「続㉓近年の本願寺派教学に想う」
これは「続㉒近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku22.html に続くものです。
紅楳 英顕さんが近況アップデートを投稿しました。
2017年2月24日 · (4年前)
続前(2月12日)
1月14日に述べましたように、他人が信体験を語るとすぐに「一念覚知の異安心者」という人は(私自身もよくそう言われてきました。)、その多くは「一念覚知」の正しい意味の分かっていない、十劫安心の異義者であるか、または宗教の世界に未だ目醒めてない人であるか、いずれにせよ信心不決定(未決定)の人と言って過言ではないと思います。三業惑乱の終結に貢献した大瀛氏はその著『横超直道金剛錍』に、十劫安心者を評し、
然るに十劫者は。この如是聞信をしらず。如来の正覚成就の時を。我が往生治定の時と計す。是大違なり。又かくのごとくこころえてのちこそ。御恩とは云べきに。十劫者この如実の領解もなく。聞信不具足にして御恩を忘れぬと云。大に違へり。
(下、四十丁、左)
と述べて、十劫安心の人は、如来正覚の時(十劫の昔)に往生の定まったと考える間違いの人であると述べ、御恩を忘れぬとは言いながら、仏の御恩の分かっていない人だと述べています。(往生の定まる時は信心の定まる時である。)
現教団においては教学責任担当者までが信心不決定(未決定)者の集団となり果て、他者の信体験に対しては一念覚知の異義者と評する十劫安心に据わった人達であり、仏の御恩が分からないが故に信心正因称名報恩の意味も分からず、宗制宗法遵守義務を公然と放棄する有様であります。この現状は三業惑乱時以上の惨状だと思います。
教団においては長らく発展振興計画が叫ばれ、また僧侶の有志による「宗門の明日を考える会」等も発足されてはおりますが、信心不在の体質の改善を忘れたままでは成果は期待できないと思います。 合掌。
丁度4年前の今日(2021,2,24)、上記を述べておりました。いみじくも前記(2月21日)と同じ内容でありました。 前述(2月21日記以下)のように、私は近年の本願寺派教団の信心不在化現象の大きな原因の一つに三業惑乱時の「一念覚知説」についての理解の誤りがあったと思います。上述のように三業惑乱時に存命中であった南渓師(1790-1873)が『新二十邪義』批評に
【心得たと思は心得ぬなりと云ひ機辺の決定を排する邪義、御一代記聞書末三十四丁に云云とあれば我等がたすかるわけは仏辺に成してあれば夫れを聞くばかり、機辺と信心決定の安堵のと云へは皆自力なり夫れこそ心得たとおもふになるなり。(中略)領解文には往生一定御助け治定と存じとある、存は亡に対して心内にあることなり、仏智を凡心に領受したる処なり。此御文にはしばしばこころえよとの玉ふ。何ぞ機受決定を排却せんや、(中略)御助けは一定往生治定と存ずと云ふ往生安堵の思ひに住するをこそ決定心を得たる人と云べし、この決定を排却するときは生涯不決定を以て安心とするや、若決定不決定を機受に求めずと云はば十劫秘事なり。】http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kyuusainorinentojijitu.htm
と述べています。ここに述べられている「機辺の決定を排する邪義」、「生涯不決定を以て安心とする」誤りが、現在、勧学寮の中にまで横行しているのであります。その代表者が前回述べました「ある氏」でありますが、氏は前回述べましたように機辺の決定心を排するのみならず、機辺の決定心を語ることを一念覚知と言い、異義とするとんでもない謬見をする人なのであります。この謬見が『庄松ありのままの記』の改竄抹消問題や領解文の否定問題にもなっているのであり、現在の勧学寮にも多分に影響を与えているのであります。http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kouenroku.html...
このようなことでありますので、機辺の決定心を述べる私を「一念覚知の異義者である」と言う人もいるのは、当然考えられることでありますが、(実際に数人の人から聞いている)これを言っている人は、「一念覚知説」の正しい意味の分かっていない、大瀛師の意も更には『御裁断御書』の意味も分からない、宗教体験(救済体験)のない、信心不決定(未決定)者であると言えるでありましょう。異論があるならどうぞ反論して下さい。(それが必要だと私は思います。それがなければ教団は衰微するだけだと思います。)
勧学寮がこのように信心不決定(未決定)者の集団と成り果てていますので、宗制宗法(信心正因称名報恩)遵守義務放棄はなされ、改悔批判は完全形骸化という、全くとんでもない、正常な教団とは言えない事態となっているのが教団の現状であります。これは「一念覚知説」の正しい意味も分からない、現勧学寮の信心不在体質より生じたものであると言えると思います。そしてこれが教団が長年色々対策は試みながら、ただ衰微の一途を辿る大きな原因になっていると私は思います。合掌
「続⑪近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku11.html
「続㉒近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku22.html
(2021,2,25)。
2017年3月1日 ·(4年前)。
本日の『中外日報』(2021,3,3)の第一面に「本願寺の財政難対策が焦点」<本願寺派定期宗会開会>と大きく報じられている。
勧学寮の宗制宗法遵守義務放棄は公然とまかり通り、「改悔批判」も完全形骸化と成り果てている信心不在の教団の現状では、至極当然のことであろう。小細工をいくら労しても無駄である。信心不在体質の抜本的改善が肝要である。それが具体的になされないがぎり、2023年の慶讃法要も無意味なこととなるであろう。 合掌
(本日の『中外日報』(2021,3,3)の第一面に「本願寺の財政難対策が焦点」<本願寺派定期宗会開会>と大きく報じられている。
勧学寮の宗制宗法遵守義務放棄は公然とまかり通り、「改悔批判」も完全形骸化と成り果てている信心不在の教団の現状では、至極当然のことであろう。小細工をいくら労しても無駄である。信心不在体質の抜本的改善が肝要である。それが具体的になされないがぎり、2023年の慶讃法要も無意味なこととなるであろう。 合掌
2月27日)繰り返し申しますが、宗教体験を語るとすぐに「一念覚知の異安心」という人は、一念覚知の正しい意味が分かっていない、救済体験のない信心不決定(未決定)の十劫安心の人であります。十劫の昔に往生は定まっていると考え、信心決定、往生一定の確信が衆生の側(機辺)にはない、あるはずはないと思っているのです。即ち親鸞聖人が三不信の一つとして戒められている不淳心(若存若亡心)<あるときには往生してんずとおもひ、あるときには往生はえせじとおもふを若存若亡といふなり>(『浄土真宗聖典(註釈版)』P,587)が一生続くのが凡夫の心であると思い込み、往生一定の確信を言うのは自力心だと考えているのです。随分前のことですが、既に亡くなっているある勧学さんと話をしたことがあります。私が「往生の確信は持つことが出来ると思います」と言いましたら、その人は「それを言うと一念覚知になるぞ」と言いました。それで私は「しかし、領解文には<往生一定御たすけ治定と存じ>とありますが、あの<存じ>は衆生の心ではないのでしょうか」と言いますと、その人は「領解文は蓮如上人の書かれたものかどうか分からないからな」と言いました。重ね重ねとんでもないことを言うものです。
親鸞会会員の「あなたは救われたんですか」の質問に対し、私は演題に立ったまま即座に「私は救われました」と答えました。34年前のことになりますが、私には信心決定、往生一定の確信がありましたので、ハッキリ言ったのです。勿論後で質問に来ても応対する自信は十分ありました。私の答えに間違いはなかったという気持ちは今も少しも変わってはおりません。この際申して置きますが、親鸞会が本山に押しかけて来た時、私が積極的に回答をしないからだと言う誤解が一部にあり、私を非難する声ありましたが、それは本山の方針としてそうしたことであったのです。
現在の教学の責任担当者も多くは上の故勧学と同型の十劫安心の人が多いように見受けられます。私を「一念覚知の異安心者」だと言っている人達がいる、と言うことを多くの人から聞いています。言っている人達は誰のことであるかは御自分でお分かりになることでありましょう。私を異安心者と思うならお呼び出しになり、御教諭下さい。私も私の考えを申し上げます。
要するに宗教体験を語るとそれをすぐ「一念覚知の異安心者」だという言う人は救済体験のない信心不決定(未決定)の十劫安心の人であります。この人達は大瀛氏も「然るに十劫者は。この如是聞信をしらず。如来の正覚成就の時を。我が往生治定の時と計す。是大違なり。又かくのごとくこころえてのちこそ。御恩とは云べきに。十劫者この如実の領解もなく。聞信不具足にして御恩を忘れぬと云。大に違へり。」(2月14日記)と述べているように、十劫安心の人は, 如来の正覚成就の時(十劫の昔)を往生の定まった時とし、一応御恩とは言ってはいますが、正しくは御恩(仏恩)が分かってはいないのですから,自分自身に報恩念仏の実感はなく、信心正因称名報恩批判を裁くことが出来ないのであります。これは断じて許されることではありませんが、当然とも言えるのです。更に残念なことは1981年(昭和56年)に信楽氏、岡氏を裁定した当時の勧学寮頭も上記の故勧学と同型と思わざるをえないことであります。この頃から教団の信心不在体質が加速したように思われます。過ぎ去ったことを元にもどすことは出来ませんが、これからのことは何とかすべきではないでしょうか。宗制宗法遵守義務放棄がまかり通る、教学の責任担当者までが信心不決定(未決定)者の集団と成り果てた現状は、そうでなくても問題山積の中で、三業惑乱時以上の惨状と言っても過言ではなかろうと思います。教団構成員全員で考えねばならないことではありますが、特に総局、宗会議員の皆様に御叡智をお絞り頂きたく存ずる次第であります。 合掌。
「続⑤近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html
「続⑪近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku11.html
(2021,3,2)。
本日の『中外日報』(2021,3,3)の第一面に「本願寺の財政難対策が焦点」<本願寺派定期宗会開会>と大きく報じられている。
勧学寮の宗制宗法遵守義務放棄は公然とまかり通り、「改悔批判」も完全形骸化と成り果てている信心不在の教団の現状では、至極当然のことであろう。小細工をいくら労しても無駄である。信心不在体質の抜本的改善が肝要である。それが具体的になされないがぎり、2023年の慶讃法要も無意味なこととなるであろう。 合掌
(2021,3,3)。