.御文章に反論して、反論出来ていると思ったまま亡くなった学者がしがらきさんです。蓮如上人に勝る天才?いや、愚才でしょう。
蓮如上人が生きておられたら、切り刻んでも飽きないと憎まれたはずですよ、しがらきさんは。
以上です。私(紅楳)も全く同感です。 合掌 (2017,7,31)
上記についてのFace bookの反応
(Y氏) 南无阿彌陀佛
(S氏)南無阿弥陀仏
(D氏) Namo Amida Butsu
(紅楳)『蓮如上人御一代記聞書』111に「人の信なきことをおもふことは、身をきりさくやうにかなしきよと仰せられ候ふよしに候ふ。(『浄土真宗聖典(註釈版)』P,1267)とあり、『蓮如上人御一代記聞書』241に「さてさて開山聖人( 親鸞)の御流を申しみだすことのあさましさよ、にくさよと仰せられ候ひて、御歯を、くひしめられて、さて切りきざみてもあくかよあくかよと仰せられ候と云々。仏法を申しみだすものをば、一段あさましきぞと仰せられ候ふと云々。(『浄土真宗聖典(註釈版)』P,1310)とあります。蓮如上人は信心(安心)については大変厳しい人でありました。この信心(安心)についての厳しさが、当時小教団でしかなかった本願寺を大教団に発展させたのだと思っています。教団においては信心(安心)が、一番肝要であります。 合掌
(G氏) 南無阿弥陀仏
(M氏) This looks very interesting, Mr Kobai. A single recitation of Amida's Name is enough to assure birth in the Pure Land, Honen clearly states, following Shan Tao. Why should we doubt these Great Masters?
(P氏) Marcus - What most people who are Pure Land Buddhists don't understand
is this: There is a gradual evolution of understanding over time concerning
the Primal Vow since Shakyamuni introduced Amida Budda during his speech
at Vulture Peak. Master Shinran designated seven Pure Land Masters to mark the inflection points in consciousness
concerning the Pure Land and Amida's Vow. He himself clearly understood
and expressed the final understanding, when he rejected saying the Name
as a self-power act, and recognized that the TRUE Nembutsu is the Nembutsu
of Gratitude, which arises spontaneously once a person receives Amida's
inconceivable gift of SHINJIN - His own faith-mind consciousness
. (P氏) This all happens because we have FINALLY stopped trying to improve
ourselves and our karmic situation - and FINALLY started trusting Amida
and His Primal Vow 100%. So...I have received Amida's gift back in 2004,
and once I did, I was thankful and grateful to Amida for His gift - so
I spontaneously said "Thank You, Amida Buddha" or Namu Amida
Butsu. Since I received Shinjin, I have never had even one moment of doubt
concerning my own karmic destiny. I have never said the Nembutsu to improve
myself in any way. I simply entrust myself and my karmic destiny ENTIRELY
to Amida Buddha and His Primal Vow.
(紅楳) Thank you so much Paul. I wish JODO SHINSHU spread all over the world. Gassho.
(PThank you Eiken. I share your wish and do whatever I can. As I said before, meeting you - my own "good Dharma friend" was the most important thing that ever happened in my entire life. Gassho,
hank you. I wish for your health and well-being. Gassho.
(F氏) 紅楳和上さまは、信心獲得を繰返し繰返し強調されますが、当然のことを仰っていると読ませていただいています。紅楳和上さまは、信心を獲得すると仰っているのは、宗教体験だと思いますが、20年ほど前のS会での、体験的な信心と、どのように異なるのでしょうか
(紅楳) 「一念覚知」の問題は蓮如上人の頃からあったようですが、教団で大きな問題になったのは三業惑乱(1806年終決)の時であります。その時の三業派の主張にそれがあったのです。
それは『御裁断御書』 浄土真宗聖典(p、1414)にある(年月日時の覚不覚を論じ)とあるものです。三業派の主張は信心を得たときの記憶がかならずなければならないと言うものでありました。その必ず記憶がなければならないとすることが誤りだとされたのであります。ここで大変大事なことは「必ず得た時の記憶がなければならないとすることが誤りだとされたので(入信のパターンは二種あり、記憶がある場合とない場合がある)」あって、信心を得た時の記憶があってはいけないとか、自分は信心決定したと思ってはいけないとか、獲信の自覚があってはいけない、と言っているのではないのです。もしそれが間違いというのであれば親鸞聖人が「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。」( 浄土真宗聖典P,472)や、「ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり」( 浄土真宗聖典P,413)と言われ...ている御言葉そのものが間違いということに成ってしまうでありましょう。
大変残念でありますが、昨今は教団の教学担当の責任者までが、「信心を得た時の記憶があってはいけないとか、自分は信心決定したと思ってはいけないとか、獲信の自覚があるはずはない」と思い込んでいる「信心不 決定 (未決定)」の人が多いようであります。この人達は大体において、三業惑乱時にやはり問題となった十劫安心(十劫の昔に救われているとする異義)に陥っている人達であります。
十劫の昔から助かっているのだから、信心も聴聞も不要なのであるから、信心正因称名報恩も聴聞もやかましく言う必要はない、と言う考えなのであります。こんなことでありますら、宗制宗法が遵守されないのも当然とも言える惨状が現状なのであります。
このような信心不在の現状が何とか解決されない限り、国の政策の保護下ならともかく、教団の発展振興は望み得ないであろうと思う次第であります。合掌
(「信一念と信の覚不について」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/shinitinen.htm
「親鸞浄土教における救済の理念と事実」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kyuusainorinentojijitu.htm
「浄土真宗における回心について」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/jhodoconversion.html
S会については
「一念覚知説の研究」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/icinenkakuchi.html
「現代における異義の研究 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/gendainiokeruigi.html
『派外からの異説について』http://e-kobai424.sakura.ne.jp/hagai.htm
「私が対峙した35年前の S会」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/shirakaitaiji.html
その他「続⑤近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html)等参照。
(T氏) 「信心不在の現状」について一言コメントいたします。浄土真宗のご住職は、皆さん聴聞が大事と話しをされます。法話を聞く方は鳴子の雀状態です。少々のことでは驚きもせず、信心決定が必要だということも意識せず、自力念仏で善根を目指す門徒が殆どではないでしょうか。
蓮如上人の「カラ念仏では助からない」御文章3帖目②③④を前面に出し、鳴子の雀に気付きを入れ、自分の足で歩かせて頂きたいものです。
①鳴子の雀を起こす法話が必要。...少々のことでは驚きもせず、信心決定が必要だということも意識せず、自力念仏で善根を目指す門徒が殆どではないでしょうか。
蓮如上人の「カラ念仏では助からない」御文章3帖目②③④を前面に出し、鳴子の雀に気付きを入れ、自分の足で歩かせて頂きたいものです。
①鳴子の雀を起こす法話が必要。
②一人歩き始めた求道者は、善知識(または図書)を求めてどこへ行けば良いのでしょうか。
本願寺派のHPを見ても、僧侶育成には対応してありますが、門徒の信心決定支援には対応していないと思います。せめて相談窓口(活動団体や個人の紹介等)を明確にすることはできないものかと存じます。 合掌(紅楳) 大変貴重な御意見であろうと思います。確かに「僧侶育成には対応してありますが、門徒の信心決定支援には対応していないと思います。」と言われる通りだと思いますが、僧侶の育成についても、信心決定の育成がなされているかについては甚だ疑問です。
私が慨嘆しておりますのは、教団の教学責任担当者までが、信心正因称名報恩の意味も分からない、即ちカラ念仏と報恩念仏の違いも分からない、宗制宗法遵守義務を放棄する信心不決定(未決定)者の集団と成り果てている現状なのであります。
何度も申すことでありますが、『蓮如上人御一代記聞書』93(『浄土真宗聖典(註釈版)』P,1261)に「信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われはものをもたずしてひとにものをとらすべきというの心 なり 、人承引あるべからず」とあります。この御言葉は誠に至言であります。... 御門徒の方々から貴重な御意見をどしどしお出し頂きたいと思います。合掌
「宗制宗法遵守義務を放棄する」の記述について。教団組織に内部牽制機能を持ちながら機能しない。開祖聖人のみ教えを守ることこそが、教団最大の役割ではないでしょうか。その役割が放棄されることは異常事態です。文化財を守るよりも法を守ることが教団の最優先課題と考えます。 合掌
(紅楳) まさしくその通りであります。「開祖聖人(親鸞聖人)のみ教えを守ることこそが、教団最大の役割」であります。今や勧学寮の「その役割が放棄され」、しかも宗制宗法を遵守しない者を取り締まる役割にある総局、監正局は何もせず、勧学寮の宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通っている教団の現状は、まさしく異常事態で有ります。
私は今まで、この事を何度も総局、監正局に言ったのですが、一向に動かないのです。
(「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「続・近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zokukinnen.htm
「続②近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku2.html
「続⑥近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku62.html )<とくに2017,6,15日と7,4日記>等)参照。
御門徒の方の貴重な御意見を本願寺の総局は無視は出来ないと思います。本願寺派総長宛に意見書を(個人でもどなたかと連名でも)お出し頂けたら結構だと思います。教団の異常事態を解決するために。合掌
何度も私が申したよう、信楽氏は石泉学派の継承者であると自分では言いましたが、石泉師の考えとは全く違っているのです。石泉師は念仏(称名)は重視しましたが、称名報恩義を否定したのではありません。念仏について、所修の行体で言えば正定業、能修の用心、即ち称える人の心持ちから言えば報恩行と言っているのです。(石泉師の著『柴門玄話』に「正定業とは称念するところの法体名号自爾の徳義をいひ報恩行とは名号を称念する行者の用心をいう」とある。)信楽氏はこの点でも明らかに間違っているのです。これも分からない今の教学担当の責任者は信心不
決定 (未決定)者の集団であると私は言っているのです。合掌 (2017,9,18)
一句浮かびましたので下記します。
石泉僧叡念仏論 石泉僧叡(せきせんそうえい)の念仏論(ねんぶつろん)は
開山中興継承誠 開山(かいさん)中興(ちゅうこう)の誠(じょう)を継承(けいしょう)す。...
法体尊号正定業 法体尊号(ほったいそんごう)は正定業(しょうじょうごう)、
修者用心報恩行 修者(しゅしゃ)の用心(ようじん)は報恩行(ほうおんぎょう)なりと。
近年或人誤此意 近年(きんねん)或人(おくにん)此(こ)の意(い)を誤(ご)す。
不能解了其深精 其(そ)の深精(じんしょう)を解了(げりょう)すること能(あた)はず。
策励自力口声道 自力口声(じりきくしょう)の道(どう)を策励(さくれい)し、
嫌厭謝徳讃称名 謝徳(しゃとく)の讃称名(さんしょうみょう)を嫌厭(けんえん)す。
<意訳>
石泉僧叡師((1762-1826)の念仏論は、開山(親鸞聖人)、中興( 蓮如上人 )の意を正しく継承したものであります。法体尊号(所修の行体、称えられている名号)は正定業であり、 修者の用心(能修の用心、称えている人の心持ち)から言えば報恩行であると言われています
<石泉師のここで言う修者(能修)の用心の修者(能修)とは、真実信心の念仏者のことですから、ここで語られている念仏(称名)は信の上の念仏(称名)、信心具足(信後)の念仏(称名)についての事であります。>
所が近年石泉師の意を正しく理解しない人達(信楽氏等)がいます。その深い念仏のこころが理解できないのです。
念仏の信前信後(自力他力)の違いが全く分からず、自力の念仏を盛んに勧め、報謝の念仏は親鸞聖人の意に反するものであるとして嫌い、非難するのであります。
何度も申す事でありますが、報恩念仏(称名報恩)が親鸞聖人の意に反するという人達は信心不決定(未決定) の人であり、それに関連して宗制宗法遵守義務を放棄する人も全く同類であります。またそれが容認される教団の現状は極めて憂うべきことと思います。 合掌 (2017,9,26)
石泉師の念仏論について 師の『教行信証随聞記』により追記します。
称名のこと。全体二義あり。(中略)此正業報恩の二義ありと云へとも。称名に異りあるかと云へば。自体唯一にして。義用二あり。此称名は真実信心の称名なり。此れ正業報恩と云るるなり。(『真宗全書』26の138)
...
ここに述べられていますように、石泉師が正業報恩(正定業、報恩行)と語っている念仏(称名)は「真実信心の念仏(称名)」であります。即ち 親鸞聖人が『正像末和讃』に
真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる(浄土真宗聖典P、607)
と述べられている「自力の称念」(自力念仏、信前念仏)と異なる「真実信心の称名」(他力念仏、信後念仏)の事であります。信楽氏は自分が石泉師の念仏の正しい継承者であるかのよう言っていましたが、全く石泉師の念仏が分かっていなかった、「自力の称念」に一生励んだ信心不決定(未決定)の人であったことが明らかであります。それから信楽氏と同様に称名報恩義を否定したのが岡氏でありましたが、この人は信楽氏以上に念仏の分かっていない人でした。念仏には自力他力はなく、信心の有無は関係なく、カラ念仏も役者の称える念仏も全て大行であるというような、とても真宗学者とは思えないことを頻りに言っておりました。
(「宗祖における信心と念仏」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/syusoniokeru.html 参照。)
このような事で両氏のことが、1981年(昭和56年)宗会で問題になったのですが、当時の勧学寮頭は何故か両氏を擁護し、信楽氏については異義断定保留(昭和56年3月)、岡氏に対しては疑義断定保留(昭和56年10月)と回答したのみであり、具体的には何もなされることはなかったのであります。これは勧学寮頭が寛大であったと言うことにはならないと思います。職務杜撰、怠慢と言うべきであり、この人が果たして信心決定の人であったのかと疑問を感じます。(このことに関連して「続⑤近年の本願寺派教学に想う」
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html の2月5日~2月11日記に述べた。)
この頃から信心念仏についての宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通るような、現在の教団の信心不在化現象が急速に進んだように思います。 合掌 (2017,9,28)
アメリカ、カリフォルニア出身の若い(28才)ガブリエル(Gabriel Schlaefer)さんが再来日されました。親鸞聖人の教えを正しく学ぶのが目的であります。すでに日本語は上手ですが、半年間京都で日本語学校で勉強するとのことであります。西本願寺の近くに住み、毎朝本願寺の御晨朝に御参りすると言っておられます。
昨今の教団の状況は、残念なことに、国内においては教学の責任担当者までが信心正因称名報恩の意味も分からない人達の集団と成りはて、宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通るような信心不在状態となり、海外においても親鸞聖人の教えと異なる自力念仏や座禅の策励が盛んに行われているとのことであます。
このような現状でありますので、私は若いガブリエル(Gabriel Schlaefer)さんの今後の活動に大変期待をかけるのであります。きっと教団の振興、正法宣揚に貢献してもらえると思います。 合掌
(ガブリエルさんについては、...
「続③近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku3.html <2015,10,24~25記>、
Face Book https://www.facebook.com/eiken.kobai <2015,12,13記>
「続④近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku4.html <2016,4,10。4,15記>
等御一見頂ければ幸甚です。)。 (2017,10、8)。
上記についてFace book の反応。
(G氏) 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
(D氏) 南無阿弥陀仏真宗の教えが海外にもどんどん広まってほしく思います。
(紅楳) 有難うございました。ガブリエルさんの活躍を期待したいと思います。合掌
Thank you so much. I would like to expect Gabriel's success. Gassho. (2017,10,11)。
(F氏) 紅楳先生、こんばんは。お尋ねなのですが、「それは信心が」とお叱りを受けるかもしれませんが・・私も、救いを味わい、救いを口にしています。しかし、そうありながら、「救いと」臨終ではない、只今の 現在の救いの 味わいが 言葉や知識ではわかりそうですが、現実の心は煩悩はつきませんし、救われたいとも 思えません。救われたいと思えないとは、救いが 分かっていないからとも思います。現実の平生業成 の味わい 教えていただけないでしょうか。 (2017,10,17)。
一句浮かびましたので下記します。
真宗念仏
真実信心称念聲 真実信心(しんじつしんじん)の称念(しょうねん)の聲(こえ)。...
是言弥陀回向名 是(これ)を弥陀回向(みだえこう)の名(みな)と言(のたま)えり。
尊号行体正定業 尊号(そんごう)の行体(ぎょうたい)は正定業(しょうじょうごう)
能修用心報恩誠 能修(のうしゅ)の用心(ようじん)は報恩(ほうおん)の誠(まこと)なり。
<意訳>
真実信心による念仏の聲を、親鸞聖人は阿弥陀仏の回向のみ名と言われます。
称えられている尊号(南无阿弥陀仏)の体の功徳で言えば、往生成仏せしめる正定業であり、
能修の用心(称える者の心持ち)を言えは、 阿弥陀仏の広大な恩徳に対する報恩(ほうおん)の誠(まこと)のみであります。
親鸞聖人の説かれた念仏は真実信心の念仏、弘願の念仏、第18願の念仏、弥陀回向の念仏、即ち信後(信心具足)の念仏、報恩の念仏であります。何度も申すことでありますが、現本願寺教団は教学の責任担当者までが信前信後の違いが分からない、獲信体験のない信心不決定(未決定)者の集団と成り果てているのであります。 信前(カラ念仏<営業念仏と言う方が正確かも知れない>)と信後(報恩念仏)の違いも分からない惨状であります。従って、信心正因称名報恩義も理解できず、宗門人なら誰もが守らねばならないはずの、しかも宗教団体の生命である信心教義についての、宗制宗法遵守義務が放棄されるという信じ難い状態が現実なのであります。こんな現状のままで教団の発展計画がいくら論じられても、従来同様、試行錯誤をいたずらに繰り返すのみで、成果はなかろうと思います。少なくとも教学の責任担当者は、真実信心の念仏者でなければならないと思います。 合掌
(2017、12、13)
上記についての Face book の反応
(Y氏) 南无阿彌陀佛
(G氏) 南無阿弥陀仏
(S氏) 南無阿弥陀佛
能修用心報恩誠能修の用心(称える者の心持ち)を言えは、 阿弥陀仏の広大な恩徳に対する報恩(ほうおん)の誠(まこと)のみであります。
これ、いいですね。
大谷派の近代教学における自覚としての信(faith)はさておき、宗門機関で、三心一心問答の決釈である「涅槃の真因はただ信心をもつてす」p.229の信心教義を説かないのは困ったものです。
門徒としては、宗門の計画など知ったことではないのですが、行も信もない法話を説く坊主はご法義の邪魔だけするな、と思っていたりします。
ある意味では三業惑乱以来の教学は、一般の門徒の持っていた御信心の熱から無帰命安心へ退廃したのかもと思量しますが、願生帰命説を願作仏心と読み替える営みが必要なのかもです。あほみたいな、金魚掬いのような救いを説く法話に、少しく文句を言いたいですね(笑
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://labo.wikidharma.org/.../%E9%A1%98%E7%94%9F%E5%B8...
(紅楳) 御賛同有り難うございました。何度も申すことでありますが、現教団においては、信心教義の最高責任者が「 親鸞における回心について」(真宗研究、<真宗連合学会研究紀要>第41輯、1997年1月発行)、「浄土真宗における儀礼論(日本仏教学会年報<日本仏教学会西部事務所>第63号、1998年5月発行)等において述べているように、信心の世界に信前と信後があることを否定しています。これは氏に獲信体験(救済体験)のないことを意味しているのであります。
..これでは 信前の自力念仏(真門自力念仏)と信後の他力念仏(弘願報恩念仏)の違いも当然のことながら分かるはずはありません。従って信心正因称名報恩義も理解できるはずもないのであります。宗制宗法遵守義務が果たせないのも至極当然と言えるのであります。
しかしこのように信心教義の最高責任者までが、信心不決定(未決定)者である教団の信心不在体質、退廃堕落体質の改善なしに、いくら発展振興計画を掲げたところで、所詮過去50年~60年と同様、徒な試行錯誤の繰り返しとなることかと懸念する次第であります。合掌(S氏) もっぱらこの行につかえ、ただこの信をあがめよ(親鸞聖人)
南無阿弥陀佛 (2017、12、18)
年始に申しましたが、お陰様で今年私は喜寿を迎えます。一句浮かびましたので下記します。合掌
平成三十戊戌年 平成三十戊戌(へいせいさんじゅう、つちのえいぬ)の年(とし)。
幸迎喜寿摂取中 幸(さいわい)に喜寿(きじゅ)を迎(むか)う、摂取(せっしゅ)の中(なか)。
...
煩悩熾盛愚鈍性 煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の愚鈍(ぐどん)の性(しょう)なれど、
余生精進法興隆 余生(よしょう)は法(ほう)の興隆(こうりゅう)に、精進(しょうじん)せん。
(2018,2,12)
FBの反応
有難うございました。今日まで無事生きてこられたことを大変有難く思っています。
僭越ながら「余生精進法興隆」と結びました。何度も申してきましたが、教団の教学責任担当の方々までが信心不決定(未決定)者の集団と成り果て、宗制宗法遵守義務放棄のまかり通る現状は誠に悲歎に思います。 合掌
(Y氏)
南無阿弥陀佛
(T氏) なんまんだぶ
(H氏) 南無阿彌陀仏。
本願寺新報の2018年2月10日号の、いのちの栞に歎異抄第九の「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」とある文が取り上げられている。親鸞聖人が指導者的立場をとられなかったというのは結構であるが、この文の「親鸞もこの不審ありつる」を「私(親鸞)もこの不審が今もある」と解釈するのは文法的にも間違いであり、<(『日本国語大典』第二版第一巻、二〇〇六年、六五五頁の「ありつる」の項に「(ありし)よりも近い過去にあったことを述べる言い方。等とある。> 教義的には大変な大問題である。
「親鸞もこの不審ありつる」とは「私(親鸞)もこの不審が過去にあった」と言うことであり、この唯円との対話は親鸞聖人が80歳を過ぎてからのことと考えられる.
80歳を過ぎた親鸞聖人が御自分の往生に確信のもてない若存若亡の人(あるときには往生してんずとおもひ、あるときには往生はえせじとおもふを若存若亡といふなり。<『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,587>)と言うことになるのである。
親鸞聖人を信心不決定(未決定)者にしてしまう全くとんでもない間違いなのである。
合掌...
「『歎異抄』の中心問題 」 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/tantyu.html
「浄土真宗における信前信後について」 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/shinzenshingo.html
等参照。
URL http://e-kobai424.sakura.ne.jp/
(2018、2、20)
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