真宗念仏論

  紅楳英顕

   はじめに
 本来念仏とは仏を念ずることである。念が多義であるため、観念、心念、思念、憶念、称念等、内容は広範なものとなり、その立場立場によって千差万別である。
 今ここで論ずる念仏は浄土真宗の宗祖親鸞聖人(1173-1163)<以下聖人>が中国の善導(613-681)、それを受けた師の法然(1133-1212) より継承した称名念仏(口に南无阿弥陀仏と称える念仏)である。聖人の念仏は善導、法然を継承したものであり、とくに法然に対しては深く師と仰ぎ篤い敬慕の念をもったのであるが、その念仏論には大きな展開があるのである。このことについては「親鸞の念仏思想の特性ー特に法然との相異についてー」①で述べた。
両者の念仏思想は共に第十八願を据わ りとする一行専修の他力念仏で、 共通面の多いものではあるが、 基本的相違は法然の念仏は往生行として の念仏であること に対し、聖人の場
合は往生の因は信心であり、 念仏は信後の起行 (報恩行)なので ある。即ち行 (念仏)前・信 (信心)後の念仏ではなく 、信(信心)前・行 (念仏)後の念仏なので ある。聖人の説く真の念仏( 他力念仏)は信心決定後の往生の確信 (救済の確信)の上での念仏で あり、それは他力回向の念仏なのである。 このことは 『正像末和讃』に聖人が
真実信心の称名は 彌陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる(真聖全2の520)
と述べて いる。この他力回向の念仏と いうことは法然にはない聖人独自の ものである。 聖人自身も法然との念仏思想の相違は十分
承知していた ことと思われる。 本稿ではこの点を考慮し ながら、また近年、 信前称後を否定し、 信一念、行一念について も、行一念が信一念の前であると いう意見や称名報恩を否定する意見も出て いるので、 この問題についても 検討し、聖人の念仏について論じた いと思う。
   1,聖人の法然に対する敬慕の姿勢
 聖人は『教行信証』「化土巻」に
  然るに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。(真聖全2の202)。
と建仁辛酉の暦(1201年)、29才の時、法然の導きに依り、自力の道を棄てて他力の道に入ったことを述べている。また『高僧和讃』には
  昿劫多生のあひだにも 出離の強縁しらざりき 本師源空いまさずば このたびむなしくすぎなまし。(真聖全2の515)。
等と述べているように、自分が生死解脱の解決が出来たのは偏に法然に依るところと深謝しているのである。
 『教行信証』「化土巻」後序に、元久2年閏7月29日に聖人が図絵していた法然の真影に、法然が自分の筆で
  「南无阿弥陀仏」と「若我成仏十方衆生、称我名号下至十声、若不生者不取正覚、彼仏今現在成仏、当知本誓重願不虚、衆生称念必得往生」(真聖全2の202)
とを書いたと述べている。これは岡崎市妙源寺(高田派)伝承の法然上人の絵像( 『真宗重宝聚英』② 第六卷p、158~p161)と考えられるものであり、上部に上記の『教行信証』と同じ文がそこにあり、『往生礼讃』の文が通常の「彼仏今現在世成仏」でなく「彼仏今現在成仏」となっているのである。
 聖人は若年の著である『観経彌陀経集註』を初め、全て自身の書いた『往生礼讃』のこの部分の文は全て「彼仏今現在成仏」となっているのである。これは聖人の法然に対する敬慕の念の並々ならぬ深さを示すものであろう。
 因みに 『真宗重宝聚英』第六卷p、 158に、元久2年2月13日の裏書銘をもち法然の像姿・讃銘が全同のものが、近年、久留米の善導寺(浄土宗、弁長建立)③で発見されたことが述べられている。管見では、浄土宗の文献に『往生礼讃』の「彼仏今現在世成仏」の文が「彼仏今現在成仏」となっているものは知らない④。このことからも聖人が『教行信証』後序の終わりに
  深く如来の矜哀を知りて、良に師教の恩  厚を仰ぐ、慶喜彌いよ至り、至孝彌いよ重し(真聖全2の203)
と述べてもいることは、自分を出離生死に解決を与えてくれた法然に対する強い敬慕の念を窺えるのである。
 『歎異抄』第二の
  親鸞におきてはただ念仏して彌陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかふりて信ずるほかに、別の子細なきなり。(中略)たとひ法然聖人にすか されまひらせて、念仏して地獄におちた りとも、さらに後悔すべからずさふらふ。 (中略)いづれの行も およびがたきみな れば とても地獄は一定すみかぞかし(真聖全2の774。)
とある法然に対する絶対信順の姿勢も、法然の念仏をそのまま継承したという想いよりも、深い自己内省から「地獄一定」と苦悶していた自身の生死解脱の道の解決が偏に法然に依るところと深く感じていた、とみるべきであろう。また『恵信尼消息』五に
  法然上人にあいまいらせて、又六角堂に百日籠らせ給て候けるように、又百か日、降るにも照るにも、如何なる大ふにも、まいりてありしに、ただ後世の事は、よき人にもあしきにも、同じように、   生死いづべき道をばだだ一筋に仰せられ候しを、うけ給はり定めて候しかば、上人のわたらせ給はん処には、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせ給べしと申とも、世世生生にも迷ひければ  こそありけめとまで、思まひらする身なればと、様様に人の申候時も仰せ候しなり。(真聖全5の105)
とある所からも同様の意が窺えるであろう。
 さらに晩年84才から85才にかけて法然の語録である『西方指南抄』の編集をする等、法然の門弟中、法然に最も深い敬慕の念をもったのが、聖人であったといえると思う⑤。
  2,『歎異抄』における「ただ念仏」について
 歎異抄に「ただ念仏」は2箇所ある。1つは上にも引用した第2の
  親鸞におきてはただ念仏して彌陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかふりて信ずるほかに、別の子細なきなり。(真聖全2の774)
であり、もう一つは後序の
  煩悩具足の凡夫、火宅无常の世界は、よろづのことみなもてそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。(真聖全2の79  2)
とあるものである。
 ここに聖人が述べている念仏は口にただ南无阿弥陀仏と称えるだけのものではなく「真実信心の称名」(他力回向の念仏、信後の念仏)なのである。蓮如(1415-1499)が『御文章』5の11等に
 それ人間に流布してみなひとのこころえたるとほりは、なにの分別もなくくちにただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなき次第なり。(真聖全3  の508)
等と述べているように、無信単称(信心の無い念仏)・信前の念仏ではないのである。「ただ念仏のみぞまことにておはします。」とある念仏も全く同様である。「真実信心の称名」(他力回向の念仏、信後の念仏)なのである。
 『歎異抄』第7に「念仏者は无碍の一道なり」(真聖全2の777)とある念仏者も次下に「信心の行者」(真聖全同上)とあるように信心具足の念仏者のことであり、同第八の「念仏は行者のために非行・非善なり」(真聖全同上)の念仏も当然のことながら信心具足のものである。
 『正像末和讃』に
  无慚无愧のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀の回向の御名なれば  功徳は十方にみちたまふ(真聖全2の527)
とある「功徳は十方にみちたまふ」とある念仏も無信単称の信前の念仏ではなく、「真実信心の称名」(他力回向の念仏、信後の念仏)なのである。
 『歎異抄』第2において「親鸞におきてはただ念仏して彌陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかふりて信ずるほかに、別の子細なきなり」と法然の念仏思想をそのまま継承したかのかのように述べているが、この念仏が信心具足の他力回向の念仏であることは当然のことであり、上に述べたように「地獄一定」の絶望的心境からの生死解脱の道(生死いづべき道)を与えてくれた法然に対する並々ならぬ報恩の念、敬慕の念のいわしめた所であろう思われる。『教行信証』「信巻」初めの嘆徳出願(真聖全2の48)に、第十八願の願名を自己の己証の願名である「本願三心之願」、「至心信楽之願」等と述べる前に、法然の名づけた「念仏往生之願」と述べていることもこのことを示すものであろう。
 この聖人の法然に対する報恩の念、敬慕の念は18歳で法然の門に入り、前後18年間、常に傍らにあって法然に仕えた側近の弟子であった源智(1183-1238)よりも深厚のものであったと考えてよいと思う。源智の法然に対する報恩・敬慕の念は厚く、法然の没した年の建暦2年の12月24日(法然が没したのは同年1月25日)に、法然の恩徳に報ずるために弥陀像を建立している。しかしそのことを「実に作善は莫大也」と、この行為を自己の作善と考え往生ための善と考えていたようなのである⑥。この点信一念の時に往生決定を主張した聖人との相違が窺われる。聖人は法然と過ごしたのは、入門した29歳から流罪の35歳までの6年間であり、源智より短期間ではあったが、法然の導きにより、往生に些かの不安もない「悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへに」(『歎異抄』第1、真聖全2の775)とあるような絶対的安堵の救済の境地を体得したのであり、その報恩・敬慕の念は源智のそれをはるかに上回るものであったと思われる。
   3,信の一念と行の一念
 『教行信証』「信巻」の信一念釈に
  夫れ真実信楽を按ずるに、信楽に一念有り。一念とは、信楽開発の時剋之極促を顕し、広大難思の慶心を彰す。(真聖全 2の71)
と述べ、次に『大経』の本願成就文を引いて
  是を以て『大経』に言はく「諸有衆生、 其の名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃 至一念せむ、至心に回向したまへり彼の 国に生まれんと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住せん。」(真聖全同上  )
と述べている。行一念については『教行信証』「行巻」に
  凡そ往相回向の行信に就いて、行に一念あり、亦信に一念有り。行之一念と言ふは、謂わく称名の徧数について選択易行 の至極を開顕す。(真聖全2の34)
と述べ、次に『大経』巻下の彌勒付属の文を引用して
  故に『大本』に言はく「仏彌勒に語りたまはく、其れ彼の仏の名号を聞くを得て、歓気踊躍して乃至一念せんことあらむ、当に知る、此の人は大利を得と為す。則ち是无上の功徳を具足するなりと」(真聖全同上)
と述べている。
 法然は『選択集』五、利益章において本願成就文の一念, 彌勒付属の一念を共に行(念仏)の一念としている。(真聖全1の952)。それを聖人は信一念と行一念とに分けて釈したのである。
 『末灯鈔』11に
  信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。(中略)行をはなれたる信はなしとききて候。叉信はなれたる行なしとおぼしめすべし。(真聖    全2の672)
とある。ここに行一念と信一念が不離であることが述べられている。信前行後を否定する人達はこの文をその根拠にするのである。
 確かにここに、信一念と行一念とが不離とは述べられているが前後は述べられてはいない。しかし前後はないのであろうか。結論からいえば『一念多念文意』に、「行巻」の行一念釈に引かれている『大経』の彌勒付属の文が引かれ
  「歓喜踊躍乃至一念」といふは、(中略) 「当知此人」といふは信心のひとをあらわす御のりなり。「為得大利」といふは、无上涅槃をさとるゆへに「即是具足无上功徳」とものたまへるなり。「則とい  ふは、すなわちといふ、のりとまふすことばなり。如来の本願を信じて一念するに、かならずもとめざるに、无上の功徳をえしめ、しらざるに広大の利益をうるなり、(真聖全2の610)
とある。ここに「当知此人」といふは信心のひとをあらわす御のりなり、とあるように聖人は行一念釈の彌勒付属の文の「当知此人」を信心のひと, としているのである。そして次下に、如来の本願を信じて一念するに、とあるように明らかに信(信の一念)前、行(行の一念)後を述べているのである。上の『末灯鈔』11のみをみれば信行はあくまで不離であり、前後はないということになるかも知れないが、他の文献に目をやれば容易に聖人の意は信前行後であることが理解されるであろう。
 『教行信証』「化土巻」に
  横超とは本願を憶念して自力之心を離る、是を横超他力と名づくる也。斯れ即ち専の中の専、頓の中の頓、真の中の真、乗の中の一乗なり。斯れ乃ち真宗也。已に真実行之中に顕し畢んぬ。(真  聖全2の155)
とあるように、横超とは本願を憶念して、即ち本願を信じて、自力之心を離れることであり、横超他力の行(他力回向の行、真実信心の称名)については「行巻」に顕したと述べている⑦。
 このことから考えても、「行巻」に述べられている「行一念」は当然信心具足の行であり、信後の行(念仏)ということになろう。『末灯鈔』に「信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念はなれたる信の一念もなし」と聖人は述べているが、それは信心決定のうえでの信行不離をいっているのである。信前の念仏(未信の念仏)でそれをいっているのではないのである。
   むすび
 法然は『和語灯録』巻2、4念仏往生要義抄に
  問ていはく、称名念仏申す人は、みな往生すべしや。答ていはく、他力の念仏は往生すべし。自力の念仏はまたく往生すべからず。(真聖全4の591)
と述べているように、当然のことながら念仏ついて自力、他力の分別をしている。これに対して聖人は『正像末和讃』に
  真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる(真聖全2の520)
と述べているように、真実信心の称名、信心具足(信後の念仏)、が弥陀回向(他力回向)の真の念仏であるとし、その他の念仏(信前・未信の念仏等)は自力の称念(自力念仏)とするのである。信心の有无(信後か信前か), によって真の念仏(他力念仏)か否かが分別されているのである。
 曾て問題となり、今なお問題となっている信前称後、称名報恩批判の問題は、聖人が分別した「真実信心の称名」(信後の念仏)と自力の称念(信前の念仏)との相違が認識出来ていない人達、即ち救済体験のない人達の見解といえよう。
 因みに行前信後を主張し、称名報恩を否定する人達は『正像末和讃』の
  弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな ねてもさめてもへだてなく 南无阿弥陀仏をとなふべし(真聖全2の522)
 『御消息集』2の
  往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏さふらふべし。(真聖全2の697)
等をその主張の根拠とするのである。しかし『正像末和讃』の「ふかく信ぜんひと」の意味は、これから信じようとしているひと、というのではなく、すでに信じているひと、という意味である。また「まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏さふらふべし」の意味はわが身の往生のために念仏しなさい、といっているのではないのである。上に述べたように徹底的に自力の称念をきらったのが聖人なのである。信心を得るためや往生決定のための念仏を勧めるはずはないのである。また『正像末和讃』に
  釈迦・弥陀の慈悲よりぞ 願作仏心はえしめたる 信心の智惠にいりてこそ 仏恩報ずるみとはなれ(真聖全2の520)とあるように、信心決定の身になることによって、仏恩報ずる身になるのであるから、信心未決定者は報恩念仏の世界は分からないのが当然でもあるのである。
 それから『浄土和讃』の
  定散自力の称名は 果遂のちかひに帰してこそ おしえざれども自然に 真如の門に転入する(真聖全2の493)
とある文により、定散自力の称名(自力念仏)を称えているままで、無自覚のままで真如の門に転入するのあるから、信前信後の分別はできないとする意見もあるが、これも間違いである。聖人は『教行信証』「化土巻」三願転入の文に
  然るに今特に方便の真門を出でて選択の願海に転入せり、(中略) 果遂之誓良に由へ有る哉。爰に久しく願海に入りて深く仏恩を知れり。(真聖全2の166)と述べているように, 聖人自身が方便の真門念仏(自力念仏)より他力念仏に転入したことを述べ、そして他力の救いの世界入って(転入して)、仏の御恩を深く知ることができたと語っているのである。明らかに信心決定(獲信)の自覚が述べられているのである。獲信の自覚があるはずはない、信前念仏と信後念仏の違いが分かるはずはない等という人達は、未だ救済体験(回心)のない、信心不決定(未決定、未安心)の人達といえるであろう⑧。
註①「親鸞の念仏思想の特性ー特に法然との相異についてー」 (印度学仏教学研究60の1、2011年、12月)。
 ② 『真宗重宝聚英』第6巻(同朋舎メディアプラン、平成18年8月発行)
 ③弁長(1162-1238)が京を去 り、鎮西に帰ったのが元仁元年(1204年)8月であるので、この絵像は直接法然から 弁長に与えられたものではないのであろうが、見る機会はあったと思われ   る。
 ④『選択集』廬山寺本、 『同』往生院本、『同』延応版、『一期物語』、鎮西派了恵 道光編の『黒谷上人語燈録』等は全てここの文は「彼仏今現在世成仏」となっている。
 ⑤法然を深く 敬慕した弟子に勢観房源智( 1183 -123 8)がいる。『西方指南抄』 より早く法然没後30年頃、源智が遺したも のを彼の弟子が編集したと考えられる法然の伝記・法語(醍醐本法然上人伝記)があ る。また源智は法然の没した建暦2年(1 212年)の12月24日に法然の恩徳に 報謝するためとして3尺の弥陀像を造立している。法然に対する敬慕の念の念の深さを窺わせるのではあるが、仏像胎内にあった 源智の阿弥陀像造立願文の中に「像の中に納め奉る所の道俗貴賤・有縁無縁の類は併 しく愚侶の方便力の随ひて、必ず我師の引導を蒙らん。此の結縁の衆は、一生三生の 中に早く三界の獄城を出で、速かに九品の仏家に至るべし。已に利物を以て師徳に報 ず。実に此の作善は莫大也」(梶村 昇氏 『勢観房源智』、東方出版、1933年3月発 行172頁)とある。法然の恩に報うために阿弥陀仏像造立する事を多くの人々に依 頼した。その人々は法然の引接を蒙り、浄土に生まれる事ができる。人々を利することで師の徳に報ずるのであ  る。実にこの善の功徳は大きなものである「実に此の作善 は莫大也」、と述べている。このように源 智の場合は法然の恩徳に報謝するためとして弥陀像を造立したのではあるが、それはただ   報謝のためだけではなく自分の往生のための大きな善(「実に此の作善は莫大也」)であったのである。この点が平生の信一念で往生決定し、信決定の後の行は全て自己の往生とは関係ない報謝行とした聖人との相違が感じられる。
 ⑥註⑤参照。
 ⑦坂東真筆本、本願寺本、高田本にはないが、西本願寺蔵存如上人授与本(存如・蓮如両筆本)には、ここの「横超とは本願を憶念して自力之心を離る、」の後に「専修とは唯仏名を称念して自力  之心を離る」という文が入っているのである。現在の両本願寺の蔵版本にはこの文は入っていないが、西本 願寺において昭和42年以前の蔵版 (大正版、明暦版<赤本>)には坂東真筆本に   はない「専修とは唯仏名を称念して自力之心を離る」の文が入っていたのである。このことは大谷派でも昭和53年の蔵版以前は「專修とは唯仏名を称念して自力之心を離る」の文の入っている   柏原祐義編『真宗聖典』(法蔵館、昭和10年版)が広く用いられたとのことである。また「横超とは本願を憶念して」とある文の少し前にある、本願寺本、高田本、および現在の東西本願寺蔵版本  では「助とは名号を除いて已外の五種是也」とある文が、大正版、明暦版、柏原祐義編『真宗聖典』では「助とは名号を除いて已外の四種是也」となっている)。このことが行前信後の考えを生む   原因の一つになっているかも知れない。
 ⑧信前、信後の念仏の違いは、人が我が子を持ってみると、我が子の可愛さとそれ以外の子供の可愛さが違うものだということが はっきり分かるのと同じことである。信心決 定する(救済体験する)  ことにより、信前においては、ただ口に称えていただけの念仏と,信後の慶びの中の報恩の念仏との相違は自ずとはっきり認識できるものなのである。
 <『大阪聖徳保育・福祉論叢第20』(2015年1月刊)所収>