教専門の神学の学生相手にやりました。親鸞聖人の教えちゃんと分かってくれましたよ。伝えようによるわけです。親鸞聖人の「浄土三部経」の理解、あるいは「浄土三部経」から頂かれたご開山の救いの論理というのは他の宗教には追従を許さないものがあるという、そこを伝えなければせっかくのご開山の教えが無になりますね。実際に伝わるんです。親鸞聖人の阿弥陀様理解の深さがちゃんと分かってくれる。それまでの宗教になかった、キリスト教の神学に無かったそういう深さを持った救済の理論になる、こういうことが行き渡るということなんですね。浄土真宗のご法義は万人に分かるそういう視点を持たないとせっかくのご法義が死んでしまいます。どのように外国の人が理解をするのか、その過程で私が学ぶことも多いんです。これが私のひとつのスタンスです。


 もうひとつの私のスタンスは、京都女子大学の教員ということです。7年前まで、28年間教員をしてまして、若い女性にご開山の教えを伝えるのは難しいですよ。これは理屈じゃないですね。如何に彼女たちの理解する言葉を使うかということです。仏とも法ともない。入学式ありますでしょう。お仏壇があって、お扉が開いて、煌々と阿弥陀様が照らされている。私どもはそういう場面で直に合掌してしまいますね。ところが毎年そうなんですが学生たちは、「ヒャー、何ー、これー」この声が起こりますよ。彼女たちにしたら理解できないわけです。決してお念仏はでない。2階におる父兄も同じこと。合掌の仕方知らない。日本の一般の光景でしょうけど。そんな学生たちが4年たったら、ちゃんと合掌してお念仏を称えるようになって卒業していくんです。そういう彼女たちに釈尊の教え、親鸞聖人の教え伝えるのどれだけしんどいか、ちょっと皆さん経験してもらいたい。それは私にとってはどれだけ大きな力になったか。私の財産なんです。


 えらい先生が「そんなこと教えているのか、行信論教えてないのか」と仰ったこともあります。それでこういう卒業生が出てきた。私このごろ病気がちでありまして、家の京都の自宅の近くには京都医療センターという昔の国立病院があります。歩いて行けるんですわ。7分ぐらいでいけるんです。そこへしょちゅう通っているんですけど、会計で並んで支払いを待ってたんです、診療が済んで。そしたら私の名前を後ろから「徳永先生でしょう」こういう言葉だったと思うんですけどね。私の名前を呼んで、それが女性の声だったら京都女子大学の卒業生に決まっているんです。「京女」かといったら「そうです」。「ひさしぶりやな」顔は覚えてないけどそういったら、それでいつも済んでしまうわけです。そのときもそうだと思っておったら「じつは先生に電話か手紙でご相談したいことがあったんですけども、なかなか勇気が無くて。手紙も出せなかった。電話もかけられなかった。」深刻な顔でいうもんでね。支払い終わって病院の中の喫茶店に行って聞いたら、彼女はこういうわけですね。「先生は大学の講義のときに、阿弥陀様だけは絶対最後まで離れてくださらないと仰ったけどあれ本当ですね。」皆さんこれで彼女が置かれた状況、分かるでしょう。癌ですね。もちろん深刻な癌ですね。彼女覚悟しているわけですね。それでも阿弥陀様だけは絶対最後まで離れてくださらない、いうことを講義で習った。あれ本当ですね。疑ってるわけじゃない彼女は私に確認してるわけですそれを。皆さんこの言葉ご存知ですね。ご和讃にありますから、正信偈六首引きにあります。「畢竟依」この私のいのちの最後の拠りどころ。阿弥陀様は私にとって「畢竟依」である。ほかに何にもない。彼女ちゃんと分かっているわけです。ほかに何にも頼りになるものは無い。それで彼女は一生懸命考えて、大学のときの私が阿弥陀様は「畢竟依」だという話をしたらしい。彼女はそれを思い出してそれを私に確認しようとしたわけですね。どうですかみなさんこの子はご法義十分に味わっていますね。行信論知りませんこの子は。余計なこと教えんでよろしい。阿弥陀様だけが最後の拠りどころである。彼女それを頼りに今まだ生きています。病院で会うことあります。やせ細って見るかげないですけどちゃんとお念珠を離さない。お仏壇を買ってもらったそうですよ、お名号だけっだったのがお母さんからお仏壇を買ってもらった。阿弥陀様を「畢竟依」だと思って彼女は生きているわけです。どうです「行信論」あってもしゃあない。これ以上彼女に何を伝えることありますか。わたしはこれで十分だと思いますよ。そういう事実がありますね。


 これはだいぶ前の話ですけれど、10年位前の話ですけど。卒業生がこの大阪で、この子は地方の方ですけれども、大阪に就職しましてね。大きな会社に就職してそこで有能な青年社員と恋愛関係になったわけですね。彼はですね非の打ち所の無い男性だった。やがて結婚してしばらくしたら赤ちゃんが生まれた。とたんに彼女は地獄に落ちたわけです。赤ちゃんが十分な健康な状態ではなかった。そうしますと日本では必ず外野席が騒ぎ出すんです。ご主人側の親戚が「うちにはああいう筋はない」ということをいい出す。彼女の側の親戚も同じ事をいい出す。ご主人の耳に入る。日本人の一番厄介なとこですね。影でいい出すと耳に入ってくる。居たたまれないですね。それで彼女はその子を道ずれにして死ぬしかない。それぐらい窮地に追い込まれたわけです。それで最後の身辺整理をしていたときに、たまたま大学のノートをですね見直したわけですね。そこにこう書いてあったんです。「ものみな金色に輝く」。これはもう皆様方いうまでもなく四十八願の第3願「悉皆金色の願」です。「この世界の存在するものはひとつとして阿弥陀様のお慈悲の下で金色に輝いていないものはひとつもない」こういう阿弥陀さまの本願、願いです。普通これは問題にしませんね。十八願とか十一願とか問題にしますけど。私はどうも大学で学生に講義したらしい。だから私の人生は山あり谷ありの人生だけども、谷底のぞん底に落ちてもう絶望だと思っているときも、阿弥陀様はお前は金色に輝いている存在だと見てくださっている。そいうことですよ。阿弥陀様のお慈悲から見たら山や谷にいるときも金色に輝く、貴重なそういう時ですね。そいうことです。「悉皆金色の願」です。私は学生たちには一番分かりやすいのでこの話に力を入れてしゃべるんです。それを彼女はノートに書いていたんです。それを見て、今自分が道ずれにしようとしている子供も私も金色に輝いていると見てくださる者があるということに気がついたという。そういうことを綴った分厚い手紙を渡していただいて、今でも宝物にして持っていますけど。彼女「行心論」知りませんね。ぜんぜん知らんでもこの彼女は子供さんと一緒に救われたわけですね。こういうようなお慈悲の理解というものは我々欠いてきたんじゃなかろうか、こういう気が私はするわけです。


 この話はアメリカでも通用しますよ。私得意の話で「ゴキブリでも金色に輝いていますよ」という話をするんです。初めどっと笑いますよ。ゴキブリでも金色に輝いている。ハーバードでもやりましたよ。初めどっと笑いますよ。それを承知でやるんです。ゴキブリでも金色に輝いているいうことを繰り返していう。3回目か4回目かになりますとシーンとなりますね。叩き殺してもなんとも心の痛まないゴキブリが金色に輝くほど尊いと見ていただく存在があるということに思い至るわけですね。こういう法義の伝え方我々忘れてしまったのじゃないか。私がいかに信心喜ぶか。「行信論」ばっかりにのめり込んでしまって、「行信論」を分からなければ浄土真宗分かったことにならない。こういう雰囲気があるわけでして、勧学寮がそのメッカなんですね、「行信論」の。勧学寮というのは、「行信論」をサポートして、それを伝えるところだと。私、勧学寮でこういうことを言っちゃだめなんですね。実際。勧学寮失格になるわけですけれども。私はそういう経験がありますので、「行信論」にのめりこんで泥沼に入らなきゃいいわけですね。しっかり「悉皆金色の願」、阿弥陀さまのお慈悲を見事にいい表したような、そういう教えに耳傾けるべきじゃなかろうかと思いますね。難しい、煩瑣な理屈はどうでもいいわけです私に言わせれば。煩瑣な理屈でたすけるわけじゃない。阿弥陀様のお慈悲で助かるわけだから。そのお慈悲をどのように伝えるかということですね。


 京都女子大学で仏教、浄土真宗を担当した。私にとっては貴重な宝物なんです。そして卒業生から教えられたことが何度もある。あの20前後の若い女性たちも、大変な人生の厳しさに直面してる、そういう子がいっぱいいますよ。そういう学生たちに何とか仏法をもって、生きる希望を与えたい。去年、わざわざ尋ねてきました3人に聞きましたら、その3人うちの一人は、入学した年の18歳です。高槻の駅で自転車に乗っていて、大学へ来るときにバスに轢かれて、バスの運転手さんの過失だったそうですけど、彼女はなんと18歳で左足全部失ったんですよ。付け根から。もう”死ぬ、死ぬ”ばっかりいうんですね。お母さんから私、相談を受けましてですね、高槻の病院に行って、いろいろ励ましたわけですね、その時にやはりこれですね、一番ものを言ったのは。「片足を失ってもあなたは金色に輝いているんだ。そいう風に見ていてくださる者があるんだ。」いうことですね。もう彼女は30幾つになっています。3人友達と一緒に来ましてね。そういう思い出話をしてましたですね。まったく暗いところは何にも無い、明るい立派な女性になっていますがね。


 どうですか皆さん、仏法はこういうところでものをいっているわけで、けっして「行信論」にのめり込まなければ仏法が分かった事にはならないということではありませんよ。もう少し広い目で見て仏法を伝えていきたい。それでなきゃアメリカ行って「行信論」やったって全然通じませんよ。火星人に喋っているのと同じことですよ。アメリカ行ったらアメリカの伝え方があるということですね。私、夜中の2時ごろにフィンランドの女性と話することありますけどね。スカイプで話しますけどね。彼女はお寺も知らない、何も知らない。ただ断片的に親鸞聖人のお言葉を知っているだけです。私はそれで十分だと思いますよ。お寺で聴聞してないじゃないか、私そんなこと絶対言いませんよ。聴聞する場所が無いじゃないですか、フィンランドで。そういう事実があるわけですね。今ハワイにですねアルフレッドブルームという人がもう危ない、89歳でありまして、この人は、皆さん名前ぐらいは覚えといてくださいね、うちの海外における人材の中でも出色の人、宝物みたいな人です。この人はインターネットで親鸞聖人の教えを配信してきた。今もう臨終の床にあるといってもいいぐらい深刻な状態で、それは出来ないでしょうが。そしてそのインターネットの記事を読んだ人たちで親鸞聖人の教えに興味を引かれた人が一杯出てきていますね。ブルームは私の名前を出して私のアドレスを教えるものだから、私にそれが来るわけですね。そいう人たちから来るわけですね。全然知らん。そういう人たちと夜中にメールで交換しているということがあるわけです。日本語も何も分かりませんよ。だけど阿弥陀様のお慈悲はちゃんと理解できる。こういう視点を我々は持たなきゃいけないと思います。私が目の敵にしている「行信論」、目の敵にはしてないんですが、私これ守るのが本職なんですが一番厄介なのはこれなんです。これが人々を泥沼に落とし込むわけなんですよ。悪あがきしてもどうにもならなくなってしまう。信心がどうの、行信の関係がどうの学者がやるのはいいですけど、それを一般の場に持ち出してくるという、これが浄土真宗のご法義を説く一番の基本になってきたわけですね。これがある限り浄土真宗はなかなか壁を打ち破れないと思います。浄土真宗のご法義はきわめて普遍的なもので誰にでも分かる、人間である限り分からない人はいない。こういう一番大事な視点を持っていただいて、そういう姿勢でご法義を伝えていただきたいと思います。もうそれ以外に私なにもいう事無いぐらいのことです。とにかく浄土真宗の法義というのは、普遍的なものである、誰でも分かるし、皆が救われるわけですね。「毛唐に深い浄土真宗の教えが分かってたまるか」こういうことは絶対に仰らないようにお願いしたいですね。そういうことを堂々と仰る和上さんおられたのでね残念ですね。ご法義というものの普遍性ということをお話させていただいた。教えを伝えるということはお慈悲を伝えたらいいだけのことであって、難しいことじゃないですよ。教学を勉強してないから伝えられない、そんなことありませんよ。「ものみな金色(こんじき)に輝く。」これで立派にご法義になっているわけです。あなたの人生は山あり谷あり、どん底に落ちる時、あるいはまた這い上がって山に上がるとき、また谷に落ちるとき、この繰り返しだけど、いつの時点でも金色に輝いていると見ていてくださる者があるんだよ。これぐらい誰でもいえますよね。「もう死んだほうがましだ」と思っているときでも、あなたは金色に輝くほど尊い存在だと阿弥陀様は見てくださっている、ということですね。そういうことは誰でも伝えられるはずですよ。先ほどの高槻の学生はですね、片足失ってそこから立ち直ったわけですね。そいうことが大きな力になった。


 後は私が皆様方にお伝えしたいことはですね、私一人のしのぎの問題。皆さんお聞きになったと思いますけど、「主体性」という言葉ですね。私一人の問題、私一人の救いの問題、主体性というもの、耳にたこが出来るほど聞きましたですね。浄土真宗の法義ほど主体的なものは無い。私一人のしのぎの問題。主体性という言葉は皆さん忘れてくださいね。私を視点にしてもの考えているにすぎない。そういう主体性じゃない。これを好んで使うわけですね。阿弥陀様が先に私に来てくださっているんです。主体性もへったくれも無い。阿弥陀様の仕事、阿弥陀様の働きが先である。そういうことを皆様方がお同行にお伝えになったら十分なんですね。


 うちのご本尊は「南無阿弥陀仏」というご本尊様でありまして、阿弥陀様じゃないわけです。「南無阿弥陀仏」というご本尊でありまして、あれはここにすでに来てくださっている姿を形で表したものがあのお立ち像なんですね。だから礼拝の対象じゃありません。お念仏と同じことです。私の口からお念仏がでる、仏さんが出てくださってる。それと同じことで、ご本尊はそういう意味を持っているんだということを皆様方がご門徒様にお伝えになったら、一番良いと思いますね。


 讃岐の庄松が、「お前の救いはどうなっているんだ」と興正派のご門主から聞かれたときに、「わしの救いのことは知らん、あれに聞け」と阿弥陀様を指差したという。あれ阿弥陀様じゃない庄松が指差したのは「南無阿弥陀仏」さまという仏さまを指差したんです。というのはすでに仕事をしている最中だというわけですね。そういうご本尊様であるわけです。私の口から出るお念仏と寸分変わるところが無い。こういう働きだ、これが一番肝心なところですね。これさえ伝えられたら何もいうことは無い。付け加えることは何も無いですね。


 私、法義示談を総会所でやりますがね、もういつでも苦し紛れになったときはね、質問に答えるわけですね。「あれに聞け」といってご本尊を指差すわけです。そういって逃げてしまうわけですね。何も間違っていないわけですね。私がごちゃごちゃいうより先に阿弥陀様が届いていらしゃる。そこに付け加えるものは何も無い。信心を付け加える必要も無いですよ。お念仏付け加える必要もありませんよ。もうすでに来てくださっているその姿が南無阿弥陀仏である、もう実にシンプルですね。そして揺るぎもしない教えですね。 ご開山はここまで我々にお示しくださったという一番を伝えてください。難しい理屈を使う必要は無い。あんたの口から念仏が出たら十分だ。それだけです。そのご法義を伝える以外何も無い、いうことですね。阿弥陀様のお慈悲はいつでも私を金色の輝かせていて下さっているという話にまで持っていくことが出来ますね。そこには人間の作った価値判断は一切役に立たない。あらゆる物を越えて、私に働いてくださっていることも伝えることが出来る。お好きな人は「行信論」をしてくださって、私の一番の仕事はそれなんですが、一番好きでない仕事なんです。「行信論」というのは泥沼に入ったらどうにもならない、論理のための論理になってしまう。浄土真宗のご法義は非常にシンプルで明解なものであるということがいえる。だから誰にでも伝わる。そこに社会性というものが自ずから出てくる。私一人のしのぎの問題じゃありませんよ。私が救われるということは横の人も救われるということなんです。そういう視点が自ずから出てくるということですね。私一人のしのぎの問題にのめりこまないように、そのようにしていただきたい。私はせつに近頃思うところであります。


 ちょうど1時間になりましたですね。後は、質疑応答、皆様方と対論になったらありがたいですけど。何でもご意見お聞かせください。                    (終)