続・近年の本願寺派教学に想う
紅楳英顕
2014年(平成26年)4月となった。本願寺派の新たな始まりとして制定された新宗制、新宗法が施行されて(平成24年4月1日施行)2年が経過した。
周知のように、宗制 第三章 教義に
信心は、阿弥陀如来の大智大悲の徳を具えた名号をいただくことであるから、往生の正因となる。信心決定の上は、報恩感謝の思いから、仏徳を讃嘆する称名念仏を相続する。これを信心正因、称名報恩というのである。
と定められており、 宗法第59条3に
3,勧学寮は、宗制に定める教義に相異する義を主張した者に対し、教諭する。
が新たに定められている。
上に示したように新宗法においては 勧学寮は、宗制に定める教義に相異する義を主張した者に対し、教諭しなければならないのである。
先の「近年の本願寺派教学に想う」に述べたように、元龍谷大學学長(専門は真宗学)は以前から信心正因称名報恩義を批判していたのであるが、 近年出版された氏の著 『真宗求道学』(平成23年<2011年>9月発行、法蔵館、160頁。)にも
今日の西本願寺教団の伝統教学では、信心とは名号を受領することであって、称名と は信心以後の報恩行であるといい、信心正因称名報恩を主張して、信心(信)が前で 称名(行)が、後である、信前称後であると語っていますが、この『末灯鈔』の文を どう読むのでしょうか。信心正因称名報恩の教義理解が、親鸞の本意からすれば、全 くの誤謬であることは、きわめて明白でしょう。
と述べているのである。この氏の主張は、宗制に定める教義に相異する義を主張した、という範囲をこえた宗制に定める教義に反対しているものである。新たな始まりの新宗法の下、勧学寮、総局はこの事に対し教諭等の対処を直ちに行うべきなのである。「近年の本願寺派教学に想う」に述べたが、私は勧学寮、総局に対し氏に対して教諭を早急に行うことをお願いしたのであるが、新宗制、新宗法施行後丸2年が経過した今日まで教諭が行われた様子はない。勧学寮、総局は一体何を考えているのであろうか。宗法遵守義務を放棄したのであろうか。極めて理解し難い、残念なことである。これではまるで医者が癌患者と知りながら、処置の方法に迷うばかりで何の処置もせずに、患者を死に至らしめることと同じ事になろう。宗門において一番大事なことでである安心、信心の問題を曖昧に放置したままで、いくら宗門長期発展計画を掲げたところで成果は期待できるとは考えられない。これは過去4~50年の教団の歴史がそれを物語っているであろう。
勧学寮、総局が 宗法遵守義務を放棄したのでないのであれば、もう猶予は許されない。早急に対処しなければ職務放棄となるであろう。
因みに元龍谷大學学長(専門は真宗学)の 『真宗求道学』(平成23年<2011年>9月発行、法蔵館、159頁~160頁。)に述べられている氏の信心正因称名報恩批判について、私見を述べたいと思う。氏は
かくして、親鸞においては、まことの称名とは、そのまま聞名であり、さらにまた信 心を意味するわけで、まことの称名念仏には、つねに真実信心がともなっているわけ です。 親鸞が
真実の信心は必ず名号を具す。(「信文類」真聖全2,68頁)
と語り、またその称名(行)と信心(信)の関係について、
信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。(中略 )信と行 とふたつときけども、行をひとこえするとききてうたがはねば、行をはなれたる信は なしとききて候。又信をはなれたる行なしとおぼしめすべし。(『末灯鈔』真聖全2, 672頁)と明かすものは、まさしくその称名と信心、行と信とは、本質的には即一 するものであることを教示したものでしょう。
しかしながら、 今日の西本願寺教団の伝統教学では、信心とは名号を受領するこ とであって、称名とは信心以後の報恩行であるといい、信心正因称名報恩を主張して、 信心(信)が前で称名(行)が、後である、信前称後であると語っていますが、この 『末灯鈔』の文をどう読むのでしょうか。信心正因称名報恩の教義理解が、親鸞の本 意からすれば、全くの誤謬であることは、きわめて明白でしょう。
と述べている。
先ず「 かくして、親鸞においては、まことの称名とは、そのまま聞名であり、さらにまた信心を意味するわけで、まことの称名念仏には、つねに真実信心がともなっているわけです。」と、氏はまことの称名念仏はつねに真実信心がともなっていると述べているが
、親鸞聖人は『正像末和讃』に「真実信心の称名は 彌陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」(真聖全2の520)と述べられているのである。氏のいう
「まことの称名念仏」が如何なる意味かは分からないが、親鸞聖人においては 「真実信心の称名」が「 彌陀回向の法」であり、「自力の称念」(自力真門念仏)とは異なる「まことの称名念仏」なのである。親鸞聖人における
「まことの称名念仏」とは「真実信心の称名」の称名、つまり信心具足の信後の念仏なのである。親鸞聖人の念仏において信前信後を認識出来ず、信前称後を否定する氏の念仏観は先ずこの点において根本的な大きな誤謬を冒しているのである。(拙稿「宗祖における信心と念仏ー念仏を中心としてー」)。
次に「 真実の信心は必ず名号を具す。(「信文類」真聖全2,68頁)
と述べ、それに続いている「名号は必ずしも願力の信心を具せざる也。」(「信巻」真聖全2の68)の文が省かれているのである。氏にとって、この「名号は必ずしも願力の信心を具せざる也。」の文は意味の理解に困難なものなのであろう。即ち名号(念仏)には必ずしも信心を具しているとは限らないということ、「真実信心の称名」(他力弘願念仏)は信心を具しているが、自力の称念(自力真門念仏)には信心が具せられてはいないということが述べられているのである。念仏に信前(自力真門念仏)と信後(
弘願他力念仏)があることが認識出来ていない氏はこの文の意が分からないので、故意に省いたものと思われる。
次に 「 またその称名(行)と信心(信)の関係について、
信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。(中略 )信と行 とふたつときけども、行をひとこえするとききてうたがはねば、行をはなれたる信は なしとききて候。又信をはなれたる行なしとおぼしめすべし。(『末灯鈔』真聖全2, 672頁)と明かすものは、まさしくその称名と信心、行と信とは、本質的には即一 するものであることを教示したものでしょう。」
とある所であるが、確かにここに信一念と行一念とが不離とは述べられているが前後は述べられてはいない。しかし前後はないのであろうか。結論からいえば『一念多念文意』に「行巻」の行一念釈に引かれている『大経』の彌勒付属の文が引かれ
「歓喜踊躍乃至一念」といふは、(中略)「当知此人」といふは信心のひとをあら わす御のりなり。「為得大利」といふは、无上涅槃をさとるゆへに「即是具足无上 功徳」とものたまへるなり。「則といふは、すなわちといふのりまふすことばなり。如 来の本願を信じて一念するに、かならずもとめざるに、无上の功徳をえしめ、しらざる に広大の利益をうるなり、(真聖全2の610)
とある。ここに「当知此人」といふは信心のひとをあらわす御のりなり、とあるように聖人は行一念釈の彌勒付属の文の「当知此人」を信心のひと, としているのである。そして次下に、「如来の本願を信じて一念するに」とあるように明らかに信(信の一念)前、行(行の一念)後を述べているのである。上の『末灯鈔』11のみをみれば信行はあくまで不離であり、前後はないということになるかも知れないが、他の文献に目をやれば容易に聖人の意は信前行後であることが理解されるであろう。
『教行信証』「化土巻」に
横超とは本願を憶念して自力之心を離る、是を横超他力と名づくる也。斯れ即ち専 の中の専、頓の中の頓、真の中の真、乗の中の一乗なり。斯れ乃ち真宗也。已に 真実行之中に顕し畢んぬ。(真聖全2の155)
とあるように、横超とは本願を憶念して、即ち本願を信じて、自力之心を離れることであり、横超他力の行(他力回向の行、真実信心の称名)については「行巻」に顕したと述べている。このことから考えても、「行巻」に述べられている「行一念」は当然信心具足の行であり、信後の行(念仏)ということになろう。『末灯鈔』に「信をはなれたる行もなし、行の一念はなれたる信の一念もなし」と聖人は述べているが、それは信心決定のうえでの信行不離をいっているのである。信前の念仏(未信の念仏)でそれをいっているのではないのである。
そして次に述べられているのが、上に述べた
「しかしながら、今日の西本願寺教団の伝統教学では、信心とは名号を受領することで あって、称名とは信心以後の報恩行であるといい、信心正因称名報恩を主張して、信心 (信)が前で称名(行)が、後である、信前称後であると語っていますが、この『末灯 鈔』の文をどう読むのでしょうか。信心正因称名報恩の教義理解が、親鸞の本意からす れば、全くの誤謬であることは、きわめて明白でしょう。」
と述べている本願寺派宗制 第三章 教義に定められている信心正因称名報恩が親鸞聖人の意に反する全くの誤謬であると述べた見解である。勧学寮は直ちに教諭を行わねばならない。氏の見解こそが救済体験がないために「真実信心の称名」、他力弘願念仏、報恩念仏の実感がなく、信前信後の念仏の相違も認識出来ないところから生じた全くの謬見といわざるをえないのである。このような謬見を語る人が永らく本願寺派教団の教学の指導的立場にあったこと、またそのようにさせて来たことが、教団の長期低落傾向の大きな原因になったといえよう。
信前信後の念仏の相違を認識することができるのであろうか、と疑問を持ち、そんなことをいうことこそが間違いだという人がいるかも知れないが、親鸞聖人が入信体験、救済体験、 他力弘願念仏と真門自力念仏との相違を語られていることに誰も異存はないことであろう。 救済体験によって認識するということは、例えていえば、人が我が子を持ったとき、我が子の可愛さと他者の子との可愛さが違うことは、教えて貰わなくてもはっきり認識出来るのと同じことと思う。救済体験がなければ、信前、信後の念仏の相違も分からないし、報恩念仏も実感できないことであろう。(2014年<平成26年>4月2日)
上記のように
宗制 第三章 教義に
信心は、阿弥陀如来の大智大悲の徳を具えた名号をいただくことであるから、往生の正因となる。信心決定の上は、報恩感謝の思いから、仏徳を讃嘆する称名念仏を相続する。これを信心正因、 称名報恩というのである。(このことは以前から定められていた。)
と定められており、 宗法第59条3に
3,勧学寮は、宗制に定める教義に相異する義を主張した者に対し、教諭する。(これはこの度新たに定められたものである。)
と定められているのである。長期低落傾向にあるといわれる宗門の新たな始まりとして制定され、施行されて、既に2年2ヶ月になり、まもなく法統継承式典の日を迎えようとしている。
ところが以前から述べているように、宗制 教義に定められている信心正因称名報恩義に反対の意を述べる元龍谷大学学長(専門は真宗学)に対し、勧学寮から未だに何の教諭もなされていないのである。
これは総局、勧学寮、監正局の宗法遵守義務の怠慢放棄と先ずいえるであろう。しかし、もっと詳しくはっきりいえば、現在の総局、勧学寮、監正局が信心不決定者(未決定者)の集団(極少数の例外はあるかも知れないが)であるが故に、この度新宗法に従来なかった勧学寮の教諭が定められたことが、宗門が長期低落傾向から脱するためには、もう二度と来ないといっても過言でない好機であることが認識できないことと、信心正因称名報恩義批判者の見解が信心不決定(未決定)から生じている謬見であることが理解できていないが故に、それに対処する能力に欠けていること(昭和56年<1981年>に勧学寮は異義断定保留とし、具体的には何もできなかった⦅註⦆ことも同様)とが、未だ何もなされない大きな原因になっているといえよう。
折角、宗門の新たな始まりのための新宗法に「 勧学寮は、宗制に定める教義に相異する義を主張した者に対し、教諭する。」と勧学寮に教諭の権限と義務が定められ、施行されて既に2年2ヶ月が過ぎながら、相変わらず、何もなされた様子はないのである。
このような、宗教団体にとって何よりも大事な教義・信心の問題が粗雑に扱われ、放置されたままの状態で、 法統継承式典の日を迎えるということになれば、甚だ不謹慎なことではあるが、宗門の前途は、極めて厳しいものとなるであろうと愚考する。
誠に歎かわしきこと、悲しきことである。
親鸞聖人の御言葉をお借りすれば「まことに 傷嗟すべし、深く悲嘆すべし」(浄土真宗聖典、P.412)とあるものである。
日渓古数寄屋法語にある「祖師聖人御相伝の御宗旨さえ、御立行なされ候へば、御本山は自然と御立ちなされ候」(真宗全書62卷、238頁)とある言葉が思い出される。
総局、勧学寮、監正局の方々にも、是非お読み頂きたいと存じます。「信心を本」とし、「親鸞聖人の教えを正しく伝えていく」、これが宗門にとって一番大事なことであります。
⦅註⦆ 中外日報(昭和56年<1981年>3月17日)、同(10月16日)、同(平成7年<1995年>5月11日)。
(2014年<平成26年>5月14日)
「近年の本願寺派教学に想う」を参照願います。
入信(回心)体験を語ることを一念覚知の異義だという人が、近年多いようであるが、この類いの人達の多くは信心不決定者(未決定者)、もしくは十劫安心(『御文章』1の13,2の11,3の8等に述べられている。)の異義者と考えられる。
一念覚知説等の三業惑乱終結(1806年)に尽瘁した大瀛師も、その著『横超直道金剛錍』に十劫安心(十劫秘事)を否定して「ただ十劫正覚の初より。我が往生を定玉へるを忘れず疑はずが信心なりとばかりこころえたるは。甚だ麁昧の至なり。夫れ衆生往生の法門こそは。正覚同時になしたまひけん。一機一機の往生に至ては。信楽時至らずしてはいかでか定まりなん。故に衆生帰命の一念の時。彌陀は必ず摂取して。往生治定せしめたまふ。(中略)十劫者はこの義をしらず。往生法門成就の時を以て我が往生治定の時と取り誤る聞不具足の故にその信心ぞと云うふもの。大疵物なり」と述べ、十劫正覚は往生法門成就の時であり、
衆生帰命の一念(信心決定)の時が往生治定の時である、と述べていることを承知頂きたいと思う。拙稿「 親鸞浄土教における救済の理念と事実}、 「一念覚知説の研究」参照。 (2014年<平成26年>5月18日)。
本願寺派の宗報 2014年5月号が発刊された。そこに宗則第3号 教諭規程<(録事)p、7> および 達事 勧学寮達事第1号 教諭の執行に関する達事<(録事)p、24> が掲載された。
新たな始まりとして新宗法<2012年(平成24年)4月1日施行>の第59条3に
3,勧学寮は、宗制に定める教義に相異する義を主張した者に対し、教諭する。
と定められて、既に2年余り経過し法統継承式が間近に迫った今、やっとここ至ったのである。既に述べたが私が新宗法の下で、信心正因称名報恩批判者に対し早急の教諭を総局にお願いしたのが2013年3月18日のことであり、総局から勧学寮に回したというご連絡を受けたので、勧学寮にこのことをお願いしたのが同年7月5日のことであった。そのことを想えば、教団にとって何よりも大事な事である安心・信心の問題をもっと迅速に取り扱えなかったのかとは思うが、とにかくここまで成ったことを総局・勧学寮に謝意を表したいと思う。
しかし、いうまでもないことであるが、教諭は正しく執行されなけれならないのである。
昭和56年(1981年)に勧学寮は、信心正因称名報恩を批判した元龍谷大学学長(専門は真宗学)および真宗学教授(故人)に対し、異義断定保留、今後の教学活動を見守る(中外日報、昭和56年3月17日)、疑義断定保留、今後の教学を見守る(中外日報、同年10月16日)としたままで、実際はなにもしなかったのである。このことは元学長が後年、監正局長に就任した時のスピーチに「かって私は異安心として教団に睨まれたが、その私が監正局長に・・・。これは教団が変わったのか、私がかわったのか」(中外日報(平成7年<1995年>5月11日)と述べていることからも明らかなことである。
この度執行される教諭は昭和56年に勧学寮が行ったようなものであってはならない。 もしもこの度、新宗法の下、教諭規程も定められながら、実際には教諭は執行されないとか、あるいは昭和56年(1981年)に勧学寮が行ったような杜撰極まる処置がなされるようなことであれば、宗門の低落傾向、無信心傾向はただ進むのみであり、将来益々厳しさを増すことになろうと憂うのである。
(2014年6月2日)。「近年の本願寺派教学に想う」を参照願います。
先日知人から、御自分の入信(回心)体験を述べた、下記のメールを頂いた。
紅楳先生
いつもご指導有難うございます。
毎日、報恩の気持ちが絶えません。
何故南無阿弥陀仏が届いて下さったのか。
今だ信じられません。
次週24日お参りさせて頂きます。
阿弥陀様の御心をお聞かせ頂ければ幸いです。
ご教化頂きます様、よろしくお願い申し上げます。
本当に有難うございます。
合掌
以上 Y
入信(回心)体験は、その年月日時の記憶は必要ではないが、その事実はあるのである。(拙稿「信一念と信の覚不について」「親鸞浄土教における救済の理念と事実」)。
「近年の本願寺派教学に想う」の初めに述べたように、宗門の責任者(行政面、教学面)は信心決定者でなければならないのであり、少なくとも教学面の責任者はそうでなければならない。もし現在の教学面の責任者が「信心は不覚である」、「往生の確信はあるはずはない」とか「十劫の昔に、すでに救われている」等と思い込んでいる信心不決定(未決定)者や十劫安心の異義者の集団であるならば、新しい始まりとして新宗法が制定され、新たに「勧学寮は、宗制に定める教義に相異する義を主張した者に対し、教諭する。」(信心正因称名報恩義を否定するものに対して教諭する)と定められた条項の責務を果たすことことができるのであろうかと危惧する。
この度法統継承がなされ、新御門主様が誕生された。まさに新しい時代の始まりである。もしも折角、新宗法が定められながら何の教諭もなされないというような、宗法遵守義務が放棄されるようなことが生じたり、あるいはそうではなくても、昭和56年(1981年)に勧学寮が信心正因称名報恩義批判者に対して行ったような、杜撰極まる処置が繰り返されるようなことになれば、宗門の無信心化がただ進む一方になるのではないかと憂慮するのである。(2014年6月25日)。
、
聞く所によると、私が監正局に提出した元龍谷大學学長(専門は真宗学)の宗制の教義に定められた信心正因称名報恩義批判の問題は、すでに監正局が正式に取り上げ、勧学寮に回されているとのことである。
何度も述べたように、新宗法、59条3に「勧学寮は宗制に定める教義(信心正因称名報恩)に相異する義を主張したものに対し、教諭する。」(平成24年4月1日施行)と定められているのである。新宗法施行以来すでに2年3ヶ月以上も経過している。もうこれ以上の猶予は許されないはずである。勧学寮に早急の教諭執行をお願いしたい。
前にも述べたが、称名報恩を否定する見解は、その人に救済体験がない故に、親鸞聖人のいわれる「慶ばしいかな」の世界の実感がなく、その故に報恩念仏の実感もない、信心不決定(未決定)者の所論なのである。親鸞聖人が『教行信証』「化土巻」真門釈結誡に「まことに知んぬ、専修
にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。ゆえに宗師(善導)は、『かの仏恩を念報することなし。業行をなすといへど心に軽慢を生ず。つねに名利と相応するがゆえに、人我おのずから覆ひて
同行・善知識に親近せざるがゆえに、楽みて雑縁に近づきて往生の正行を自障障他するがゆえに』(礼讃 660)といへり。」( 浄土真宗聖典P.412)と、述べられている人の見解である。
このような人が長い間、宗門の教学の責任的指導者であり続けたことが、宗門の長期低落傾向の大きな原因になったといっても過言ではないと思う。
もしも勧学寮が宗教団体にとって一番大事なこの信心についての問題を、有耶無耶に放置するということになれば、新宗法違反の職務放棄でもあり、直ちに解体すべきであろう。 また、あるいは昭和56年(1981年)に、その当時の勧学寮が行ったような極めて不誠実な御粗末至極な処置をなすようなことであっては、宗門の将来に全く光はないことであろうし、新御門主様が「自信教人信」が大事であると、熱く語られるお心にも反することであろう。(2014年7月7日)。
本願寺派宗制に定められている信心正因称名報恩義を批判する元龍谷大學学長(専門は真宗学)が新たに『真宗の本義』(2014年7月10日発行、法蔵館)を出版した。信心正因称名報恩義批判を改める様子は全くない。
何度も述べたが、これは氏が救済体験がない故に、現生正定聚 の慶びもなく、信前信後の念仏の認識もなく、報恩念仏の実感がないが故の謬見なのである。
勧学寮は職務を放棄する気がないのであれば、教諭執行を躊躇する理由はもう何も無いはずである。教諭規程も定められたことであり、直ちに教諭を執行すべきである。
今回の著にもあるが、氏は 以前より、浄土真宗 における仏道として称名、聞名、信心の道を語る。絶対矛盾的自己同一、非連続の連続、永遠の今、等という西田哲学の言葉を使用し、深い思索によるように述べるのではあるが、要は称名念仏の実践によって信心は生ずるものと主張したいのであろう。これが抑も『正像末和讃』に「真実信心の称名は 彌陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」、(浄土真宗が聖典P、607)とある親鸞聖人がきらわれた「自力の称念」(若存若亡の心で往生一定のおもいもなく、仏恩報ずるおもいもない念仏)に他ならないのである。
また氏は自分自身が目覚め体験者、信心体験者、回心体験者であるように語っているところがあるが、私はこれを信用することは出来ない。「信巻」の現生十種の益の第八には「知恩報徳の益」(浄土真宗聖典P、251)とあり、「化土巻」三願転入の文には「ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す」(浄土真宗聖典P、413)とあり、『親鸞聖人御消息』25には「わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、御報恩のために御念仏こころに入れて申して」(浄土真宗聖典P、784)等とあるのであり、信心決定者(目覚め体験者、信心体験者、回心体験者)であれば、氏のように称名報恩義を否定することは絶対にあり得ないことであるからである。
この度出版された『真宗の本義』においては氏は自説の称名報恩義否定を正当とするために、むやみに覚如上人、蓮如上人を批判している所が多い。 例えば
蓮如は、真宗における信心を説明するについて、しばしば「後生たすけたまへとたのめ」と教示しておりますが 、この「たすけたまへ」と「たのむ」という言葉は、もともと鎮西浄土宗の、一条流にお いて主張された教語であります。したがって、蓮如は早いころには、この言葉をめぐって、「たとひ名号をとなふるとも、仏たすけたまへとはをもふべからず」(『帖外御文章』(真聖全5の278頁)とい って、「たすけたまえ」といってはならないといい、また、その一条流の信心理解についても、「それは浄花院の御心えどをりにてさふらふほどにわろく候」(『帖外御文章』(真聖全5の472頁)などと いって、厳しく批判していたわけですが、そののち、この一条流の法語、ひろく世間に流布していったところ、蓮如はやがて、自分自身もこの用語を使用するようになったわけです。まことにもって、 無定見、無節操というほかはありません。(『真宗の本義』179頁。)
、
と述べている。このように氏は蓮如上人を「無定見、無節操」と激しく非難しているのであるが、このようなことがいえるのであろうか。氏のいうように 「たすけたまへ」と「たのむ」という言葉は、鎮西浄土宗の、一条流において主張された教語であり、
蓮如上人 は上述のように 「たとひ名号をとなふるとも、仏たすけたまへとはをもふべからず」(『帖外御文章』(真聖全5の278頁)<御筆初めの御文章、寛正2年(1461)、
蓮如上人 47歳> とあるように、一条流の義に反対しており、上記の氏の引用<『帖外御文章』(真聖全5の472頁)、但しこの『御文章』は年時不明であり、氏がいうように早いころのものとは寧ろ考えにくい。このことも氏の所論に疑問を感ずる点である。>にもあるように、
一条流義反対は蓮如上人 において以後変わることはなかったのである。ただ文明5年(1473年、蓮如上人59歳)頃から 蓮如上人 は「たすけたまへ」という言葉で信心を表現するようになったのである。しかしこの場合のたすけたまへ」の意味は一条流の義である往生を祈願請求する意味ではなく、本願に信順する信順許諾の意味なのである。このことは教団人には周知のことなのである。龍谷大學の元学長であり、しかも真宗学が専門の氏がよもやこのことを不存知であるはずはない。存知していながら、称名報恩義批判の自説を正当化するために
「 まことにもって、無定見、無節操というほかはありません。」と 蓮如上人を非難、中傷する態度は全く理解に苦しむのである。
このように氏には宗制に定められた教義に反対する姿勢を改める姿勢は全くないのである。勧学寮は直ちに教諭を施行しなければならないのであり、もしこれ以上遅れるようならば、職務放棄罪に値するであろう。(2014年7月24日)
追、氏は称名報恩批判論がアメリカで多数の人々の賛同を得ているというが、アメリカ、ヨーロッパ、アジア、オーストラリア等で氏とは反対に称名報恩義に賛成の意見の人が多いということも御承知頂きたい。URL「紅楳英顕の真宗教室」第1面、参照。
元龍谷大学 学長(専門は真宗学)は最近の著『真宗の本義』(法蔵館、2014年7月10日発行)に
かくして親鸞さまの本義は、そののちには、誰も継承するものもいなくて、この「聞名の道」は、まったく放置され、歴史の中に埋没して今日に至ったわけです。今の日本の 東西本願寺の教学で は、このことをいうものは誰一人としておりません。そこで今私た だ一人が、親鸞さま没後七五〇年にして、改めてこの「聞名の道」をここに発掘し、開 示したところです。(同著55頁)(同様の意 が本著の諸所に述べられている。)
と述べている。これは氏が未だに報恩念仏の実感のない信心不決定(未決定)者である故に生じている勘違いも甚だしきことであり、全くの謬見なのである。
前回(2014年7月24日)に述べたように、氏は 浄土真宗 における仏道として称名、聞名、信心の道を語る。自己の称名念仏の実践によって信心が生ずるとするので
あるが、「聞名の道」として、自己の称する念仏が、そのまま全て如来の呼び声であるとして、自己の称える称名を聞くことが「聞名」であり、それによって信心をえるとするものである。
本願成就文に「聞其名号信心歓喜」とあり、 浄土真宗 において「聞名」ということは極めて重要なことである。親鸞聖人はこの文を釈して「信巻」に
聞といふは、衆生仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」(親鸞聖人全251頁 )と述べられている。即ち「聞名」とは「名号のいわれ」を聞くことなのである。この「聞名」を氏は
私が仏に向かって称名念仏していることは、そのまま阿弥陀仏が、私に向かって、自分をなのっていてくださるということにほかなりません。したがって、私は仏に向かって称名念仏しつつ、そのまま、その私の称名、阿弥陀仏の私に対するなのりの声、呼び声としてして、心深くきかるべきものであります。<初期無量寿経>には、しばしば「阿弥陀仏の声を聞け」と説かれております。今親鸞さまが教えられる「聞名の道」とは、そういう私における称名について、その称名とは阿弥陀仏の声にほかならず、それはつねに聞名にまで深化すべきであることを、教えられたものにほかなりません」同28頁)と述べている。
ここに氏は[<初期無量寿経>には、しばしば「阿弥陀仏の声を聞け」と説かれております。]と述べいるが、これが分かりにくい所である。これは氏が
ところでこの文は、真宗における聞名、私が称える称名念仏に、「阿弥陀仏の声を聞く」 (『大阿弥陀経』真聖全1,142頁・182頁)という聞名の成立構造について、二種の意味を語っています。 その第一は、その聞名がまことの聞名となっていくことについてすなわち、そこでは阿弥陀仏の声を聞くという、宗教体験をもつための過程、プロセスをめぐって明かします。(同著P、47.)
と述べていることであろう。真聖全1,142頁 には「善男子・善女人、阿弥陀仏の声を聞きて、光明を称誉して」、とあり、同182頁には「善男子・善女人、阿弥陀仏の声を聞き、慈心歓喜して」、「男子・女子弥陀仏の声を聞きて、有りと信ぜざる者は」とあるが、この阿弥陀仏の声が善男子・善女人の南無阿弥陀仏と称える声とであるとは考えにくいことである。親鸞聖人が御自身の著述に『大阿弥陀経』の文の引用はしながら、この文を引用してないということは、この文に注目しなかったということであり、全く氏のような考えはなかったということであろう。
また氏は
阿弥陀仏の名号を称念するということは、その称名行の反復、相続によってやがて自分の人格主体の内奥において、その深層なる心の境地が次第に育てられていき、その私 から仏への私の称名が逆転して、それが仏から私への告名、呼び声として、聞こえてくるようになり、それにおいて、究極的な真実との出遇い、「めざめ」体験をえて、人格的成熟をとげていくことになるわけです。 (同著34頁)。
親鸞さまは、 浄土真宗 における称名念仏とは、そのまま信心になっていくべきであると主張されるわけで、その「行文類」に次いで「信文類」を明かし、そこで真宗の仏道 をめぐって、信心につい て教説されます。(同著39頁。)
等と述べて、自己の称名念仏が、阿弥陀仏の呼び声となって聞こえてくるようになり、それがそのまま信心となると主張するのである。
そしてさらに
そういう真実信心とは、上にももうしましたように、私における日々の称名 念仏の相 続において、その私の称名が、仏の呼び声、招きの声として、聞こえてくる聞名になってこそ、そこにまこと の信心としての「めざめ」体験が成立してくるわけで、真宗における信心とは、それ自身が単独で成立するものではありません。それはつねに、私における日日の称名念仏に即してこそ、よく成立してくるものであります。」(同著77頁。)
と述べて、あくまで行前信後であることを主張し、信前行後を否定し称名報恩義を批判するのである。自己の称名を阿弥陀仏の呼び声として、聞いて称えることのよって信を得るといういい方は親鸞聖人には全くみられない誤りであるが、氏の見解の根本的は氏が救済体験がない故に、信前、信後の念仏の相違の分別がなく、報恩念仏の実感がないが故であろう。
氏は浅原才市 同行について
昭和の妙好人、浅原才市 同行(1850ー1932)の念仏領解には、その親鸞さま が教示したところの真宗の仏道である、称名、聞名、信心の道が、見事にうかがわれる ところであります。すな わち、彼はその日日、ひたすらに称名念仏しつつ、そこにそのまま、阿弥陀仏の呼び声を聞いていったわけで、残された多くの多くの詩歌にはそのことが鮮明にしのばれてくるところです。(同 著P、205頁)。
と述べているが、鈴木大拙師の著には
大体五十過ぎになって、いつとはなしに仏智と大悲の不思議が知れて来たらしい。六十歳頃から、自ずと物事を宗教的に眺め、味わうようになって来た。こけらに歌を書き始 めたのは大体六十 歳頃からであった。(鈴木大拙著『妙好人』法蔵館、平成11年6 月発行、207頁)。
とあるように、才市同行は永年聴聞につとめ、50歳過ぎに入信(信心決定)し、歌を書きはじめたのは六十歳頃だといわれている。現在残されている歌は全部信後に歌われたものであり、そこにある「なむあみだぶつ」は全部信後の念仏なのである。しかも「ごおんうれしや なむあみだぶつ」と頻繁に歌われているように(『ご恩うれしや』浅原才市翁顕彰会、昭和56年3月発行)、すべて報恩の念仏なのである。氏のいう、自己の称える信前の称名を弥陀の呼び声として聞き、それによって信心を得るという「聞名の道」の念仏とは全く異なるものである。
因みに、大厳師(1791-1856)の言として「吾となえ吾聴くと雖も、此れは是、大悲招喚の声」とあり、原口針水師(1808-1893)の言として「われとなへ われ聞くなれどこれはこれ つれていくぞの 弥陀のよび声」等が伝えられているが、これはすべて信後の他力回向の念仏においていえることである。
親鸞聖人が『正像末和讃』に「真実信心の称名は 彌陀回向の法なれば 不回向と名づけてぞ 自力の称念きらはるる」(浄土真宗聖典P、607)、「无慚无愧のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまう」(P、617)等と述べているように、「弥陀の回向の法」、「功徳は十方にみちたまう御名」とは「真実信心の称名
」(信後の念仏)においていわれているのであり、「自力の称念」(信前の念仏)ではいわれていないことをよく認識しなければならない。これは救済体験によって分かることであり、知識等その他のことでは分かり得ないことではあるが、これは単に氏だけのことではない。氏を教諭する責務のある勧学寮をも含めた現教団全体の大きな問題といえるであろう。
(2014年8月21日)。
9月14日(日)に日本宗教学会で「親鸞における無明について」と題して研究発表し、無明の通別義(痴無明と疑無明を語ること)批判者は、信心正因称名報恩義批判者と同様、信心不
決定 (未決定)者である旨を述べた。(「近年の本願寺派教学に想う、追加」)。 (2014年9月18日)。
とうとう元龍谷大学学長が亡くなった。折角新宗法(平成24年<2012年>4月1日施行)の第59条3に「勧学寮は、宗制に定める教義に相異する義を主張した者に対し、教諭する。」と新たにと定められ、信心正因称名報恩義反対者に対し勧学寮が教諭することになったのである。それにもかかわらず、勧学寮は何もしなかった。これでは「新たの始まり」のための新宗法とは,一体何であったというのであろうか。私は総局、勧学寮に何度もこのことをお願いし(最後にお願いした日は8月4日)、監正局の手続きもしたのであるが、結局何もなされなかったのである。
何度も述べたが、私はこの度定められた勧学寮の教諭義務は、信心の風化現象に起因する宗門の諸問題の本質的解決に繋がることであり、宗門再生のラストチャンスと思って来たのである。信心正因称名報恩義反対者は、とりもなおさず、その人が信心不決定(未決定)者であり、しかも氏は元龍谷大学学長、真宗学教授でもあって、その影響力は極めて大なるものである。それがこのように勧学寮に教諭義務が定められながら、何もなされないようなことになったのでは、今後宗門の信心不在体質は益々進むのみであり、低落傾向に歯止めが掛かることはないように想う。 合掌 (2014年9月27日)
第七回 漢詩の会が催されました
平成26年10月4日(土) 統一テーマは妙好人でした。
妙好人 紅楳英顕
金剛信心獲得者 金(こん)剛(ごう)の信(しん)心(じん)の獲得者(ぎやくとくしや)、
終南是名妙好人 終(しゆう)南(なん)是(これ)を妙好人(みようこうにん)と名(な)づく。
世尊言我善親友 世(せ)尊(そん)は我(わ)が善親友(ぜんしんぬ)と言(のたま)い、
宗祖讃真仏弟子 宗(しゆう)祖(そ)は真(しん)仏(ふつ)弟(で)子(し)と讃(さん)ず。
闕世間隙勤聴聞 世(せ)間(けん)の隙(ひま)を闕(か)きて聴(ちよう)聞(もん)に勤(つと)め、
覚醒如来大悲願 如(によ)来(らい)の大(だい)悲(ひ)願(がん)に覚(かく)醒(せい)す。
慶喜現生不退身 現生不退(げんしようふたい)の身(み)を慶喜(きようき)し、
過報恩念仏生涯 報(ほう)恩(おん)念(ねん)仏(ぶつ)の生(しよう)涯(がい)を過(すご)せり。
2014年9月4日
妙好人は信心決定の人であり、報恩念仏の人でありました。
ところで元龍谷大学学長が先月(9月)26日に亡くなりました。最後まで信心正因称名報恩義に反対し続けた人であり、報恩念仏を否定した人でありました。信心正因称名報恩義反対者は信心不決定(未決定)の人に他なりません。
折角、新宗法(平成24年<2012年>4月1日施行)に、信心正因称名報恩義反対者に対し、勧学寮の教諭義務が定められながら、それが遵守されなかった教団の体質(信心不在体質)を大変遺憾に想います。
合掌
紅楳英顕 (2014年10月4日)
「真宗念仏論」を公開した。この論文は今年3月に脱稿したもの(『大阪聖徳保育・福祉論叢20』<2015年1月刊>所収)で、信心正因称名報恩批判論に関連するものである。註⑦で述べた「專修とは唯仏名を称念して自力之心を離る」の文や「助とは名号を除いて已外の四種是也」の文が親鸞聖人の真筆本(坂東真筆本)にあるならば、龍谷大学元学長の主張する能称立信的な行前信後説が或いは成り立つかも知れないが、真筆本はそうなってはいないのである。
(2014年11月8日)
上の論文の 註⑦で述べたように、本願寺派において昭和42年以前の蔵版 (大正版、明暦版<赤本>)には共に真筆本にはない「専修とは唯仏名を称念し自力之心を離る」の文と「助とは名号を除いて已外の四種是也」(真筆本は四種が五種になっている。)の文が入っていたのである。
龍谷大學学元長が支持した石泉僧叡師(1762-1826)の『教行信証随聞記』(真宗全書29卷、P.231、以下。)、空華善譲師(1806-1886)の『教行信証敬信記』(真宗全書31卷、P,535、以下。)により、江戸時代のことであるので双方共に「専修とは唯仏名を称念し自力之心を離る」の文と「助とは名号を除いて已外の四種是也」とある『教行信証』によっていることを知ることが出来る。
ただ両者の大きな相異点は善譲師は「専修とは唯仏名を称念し自力之心を離る」とある13字が御真本(真筆本)にはないことを知っていたことである。(同P,536,同539。)これは同じ空華の道隱師(1741-1813)がすでに『教行信証略讃』に「今按ずるに御真本、專修者已下十三字之れ無し」(『教行信証講義集成』第九卷、p、57)と述べており、空華学派ではこのことが考慮されていたのであろう。(ここでいわれる御真本とは本願寺本<西本願寺本>のことであろう。同本は助についても「助とは名号を除いて已外の五種是也」となっているのであるが、なぜか「五」の右側に少し小さい字で「四歟」と書かれているのである。このためか、当時の教学者<空華の教学者も>はここを四種と見なしたようである。)
江戸時代の教学(特に行信論)を論ずるに際して、この点に留意することは極めて大事なことと思われる。
(2014年11月9日)
Face Book
御賛同のように、石泉僧叡師は能行派であり、称名強調派であります。しかし師は信因称報を否定するような誤った主張はしていません。真実信心の称名においては、所修の行体でいえば正定業、能修の用心でいえば報恩行と述べています。何度もいいましたが、信因称報を否定する人は、未だ真実信心の称名が体得できていない、信前の念仏(自力念仏)と信後の念仏(他力念仏、報恩念 仏)の違いの分かっていない、信心不決定(未決定)の人と断ぜざるを得ないと思います。
合掌 紅楳英顕 (2014年11月9日)
Face Book
報恩念仏は伝統教学(現代では通用しない)でいうことである、という人がいるようですが、これはとんでもない間違いであります。信心決定のひとの称える念仏は報恩念仏であります。報恩念仏を 否定する人は、いまだ信心が定まっていない信心不決定(未決定)の人に他なりません。
合掌 紅楳英顕 (2014年12月5日)
御賛同有難うございます。私は現在教団の一番大きな問題は信心不在の体質にあると思っています。折角宗法に信因称報反対者に対し教諭義務が定められながら、何もなされませんでした。こ れは総局、勧学寮、監正局の人達が、「真実信心の称名」である報恩念仏の実感のない信心不決定
(未決定))者であるからだろうと思います。(これは痴無明と疑無明の混同問題も同じ。 (「近年の本願寺派教学に想う、追加」<9月16日記分)
この教団の信心不在体質の改善が先ずなされない限り、いくら宗門長期振興推進を叫んでみても、何の成果も上がらない極めて空しいことになるでありましょう。
合掌 紅楳英顕 (2014年12月6日 )
本願寺新報(2015年1月1日号)に、自信教人信の実践が大事であると強調されている。これは大変結構な事だと思う。
しかし、いうまでもないことであるが、このためには、先ず宗門の責任者(行政面、教学面)、少なくとも教学面の責任者が、信心決定の人でなければならないのであり、現状のような信心不決定(未決定)の人達であってはならないのである。
合掌 (2014年12月26日)
上記についての Face book における意見に対しての返信。
親鸞聖人は『一念多念証文』に「信心は如来の御ちかひをききてうたがふこころのなきなり」( 浄土真宗聖典p、678))と述べられています。これが聖人が信心について述べられている一番簡潔 な言葉だと思います。信心とは「本願を信ずる心」であるに他ならないのであり、これが往生の正因なのであります。
ところが近年本願寺派のある歴史学者が『教行信証』「化土巻」にある「主上臣下、法に背き義に違し、忿りをなし怨みを結ぶ」(主上臣下、背法違義、成忿結怨)(
浄土真宗 聖典p、471)、僅か1 2文字が6万8千文字といわれる『教行信証』の全体の意を顕し、総括するものとして、反権力的社会実践が親鸞聖人の信心であるかのように主張したのです。当時マルクス主義が大流行していたこ ともあり、教団の中に強い影響を与えました。現代もまだそれが残っております。
しかし上述のように親鸞聖人のいわれる信心は 「本願を信ずる心」であり、 反権力的社会実践をすることではありません。現代の宗門の行政・教学の責任者は信心不決定<未決定>である故 に、信前の念仏(カラ念仏、自力念仏)と信後の念仏(報恩念仏、他力念仏)の違いが分からないのみならず、信心(安心、往生の因)と実践(起行、社会活動)の違いも分かっていないように思われ ます。
合掌 (2014年12月26日)
同、上記についてのFace bookにおける意見に対しての返信。
蓮如上人が『御一代記聞書』九三に、
信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われはものをもたずしてひとにものをとらすべきというの心なり 、人承引あるべからずと、前住上人申さると順誓に仰せられ候き。「自信教人信」と候時は、まづ我が信心決定して人 にも教えて仏恩になるとのことに候。自身の安心決定して教えるは、すなはち「大悲伝普化」の道理なる由、同く仰られ候。( 浄土真宗聖典p、1261)
と述べられ、また『御一代記聞書』一四に、
教化するひとまづ信心をよく決定して、そのうへにて聖教をよみかたらば、きくひとも信をとるべし。( 浄土真宗聖典p、1236)
と述べられていますように、伝道教化活動において「自信教人信」は必須条件であるべきものであります。それでこの度の「本願寺新報」でこの事が強調されたことは大変結構なことと思います。
しかし私が危惧するのは現在の宗門の責任者(行政面、教学面)の人達が、果たして信心決定の人達だろうかということなのです。
御承知のことと思いますが、この度の宗法で信因称報反対者に対し「勧学寮が教諭する」と定められながら、何もなされませんでした。«信因称報問題は40年近く前から問題になって来たことです。(「近年の本願寺派教学派教学に想う」所収「宗祖における信心と念仏」http://hongwanriki.wikidharma.org/・・・/%E5%AE%97%E7%A5%96・・・」参照。»
この事は現在の宗門は甚だ遺憾ながら、行政の責任担当者のみならず、教学担当の勧学寮の人達までが信心不決定(未決定)の人達だと考えざるを得ないのです。
それから勧学寮に関する事ですが、2002年に勧学寮編集によって出版された『新編安心論題綱要』に、現代とくに大事な論題と思われます「十劫安心」が「五重義相」と共に、現在では必要度が薄いと思慮されて削除されていることです。十劫安心の異義については
蓮如上人が『御文章』2の11に「<十劫正覚のはじめよりわれらが往生を弥陀如来の定めましましたまへることを忘れぬがすなわちすなはち信心のすがたなり>といへり。これさらに、弥陀に帰命して他力の信心をえたる分なし。」(
浄土真宗聖典p、1126)と述べられています。十劫安心の異義については 蓮如上人はこの他にも『御文章』1の4,1の13,3の8等に述べられています。親鸞聖人も『親鸞聖人御消息』1に「信心定まるとき往生また定まるなり」
(浄土真宗聖典p、735)と述べられていますように、われわれの往生の定まるのは信心決定のときであり、弥陀如来の十劫正覚のときではないのです。今の勧学寮は「十劫安心の論題が現在は必要度が薄いといっていますが、これはとんでもない考え違いだと思います。現に勧学寮の関係者が「ふいっとわからせてもらったことのみを強調すると源左がすでに教えの中にあったという事実の意味が軽くなってしまうであろう。牛の背に草を負わせた時にふいっとわかろうとわかるまいと、自分が常住に摂取の中にあるという教えは源左は聞いていた。それで十分なのであって、それに加えて源左の信一念のときを付け足す必要はない」と述べているように、信心とは関係なしにそれ以前(十劫正覚のはじめ)から摂取の中にあるといったり、また既(十劫正覚のはじめ)に救われているのだから、聴聞は寝ておれば良いとか、てれっと聞いておれば良いとかいっていた勧学寮関係者もいたようであります。こういう考えはまさに十劫安心の異義に相当するといえると思われます。このような勧学寮の傾向の中で、十劫安心の論題が削除されたのでしょうが、まさに今の勧学寮の信心不決定(未決定)体質の状況を示すものと思います。繰り返しますが信心不決定(未決定)の人には信前念仏(カラ念仏、自力念仏)と信後念仏(報恩念仏、他力念仏)の違いが分かりませんので、報恩念仏の実感はないのです。このような人達に信因称報反対者に対し教諭ができる筈もなかったのではありますが、それにしても現教団の信心不在体質は何とも情けないことであります。
合掌。 (2014年12月28日)
2015年(平成27年)以降は「続②近年の本願寺派教学に想う」になります。
2015年(平成27年8月以降は「続③近年の本願寺派教学に想う」になります。