現世からの大きな救い
相愛女子短期大学教授 紅楳 英顕
一、はじめに
仏教は今から約二、五〇〇年前、インドの釈迦族の王子として生まれ、悟りを開かれた釈尊(仏)によって説かれた教えです。そして仏教には二つの意味があります。一つは悟りを開いて一切の苦悩を離れた仏の説いた教え、もう一つは仏に成る教えです。キリスト教やイスラム教では神は唯一であり、私たちが神に成るとは説きませんが、仏教は私たちが仏(悟りを開いたひと)に成ることを目的とした教えであります。
この仏に成る道について、自分の力で修行して現世で仏になる自力の仏教と、仏の救いの力によって、浄土(仏の国)に生まれて仏になる他力の仏教とがあります。 親鸞聖人が、ご自身が救いを得られ、私たちに勧められたのは他力の仏教であります。他力とは他人の力という意味に考えられて、頼多主義、無努力主義と誤解されることがありますが、仏教でいう他力とは仏の救いの力という意味なのであります。
二、親鸞聖人の教えの特色
親鸞聖人の教えの特色として、大きく三つのことが上げられます。@他力の強調。A悪人の救い。B現世からの救いの強調です。
@の他力の強調についてですが、親鸞聖人は御年九才の時、出家して僧侶となり、比叡山に登られて、自力の修行に励まれたのであります。二十年間比叡山で一心不乱に修行されたのですが、自分は少しも立派な修行ができないと悩まれました。このお悩みが大変尊い所であります。おそらく聖人は当時の比叡山の修行者の誰にも劣らない立派な修行ができていたに違いありません。にも拘わらず深くお悩みになったのであります。これは聖人が大変真面目な人であり、深く自分を見つめる自己内省の深い人であったからであります。誰にも劣らない立派な修行のできた人でありながら、自分は少しも修行ができていないという悩みをもたれたのであります。
そして二十九才の時、法然上人に出会い、自力の道をすてて他力の道に入ったのでありました。この他力の道は、どんな罪の深い者でも、修行のできない者でも仏の救いの力によって救われる教えでありました。
Aの悪人の救いについてですが、『歎異抄』に「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」、とありますように親鸞聖人は、善人よりも悪人の方が仏の救いの目当てであるといわれています。これは間違われますと悪を奨励することになりますが、決して悪を奨励するのではありません。ここでいう悪がどういう意味の悪であるかが、大変大事なことであります。悪にも色々な意味の悪があります。大きく分けると、法律に触れるかどうかで判断される法律的悪、人の道に反するかどうかで判断される道徳的悪、深い自己内省による宗教的立場から自己を悪人と自覚した宗教的悪の三つがあります。親鸞聖人がここでいわれる悪は、宗教的意味の悪であります。教えによる自己内省によって悪を知らされるのでありますから、悪人こそが救いの目当てということは、悪を奨励することにはならず、むしろ悪を戒めることになるのであります。
Bの現世からの救いの強調ですが、これが浄土真宗の教えの現実的意味の要となる所ですありますので、今回はここを中心に項をあらためて述べることに致します。
三、現生正定聚
浄土真宗の救いは死後のことのみのように誤解されることがありますが、これは大変な誤りであります。親鸞聖人は現世の救いを大変強調されました。今生きている現在ただ今大きな救いの中に入るのであります。
現世からの救いを述べられた親鸞聖人のお言葉は諸処にありますが、代表的なものとして『歎異抄』第一に「彌陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」とあります。すなわち私たちが阿弥陀仏の一切の生きとし生けるものを救い取って仏にしたいという願いにたすけられて、間違いなく浄土に生まれて悟りを開いて仏に成らせていただくのである、と信じて慶びと感謝の気持ちから、念仏を称えようというこころのの起こったとき、そのときに阿弥陀仏の救いの光の中におさめとられて捨てられない大きな利益を頂くのであると述べられています。この利益(救い)を私たちが頂くのは、決して死後のことではありません。現在だだ今、今生きている現世においてのことなのであります。このことを親鸞聖人は現生正定聚の位に住すると述べられています。正定聚とは、正しく定まったなかまという意味であります。すなわち悟りを開き、仏になる仲間に正しく定まったということであります。正定聚とは元来浄土でえる利益であったのですが、親鸞聖人はこれを現世の信心決定のときにえる利益であるとし、現世からの救いを強く述べられたのであります。このように阿弥陀仏の救いは現世の信心決定のときであることを述べた親鸞聖人でありましたので、そのころ浄土教で当然のことと考えられていました、命の終わるときに阿弥陀仏が迎えにきてくれるという臨終来迎を否定しました。信心決定したときに救われるのですから、あらためて命の終わるときに救いに来てもらう必要はないのであります。平安時代の最高権力者藤原道長が、臨終のときに一心不乱に阿弥陀仏のお迎え(臨終来迎)を願ったことが、伝えられていますが、当時大変重視されていた臨終来迎を否定したことはまさに画期的出来事であったとことでありましょう。現代でも「早くお迎えがきて欲しい」という言葉が使われますが、これは浄土真宗では間違いであります。また命の終わるときに苦しみがなかったよう見えますとこれを大往生といったりしますが、これも浄土真宗では全くナンセンスなことであります。このように浄土真宗においては往生の定まるのは命の終わるときの臨終ではなく、普通に生活をしている平生のときでありますので、覚如上人、存覚上人、蓮如上人は平生業成といわれています。
四、如来とひとし、彌勒におなじ
親鸞聖人は「信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ 大信心は仏性なり 仏性すなはち如来なり」(『浄土和讃』)と述べられ、また「真実信心うるゆへに すなわち定聚にいりぬれば すなはち弥勒におなじくて 無上覚をさとるなり」(『正像末和讃』)等と述べられています。即ち信心決定のひとは、現世ですでに悟りを開いた如来(仏))とひとしいのだといわれ、また次の生で仏に成ることが決まっている等覚の位の弥勒におなじといわれています。もっとも正定聚の位に入っても、現世で生きているあいだは私たちは煩悩をもったままであることには変わりはありません。しかし煩悩をもったままではありますが、仏に成ることにはっきりと定まった身にならせて頂くのであります。このことを親鸞聖人は「如来にひとし」、「彌勒におなじ」といわれ、現世からの大きな救いを強く述べられるのであります。そして「五十六億七千万 彌勒菩薩はとしをへん まことの信心うるひとは このたびさとりをひらくべし」(『正像末和讃』)と、五十六億七千万年後にしか仏になれない彌勒菩薩より早く、現世の因縁の終わるときに仏になれるのであると真実信心のひとの利益を強調されているのであります。
五、生きてよし、死してよし
浄土真宗の深い信仰をもった人の言葉に「生きてよし、死してよし」という言葉があります。前に述べましたように、現世からの大きな救いに恵まれるのが浄土真宗であります。浄土真宗の篤信者一茶の句に「涼しやな 彌陀成仏のこのかたは」とあります。暑い夏の真っ盛りでも何と涼しくここち良いことであろうか、阿弥陀さまが私を救うために仏様に成って下さった御恩をおもえば、と詠んでいます。これが「生きてよし」の世界であります。今すでに大きな救いの中にある慶びを述べたものであります。またこれも一茶の句といわれているものですが「かたつむり どこで死んでも我が家かな」とあります。かたつむりはどこで死んでも、自分の家の中であるから何の心配もいらないのと同様に、すでに阿弥陀様の救いの中にある我が身であるからいつ何処で死を迎えることになっても、何の心配もない、と詠んでいるのです。これが「死してよし」の世界であります。人類史上最大の権力者といえます秦の始皇帝が、自分の死を恐れ必死で不老長寿の妙薬を探し、家来の徐福を日本に派遣したという話は余りにも有名ですが、富と権力を欲しいままにした始皇帝といえども「死してよし」の世界を持つことはできなかったのであります。
「生きてよし、死してよし」の世界はまさに浄土真宗の信心によってこそ恵まれるものであると思います。
(東本願寺報、平成14年9月10日)