(C氏)阿彌陀佛
(R氏) 南無阿彌陀佛⋯⋯⋯⋯ (2015年11月20日)
御賛同有り難うござ,いました。
私が認識しています我が教団は、親鸞聖人 700回大遠忌法要(1961年)以後のことでありますが、教団の興隆振興のために長期に亘り種々の施策がなされました。それは決していい加減な気持ちでなされたのではなく、真に教団を思う心からのものであったことと思います。しかしながら、その長期に亘った興隆振興計画の成果については、誰もが疑問を禁じ得ないことと思われます。
この原因はどこにあったかと言うことを、今、教団人全員で真剣に考えねばならないと思います。断じて時代の所為にしてはならないのであります。
.私はその原因は教団の僧侶の無信心体質にあったと思います。信心がない故に、教団の興隆振興の目的が、人々が救われることを願うのではなく、世俗的な自己の利益を求める心(自供養心)に成っていたのではないかと思うのです。これでは教えが弘まるはずはなく、教団の興隆振興があるはずはないのであります。自信教人信という言葉は度々語られたのではありますが、自信(自己の信心決定)がなければなりません。自信を忘れて教人信(伝道)のみを考えても成果が上がるはずはないのであります。 これは何度も申しました蓮如上人の仰せでもあります。
教団の行政、教学の責任担当者は無論、信心決定の人でなければならないのであり、その他の僧侶も全員が、これも蓮如上人の仰せのように「仏法には世間のひまを闕きて」(浄土真宗聖典p、1280)、聴聞に励み、先ず自己の信心決定を目指すことが大事なことと考えます。 合掌。 (2015年11月21日)
(T氏) 教団は常に問題意識を持つべきだと思いますし、僧侶の方々も勇気を持って意見を交わすのが本来であろうかと思います。なんまんだぶ
ある本願寺の御門徒の方から、次のメッセージを頂きました
<新報、12月20日号、示談「蓮如上人の教えは違う?」を読んで感じたこと、
この質問をされた方は、(信楽氏の著書を読んだのでは?)と、推察します。
回答に、「親鸞聖人と蓮如上人の違いを明らかにすることに精力を注いでいるように思えるのですが、そのような姿勢でいいのだろうかと思います。」とありますが、相変わらず、「他力本願回向」の『信心』がわからない人の、コメント と、感じました。
蓮如上人は、宗祖の『他力信心』を、漢文(教行信証)を理解できない大衆に、理解できるようにと伝道されたと、何故、ハッキリと説明できないのか?
「信心未決定者」が、衆生(門徒)を迷わすコメントに、唯々号泣します。
南无阿彌陀佛>
以上が頂いたメッセージですが、私も同感です。とくに最後の <「信心未決定者」が、衆生(門徒)を迷わすコメントに、唯々号泣します。> とありますように、御門徒の方から悲歎の声が生ずることが、現教団の極めて大きな問題点であり、猛省すべきことだと思います。
本願寺新報の示談担当者については前に述べましたが(10月5日記等)、氏は親鸞聖人の無明に痴無明(総無明、煩悩妄念の心)と疑無明(別無明、本願疑惑心)の二義があることを否定します。即ち信心決定によって消滅する疑無明と生涯続く痴無明との違いの分からない人、つまり救済体験のない、門徒の方の歎かれる信心不決定(未決定)者なのであります。念仏について言えば信前の念仏(自力念仏、カラ念仏)と信後の念仏(他力念仏、報恩念仏)との違いが分かってない人なのであります。(これは氏に限ったことではありませんが。)こんなことで正しい御示談ができるはずはありません。
.
本願寺新報 12月20日号、示談「蓮如上人の教えは違う?」における質問は
<最近読んだ本に、蓮如上人は親鸞聖人の教えをねじ曲げたと書いてありました。>
と、ありますから、この本は信楽氏の著書であり、蓮如上人の言われる称名報恩等が親鸞聖人の教えをねじ曲げたと述べていたのでありましょう。御示談に称名報恩批判の件は全く出されず、称名報恩批判が間違いであるということが少しも述べられていないのは極めて遺憾に思います。
ついでに申しておきますが、10月20日の御示談には
<まさに親鸞聖人のお念仏は「・・・のための念仏」ではないということです。>
と述べていますが、親鸞聖人は『親鸞聖人御消息』(浄土真宗聖典p、784)に
<わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、御報恩のために御念仏こころにいれて申して >
...
と述べられているのであり、「御報恩のための念仏」を述られています。
また12月1日の御示談には
<意識して念仏するのも阿弥陀さまのはたらき>
と述べていますが、意識して称える念仏がすべて阿弥陀さまのはたらきではありません。
親鸞聖人の『正像末和讃』に
<真実信心の称名は 彌陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる(浄土真宗聖典P、607)>
とありますように、信後(信のうえ)の念仏は阿弥陀さまのはたらきによる他力回向の念仏ですが、自力念仏やカラ念仏はそうとは言えません。他から言われて念仏することが悪いこととは思いませんが、それが全て他力念仏とは言えません。
、
要するに信心不決定(未決定)者には信前、信後の念仏の違いが分からないでありましょうし、称名報恩批判がなぜ悪いかも分からないことでありましょう。
正しい御示談もできないことだと思います。 合掌 (2015年12月21日)。
上記についての Face book の反応。
(M氏) 南無阿彌陀佛
(D氏) Namo Amida Butsu _
(紅楳) 御賛同有り難うございます。 何度も申しますが、勧学寮までが信心不決定(未決定 )者の集団と成り果てているのが教団の現状であります。(信心正因称名報恩義に反対する者に対する勧学寮の教諭義務 放棄、勧学寮頭の講演録抹消問題<「 続②近年の本願寺派教学に想う」中の、2015年6月30日記~7月15日記>、この度のご示談問題等)。
このような信心不在体質のままでは、この度の宗門総合振興計画も成果は期待できないと懸念します。長いこと念仏者の社会活動・貢献が強調されて来ましたが、社会活動・貢献は反宗教団体でも言うことであり ます。 信心の上での念仏であり、信心の上での社会活動・貢献こそが真宗教団として意味のあることであり、目指すべき事であります。信心決定が忘れられては教団としての意味はないことであり、また振興計画 の成果も上がることはなかろうと憂う次第であります。 合掌 (2015年12月23日)。
昨年の9月19日に高野山大学で開催された日本印度学仏教学会に参加して「親鸞における智慧」の研究発表をしましたが、その論文の載せられた学会誌、『印度学仏教学研究64巻1号』が発刊されました。この論文で親鸞聖人の言われる「明信仏智」の意味を明らかにしたのですが、そこで、村上速水氏の主張する无明観(无明について、痴无明<煩悩妄念の心>と疑无明<本願疑惑の心>の二種ありとする考えに反対する考え)を批判し、また信楽氏の信心正因称名報恩義反対を批判しています。そして両氏の誤りの原因は信心不決定(未
決定 )にあると述べてあります。信楽氏については他所で述べていますので、ここは村上氏について述べます。以下は上記拙稿中に述べてあることでありますが、村上氏は自身の論文中に
、无明の語を疑無明の意とする代表的なものと考えられている『正信偈』の「已能雖破无明闇」(真聖全二の四四、浄土真宗聖典p、2○3)。
の「无明」について、これを本願疑惑の心とする事に反対して、
この「破无明闇」の破はなくなってしまうというのではなく、あれど障礙とはならぬと言う意であり、この无明は本願疑惑の心(疑無明、不了仏智)ではなく、通途の煩悩妄念の心である
と主張するのです。しかし親鸞聖人自身が『正信偈』のこの部分を釈した『尊号真像銘文』(広本)に、
「摂取心光常照護」といふは信心をえたる人をば、无碍光仏の心光つねにてらし、まもりたまふゆへに、无明のやみはれ、生死のながきよすでにあかつきになりぬとしるべしとなり也。「已能雖破无明闇」といふはこのこころなり。(真聖全二の六○一、浄土真宗聖典p、672)。
とある。ここに「无明のやみはれ、生死のながきよすでにあかつきになりぬとしるべしと也。已能雖破无明闇といふはこのこころなり。」とあるように親鸞自身がここの「破无明闇」を「无明のやみはれ」と註釈しているのであるから、村上氏の言うようにあれど障礙とはならぬと言う意」ではなく、「无明のやみ」はなくなるという意に他ならないのである。これに関連することであるが、同じ『尊号真像銘文』(広)の源空聖人真影下に劉官(隆寛)の讃が引かれ、その中にある「疑雲永晴」とある「永晴」を親鸞が説明し「永晴」といふはうたがふこころのくもをながくはらしむれば、安楽浄土へかならずむまるる也」
(真聖全二の五九五、浄土真宗聖典p、664)と述べている。上の 「无明のやみはれ」の「はれ」も「晴れ」の意味であるから、「无明のやみはれ」とは闇が晴れてなくなると言う意味であることがより明らかである。従ってこの无明は信心によってなくなる无明であるから、煩悩妄念の痴无明と異なる信心決定によって払拭され消滅する本願疑惑の心である疑無明、不了仏智に他ならないのである。
と、私は述べてあります。それから「晴れる」という語は『浄土文類聚鈔』の「三有生死の雲晴る」(浄土真宗聖典p、486)ともありますが、ここの雲晴れるは『大経』下巻「生死の雲を消除す」((真聖全1の26))によると考えられるのであり、その意味でも晴れる(破)ということは村上氏の言うように「あれど障礙とはならぬ」と言う意ではなく、「なくなってしまう」と考えるのが妥当だと思われます。
それから、註④の
④村上速水前論文、一四頁。
尚、村上氏は「無明の闇はれとは、無明を無明と知ったということではないであろうか(中略)、それに気づかなかったものが、今まさに煩悩具足の身と信知したこと、それが無明の闇はれた相ではないか、つまり自力無功と信知したことであり、それはとりもなおさず、機の深信にほかなならない」(同龍谷大学論集、十三頁。)と述べているが、機の深信は法の深信と一具であり、煩悩具足と信知した単なる罪悪感ではないのである。本願疑惑心(疑无明)はそこには全く存在しないのである。このことからも氏の考えには賛成しかねる。
についてでありますが、これはまさに氏の自分の救済体験のないことの告白であり、信心不決定(未決定 )者であることの自白であると言って過言でなかろうと思います。単なる罪悪感と機の深信の違いが全く分かってない人の言葉です。機の深信とは法の深信と一具の信であり、ただ煩悩具足と知ったと言うだけのこととは全く違う、往生一定の大安堵の慶びと一つになっているものなのであります。こんなことを尤もらしく言う人が、教団の教学責任担当者の一人であったことが情けなく思われます。しかもこの氏の考えに賛同する人達が現在勧学寮や龍大真宗学(内藤知康氏、玉木興隆氏等)にいるのですから、正しい信心が弘まる可能性が全くないのが教団の現状と言っても過言ではないように思います。
もし教団当局が无明について村上氏の考えが正しいと判断するなら、教団の出版している勤行聖典にある『正信偈』の意訳、「しんじんのうた」(一)の「摂取(すくい)のひかり あきらけく 無明(うたがい)の闇(やみ) 晴(は)れ去(さ)るも」の部分をただちに訂正し、早急に改訂版を出すべきであります。村上氏が間違いであるとするなら、これもただちに賛同者を指導教諭しなければならないのであります。
信楽氏岡氏の信心正因 称名報恩義批判に私が反論論文「宗祖における信心と念仏ー念仏を中心としてー」 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/syusoniokeru.html (龍谷教学十三)、を発表したのが、昭和53年<1978年>6月であり、本願寺派の宗会にこの問題が取り上げられたのが、 昭和55年<1980年>1月のことでありました。ところが宗会からの裁断要請に対し当時の勧学寮頭桐渓順忍氏は
、信楽氏については異義断定保留、今後の教学活動を見守る、(昭和56年<1981年>3月)。岡氏については疑義断定保留、今後の教学活動を見守る、(昭和56年<1981年>10月)と回答したのみであり、具体的には何の指導もなかったのであります。そのため信楽氏岡氏の主張がその後、宗制に定められた教義に反することであるにも拘わらず、正義であるように扱われたのであります。聞信徒会運動と同朋運動が一本化され、基幹運動となったのが昭和61年<1986年>でありますが、信楽氏岡氏共に基幹運動の本部員となり、とくに信楽氏は平成7年<1995年>には監正局長にもなったのであります。これはまさしく教団の頽廃現象、信心不在現象の現れと言わざるを得ないと思います。それにも増して、現在は折角定められた教義安心についての宗制宗法(信心正因称名報恩義反対者に対する勧学寮の教諭義務)が、公然と無視されているのが教団の現状なのであります。
、
何故このような頽廃堕落、信心不在の状況となったのか。これは昭和56(1981年)の勧学寮裁断が、当時から本願寺派の宗制教義に定められていた信心正因称名報恩義反対者に対して何の処置もなかったこと、即ち信心決定の上(信後)の報恩念仏の実感のない,信心不決定(未決定)者であり、しかも龍谷大學真宗学現役教授であり与える影響が大きかった両氏に対して何の処置も指導もしなかったことが、教団の教義不在、信心不在現象を急進させた最大の原因であったと考えます。これは決して当時の勧学寮頭が寛容であったのではありません。職務怠慢ということであり、それのみならず信心不決定(未決定
)の人であったと言えると思います。これは現勧学寮頭にも全く同じことが言えることであります。 合掌。 (2016年2月5日)
上記についての Face book の反応
(R氏) 南無阿彌陀佛⋯(問安!新春愉快!)⋯⋯
(S氏)ところで件の和上方は、
爾者称名 能破衆生一切無明 能満衆生一切志願(しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ)
の無明という言葉を、疑無明という解釈意外に、どのように理解してらっしゃるのでしょうか。疑蓋無雑ということを仰った御開山の思想からは、当然に痴無明と疑無明という概念は演繹されると思ふのですが、在家のSにはよく解らんです。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
(紅楳) 御賛同有り難うございます
(F氏) 問題点を明確にして頂きありがたいことと思います。信心正因称名報恩が人々の心にしっかりと根付いてほしいものです。合掌
(紅楳) 御賛同有り難うございました。教団の将来のためには、現在の信心不在体質の早急の改善が何よりも大事なことと思っています。 合掌。
(T氏) 先生ご無沙汰しております。じっくり拝読して学ばせていただきます!
(紅楳) 有り難うございます。 合掌。
(紅楳) 教団当局は村上氏の無明論が正しいと考えるなら、『正信偈』の意訳、「しんじんのうた」(一)の「摂取(すくい)のひかり あきらけく 無明(うたがい)の闇(やみ) 晴(は)れ去(さ)るも」の部分が載せられている勤行聖典を直ちに回収し、早急に改訂版を出すべきであり、村上氏が間違いであるとするならば、同様に直ちに賛同者に対し指導教諭をすることが必要です。(本願寺派で750回大遠忌記念事業として出版した『「教行信証」の研究』が全寺院に配布されたのなら、少なくとも第一卷は直ちに回収しなければなりません。)
信因称報問題と同様、一番大事な信心に関する問題を曖昧にしたままで、いくら時間をかけて振興計画を論じても、成果は期待できないと慨嘆致しております。 合掌。
(「近年の本願寺派教学に想う、追加 」 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnentsui.htm
<2014年9月16日 記> 参照。)
(紅楳) 上述のように、曾ての信楽氏岡氏の信心正因称名報恩批判の宗制教義違反の問題 は時の宗会で取り上げられたのが、 昭和55年<1980年>1月のことでありました。この度はそれより重大である教義についての「宗制宗法遵守義務」が公然と放棄されているのであります。
にも拘わらず、この度は宗会でもその他の会議でも一向に取り上げられた様子はありません。この教義不在、信心不在の教団の現状はまさに悲歎至極であります。
合掌。 (2016年2月8日)
ポール・ロバーツ(Paul Roberts)さんがBuddha Dharuma Sangaに、下のメッセージを書きました。
(Paul Roberts wrote the message in Buddha Dharuma Sanga like below.)
Paul Roberts
Dharma Friends,
The following is a comment to Eiken earlier one. Gassho.
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
Eiken Kobai: Hoon Nembutsu is saying NAMOAMIDABUTSU in gratitude after Shinjin. This is the true Nembutsu and other power Nembutsu. The persons who denies Hoon Nembutsu and the existence of the Pure land and Amida buddha (like Shigaraki in Japan) don't have Shinjin and the experience of Salvation. Gassho.
>>>
Exactly so, Eiken. That's exactly what I thought you meant by this term HOON NEMBUTSU. I just wanted to confirm my undertanding by getting your explanation. Thank you so much!
In the English version of our core texts, especially the Letters of Master Rennyo, this was what he said. The TRUE NEMBUTSU (aka HOON NEMBUTSU) it is the NEMBUTSU OF GRATITUDE.
It is not, not, not the Nembutsu of a SEEKER. It is the Nembutsu of a FINDER.
The seeker says the Nembutsu as a self-power act, to gain more karmic merit, and climb up the mountain of enlightenment by their own efforts, with the delusional hope that someday he amass enough karmic merit to become a Buddha, at long last.
The HOON Nembutsu, or the TRUE Nembutsu of GRATITUDE - that only a person of settled SHINJIN could ever say. It has NOTHING to do with gaining merit, improving myself or any other self-power nonsense.
ONLY a FINDER could ever say such things as "Thank You Amida Buddha for saving even me".
Or "Thank You Amida Buddha for giving me ALL of Your Karmic merit"
Or, "Thank You Amida Buddha because I KNOW I will become a True Buddha as soon as this life is over"
Or, "Thank You Amida Buddha for doing EVERYTHING, because in this part of my life, I found out that I could do NOTHING".
Only a person of SETTLED, UNSHAKEABLE Faith - the Faith Mind consciousness that ONLY can be received as a GIFT from the greatest of ALL the Buddhas - could EVER say the NEMBUTSU with those sentiments, and that recognition.
In the TRUE Shin Sangha that is the singular goal and purpose of our existence.
Being interested in other causes is just for you, personally. If you like saving the whales, or promoting your dietary preferences, or working on climate change advocay or WHATEVER - that's about YOUR personal karma, not mine. So when you come to the temple - informal (like 2 people having coffee together), virtual (like our online Sangha, or actual (like a local temple) - just leave your shoes outside the door. I didn't come to smell your feet here, or have you smell mine
We're here for ONE REASON ONLY: As Eiken tsight me, and I've repeated countless time about the TRUE meaning of the TRIPLE GEM for us in these days:
The purpose of the SANGHAIs to teach the DHARMA
That allows us to become BUDDHA
As Shakyamuni put it: EVERYTHING I say is about suffering, and the end of suffering. If whatever your personal project might be, I'm not hear to listen to that right now. I'm here to participate in some DHARMA DIALOG, so I can come to the end of suffering too - and maybe help the next person after I know myself.
In our school of TRUE Shin Buddhism, as Master Rennyo said so clearly, SHINJIN is everything. Shinjin is the difference beween you (and me) becoming Buddhas when this life ends, or staying strapped to the wheel of birth and death - as all non-Buddhas will continue to be.
SHINJIN is EVERYTHING, EVERYTHING, EVERYTHING - whether you know it, or not.
So if you are IGNORANT, it's time to stop messing around with this UNIQUE Dharma Door - the ONLY Dharma Door in this Age of Corrupt Dharma that opens WIDE directly to Buddhahhood - the only Dharma door that will actually and truly SAVE YOU.
The only work or practice that you MUST do, is learn and practice LISTENING DEEPLY.
You put aside your own thoughts, feelings, beliefs, etc...and you learn to WAIT for the Buddha to tell you whether the teacher (small "t" here, deliberately) is actually telling you the RIGHT STUFF, or some DIVERENCE the Budddha would never teach.
This is actually the EASIEST practice EVER. But it only works if you work it - which VERY FEW Buddhists will ever do, and indeed VERY FEW Shin Buddhist will do either.
That is strictly the ego-self consciousn try to retain control in your
life.
You've got to LET GO AND LET AMIDA - when it comes to your precious opinions. Then, and only then will you even be in a place to listen to His.
コメント
Frank Kuerschner Namandabu
Judy Ng Namo Amida Butsu _/|\_
David Kruemcke Namuamidabutsu _/l\_
紅楳 英顕 Thank you very much. I am very glad. Gassho.
紅楳英顕 現在アメリカやヨーロッパ諸国に他力念仏のお教えを伝えることは難しいと言われ、とくにアメリカでは座禅や自力念仏の奨励が盛んであると聞いております。
ポール・ロバーツ(Paul Roberts) さんはニューヨーク在住のアメリカ人でありますが、 浄土真宗 の他力念仏(報恩念仏)を深く理解している人であります。ネットでお分かりのように、近年 浄土真宗 の教えを正しく理解し、報恩念仏に賛同する人々が世界の各地に、どんどん増えていくように思われます。大変有り難く思っております。
何度も申したことでありますが、報恩念仏を否定する人は宗教体験(救済体験 )のない信心不決定(未決定 )の人だと思います。また近年は浄土や阿弥陀仏を神話とか創作だとか言って存在を否定する
意見もあります。近代文明により宇宙の謎が次々と解明され、重力波を観測する現代でありますので、親鸞聖人や 蓮如上人の時代とは異なってはいますが、浄土や阿弥陀仏を神話とか創作だとか言って存在を否定する意見の人は、報恩念仏否定論者と同様、
宗教体験(救済体験 )のない人、 浄土真宗 の言葉で言えば信心不決定(未決定 )の人だ と私は思います。 合掌
(2016年2月14日)
上記についてのFace bookの反応。
(D氏) Namuamidabutsu _/l\_ What Wonderful Dharma Teaching
(紅楳)Thank you so much. Gassho.
(F氏)Namandabu
2月15日(月)に第十二回仏教漢詩の会 が催されました。今回も古詩の型に従って作りました。
真宗念仏 紅楳英顕
真実信心称仏名 真実信心(しんじつしんじん)の称仏名(しょうぶつみょう)は
更無自力疑惑想 更(さら)に自力(じりき)疑惑(ぎわく)の想(おも)い無(な)し。
唯報大悲恩徳誠 唯(ただ)大悲恩徳(だいひおんどく)の誠(まこと)を報(ほう)ずのみ。
2016年1月29日
これは『正像末和讃』の「真実信心の称名は 彌陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」(浄土真宗聖典P,607)、「信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし」(浄土真宗聖典P,611)等により、作成したものであります。
浄土真宗における真実の念仏は 信心具足の念仏であり、他力回向の念仏であり、 衆生の思いは信心を起こすためや往生のためではなく、ただ仏恩報謝のための念仏なのであります。
甚だ遺憾なことでありますが、教団の現状は教学の教学責任担当者までが,信心不決定(未決定)者であります故に、信前の念仏(自力念仏、カラ念仏)と信後の念仏(他力回向の念仏、報恩念仏)の違いが全く分からない有様です。
(拙稿「真宗念仏論」 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/shinnen2.html 参照。)このために このたび宗法に定められた宗制宗法(信心正因称名報恩義反対者に対する教諭義務)が公然と放棄されているのであります。40年ほど前に信楽氏岡氏等による信心正因称名報恩義反対の同様な宗制教義反対問題の時は宗会が取り上げたのですが、この度はそれより大きな事件である宗制宗法公然無視につて、宗会もその他の諸委員会諸機関も全く取り上げようとしないのは極めて理解に苦しむことであります。宗門振興の為の諸委員会諸機関の方々も教団の教学責任担当者の宗制宗法遵守義務放棄を当然と思っているのでしょうか。 無明の解釈の混乱と言い、教団は今や教義不在,信心不在の無秩序集団なのでしょうか。まさに歎かわしき次第であります。
合掌。 (2016年2月17日)
上記についてFace book の反応
((G氏) なんまんだぶつ
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
(紅楳) 恐らく現教団の教学責任担当者(信心未 決定 者)には理解できないことでありましょう。.悲歎の至りであります。合掌。
前記(2月14日)について、ポール・ロバーツ(Paul Roberts)さんのメッセージがありました。
Thank you, Eiken. Had I not met you, back in 2004, I don't know where I'd be today. Certainly not equal to the Buddhas, destined to actually become one myself, immediately after this life is over. Gassho, Paul Roberts
in 2004 とは、ポールさんがネットで私の『浄土真宗がわかる本』の英訳..(Understanding Jodo Shinshu )http://web.mit.edu/stclair/www/kobai-index.html を最初に読まれた年です。
浄土真宗との出遇いを慶ばれ,信心決定による現生正定聚 の慶びを語られています。誠に有り難いことと感佩する次第であります。 合掌。 (2016年2月19日)
上記についてFace bookの反応
(P氏) For everybody - the link to our Shin Buddhism portal is wrong. We have moved everything over to BLOGGER, where it should be safe for as long as Google is a company!
Please update your bookmark for this site.・・・もっと見る
(紅楳) 私は正しい 浄土真宗 の教えが世界に広く伝わることを念願しております。合掌。 I wish True Jodo Shnishu teaching transmitted to the world widely. Gassho.
(R氏) I also owe Eiken Kobai Sensei a debt of enormous gratitude for the role he played in my mentor, Paul Roberts' Shinjin, which was key to my own receipt of Shinjin. Thank you, Eiken! Thank you, Paul! And THANK YOU, AMIDA BUDDHA!!
このように私のネットが御縁となってアメリカ(その他 Gさん等)や、その他の地域に 浄土真宗 の教えを信じ慶ぶ人々が出てこられたことを大変嬉しく、有り難く思います。 合掌。
(紅楳)国内においても、信心決定して現生正定聚 の身となり、報恩念仏を称える人が多くなる事を念願致します。 合掌。
(D氏) Namo Amida Butsu _/l\_ (2016年2月21日)
この度「 浄土真宗 における回心について」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/jhodoconversion.html を脱稿しました。私も今年はとうとう後期高齢者の仲間に入れて頂くことになります。今日まで元気でおれたことは何と言っても有難いことであります。お蔭様と言う他はありません。
永年疑問を持ち続けてきました、信心決定の覚不覚の問題、蓮如上人批判の問題に一往の結論を出すことが出来たと思っています。
信心決定の自覚を即一念覚知の異義と考える無自覚安心の主張が間違いであることと、 称名報恩等を説いた蓮如上人は親鸞聖人の教えをねじ曲げたとする主張が間違いであることを論じました。そしてその間違い主張は、 回心( 宗教体験、自己転換)の 欠落、 即ち救済体験の欠落であり、 浄土真宗の言葉で言えば信心不決定(未決定 )に起因していると考えるのであります。
この度論文に引用しました利井鮮妙師の論文「年月を知るも障とせず、知らざるも亦功とせず。覚もよし、覚ぬもよし、共に仏智に信順するを以て当流安心の正義とす。」とあるものは、...拙稿「一念覚知説の研究 ―高森親鸞会の主張とその問題点―」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/icinenkakuchi.html (伝道院紀要19。S、52,3)にも引用しました。親鸞会問題で勧学寮で会議がなされた際(『現代の教学問題』<宗義問題研究会>、『派外からの異説について』< 紅楳英顕著>が出版されたのが、昭和57年12月であるので、昭和56年か57年の初め)、時の寮頭は「鮮妙和上が<覚もよし、覚ぬもよし>などと言う訳はないと思う。ねえYさん」と言ったのであります。私はすぐに「しかしこれは宗学院論輯にあったものですから確かなはずです。」と説明しました。 私は寮頭のこの発言に愕然としたのであります。細かいことは別として少なくともはっきり言えることは、氏は鮮妙師のこの言葉を知らなかったことと、信心は不覚であると思いこんでいた人と言うことであります。前にも述べましたが氏は他者に対して「異安心とは言えても、無安心とは言えない」(「近年の本願寺派教学に想う」 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm 参照。)とか、庄松同行と興正派御門主との問答の中の 御門主「 併し汝は信を頂いたか>、庄松<ヘエ頂きました>とある所の庄松同行が <ヘエ頂きました>と信心の自覚を述べている文言を故意に省いている断章主義の意見に賛成しているのであります。(「続②近年の本願寺派教学に想う」<2015年2月7日 記> http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku2.html 参照。)信心は無自覚であると思いこまれていたようであり、甚だ恐縮でありますが、信心不決定(未 決定 )の人であったと思わざるを得ないのであります。
最晩年の御様子は存じ上げておりませんが、このようなことでありましたので、昭和56年(1981年)の信楽氏、岡氏の宗制違反の信心正因称名報恩義反対問題についての正しい裁断が出来る筈もなかったのであります。 前に申しましたように(「続③近年の本願寺派教学に想う」<2016年2月5日 記>http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku3.html 参照)、教団はその後急速に信心不在体質が進んだように思います。
漢詩が一句浮かびましたので、記します。 (一往古詩の型にしております。)
大瀛錍彈帰命弁 大瀛(だいえい) 帰命弁(きみょうべん)を錍彈 (へいだん)す。
雖破一念覚知論 一念覚知論(いちねんかくちろん)を破(す)と雖(いえど)も
懇糺十劫秘事過 懇(ねんご)ろに、十劫秘事(じっこうひじ)の 過(あやまち)を糺(ただ)す。
悲哉此謬今殊繁 悲(かな)しき哉(かな)、此(こ)の謬(あや ま)り、今(いま)殊(こと)に繁(しげ)し。
三業惑乱を終結せしめた大瀛師は三業帰命、一念覚知を非としたのでありますが、それだけでなく、十劫の昔から救われているとする十劫秘事(十劫安心)、無帰命安心をも厳しく否定したのであります。
十劫安心、無帰命安心の人達は十劫の昔から救われているとするのですから、生まれた時から已に信心決定し正定聚の位に住していると考えるのでありましょう。生まれる前から已に救われているとするのですから,誰もが信後の人と言うことになります。それで当然のことながら信前の念仏(カラ念仏、自力念仏)と信後の念仏(他力念仏、報恩念仏)の違いが分かるはずはなく、称える念仏に自力念仏、カラ念仏等はなく、すべてが他力回向の念仏であると思っているのでありましょう。報恩念仏を否定することがとんでもない間違いであることも全く分からない人達であります。そしてそれが教団の宗制宗法違反でありましても何をしようともしないのであります。それに当然の事ながら、その人達には信心の慶びはなく、若存若亡(往生決定かどうかわからない疑いのこころ)のままで、信心が決定しているように思い込み、聴聞も不要と考えるのであります。
上の漢詩を「悲哉此謬今殊繁」と結びましたが、 このような間違った信心の人達、信心不決定 (未決定)の人達が、教団の教学責任担当者であるのが現状であります。(「続②近年の本願寺派教学に想う」、<2015年2月7日 記> http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku2.html 参照。)
この論文にも引用しましたように鮮妙師は、「土橋は人を渡して自ら落つるが, 未信<信心不決定(未決定)> の人は朽ちた橋の如く、人も渡さず自らも落つるなり。」と述べています。 誠に悲しきことであります。
ついでに申しますが、『正信偈』の意訳、「しんじんのうた」 は、今は本願寺派だけのものではなく、真宗教団連合制定 和訳 正信偈 として扱われているのであります。疑無明を否定する村上説が正しいとするなら(2016年2月6日、8日 記、参照。)、早急に聖典の回収と販売を禁止しなければなりません。村上説が間違いであるとするなら、この場合も早急に
賛同者に対し指導教諭をすることが必要でありますし、本願寺派で750回大遠忌記念事業として出版し,寺院に配布した『「教行信証」の研究』の、少なくとも第一卷は直ちに回収しなければなりません。
既に宗制宗法は無視されていますし、 曖昧なことが続いていると一大事だと懸念致す次第であります。 合掌。 (2016年2月26日)
続前(2月25日記)
現勧学寮頭も庄松同行の信心について、断章によって十劫安心、無帰命安心としている間違った見解に賛同していることは、既に述べました。(「続②近年の本願寺派教学に想う <2015年6月30日 記以下> http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku2.html )。
十劫安心、無帰命安心が正義(正しい信心)と考えている人は、無自覚のままで生まれたときから、既に信心決定して正定聚 に住していると考えている人でありますから、信前と信後の違いは分かりません。従って信前の念仏(カラ念仏、自力念仏)と信後の念仏(他力念仏、報恩念仏)との違いも全く分からないのであります。それで宗制教義に定められている報恩念仏を否定することが信心不決定(未 決定 )の人が主張する、とんでもない過ちであることが分からないのでありましょう。
このことがまた 蓮如上人 『御一代記聞書』171に「往生は一人のしのぎなり。」(浄土真宗聖典P,1284)とあります 蓮如上人の信心決定、往生一定の大安堵心の上で述べられている言葉の意味が全く分からないことにもなり、いたずらにこの言葉を非難し、謬見を繰り返すことにもなっているのであります。誠に悲しきことであります。
合掌。 (2016年2月29日)。
上記についてのFace book の反応。
(D氏)Gassho
(紅楳)御賛同有り難うございました。合掌 Thank you very much for your approval. Gassho.
(紅楳) 何度も申したことでありますが、教団の教学責任担当者 までが回心体験、救済体験のない信心不決定(未決定 )の人達の集団と成り果てていることは大変な危機状態であると思います。(「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm )。 信心不決定(未決定 )である故に、罪悪感と機の深信(二種一具)の違いが分からず疑無明を否定する意見(『「教行信証」の研究』第一卷< 浄土真宗本願寺派宗務所、2012年8月発行> P,135以下)が述べられています。
またこれも十劫の昔から救われ、信心は既に決定していると考えている、信心不決定(未 決定 )の人の言うことですが、蓮如上人 『御一代記聞書』171に「往生は一人のしのぎなり。一人一人仏法を信じて後生をたすかることなり。よそごとのやうに思ふことは、かつはわが身をしらぬことなりと、」(浄土真宗聖典P,1284)とあります蓮如上人の御言葉の意味が全く理解できず、「信心はひとりひとりのしのぎの問題」ということを批判し(『本願寺白熱教室』<法蔵館、2015年6月発行>p、78)、「 浄土真宗の信仰は往生の問題であり、阿弥陀如来に救われていくということだが、宗祖が明らかにされた他力信心というものは、社会性というものを無視した、私だけの救いの問題なのか」(「本願寺新報、2016年2月1日)と述べています。これも回心体験、救済体験のない人の言う、全くの暴言、謬見であります。真宗者の社会性(信心決定の上での社会性)を考えることは大変大事なことではありますが、親鸞聖人の言われる信心とは「信心は如来の御ちかひをききてうたがふこころのなきなり。」(浄土真宗聖典p、678)であり、これが「清浄報土の真因」(浄土真宗聖典P,251)であり、往生の正因なのであります。往生の正因として、この信心の他に何らかの倫理性や社会性が必要であるかのように考えるのは、 浄土真宗の教えとしては全くの誤りであります。いみじくも三業惑乱時に 大瀛師が智洞を論伏せしめた「安心門行儀門混同の過」に相当するものであります。
いずれにせよ,教団の教学責任担当者までが回心体験、救済体験のない信心不決定(未 決定 )者の集団と成り果てていることは何とも悲しき次第であります。合掌。
(O氏)南無阿弥陀仏 合掌。
(D氏) Namo Amida Butsu _/l\_
(X氏)Namuamidabu (2016年3月2日)。
三業惑乱について一句浮かびましたので、先日(2月25日 記)の句に加えます。
近年悉喪真実義 近年(きんねん)悉(ことごと)く 真実義(しんじつじぎ)が喪(そう)せり。
混乱安心行儀門 安心(あんじん)行儀(ぎょうぎ)の門(もん)を混乱(こんらん)す。
... 智洞頑執三業頼 智洞(ちどう)①は、頑(かたく)なに、三業頼(さんごうだのみ)に執(しゅう)じ 、廓亮静述唯信言 廓亮(かくりょう)②は、静(しずか)に、唯信(ゆいしん)の言(ごん)を述(の)ぶ。
註 ① 功存の弟子、後継者。 ② 大瀛のこと。
何度も申しますが、勧学寮までが回心体験、救済体験のない信心不決定(未決定 )の人達の集団と成り果て、教団の信心不在体質は進行するばかりで、教義についての宗制宗法が公然と無視されているのがの現状であります。
それに加えて現寮頭は、蓮如上人 『御一代記聞書』171に「往生は一人のしのぎなり。」(浄土真宗聖典P,1284)とあるお言葉を批判し、「 宗祖が明らかにされた他力信心というものは、社会性というものを無視した、私だけの救いの問題なのか」(「本願寺新報、2016年2月1日)と述べているのです。(2月27日記)。これは親鸞聖人が「信巻」に「涅槃の真因はただ信心をもってす」(浄土真宗聖典P,229)と述べられている御言葉の意味、また大瀛(廓亮)師が智洞を論伏したと言われるこの言葉の意味、が分かっているのであろうかと疑わざるを得ません。往生の因として三業での帰命を否定したのでありますから、当然社会性等も往生の因としては否定されているのであります。往生の因に社会性等を語ることは全くの誤りであります。こんな意見を述べると言うことが抑も、現寮頭の回心体験、救済体験がないところから生じていることに他なりません。三業惑乱をはるかに上回る惨状が教団の現状であると思います。
今朝(3月2日)フランス在住の Vincent Meyer さんからFace bookに連絡がありました。 この頃アメリカ人に阿弥陀仏を創作と言ったり、浄土を神話と言ったりして、存在を否定する意見があるとのことです。日本にも同様の意見の人いることを私も知っておりました。私は
" I think that the thoughtof Amida Buddha is a fictional character and the pure land a mythical place is wrong. I think that maybe they don't have the experience of salvation. Gassho.
I think that maybe they are only scholars, not believers of Jodo Shinshu. "
(私は阿弥陀仏を創作と言ったり、浄土を神話と言ったりして、存在を否定する考えは間違っていると思っています。そのようなことを言う人は救済体験のない人だと思います。
そして恐らく ただ学者であり、浄土真宗の信者ではないと思います。)
と私の意見を述べました。これについて Vincent Meyerさん はじめ アメリカ、イギリス 、ヨーロッパ、アジアの方々 から御賛同を頂きました。その中にマレーシアの
Zuizen Melvin Lim さんのメッセージが印象的でした。氏は
They are not Shinshu followers, other religion maybe who believes in their own salvation or self-pride.
(彼等は真宗の仲間ではありません。 恐らく他の宗教を信仰し、彼等自身の救済と誇りを持っているのでしょう。)
と述べています。
今まで私は教団内の救済体験があると思えない、暴言、謬見の意見の人達に対しても 同じ真宗の仲間と思って接して来ました。信心不決定(未決定)の人でも、その内に私の言うことを理解して貰えると思って来たのです。それが決して間違いであったとは思いませんが、Zuizen
Melvin Lim さんの言われる「彼等は真宗の仲間ではありません。」のように、親鸞聖人や 蓮如上人 の教えに甚だしく反する人達には、仲間と思う気持ちを放棄する事も必要なのであろうかと考えさせられた次第であります。
合掌。 (2016年3月2日)
上記についてのFace book の反応。
(X氏) Gassho
(R氏) 南無阿彌陀佛⋯⋯
(M氏) 南無阿彌陀佛,老師也把我的看法寫在他的po裡,哈哈。慚愧。關於許多當今的邪見,比如把彌陀和淨土說成是符號或一種比喻,非真實。老師說此人非真宗門徒,純粹是學者,沒有真實獲救的體驗,或 信心獲得。
(R氏)您的po文!請您分享一下吧!(哪一篇)
(X氏)Namuamidabu
(M氏) 南無阿彌佛
(G氏) 南無阿弥陀仏
(R氏)組織としての存在意義を確認していかなければ、組織が存在しえないためにメンバーは社会での認知欲求として起行門へ走るのでしょうか。
「機械あれば必ず機事あり、機事あれば必ず機心あり」、は『荘子』ですが、組織あれば組事あり、組事あれば組心ありで、己の信心に思いを巡らすより、組織の目的の方が大事なのでしょうね。
ようするに自己の信が無いから、自信を持って門徒に対して信を説けないのでしょう。
ともあれ社会に対する働きかけとは、自是他非という行動の原理に基ずくものであって、御開山の示して下さったご法義とは違ったものが出てきそうです。
Rは若い頃から直情径行で攻撃的なので、社会変革を目指さない我が家の浄土真宗を馬鹿にしてました。ところが、二十代にじいさんの本箱から取り出した本の、金子大榮師の「浄土の機縁」を読んで、少しく浄土真 宗に対する考えを変えたことがありました。もっともその意味が体感できるには二十年ほどかかりましたけど(笑
ようするに、今の真宗坊主は自分が取り次ぐ「法」に自信がないのです。こういう坊主は観光化したけど永平寺や越前大野の山奥の宝慶寺で、Who are you?という公案で100日ほど監禁してやらんといかんですね。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://hongwanriki.wikidharma.org/・・・/%E6%B5%84%E5%9C%9F・・・
(紅楳) 有り難うございました。合掌。
(S氏) ウワー、ついて行けない・・・!
(紅楳) いずれにせよ、今の教団の信心不在状況は、三業惑乱時以上の惨状だと思います。合掌。
(紅楳) 御賛同有り難うございました。合掌 Thank you very much for your approval. Gassho.
(紅楳)三業惑乱時の三業派における 安心門と行儀門との混乱に関連して真俗二諦 の問題があります。 安心門が真諦であり、行儀門が俗諦であります。真俗二諦については、第二次大戦時における戦争協力の問題があり、十分な反省が必要であることは無論なことであります。しかし三業惑乱においても行儀を往因に含むことは誤りと裁断されましたように、親鸞聖人の教えにおける往生の因は唯信心であり、倫理性、社会性は往生の因ではないのであります。
倫理性、社会性は大事なことでありますが、これは信後の行儀門で考慮すべきことであり、これを往生の因と考えたり、往生の因に含まれると考えることは、親鸞聖人の教えとは全く異なる誤りであります。
それから真諦 俗諦 という言葉は親鸞聖人は使われていないのに、後の人達が勝手に用いて親鸞聖人の教えをねじ曲げたという意見があるようですが、これは間違いです。
「化土巻」に親鸞聖人は『末法灯明記』を引用されて
それ一如に範衛してもつて化を流すものは法王、四海に光沢してもつて風を垂るるものは仁王なり。しかればすなはち仁王・法王、たがひに顕れて物を開し、真諦 ・俗諦 たがひによりて教を弘む。(浄土真宗聖典P、417)
とありますように「 真諦 ・俗諦 」という言葉を引用されております。真諦 俗諦 という考えを否定されているのではないのであります。このことは「 浄土真宗 における回心につて」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/jhodoconversion.html の中で,親鸞聖人は反権力主義者でも反体制主義者ではなかったことを述べましたが、それに関連して述べた「善鸞義絶状」(浄土真宗聖典P,755)に、「往生極楽の大事」(真諦 ) と「この世のこと」(俗諦 )と分けて述べられている所からも明らかだと思います。
以上のように真俗二諦の問題はよく考えねばならない大事なことではありますが、この考えは後の覚如上人、存覚上人、蓮如上人の勝手に決めたことではなく、親鸞聖人にあったと言うことは承知しておくべきだと考えます。 合掌。 (2016年3月4日)。
2016年4月以降は「続④近年の本願寺派教学に想う」 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku4.html に続く。