第31回 仏教漢詩の会 (2021,6,7)
憶仏生会 (仏生会に憶う)
宗祖聖人言 宗祖聖人(しゅうそしょうにん)言(のたまわ)く。
如来興世意 如来興世(にょらいこうせ)の意(い)、
唯有説本願 唯(ただ)本願(ほんがん)を説‘(と)くに有(あ)り。
皆人信是詞 皆人(みなひと)是(こ)の詞(ことば)を信(しん)ずべし。
親鸞聖人は『教行証文類』「行巻」「正信偈」に「如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言」(浄土真宗聖典p、203)と述べられています。
親鸞聖人は釈尊がこの世に出てこられた目的は、仏教の他の教えを説くのではなく、ただ弥陀の本願を説くためであったと言われるのであります。そして私たちに対し、この私(親鸞)は阿弥陀仏の本願によって真実の利益(救済、幸福)を頂くことができました。どうか皆さんも私(親鸞)と同じように、阿弥陀仏の本願を信じて真実の利益(救済、幸福)を頂いて下さい、と述べられているのであります。親鸞聖人のお心を深く頂戴しなければならないと思います。合掌
今迎傘寿日 今(いま)迎(むか)える傘寿(さんじゅ)の日(ひ)。
深憶衆人恩 深(ふか)く衆人(じゅうじん)の恩(おん)を憶(おも)う。
無明濁世内 無明(むみょう)濁世(じょくせ)の内(ない)。
念仏唯真言 念仏(ねんぶつ)唯(ただ)真言(しんごん)なり。
今満80才を迎えました。お陰様で生かされて今まで生きて参り、御厚誼を賜りました大勢の方々に深く御礼を申し上げます。
しかしながら、現実の世の中は、無明煩悩のみちみちた迷いの濁りの無常の世であります。
すべてそらごとたわごとでありますが、ただ阿弥陀様から頂いたお念仏だけが真言(真実、まこと)であります。
ここに述べます「念仏」は親鸞聖人の『正像末和讃』に「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」(『浄土真宗聖典』P,607)とあります「真実信心の称名」(他力念仏)のことであり、「自力の称念」(自力念仏)ではありません。
また蓮如上人も『御文章』(3の3)に「ただ声に出して念仏ばかりをとなふるひとはおほやうなり、それは極楽には往生せず。この念仏のいはれをよくしりたる人こそほとけにはなるべけれ。なにのようもなく、弥陀をよく信ずるこころだにも一つに定まれば、安く浄土へはまいるべきなり。(『浄土真宗聖典』P,1139)と述べられていますように、信心のない念仏(無信単称)ではだめだと言われています。このことが大変大事なことであります。浄土真宗の念仏は信心の具わっていない念仏や、称える功徳で往生したい考える自力の念仏ではなく、他力の念仏(真実信心の称名)であり、仏恩報謝の念仏であります。
それなら信心のない人(未信の人)や幼児はどんな気持ちで念仏すればよいのでしょうか、念仏をしてはいけないのでしょうか、と尋ねられることがありますが、浄土真宗のお流れを頂くものは、その人それぞれの気持ちで仏恩報謝の念仏をしたら良いであろうと思います。 合掌
2021,4,24.
ところが50年ほど前(1970年頃)、に、当時の龍谷大学の真宗学の教授であった信楽氏、岡氏等は「真実信心の称名」(他力念仏、報恩念仏)と自力の称念(カラ念仏、自力念仏)の違いが分からず、宗制教義に定められていた「信心正因称名報恩」義に反対したのであります。当然ながらこのことは問題となったのですが時の勧学寮頭桐渓氏は信楽氏、岡氏に対し「異義断定保留」、「疑義断定保留」(1981年、丁度40年前)としただけで、何もすることがなかっただけでなく、教団としてはその後両氏を種々役職につけるなど、寧ろ優遇する有様でありました。
お陰様で私も傘寿(80才)を迎え、余命幾ばくかと思われます今日、改めて申し上げておきたく思います。
率直に申しまして、1981年に信楽氏、岡氏に対し、「異義断定保留」、「疑義断定保留」として、何もしなかった当時の桐渓勧学寮頭の処置は明らかな誤りであり、教団の悲劇であったと思います。しかもそれだけでなく、寮頭自身が信心不決定(未決定)の人であったのだと思います。親鸞会問題の対処においてもそれを感じましたし、「『庄松ありのままの記』改竄断章問題」もご自分に往生一定、信心決定の想いがない(機辺の決定心を否定する)が故に生じた過ちであろうと思います。
この信心不決定(未決定)より生ずる機辺の決定心を否定する十劫安心系の謬見が稲城氏等や現勧学寮頭徳永氏に継承されているのであります。それから村上氏、内藤氏等の痴無明疑無明分別反対論も、生涯続く痴無明(煩悩妄念心)と獲信によって消滅する疑無明(本願疑惑心)の違いが分からい故に生ずるものでありますから、救済体験(獲信体験)がないが故に生じた謬見に他ならないのであります。それに両者が痴無明疑無明分別に反対ならば、何故真宗十派連合の『和訳正信偈』の「摂取(すくい)ひかり あきらけく 無明(うたがい)の闇(やみ)晴(は)去(さる)も」と無明を疑無明の意としていることに訂正を申し込まない(申し込まなかった)のでしょうか?(村上氏が御存命の時から、『和訳正信偈』は存在していた。)このことも甚だ疑問であります。
とにかく、教団の責任担当者まで信心不決定(未決定者、未安心)者の集団となり果てた、宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通る信心不在の堕落頽廃の体質のままでは、教団はただ衰微の一途を益々急速に辿るのみと思います。
とうとう私も満で80才となりましたので、もうあまり時間がないような気がします。私なりに自分の生まれ育った教団の前途を憂う気持ちから申し上げているつもりであります。合掌
上文は4年前(2017,6,15)のものであります。信楽氏の遺著『 親鸞はどこにいるのか』(2015年10月発行、法蔵館)には「今日では、過疎問題や社会構造の変化などで、地方の寺院も、都市の寺院も大きな岐路に直面しておりますが、教団当局は、いまもって何らの解決策を示しえず、自然淘汰にまかせているですが、これでは西本願寺の末寺は絶望的でしょう。いまこそ徹底した教団改革が必要でありましょう。」と書かれています。
この意見は最もであります。しかしこれを言っている信楽氏が信前の念仏(カラ念仏<僧侶なら営業念仏>、自力念仏)と信後の念仏(他力念仏、報恩念仏)との違いの全く分からない宗教体験(救済体験、獲信体験)のない信心不決定(未決定)の人であったのが大問題なのであります。そしてこれを異義断定保留(1981年)とだけして何もしなかった当時の勧学寮頭も、『庄松ありのままの記』改竄断章問題等より考察して、信楽氏と同様に信心不決定の人であったのであろうと思います。この信心不在の流れが現在の勧学寮頭にも継承され、教団の生命であるべき信心教義についての宗制宗法遵守義務が放棄されるという全くあるべからざる現状となっているのであります。こんなことでは発展振興どころか存在そのものが問われねばならないと思います。
上には書いていませんが、私は2014(平成26年)1月に勧学寮頭についての不審も監正局に問うたのですが監正局からの返事は「勧学寮頭を裁く規定はない」ということでありました。これがまた極めておかしなことであります。こんな無茶がまかり通るのであれば、最早教団の存在そのものが無意味のような気がしてなりません。合掌
(2021,6,16)。
緊急事態宣言解除で一句浮びましたので記します。(下記)
令和三年六下旬 令和三年(れいわさんねん)六(ろく)下旬(げじゅん)。
我在人生傘寿程 我(われ)人生(じんせい)傘寿(さんじゅ)の程(じょう)に在(あ)り。
漸近染病終息節 漸(ようや)く 近(ちか)づく、染病(せんびょう)終息(しゅうそく)の節(せつ)。
唯願正信念仏盛 唯(ただ)正信念仏(しょうしんねんぶつ)の盛(さか)んなることを願(ねが)う。
<意訳>
令和三(2021)年6月下旬、 緊急事態宣言が解除されました。
私も年齢を重ね、今年は傘寿(80才)となっております。
長期に亘りましたコロナ(染病)禍もワクチン接種の普及により終息に向かうことと思います。
現代教団には諸問題が山積しておりますが、コロナ(染病)禍後は親鸞聖人の教えを正しく伝道することに心掛けることが大事なことと思います。
近年教団は保身を優先し、教えを社会に受け入れられるためにはどうすべきかということに神経を使いすぎたと思います。
そのために正しい念仏の意味も分からなくなってしまい、公然と宗制宗法遵守義務放棄がまかり通るというとんでもない現象の発生ともなり、衰微の一途を辿っているのであります。
コロナ(染病)終息後は、社会状況に振り回されることなく、親鸞聖人の教え(正信念仏の教え。営業念仏、カラ念仏、自力念仏とは異なる他力報恩念仏の教え。)を正しく教え伝え
ることに尽力すべきであると思います。このことが教団復興の道であると考えます。 合掌
「近年の本願寺派教学に想う 」
e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
(2021,6,17)。
『教行信証』「行巻」には「正信念仏偈」とあり、『浄土文類聚鈔』「念仏正信偈」とあることから、親鸞聖人は念仏と信心のどちらに重点をおかれたのであろうかという議論がありますが、『尊号真像銘文』(85才作)には「正信偈」と述べられていますので(『浄土真宗聖典』P,670)、信心に重点があったと思います。また『教行信証』と『浄土文類聚鈔』とどちらが前後かという議論もありますが、『教行信証』の方が後と考えるべきだと思います。そのようなことから私がここで言います「正信念仏」は信心に重点をおいた「真実信心の称名」の意味であります。合掌
『歎異抄』においては「親鸞におきては、ただ念仏して・・・」(第二条)、「だだ念仏のみぞまことにておはします」(後序)等とありますように、「ただ念仏」が強調されています。しかしこれは信心が軽視されているのではありません。『歎異抄』後序の終わりに作者唯円は「さいはひに念仏しながら、直に報土に生まれずして、辺地にやどをとらんこと。一室の行者のなかに、信心ことなることなからんために、なくなく筆をそめてこれをしるす。なづけて『歎異抄』といふべし。外見あるべからず。(『浄土真宗聖典』P,854)と述べています。
すなわち唯円の歎異は「さいはひに念仏しながら、直に報土に生まれずして、辺地にやどをとらんこと」であったのであります。すなわち念仏は「真実信心の称名」でなければならないのであり、カラ念仏(僧侶なら営業念仏)や自力念仏であってはだめだということであったのであります。合掌
拙著『親鸞聖人の念仏論』(永田文昌堂、2018年6月刊)本論第四章第四項、P、176以下。
(2021,6,21)。
教団の教学責任担当者までが「信心正因称名報恩」義の意味も分からない信心不決定(未決定、未安心)の集団となり果て、信心教義についての宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通るようなことで、教団の将来はあるのでしょうか。
先日(2021,5,31)発行されたある宗教雑誌に「本願寺派住職が4億円横領
」と出ていましたが、正常な教団ならば、私はこの問題よりも信心教義についての宗制宗法遵守義務放棄の方がずっと大罪に値すると思います。
「近年の本願寺派教学に想う」
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm の最後に「勧学寮は、宗制に定める教義に相異する義を主張した者に対し、教諭する」(信心正因称名報恩を否定することは宗制に相異する)が定められた、新たな始まりの今こそ宗門の体質(真実信心不在)改善に取り組まねばならないと思う。甚だ不謹慎であるが、この機を逃しては宗門の再生はないように愚考するのである。(2013年12月22日)」と書きました。この気持ちも今も変わりありません。 合掌
教団の責任担当者(教学面、行政面)までが救済体験(獲信体験)のない信心不決定(未決定、未安心)者の集団となり果て、教団の生命である信心教義についての宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通ることでは教団の発展振興は不可能なことと思います。最近はSDGsということが頻りと言われているようでありますが、保身のためと言えば言い過ぎになるかも知れませんが、社会の流行に便乗することが教団の役割ではないと思います。