「続⑦近年の本願寺派教学に想う」

これは「続6近年の本願寺派教学に想う」に続くものである。




ある浄土真宗篤信者から下記のメッセージを頂きました。

【親鸞さまのお心】
親鸞さまは、中国語が出来たみたいだし、天台声明、五会念佛が出来たでしょうね。常行三昧堂の堂僧だったですし。比叡山におられた頃は、後から振り返れば、19願のお念佛であったでしょうね。聖徳太子によって、法然さまにお聴聞し、弥陀釈迦、善導大師の絶対他力の純粋浄土教に回心されたのが、29歳でありました。
ご信心をいただかれた親鸞さまのご功績は、取願立法、ニ双四重の教判、真仮偽の教判であって、それは唯円大徳、覚如上人、存覚上人を通して蓮如上人へきちんと受け継がれています。...
親鸞さまは、浄土真宗というご法義に世俗の経済思想、社会思想、哲学思想、心理学、他宗教や聖道門を故意に混ぜ込むような事はお喜びにならないでしょうね。
自力の計らいをもって、他力を解釈して、脱線をエスカレートさせて、自害害他となります。
そもそも三経七祖に背く近代教学、現代教学が、親鸞さまのお心にかなうはずがありません。
18願文、18願成就文、南無阿弥陀佛の誓願尊号、南無阿弥陀佛を我がためと、大願業力をいただいてこそ、二河白道です。
他宗教他思想と佛教の混同、聖道門と浄土門の混同、自力と他力の混同、信罪福心と二種深信の混同は、注意深く避けるべきです。

.御文章に反論して、反論出来ていると思ったまま亡くなった学者がしがらきさんです。蓮如上人に勝る天才?いや、愚才でしょう。
蓮如上人が生きておられたら、切り刻んでも飽きないと憎まれたはずですよ、しがらきさんは。

 
以上です。私(紅楳)も全く同感です。 合掌  (2017,7,31)

 上記についてのFace bookの反応

(Y氏) 南无阿彌陀佛

(S氏) 南無阿弥陀仏

(D氏) Namo Amida Butsu

(紅楳)『蓮如上人御一代記聞書』111に「人の信なきことをおもふことは、身をきりさくやうにかなしきよと仰せられ候ふよしに候ふ。(『浄土真宗聖典(註釈版)』P,1267)とあり、『蓮如上人御一代記聞書』241に「さてさて開山聖人( 親鸞)の御流を申しみだすことのあさましさよ、にくさよと仰せられ候ひて、御歯を、くひしめられて、さて切りきざみてもあくかよあくかよと仰せられ候と云々。仏法を申しみだすものをば、一段あさましきぞと仰せられ候ふと云々。(『浄土真宗聖典(註釈版)』P,1310)とあります。蓮如上人は信心(安心)については大変厳しい人でありました。この信心(安心)についての厳しさが、当時小教団でしかなかった本願寺を大教団に発展させたのだと思っています。教団においては信心(安心)が、一番肝要であります。 合掌

(G氏) 南無阿弥陀仏

(M氏) This looks very interesting, Mr Kobai. A single recitation of Amida's Name is enough to assure birth in the Pure Land, Honen clearly states, following Shan Tao. Why should we doubt these Great Masters?

(P氏) Marcus - What most people who are Pure Land Buddhists don't understand is this: There is a gradual evolution of understanding over time concerning the Primal Vow since Shakyamuni introduced Amida Budda during his speech at Vulture Peak. Master Shinran designated seven Pure Land Masters to mark the inflection points in consciousness concerning the Pure Land and Amida's Vow. He himself clearly understood and expressed the final understanding, when he rejected saying the Name as a self-power act, and recognized that the TRUE Nembutsu is the Nembutsu of Gratitude, which arises spontaneously once a person receives Amida's inconceivable gift of SHINJIN - His own faith-mind consciousness

.
(P氏) This all happens because we have FINALLY stopped trying to improve ourselves and our karmic situation - and FINALLY started trusting Amida and His Primal Vow 100%. So...I have received Amida's gift back in 2004, and once I did, I was thankful and grateful to Amida for His gift - so I spontaneously said "Thank You, Amida Buddha" or Namu Amida Butsu. Since I received Shinjin, I have never had even one moment of doubt concerning my own karmic destiny. I have never said the Nembutsu to improve myself in any way. I simply entrust myself and my karmic destiny ENTIRELY to Amida Buddha and His Primal Vow.


(紅楳) Thank you so much Paul. I wish JODO SHINSHU spread all over the world. Gassho.

(P氏 Thank you Eiken. I share your wish and do whatever I can. As I said before, meeting you - my own "good Dharma friend" was the most important thing that ever happened in my entire life. Gassho,

(紅楳) Thank you. I wish for your health and well-being. Gassho.

(紅楳) Thank you for your message Mr.Marcus Cumberlege.   How are you?
Thank you very much for your kind support in Antwerp in Belgium last August. I am looking forward to seeing you again.
If you do not mind. Please see my Shin-Buddhism Study Center (http://e-kobai424.sakura.ne.jp/books.html) in my URL (.http://e-kobai424.sakura.ne.jp/) where I put in my English translation books and papers Gassho. Eiken Kobai.


(M氏)many many thanks. Let us be constantly AWARE of our dependency on Amida's CARE.


(紅楳) 蓮如上人は信心を肝要とされ、また信心について厳しい考えの人でありました。篤信氏の言われるように 蓮如上人が生きておられたら、信楽氏に対して「切り刻んでも飽きないと」言われたことと思います。この事は大変大事な事だと思います。これが忘れられては教団の発展振興はなかろうと思います。教学の責任担当者までが、信心不決定(未決定)者の集団と成り果てて、信心正因称名報恩反対や十劫安心がまかり通る現状は何とも情けないことであります。合掌

(紅楳) 誤解のないように申しておきます。私が「蓮如上人が生きておられたら、信楽氏に対して「切り刻んでも飽きないと」言われたことと思います」と言いましたのは、信楽氏が蓮如上人を非難したから、言うのではありません。浄土真宗の信心が全く獲得できていなかったからであります。信楽氏が蓮如上人の言われる称名報恩義に反対したり、蓮如上人が権力迎合主義者であったと非難したのも、すべて氏が信心不決定(未決定)者であったが故であります。教団の責任担当の方々もよくこのことを御承知頂きたいと思います。
信心獲得こそが大事なことであります。これがなければ「土橋」(人を渡して己は落ちる)にも成れません。人も渡さず、己も堕ちるのみであります。 合掌

(紅楳) この度アメリカ、ニューヨーク在住のP氏よりメッセージを頂きました。氏も述べていますように、氏は2004年に私の『浄土真宗がわかる本』の英訳『Understanding Jodo Shinshu』を読んで入信されました。信心正因称名報恩義にも賛同されています。
私は信心があれば、教えは伝わるということをよく知ることが出来ました。
何度も申すことでありますが、『蓮如上人御一代記聞書』93(『浄土真宗聖典(註釈版)』P,1261)に「信もなくて、人に人に信をとられよとられよと申すは、われはものをもたずしてひとにものをとらすべきというの心 なり 、人承引あるべからず」とあります。誠に至言であります。教団の将来をお考え下さる責任ある立場の方々にも、よくこの事を御考慮頂きたく存じます。  合掌
   (2017,8,3)。



(T氏) 紅楳様 リクエストをお受け頂き誠にありがとうございます。先生のお名前とお考えは、「信心獲得のすすめ」の序を読んで知り又感動いたしました。
今後とも宜しくお願いいたします。  (2017,8,18)。

(紅楳) こちらこそ宜しくお願いいたします。浄土真宗においては信心獲得が一番大事なことであります。昨今の本願寺派教団においては教学の責任担当者までが、信心不決定(未決定)者の集団と成り果てた、情けない状態であります。この信心不在体質の改善なしでは、教団はただ衰微の一途を辿るのみと慨t歎しています。合掌
{近年の本願寺派教学教学に想う}http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm


(紅楳) 信心獲得のすすめ」の序に関連することを「続⑤近年の本願寺派教学に想う」
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html に述べています。 合掌

(T氏) 紅楳先生 記述場所を指定して頂きありがとう御座います。正しく感動いたしました序文です。本願寺の上層部の方からのご発言を得て安堵いたしました。宗学ともなれば高度な内容を要求されると考えますが在家の信心は、歎異抄の一条が真宗の全て、二条で法門入室(他力信心・廃立)可能と考えております。簡単な故に誤魔化しがきかないと思います。一つの教材でしっかり仕組みを理解させることが重要だと考えています。在家の人間で人様に法を説く機会はありませんが、研究発表できるように整理していきたいと考えております。

(T氏) 紅楳先生 「近年の本願寺派教学に想う」拝読致しました。先生の今までの戦いを知り胸が熱くなりました。全く同感であります。数年前には元龍大学長の著書に”伝統教学は全て間違いである”旨の記述がされましたがこれは事件です。またカラ念仏等については蓮如上人は助からないと明言されています。(五帖御文章の三帖②③④に纏めて編集)御文章は法事に使われない部分は読まれないのでしょうか。教団中枢のキーマンが信心決定していないことの弊害は、聖人のみ教えが曲げられていくことに繋がります。信心決定者(圧倒的少数派)が異端児扱いされる日が来るのではないでしょうか。大きな問題ですので、今日はここまでといたします。 合掌

(紅楳) 有り難うございました。「教団中枢のキーマンが信心決定していないことの弊害は、聖人のみ教えが曲げられていくことに繋がります。 信心決定者(圧倒的少数派)が異端児扱いされる日が来るのではないでしょうか。大きな問題です」
同感です。本願寺の御門徒の方から、この様な御意見を頂けたことを大変嬉しく思います。何度も申しますように、今や教団中枢のキーマンが信心不決定(未決定)者の集団と成り果てているのであります。(「近年の本願寺派教学に想う」(続~⑦)、「紅楳英顕の真宗教室」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/ 第二面)
「信心決定者(圧倒的少数派)が異端児扱いされる日が」すでに来ていると言っても過言ではないと思います。今や三業惑乱以上の惨状であり、信心不在の状況であります。このままでは教団はただ衰微の一途を辿るのみと思われます。...
今年は奇しくも徳川幕府の大政奉還以来150年目の年に当たります。徳川幕府政策に依存した葬式・法事中心の仏教から、浄土真宗の教えの要である信心中心の仏教へと転換しなければならないと思います。その信心中心と言うことも、信楽氏の言うような「自力称念策励」や一部の歴史学者の言う「反権力的社会実践」等の親鸞聖人や蓮如上人の教えと全く違ったことをする事ではありません。往生の正因の信心であり、「信心は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」(『浄土真宗聖典(註釈版)』P,678)とある真実信心のことであります。この事は教団関係者全員で、今しっかっりと考えねばならないことと思います。 合掌


(紅楳)  御門徒であるTさんの言われるように、現在の本願寺派教団においては、信心決定者は圧倒的少数派であります。教学責任担当者までが信前の念仏(カラ念仏)と信後の念仏(報恩念仏)の違いも分からない信心不決定者の集団で、宗制宗法遵守義務は公然と放棄され、勧学寮頭は十劫安心の邪義者でもあります。信心決定者(圧倒的少数派)が異端児扱いされ、信心不決定(未決定)者、未安心者が正安心者とされる有様であります。 教団の早急の体質改善が何よりも急務であると考えます。 合掌 (2017,8,20)。

  上記について Face book の反応

(S氏)
南无阿弥陀佛

(D氏)Namuamidabutsu

(紅楳)御賛同有り難うございます。繰り返しますが、今年は徳川幕府の大政奉還から丁度150年であります。幕府の政策に依存した儘の形からの脱皮は、当然必要なことであります。信心不決定者の圧倒的多数の教団であっては、存続は不可能でありましょう。そのためには教団の責任担当者までが、信心不決定(未決定)者の集団と成り果てた、信心不在体質の現状の改善が、他の何ごとよりも急務であり、至要であると思います。合掌           (2017,8,21)。




(F氏) 紅楳和上さまは、信心獲得を繰返し繰返し強調されますが、当然のことを仰っていると読ませていただいています。紅楳和上さまは、信心を獲得すると仰っているのは、宗教体験だと思いますが、20年ほど前のS会での、体験的な信心と、どのように異なるのでしょうか

(紅楳) 「一念覚知」の問題は蓮如上人の頃からあったようですが、教団で大きな問題になったのは三業惑乱(1806年終決)の時であります。その時の三業派の主張にそれがあったのです。
それは『御裁断御書』 浄土真宗聖典(p、1414)にある(年月日時の覚不覚を論じ)とあるものです。三業派の主張は信心を得たときの記憶がかならずなければならないと言うものでありました。その必ず記憶がなければならないとすることが誤りだとされたのであります。ここで大変大事なことは「必ず得た時の記憶がなければならないとすることが誤りだとされたので(入信のパターンは二種あり、記憶がある場合とない場合がある)」あって、信心を得た時の記憶があってはいけないとか、自分は信心決定したと思ってはいけないとか、獲信の自覚があってはいけない、と言っているのではないのです。もしそれが間違いというのであれば親鸞聖人が「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。」( 浄土真宗聖典P,472)や、「ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり」( 浄土真宗聖典P,413)と言われ...ている御言葉そのものが間違いということに成ってしまうでありましょう。
大変残念でありますが、昨今は教団の教学担当の責任者までが、「信心を得た時の記憶があってはいけないとか、自分は信心決定したと思ってはいけないとか、獲信の自覚があるはずはない」と思い込んでいる「信心不 決定 (未決定)」の人が多いようであります。この人達は大体において、三業惑乱時にやはり問題となった十劫安心(十劫の昔に救われているとする異義)に陥っている人達であります。
十劫の昔から助かっているのだから、信心も聴聞も不要なのであるから、信心正因称名報恩も聴聞もやかましく言う必要はない、と言う考えなのであります。こんなことでありますら、宗制宗法が遵守されないのも当然とも言える惨状が現状なのであります。
このような信心不在の現状が何とか解決されない限り、国の政策の保護下ならともかく、教団の発展振興は望み得ないであろうと思う次第であります。合掌

(「信一念と信の覚不について」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/shinitinen.htm
「親鸞浄土教における救済の理念と事実」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kyuusainorinentojijitu.htm
「浄土真宗における回心について」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/jhodoconversion.html

S会については
「一念覚知説の研究」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/icinenkakuchi.html
「現代における異義の研究 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/gendainiokeruigi.html
『派外からの異説について』http://e-kobai424.sakura.ne.jp/hagai.htm
「私が対峙した35年前の S会」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/shirakaitaiji.html

その他「続⑤近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html)等参照。


(T氏) 「信心不在の現状」について一言コメントいたします。浄土真宗のご住職は、皆さん聴聞が大事と話しをされます。法話を聞く方は鳴子の雀状態です。少々のことでは驚きもせず、信心決定が必要だということも意識せず、自力念仏で善根を目指す門徒が殆どではないでしょうか。
蓮如上人の「カラ念仏では助からない」御文章3帖目②③④を前面に出し、鳴子の雀に気付きを入れ、自分の足で歩かせて頂きたいものです。
①鳴子の雀を起こす法話が必要。
...
少々のことでは驚きもせず、信心決定が必要だということも意識せず、自力念仏で善根を目指す門徒が殆どではないでしょうか。
蓮如上人の「カラ念仏では助からない」御文章3帖目②③④を前面に出し、鳴子の雀に気付きを入れ、自分の足で歩かせて頂きたいものです。
①鳴子の雀を起こす法話が必要。
②一人歩き始めた求道者は、善知識(または図書)を求めてどこへ行けば良いのでしょうか。
本願寺派のHPを見ても、僧侶育成には対応してありますが、門徒の信心決定支援には対応していないと思います。せめて相談窓口(活動団体や個人の紹介等)を明確にすることはできないものかと存じます。 合掌


(紅楳) 大変貴重な御意見であろうと思います。確かに「僧侶育成には対応してありますが、門徒の信心決定支援には対応していないと思います。」と言われる通りだと思いますが、僧侶の育成についても、信心決定の育成がなされているかについては甚だ疑問です。  
私が慨嘆しておりますのは、教団の教学責任担当者までが、信心正因称名報恩の意味も分からない、即ちカラ念仏と報恩念仏の違いも分からない、宗制宗法遵守義務を放棄する信心不決定(未決定)者の集団と成り果てている現状なのであります。
何度も申すことでありますが、『蓮如上人御一代記聞書』93(『浄土真宗聖典(註釈版)』P,1261)に「信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われはものをもたずしてひとにものをとらすべきというの心 なり 、人承引あるべからず」とあります。この御言葉は誠に至言であります。
...
御門徒の方々から貴重な御意見をどしどしお出し頂きたいと思います。合掌

(T氏) 
「宗制宗法遵守義務を放棄する」の記述について。教団組織に内部牽制機能を持ちながら機能しない。開祖聖人のみ教えを守ることこそが、教団最大の役割ではないでしょうか。その役割が放棄されることは異常事態です。文化財を守るよりも法を守ることが教団の最優先課題と考えます。 合掌


(紅楳) まさしくその通りであります。「開祖聖人(親鸞聖人)のみ教えを守ることこそが、教団最大の役割」であります。今や勧学寮の「その役割が放棄され」、しかも宗制宗法を遵守しない者を取り締まる役割にある総局、監正局は何もせず、勧学寮の宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通っている教団の現状は、まさしく異常事態で有ります。
私は今まで、この事を何度も総局、監正局に言ったのですが、一向に動かないのです。
(「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「続・近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zokukinnen.htm
「続②近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku2.html
「続⑥近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku62.html )<とくに2017,6,15日と7,4日記>等)参照。
御門徒の方の貴重な御意見を本願寺の総局は無視は出来ないと思います。本願寺派総長宛に意見書を(個人でもどなたかと連名でも)お出し頂けたら結構だと思います。教団の異常事態を解決するために。合掌

何度も私が申したよう、信楽氏は石泉学派の継承者であると自分では言いましたが、石泉師の考えとは全く違っているのです。石泉師は念仏(称名)は重視しましたが、称名報恩義を否定したのではありません。念仏について、所修の行体で言えば正定業、能修の用心、即ち称える人の心持ちから言えば報恩行と言っているのです。(石泉師の著『柴門玄話』に「正定業とは称念するところの法体名号自爾の徳義をいひ報恩行とは名号を称念する行者の用心をいう」とある。)信楽氏はこの点でも明らかに間違っているのです。これも分からない今の教学担当の責任者は信心不 決定 (未決定)者の集団であると私は言っているのです。合掌 (2017,9,18)



一句浮かびましたので下記します。

石泉僧叡念仏論   石泉僧叡(せきせんそうえい)の念仏論(ねんぶつろん)は

開山中興継承誠   開山(かいさん)中興(ちゅうこう)の誠(じょう)を継承(けいしょう)す。...
法体尊号正定業   法体尊号(ほったいそんごう)は正定業(しょうじょうごう)、

修者用心報恩行   修者(しゅしゃ)の用心(ようじん)は報恩行(ほうおんぎょう)なりと。
近年或人誤此意   近年(きんねん)或人(おくにん)此(こ)の意(い)を誤(ご)す。

不能解了其深精   其(そ)の深精(じんしょう)を解了(げりょう)すること能(あた)はず。
策励自力口声道   自力口声(じりきくしょう)の道(どう)を策励(さくれい)し、

嫌厭謝徳讃称名   謝徳(しゃとく)の讃称名(さんしょうみょう)を嫌厭(けんえん)す。

<意訳>
石泉僧叡師((1762-1826)の念仏論は、開山(親鸞聖人)、中興( 蓮如上人 )の意を正しく継承したものであります。法体尊号(所修の行体、称えられている名号)は正定業であり、 修者の用心(能修の用心、称えている人の心持ち)から言えば報恩行であると言われています
<石泉師のここで言う修者(能修)の用心の修者(能修)とは、真実信心の念仏者のことですから、ここで語られている念仏(称名)は信の上の念仏(称名)、信心具足(信後)の念仏(称名)についての事であります。>
所が近年石泉師の意を正しく理解しない人達(信楽氏等)がいます。その深い念仏のこころが理解できないのです。
念仏の信前信後(自力他力)の違いが全く分からず、自力の念仏を盛んに勧め、報謝の念仏は親鸞聖人の意に反するものであるとして嫌い、非難するのであります。

何度も申す事でありますが、報恩念仏(称名報恩)が親鸞聖人の意に反するという人達は信心不決定(未決定) の人であり、それに関連して宗制宗法遵守義務を放棄する人も全く同類であります。またそれが容認される教団の現状は極めて憂うべきことと思います。 合掌  (2017,9,26)

石泉師の念仏論について 師の『教行信証随聞記』により追記します。

 称名のこと。全体二義あり。(中略)此正業報恩の二義ありと云へとも。称名に異りあるかと云へば。自体唯一にして。義用二あり。此称名は真実信心の称名なり。此れ正業報恩と云るるなり。(『真宗全書』26の138)

...
ここに述べられていますように、石泉師が正業報恩(正定業、報恩行)と語っている念仏(称名)は「真実信心の念仏(称名)」であります。即ち 親鸞聖人が『正像末和讃』に

真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる(浄土真宗聖典P、607) 

と述べられている「自力の称念」(自力念仏、信前念仏)と異なる「真実信心の称名」(他力念仏、信後念仏)の事であります。信楽氏は自分が石泉師の念仏の正しい継承者であるかのよう言っていましたが、全く石泉師の念仏が分かっていなかった、「自力の称念」に一生励んだ信心不決定(未決定)の人であったことが明らかであります。それから信楽氏と同様に称名報恩義を否定したのが岡氏でありましたが、この人は信楽氏以上に念仏の分かっていない人でした。念仏には自力他力はなく、信心の有無は関係なく、カラ念仏も役者の称える念仏も全て大行であるというような、とても真宗学者とは思えないことを頻りに言っておりました。
(「宗祖における信心と念仏」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/syusoniokeru.html 参照。)
このような事で両氏のことが、1981年(昭和56年)宗会で問題になったのですが、当時の勧学寮頭は何故か両氏を擁護し、信楽氏については異義断定保留(昭和56年3月)、岡氏に対しては疑義断定保留(昭和56年10月)と回答したのみであり、具体的には何もなされることはなかったのであります。これは勧学寮頭が寛大であったと言うことにはならないと思います。職務杜撰、怠慢と言うべきであり、この人が果たして信心決定の人であったのかと疑問を感じます。(このことに関連して「続⑤近年の本願寺派教学に想う」
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html の2月5日~2月11日記に述べた。)
この頃から信心念仏についての宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通るような、現在の教団の信心不在化現象が急速に進んだように思います。 合掌 (2017,9,28)



アメリカ、カリフォルニア出身の若い(28才)ガブリエル(Gabriel Schlaefer)さんが再来日されました。親鸞聖人の教えを正しく学ぶのが目的であります。すでに日本語は上手ですが、半年間京都で日本語学校で勉強するとのことであります。西本願寺の近くに住み、毎朝本願寺の御晨朝に御参りすると言っておられます。
昨今の教団の状況は、残念なことに、国内においては教学の責任担当者までが信心正因称名報恩の意味も分からない人達の集団と成りはて、宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通るような信心不在状態となり、海外においても親鸞聖人の教えと異なる自力念仏や座禅の策励が盛んに行われているとのことであます。
このような現状でありますので、私は若いガブリエル(Gabriel Schlaefer)さんの今後の活動に大変期待をかけるのであります。きっと教団の振興、正法宣揚に貢献してもらえると思います。 合掌

(ガブリエルさんについては、...
「続③近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku3.html <2015,10,24~25記>、
 
 Face Book https://www.facebook.com/eiken.kobai <2015,12,13記>

「続④近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku4.html <2016,4,10。4,15記>
等御一見頂ければ幸甚です。)。    (2017,10、8)。

  上記についてFace book の反応。

(G氏) 南無阿弥陀仏

(Y氏) 
南無阿弥陀仏


(D氏)  南無阿弥陀仏

(F氏) 
真宗の教えが海外にもどんどん広まってほしく思います


(紅楳) 有難うございました。ガブリエルさんの活躍を期待したいと思います。合掌
     Thank you so much. I would like to expect Gabriel's success. Gassho.
   (2017,10,11)。


(F氏) 紅楳先生、こんばんは。お尋ねなのですが、「それは信心が」とお叱りを受けるかもしれませんが・・私も、救いを味わい、救いを口にしています。しかし、そうありながら、「救いと」臨終ではない、只今の 現在の救いの 味わいが 言葉や知識ではわかりそうですが、現実の心は煩悩はつきませんし、救われたいとも 思えません。救われたいと思えないとは、救いが 分かっていないからとも思います。現実の平生業成 の味わい 教えていただけないでしょうか。          (2017,10,17)。

(紅楳) 誠に有難いご質問であります。このご質問を皆さんがどんどんするようになれば、教団はきっと発展振興することでありましょう。大変残念なことに教団の責任担当者までがこの何よりも大事な問題をなおざりにし、未解決にしておりますので、教団は衰微の一途を辿っているのであります。
平生業成の世界は親鸞聖人のお言葉では「ここに久しく願海にいりて深く仏恩を知れり、至徳を報謝せんために真宗の肝要をひろうて常に不可思議の徳海を称念す。(浄土真宗聖典P,413)。蓮如上人お言葉では「往生一定御たすけ治定と存じ、このうへの称名は...
このうへの称名は御恩報謝と存じよろこびまうし候。](浄土真宗聖典P,1227)とあるものであります。煩悩具足の身のままでこの世界を頂戴するのであります。
現在の教団は責任担当者までが信心正因称名報恩の意味の分からない人達の集団になっていますが、これはまさしく平生業成の世界の分かっていない人達の集団と言えると思います。遅くなりますので、今回はこのくらいで。  合掌


(F氏) 先生、さっそくのお言葉有り難うございます。まだまだ、私には 現実の救い 言葉でない味わい 分かっておりませんので、新たな問いとして学んでいこうと思っております。また、ご指導ください。  合掌

(紅楳) 僧侶としては当然とも言えることではありますが、大変純粋な真面目なお気持ち、誠に有難く感じ入ります。
教団の僧侶全員が、先ず自身の信心決定が大事であることを熟知すれば、必ず教団は発展復興することと思います。近年教団の責任担当者(教学面、行政面)までがこれが分からず、目先の事ばかりを気にしてきたので、教団は衰微の一途を辿り続けたのであります。
平生業成とは、信心決定した平生の時に往生は定まるのであり、臨終に定まるのではないという意味であります。  
ところが近年、教学責任担当者までが信心不決定(未決定)者の集団と成り果てて、平生業成を十劫業成と思いこみ、信心不要論の十劫安心(無帰命安心、無自覚安心)の邪義が主張され、救済体験を語るものは一念覚知の異義者とされる有様であります。極めて悲嘆すべき状況であります
それから信心をえるためにはどうすればよいのか、ということについては蓮如上人が「いかに不信なりとも、聴聞を心に入れてまうさば、御慈悲にて候あひだ、信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきはまることなりと云々」(「蓮如上人御一代記聞書193、浄土真宗聖典P,1292)と言われています。これは親鸞聖人の御意にも適うことであります。ある人が信心を得るために、自力念仏の策励を頻りと言いましたが、これは親鸞聖人の御意に反することであり、所詮は信心不決定(未決定)者の謬見であります。取り敢えず。合掌

(F氏) 正式な浄土真宗の方ではないのですが、仏教をいろいろ学んで、浄土教を学んでいる方に、妙好人の行実だけをみて(聞法や善知識のことはあまり重要視しなくて)、また一遍さん(信心不信心にかかわらずという言葉)だけに憧れて、浄土教の救いは 何のとらわれもなくなった 口に称名だけして 自由になったとか、信心とか浄土からも 離れて、ただ、阿弥陀仏が仏になった時、既に救われている それを聞くだけ みたいに言う知りあいがいますが、やはり、聞法、善知識、信心が大切で、信相はあるものと、いつも思います.。

(紅楳) その通りです。一遍上人は念仏に信心不要と言っていますが、念仏を重視した人であり、臨終の念仏を強調し、臨終来迎をやかましくいった人であります。平生からの救いも言った人ではありますが、臨終業成を説いた人でもあったと私は思っています。
それから妙好人は皆長年聴聞をし、また善知識を求めた人であります。
近年、十劫安心の人達が聴聞に励むことを自力だと非難する傾向がありますが、これはとんでもない間違いであります。妙好人因幡の源左は「ただのただでも ただならず ただはきかねばもらわれぬ きけばきくほどただのただ はいのへんじもあなたから」と言っています。大変良い言葉だと思います。 合掌
    (2017,10,18)。



(紅楳) 度々申してきましたように、現在教団においては宗教教団の生命である教義信心についての宗制宗法遵守義務が公然と放棄されている有様です。(信心正因称名報恩義についてのこと)。これはまさしく教団の責任担当の方々が平生業成の実感のない人達だからだと思います。信心決定して平生業成、現生正定聚のひととなれば、当然称える念仏は信前のカラ念仏や自力念仏ではなく、仏恩を感謝する報恩念仏のひととなるのであります。
にも拘わらず、宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通るとは何とも情けないことであります。こんな信心不在体質は早急に改善しないことには、教団の発展振興を望むべきもありません。
私がこう言いますと、真宗の念仏はすべて他力回向の念仏であるから、信前信後も自力他力あるものか、お前が勝手に言うだけでそれを「自力のはからいというのだ」と言う人がいるかと思いますが(実際そう言っている人もいる)、そうではないのです。 親鸞聖人は「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」(浄土真宗聖典P、607)とも言われていますよ...うに念仏の自力他力を厳しく峻別した人であります。これは獲信の体験によって分かることなのです。例えば人が我が子を持ち親となる体験をします。その時人は我が子のかわいさを知り、そのかわいさは他の子供に対するかわいさとは全く違うことをよく知らされることと思います。
これと同じ事であります。 念仏の信前信後、自力他力の違いは獲信の体験によって知らされのであります。信心決定して平生業成、現生正定聚のひととなれば、称える念仏は信前のカラ念仏や自力念仏ではなく、仏恩を感謝する想いで称える報恩念仏となるのであります。 親鸞聖人が「釈迦・彌陀の慈悲よりぞ 願作仏心はえしめたる 信心の智慧にいりてこそ 仏恩報ずる身とはなれ(『正像末和讃』、浄土真宗聖典 P,606)と言われているところであります。
信心正因称名報恩について宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通ることは全く情けないいことでありますが、それにもまして教団の信心教学の最高責任機関である勧学寮が獲信体験のない信心不決定(未決定)者の集団と成り果て、信心正因称名報恩の意味も分からず宗制宗法遵守義務を放棄しつづけることはさらに悲歎すべきことであり、三業惑乱以上の惨状といえるでありましょう。
この度は平生業成について大変貴重な問題を提起して頂きました。このことを機縁として教団の信心不在体質が改善の方向に向かうことを心からを念ずる次第であります。
私の考えに当然反対の方もおられると思います。率直な御意見を御願い致します。
何度も申してきましたが、教団の信心不在体質の現状の改善が何より肝要と思います。 合掌
  (2017,10,19)。

 上記についての反応

(S氏) ..御聴聞
御信心
御念佛
これらが重視される事なく
軽視、無視されるようなら、
阿弥陀佛を悲しませ
嘆かせる事です。
信心正因
称名報恩
これが18願ですね。
南無阿弥陀佛


(R氏)「信巻」信楽釈に、

 この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。(信巻p.235)

とありますから信心正因というのは当たり前です。ところが、この信楽(信心)が、世間でいわれている信心と全く違うから真宗の坊さんでも解説書を眺めて右顧左眄右しているのかもです。

「安心論題」には、信心正因という名目があるのですが、現代の坊さんは「江戸時代の宗学者がつくりあげた煩瑣な教学」として敬遠しているのでしょうね。
それぞれの言葉の出拠を押さえて読むと、先人の智慧が窺えるのですが、仏教の目的である、自利利他のさとりを求めるというモチベーションを持たない真宗の坊さんには、不浄説法の資かもです。

バカは死ななきゃなおらないといいますが、死ななければ煩悩と決別できないという凡愚が浄土でさとりを開くというご法義が浄土真宗でした。
http://labo.wikidharma.org/.../%E4%BF%A1%E5%BF%83%E6%AD...

信心正因とは、浄土往生の正因ですが究極的には仏陀のさとりを得るご法義でした。
御開山は「教巻」で、

 つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。 (教巻p.135)

と、浄土真宗の「教行信証」を示して「証巻」で、

 それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。ゆゑに、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし。因、浄なるがゆゑに果また浄なり。知るべしとなり。
http://labo.wikidharma.org/.../%E9%A1%95%E6%B5%84%E5%9C...

と、「真宗の教行信証を案ずれば」と、まとめておられますが、教から証が長い(ロングスパン)ので浄土真宗の大綱という概念が解らないと、途中の「行信」に引っかかってしまうのかもです。
近頃の西洋哲学の手法を用いた浄土真宗の理解には、首肯すべき点もあるのですが、頭の悪い真宗坊主ほど世俗に迎合して本典(教行証文類)を読まないから困ったものだ。
仏教とは、自己の「存在理解の枠組み」を知るという意でもあるのだが、御開山が示して下さった信心の世界は、滅茶苦茶に難しいと思ふ。
http://blog.wikidharma.org/.../%e6%ad%bb%e3%81%ac%e3%81.../

ともあれ、fbにたむろして「聞」という「信」の世界を知らない真宗坊主は、せめて「安心論題」くらいは読んで理解して欲しいと思っていたりする。どうでもいいけど(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


紅楳)  有難うございます。私が懸念しますのは、教学の責任担当者までが平生業成も信心正因称名報恩も分からない、救済体験(獲信体験)のない信心不決定(未決定)者の集団と成り果てていることであります。こんな状態で教団の発展振興があるはずはないのであります。
折角、貴重な問題提起がなされたのでありますから、これが教団の信心不在体質改善の機縁となれば、誠に慶ばしく思います。 合掌


(R氏) 
浄土真宗のお偉いさん方が、
ご信心(=聞見)を根基とする浄土真宗の信を論ずることに躊躇しているのは、三業惑乱の後に出てきた「信心非意業説」の影響を受けて意業を語るのを忌避しているのかもです。

https://www.jstage.jst.go.jp/.../31_1_240/_article/-char/ja/

ある意味では、浄土真宗の個における「信」を語り得ない真宗の坊さんは、「意業」のはけ口として社会派仏教へ傾斜して自己のアイディンティティの崩壊を防いでいるのかもです(笑
ともあれ、近代人のもてはやす『歎異鈔』にも、「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」というのが浄土真宗でありますから、本願寺の教学の責任担当者が信心を論じえないのでは、もう教団というものは終わっているのでしょうか。

蓮如さんは「後生の一大事」という語で、北陸の大衆に「信心」の火を点けたのですが、最近の坊さんは自らに信がないから、なんまんだぶの信心を説けないのかとも思っていたりします。困ったものです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


(紅楳) 
有難うございます。これも教団の信心不在体質の改善の機縁となると思います。
非意業の問題については、私も論文「信一念と信の覚不について」(2007年)http://e-kobai424.sakura.ne.jp/shinitinen.htm に意見を述べました。論文の終わりの方に、非意業について述べている大原性実氏や普賢大円氏の論考も参照し、「即ち凡夫意業による憶念帰命(信心)ではない、名号の印現という意味で非意業というのであり、凡夫の心や意識に全く現れないという意味ではないのである。要するに非意業ということが信心決定の自覚(信の覚)を否定する意味は全くもたないのである。」と私の考えを述べています。大原氏も普賢氏も非意業と言う表現を疑問視しています。私もそう思います。信心の自覚はあります、往生一定の確信はあるのです。そんなことがあるはずはない、それは自力のはからいだ、一念覚知の異義者だ、等と言う人は「若存若亡」の信心不決定(未決定)の人と言えましょう。
因みに現勧学寮頭は「親鸞における回心について」(真宗研究第41、1997年)において、意業・非意業問題に関し「信一念を意識にかかるものと認めるような説はなく、もしそういう理解があるとすれば、それは「意業安心」として批判されるのが通例であった。」と、これについて先学は全て非意業で語ったように述べたり、源左の入信の記述を批判したり、また「浄土真宗の儀礼論」(日本仏教学会年報63、1998年)においては信前信後説の批判をしたり、その他著書の諸所に見られる真門弘願の混同等、甚だ疑問を感じさせられるのであります。合掌


(S氏) 南無阿弥陀仏

(S氏)18願の信一念では非意業でも、信後相続の報恩の分斉では、意業に浮沈し、口業にあらわれ、身業にあらわれます。


(S氏) 宗祖の三願転入は宗祖のご経験とうかがいます。

(G氏) 南無阿弥陀仏

(N氏) 本願寺教団の長は門主で、その諮問機関は勧学でありますが、勧学寮は何も発言しないのですか?

(紅楳) どんどん発言して貰いたいと思います。それが教団の信心不在体質を改善する大きな機縁となることでありましょう。 合掌 (2017,10,21)。

一句浮かびましたので下記します。

真宗念仏

真実信心称念聲   真実信心(しんじつしんじん)の称念(しょうねん)の聲(こえ)。...
是言弥陀回向名   是(これ)を弥陀回向(みだえこう)の名(みな)と言(のたま)えり。
尊号行体正定業   尊号(そんごう)の行体(ぎょうたい)は正定業(しょうじょうごう)
能修用心報恩誠   能修(のうしゅ)の用心(ようじん)は報恩(ほうおん)の誠(まこと)なり。

<意訳>
真実信心による念仏の聲を、親鸞聖人は阿弥陀仏の回向のみ名と言われます。
称えられている尊号(南无阿弥陀仏)の体の功徳で言えば、往生成仏せしめる正定業であり、
能修の用心(称える者の心持ち)を言えは、 阿弥陀仏の広大な恩徳に対する報恩(ほうおん)の誠(まこと)のみであります。

親鸞聖人の説かれた念仏は真実信心の念仏、弘願の念仏、第18願の念仏、弥陀回向の念仏、即ち信後(信心具足)の念仏、報恩の念仏であります。何度も申すことでありますが、現本願寺教団は教学の責任担当者までが信前信後の違いが分からない、獲信体験のない信心不決定(未決定)者の集団と成り果てているのであります。 信前(カラ念仏<営業念仏と言う方が正確かも知れない>)と信後(報恩念仏)の違いも分からない惨状であります。従って、信心正因称名報恩義も理解できず、宗門人なら誰もが守らねばならないはずの、しかも宗教団体の生命である信心教義についての、宗制宗法遵守義務が放棄されるという信じ難い状態が現実なのであります。こんな現状のままで教団の発展計画がいくら論じられても、従来同様、試行錯誤をいたずらに繰り返すのみで、成果はなかろうと思います。少なくとも教学の責任担当者は、真実信心の念仏者でなければならないと思います。 合掌
                    (2017、12、13)

 上記についての Face book の反応

(Y氏) 南无阿彌陀佛

(G氏) 南無阿弥陀仏

(S氏) 南無阿弥陀佛

(R氏)  能修用心報恩誠能修の用心(称える者の心持ち)を言えは、 阿弥陀仏の広大な恩徳に対する報恩(ほうおん)の誠(まこと)のみであります。
これ、いいですね。
大谷派の近代教学における自覚としての信(faith)はさておき、宗門機関で、三心一心問答の決釈である「涅槃の真因はただ信心をもつてす」p.229の信心教義を説かないのは困ったものです。
門徒としては、宗門の計画など知ったことではないのですが、行も信もない法話を説く坊主はご法義の邪魔だけするな、と思っていたりします。
ある意味では三業惑乱以来の教学は、一般の門徒の持っていた御信心の熱から無帰命安心へ退廃したのかもと思量しますが、願生帰命説を願作仏心と読み替える営みが必要なのかもです。あほみたいな、金魚掬いのような救いを説く法話に、少しく文句を言いたいですね(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://labo.wikidharma.org/.../%E9%A1%98%E7%94%9F%E5%B8...


紅楳) 御賛同有り難うございました。何度も申すことでありますが、現教団においては、信心教義の最高責任者が「 親鸞における回心について」(真宗研究、<真宗連合学会研究紀要>第41輯、1997年1月発行)、「浄土真宗における儀礼論(日本仏教学会年報<日本仏教学会西部事務所>第63号、1998年5月発行)等において述べているように、信心の世界に信前と信後があることを否定しています。これは氏に獲信体験(救済体験)のないことを意味しているのであります。
..
これでは 信前の自力念仏(真門自力念仏)と信後の他力念仏(弘願報恩念仏)の違いも当然のことながら分かるはずはありません。従って信心正因称名報恩義も理解できるはずもないのであります。宗制宗法遵守義務が果たせないのも至極当然と言えるのであります。
しかしこのように信心教義の最高責任者までが、信心不決定(未決定)者である教団の信心不在体質、退廃堕落体質の改善なしに、いくら発展振興計画を掲げたところで、所詮過去50年~60年と同様、徒な試行錯誤の繰り返しとなることかと懸念する次第であります。合掌


(S氏) もっぱらこの行につかえ、ただこの信をあがめよ(親鸞聖人)
南無阿弥陀佛
             (2017、12、18)


年始に申しましたが、お陰様で今年私は喜寿を迎えます。一句浮かびましたので下記します。合掌


平成三十戊戌年   平成三十戊戌(へいせいさんじゅう、つちのえいぬ)の年(とし)。

幸迎喜寿摂取中   幸(さいわい)に喜寿(きじゅ)を迎(むか)う、摂取(せっしゅ)の中(なか)。

...
煩悩熾盛愚鈍性   煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の愚鈍(ぐどん)の性(しょう)なれど、

余生精進法興隆   余生(よしょう)は法(ほう)の興隆(こうりゅう)に、精進(しょうじん)せん。

                   (2018,2,12)


 FBの反応

(紅楳) 有難うございました。今日まで無事生きてこられたことを大変有難く思っています。
僭越ながら「余生精進法興隆」と結びました。何度も申してきましたが、教団の教学責任担当の方々までが信心不決定(未決定)者の集団と成り果て、宗制宗法遵守義務放棄のまかり通る現状は誠に悲歎に思います。 合掌


(Y氏) 南無阿弥陀佛

(T氏) なんまんだぶ

(H氏) 南無阿彌陀仏。


本願寺新報の2018年2月10日号の、いのちの栞に歎異抄第九の「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」とある文が取り上げられている。親鸞聖人が指導者的立場をとられなかったというのは結構であるが、この文の「親鸞もこの不審ありつる」を「私(親鸞)もこの不審が今もある」と解釈するのは文法的にも間違いであり、<(『日本国語大典』第二版第一巻、二〇〇六年、六五五頁の「ありつる」の項に「(ありし)よりも近い過去にあったことを述べる言い方。等とある。> 教義的には大変な大問題である。
「親鸞もこの不審ありつる」とは「私(親鸞)もこの不審が過去にあった」と言うことであり、この唯円との対話は親鸞聖人が80歳を過ぎてからのことと考えられる.
80歳を過ぎた親鸞聖人が御自分の往生に確信のもてない若存若亡の人(あるときには往生してんずとおもひ、あるときには往生はえせじとおもふを若存若亡といふなり。<『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,587>)と言うことになるのである。
親鸞聖人を信心不決定(未決定)者にしてしまう全くとんでもない間違いなのである。
合掌...
「『歎異抄』の中心問題 」 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/tantyu.html
「浄土真宗における信前信後について」 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/shinzenshingo.html
等参照。
URL http://e-kobai424.sakura.ne.jp/

            (2018、2、20)

  FAの反応

(S氏) 南無阿弥陀佛

(M氏
喜べないことも喜ぶ関係なし
南無阿弥陀仏 ありがとうこざいます


(紅楳) 上の『宗教研究』90卷別冊(2017)
http://jpars.org/…/bu…/wp-content/uploads/2017/01/vol_90.pdf 
に掲載した論文「 浄土真宗における信前信後について」は制限字数が少ないため十分論ずることができませんでした。
「続⑤近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html
の(2017,2,5~2017,2,26記)に詳述していますので御覧頂けば幸甚です。
合掌
jpars.org
(Y氏) 南无阿彌陀佛

(G氏)南無阿弥陀仏

(D氏) Namo Amida Bu

(N氏)この 、お聖人の生き方こそ浄土真宗的ですねぇ.。 弟子と師は共に在るのであります。


     (紅楳) 弟子と共にあるのではありますが、親鸞聖人は若存若亡の人ではなく、信心決定の人でありました。合掌


(T氏)了祥師はここにおける唯円を信後の機とし、往生の信心は得ても生まれついた煩悩の足枷手きもでぬと足枷手枷かかった凡夫じゃで喜ぶこヽろの働きもうとく、急ぐこヽろの働きもでぬと、、機の深信の煩悩具足を挙げて御教化なさるが、この一章のすわりなり。・・私が今までに読んだ解説書が了祥師の意見を採用されていたために、信後の機として理解しておりました。紅楳先生の論文改めて拝読させて頂きます。南无阿弥陀仏 合掌

(紅楳) 
大事なことは自分の往生に確信をもつことができない心は、若存若亡の心であり、真実信心ではないということであります。合掌


紅楳 英顕 (Eiken Kobai)先生、ありがとうございます。
私もこの第九章の一の御指摘の部分が気になっていました。
すっきり致しました。本当に有難うこざいました。合掌

紅媒先生のFB 本文より...
" ... 歎異抄第九の「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」とある文が取り上げられている。親鸞聖人が指導者的立場をとられなかったというのは結構であるが、この文の「親鸞もこの不審ありつる」を「私(親鸞)もこの不審が今もある」と解釈するのは文法的にも間違いであり、<(『日本国語大典』第二版第一巻、二〇〇六年、六五五頁の「ありつる」の項に「(ありし)よりも近い過去にあったことを述べる言い方。等とある。> 教義的には大変な大問題である。
「親鸞もこの不審ありつる」とは「私(親鸞)もこの不審が過去にあった」と言うことであり、この唯円との対話は親鸞聖人が80歳を過ぎてからのことと考えられる.。...
       (2018、2,20)" 

   FBの反応

Y氏) 南無阿弥陀佛

(紅楳) 有難うございます。何度も申すことでありますが、教学責任担当の方々までが歎異抄第九の意味の分からない信心不決定(未決定)の集団と成り果てているのです。信心不決定(未決定)であるゆえに、念仏の信前(カラ念仏、自力念仏)と信後(他力念仏、報恩念仏)の違いが分からないのです。それで信心正因称名報恩の意味も分からず、宗制宗法遵守義務放棄という宗教教団という名前もつきかねる現状となっているのです。教団の将来を真剣に考えるなら何が一番大事なことか、答えはすでに出ていると思います。合掌
(D氏) Namo Amida Bu

 
(Q氏) 南无阿弥陀仏。