「続⑭近年の本願寺派教学に想う」

これは「続⑬近年の本願寺派教学に想う」 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku13.html  に続くものです。


 

一句浮かびましたので記します。(下記) 

近年教義安心紊    近年(きんねん)教義安心(きょうぎあんじん)は紊(みだ)る。

念仏真仮無弁違    念仏(ねんぶつ)の真仮(しんけ)<註>、違(ちがい)を弁(わきまうる)ことなし

慶讃法要実間近    慶讃法要(きょうさんほうよう)実(まこと)に間近(まじか)。

応仰祖師崇高希     応(まさ)に仰(あおぐべし)、祖師(そし)の崇高(すうこう)なる希(ねがい)を。 

註、真実の念仏→ 18願の他力念仏、弘願念仏。
  仮の念仏(方便の念仏)→ 19願の要門自力念仏(万行随一)、20願の真門自力念仏(万行出過)
   

<意訳>、
近年、教団においては、教義や安心がみだれております。
念仏の真仮、他力念仏(18願の念仏)と自力念仏(19願、20願の念仏)の違いが分からないような状態であります。親鸞聖人御誕生850年、立教開宗800年の慶讃法要は間近か(4年後)となっております。
真実信心の念仏(他力念仏)を説かれた祖師(親鸞聖人)の、教えと御心を深く仰がせて頂きましょう。合掌  (2019,6,26)。

6月22日記に関連する事ですが、念仏の真仮の違い(自力念仏と他力念仏<報恩念仏>)を弁えず、宗制宗法遵守義務を平然と放棄する人たちが、念仏者の社会的実践を論ずる事に、いかほどの意味があるのだろうかと,甚だ疑問を感ずる次第であります。  合掌 (2019,6,28)。



『中外日報』(2019年7月12日、7月17日)に「浄土真宗本願寺派石上総長に聞く㊤㊦」とありました。「社会的実践強調の意味」、「念仏者にふさわしい貢献」等について述べられています。
総長は「2008(平成20年)に全文改正された本願寺派宗制の前文に「本宗門は、その教えによって、本願名号を聞信し念仏する人々の同朋教団であり、あらゆる人々に阿弥陀如来の智慧と慈悲を伝え、もって自他共に心豊かに生きることのできる社会の実現に貢献する」と明示された理念を踏まえたお心と思います。
本願寺はお念仏を頂くことを基本とする同朋教団であって、社会運動団体ではありません」と言われています。ここの「本願寺はお念仏を頂くことを基本とする同朋教団であって、社会運動団体ではありません」には私は全く同感であります。是非この事を教団の最重要課題として行政の推進をお願いしたく思います。私が懸念するのは教団の現状はそれと異なる事であります。2008(平成20年)に全文改正さた本願寺派宗制の第三章 教義には以前から定められていた「信心正因称名報恩」と記されており、しかもこの度新たに制定された(2012<平成24年>4月1日施行) 宗法第59条3に「勧学寮は、宗制に定める教義に相異する義を主張した者に対し、教諭する。」とある条項が一切守られていないのであります。教団の教学の最高責任機関である勧学寮が教義安心、念仏についての宗制制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通っているようなことで、念仏が正しく教団にひろまることは到底考えられない事であります。
7月12日の記事に「ご消息と共に「念仏者の生き方」は(教学担当の)勧学寮も同意していることが分かります。」とありますが、ここにわざわざ「(教学担当の)勧学寮も同意して」とありますのは、宗制宗法遵守義務放棄の勧学寮に若干の疑念があるからでしょうか。もしそうであるなら直ちに処置をなすべきだと思います。念仏についての宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通るようなことで、正しい念仏がひろまることは到底考えられないことであります。

ついでに述べますが、村上速水氏や内藤知康氏の主張する無明について痴無明、疑無明の二義を語る事に反対する説に、本願寺派当局が賛成するのであれば、早急に真宗教団連合制定の『和訳正信偈』の改正を提案すべきであります。もし両氏の説に賛成しないのであれば、これも二義を語ることに内藤氏が反対の説を述べている浄土真宗本願寺派、2012年8月31日発行(本願寺派の全寺院に配布されている。)の『教行信証』の研究 第一巻、『顕浄土真実教行証文類』解説論集、を早急に回収すべきであります。そこの第二章「行文類の諸問題(p、110以下)に、二義を語ることに反対する意見が述べられています。
勧学寮の宗制宗法遵守義務は公然と放棄され、直接信心に関わる無明義についても極めて杜撰であるのが教団の現状であります。
教義信心念仏は教団の生命であります。このようなことで教団の発展振興は到底望めない事と愚考する次第です。合掌
「続⑤近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku5.html (2017,4,29記)等、参照。  (2019,7、19)。

『正像末和讃』に「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,607)とありますように、念仏の声さえ聞こえれば、それが全て正しい念仏(真実信心の称名、他力念仏、報恩念仏)であるとは限らないのであり、正しくない念仏(自力の称念、自力念仏、カラ念仏)の場合もある(多い)のであります。
教団当局の方々は 「本願寺はお念仏を頂くことを基本とする同朋教団であって、社会運動団体ではありません」と御認識下さるのであれば、よくよくここの所の御考慮をお願い申し上げます。宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通るような現状では、親鸞聖人の説かれる正しい念仏(真実信心の称名、他力念仏、報恩念仏)がよりひろまる可能性は皆無のように私には思われます。
尚、痴無明疑無明については「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
近年の本願寺派教学に想う、追加 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnentsui.htm に書いています。  合掌 (2019,7,20)。


また蓮如上人は『御文章』3の2等に「されば世間に沙汰するところの念仏といふは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、たすかるようにみなひとおもへり。それはおぼつかなきことなり。」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,1137)と無信単称の念仏(信心のない念仏)は正しくないと誡めています。
このように親鸞聖人も蓮如上人も信心を大事にされたのであり、声さえあれば正しい念仏とは言われてはいないのであります。
それを昨今では教学担当責任者までが信前の念仏(自力念仏、カラ念仏)と信後の念仏(他力念仏、報恩念仏)の違いの分からない、信心不決定(未決定、未安心)者の集団と成り果て、国で言えば憲法法律を守らない、宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通る、誠に常軌を逸した有様であります。このような現状で教団の振興発展が到底あるはずはありません。
教団の最高責任者である当局の方々には、何はさておき、この様な信心不在の、しかも全く無秩序な教団体質に早急に幕を下ろす事を念願致します。  合掌
  (2019,7,25)。



「中外日報(2019,8,23)の第10面の「浄土真宗本願寺派」の欄に、下川宗会議員が宗門総合振興計画推進会議(全体会)で「ご開祖様が立教開宗されたということは世の中に浄土真宗の念仏を明らかにされたということ。現代の私たちは果たしてその立場を正しく受け止めているのでしょうか。他宗の念仏も浄土真宗の念仏も分からなくなっているのが現状ではないでしょうか」と呼びかけたと書かれています。宗会議員からこのような発言がなされたことは大変結構な事だと思います。
何度も述べたことでありますが、近年教団の教義安心は乱れ形骸化し、勧学寮も念仏の信前(自力念仏、真門念仏、カラ念仏)と信後(他力念仏、弘願念仏、報恩念仏)の違いの分からない信心不決定(未決定、未安心)者の集団と成り果てているのであります。従って信心正因称名報恩の意味も分からず、勧学寮が宗制宗法遵守義務放棄すると言う、国で言えば憲法法律を無視し、守らないと言うとんでもない状態となり、しかもこれが公然とまかり通っているのが現教団の惨状であります。「他宗の念仏も浄土真宗の念仏も分からなくなっているのが現状ではないでしょうか」とありますが、まさにそのとおりだと思います。親鸞聖人の『教行信証』御撰述の年を以て立教開宗の年とするのでありますが、親鸞聖人の『教行信証』御撰述の目的は自力真門念仏を峻別し他力弘願念仏(報恩念仏)の開顕にあったのでありますから、宗制宗法遵守義務放棄の教団の現状は親鸞聖人の立教開宗の御意に全く反する事であります。何を差し置いても直ちにこの信心不在の教団体質の改善が緊急課題だと思います。
それからこれも前から申しておりますように、村上速水氏や内藤知康氏の言う痴無明疑無明反対論は間違いだと思います。教団が両氏の見解を正しいと思うならば早急に真宗教団連合制定の『和訳正信偈』の改正を提案すべきであります。もし両氏の説に賛成しないのであれば、これも二義を語ることに内藤氏が反対の説を述べている浄土真宗本願寺派、2012年8月31日発行(本願寺派の全寺院に配布されている。)の『教行信証』の研究 第一巻、『顕浄土真実教行証文類』解説論集、を早急に回収すべきであります。そこの第二章「行文類の諸問題(p、110以下)に、二義を語ることに反対する意見が述べられています。
勧学寮の宗制宗法遵守義務は公然と放棄され、直接信心に関わる無明義についても極めて杜撰であるのが教団の現状であります。
このようなことで教団の発展振興は期待できない事であり、折角の慶讃法要の意味も空しく感じられる次第であります。合掌

「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「近年の本願寺派教学に想う、追加 」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnentsui.htm
「続②近年の本願寺派教学に想う」
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku2.html
「続③近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku3.html
等、参照。  (2019,8,25)。

親鸞聖人の『教行信証』ご撰述の目的の一として「真仮の分斎を分別せんがため」と言われていますが、私は念仏の中での自力(信前念仏、真門念仏)と他力(信後念仏、弘願念仏)の分別が大きな課題であったと思います。そして真門念仏には仏恩を報ずる心はなく、弘願念仏は仏恩報ずる思いのある念仏なのであります。
従って信心正因称名報恩の意味の分からない宗制宗法遵守義務放棄を公然と行う人達には、親鸞聖人の『教行信証』ご撰述の目的、立教開宗の御心は、全くお分かりでないと言う事になります。
それから、勧学寮の極めて無責任不誠実な態度は宗制宗法遵守義務放棄のみならず、下川議員の勧学寮頭宛ての公開質問状に対して対応、寺院住職の勧学寮に対しての質問状に対しての対応等、諸所に見られるのでありますが、この点につきましても、宗会議員の方々はじめ教団関係者の全員で、教団の将来を真剣に考える必要があると思います。そうでなければ折角の慶讃法要も空しくなるのではないかと懸念する次第であります。  合掌

「続⑪近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku11.html
「続⑫近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku12.html
4
   *勧学寮の応対問題について、下川氏に関しては上記「続⑪」、「続⑫」の諸所に出ていますが、寺院住職への対応問題については「続⑪」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku11.html の(2018,11,9)~(2018,11,12)に記されています。

信心正因称名報恩の意味の分からない人は、親鸞聖人の『教行信証』御撰述の御心も分からない事でありましょう。従って立教開宗の御心も恐らく分からない事であろうと思われます。立教開宗800年の慶讃法要もこんな状態でいいものかと憂慮致します。 合掌  ( 2019,8,26)。


思えば信楽氏、岡氏が中心となり、宗制教義に定められていた信心正因称名報恩義を批判し、教団改革運動をはじめたのが1971年(昭和46年)で、奇しくも50年前の親鸞聖人御誕生800年、立教開宗750年の慶讃法要(1973年<昭和48>)の二年前の事でありました。そして信楽氏、岡氏の主張に対し当時の勧学寮が「異義断定保留、疑義断定保留」として、何もしなかったのが、1981年(昭和56)年の事でありました。それから2012(平成24)4月1日施行の宗法第59条3に「勧学寮は、宗制に定める教義に相異する義を主張した者に対し、教諭する」と定められたのでありますが、何もなされない儘であります。
要するに親鸞聖人の『教行信証』御撰述(立教開宗)の御意は自力真門念仏を峻別して他力弘願念仏を開顕する(信心正因称名報恩義の顕彰)事であったと言えると思われます。信心正因称名報恩義を否定したり、それを庇ったり、宗制宗法遵守義務放棄を公然と行ったり、またそれを容認する人達は、全て親鸞聖人の『教行信証』御撰述(立教開宗)の御意のお分かりでない人であろうと思います。親鸞聖人御誕生850年、立教開宗800年の慶讃大法要を間近に控えた今、深く思慮すべき事と思います。 合掌 (2019,8,29)。



親鸞聖人は『正像末和讃』に「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけて ぞ 自力の称念きらはるる」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,607)と述べられています。
ここの「真実信心の称名」が他力回向の(弘願他力念仏、18願の念仏)であり、衆生の心持ちでいえば報恩の念仏であります。そしてここの「自力の称念」が、自力念仏(真門自力念仏)、20願の念仏であります。弘願他力念仏を説かれ、真門自力念仏を峻別し、きらわれたのが親鸞聖人であったのであります。称名報恩義を否定する人は、このことが分かっていない、救済体験(獲信体験)のない信心不決定(未決定、未安心)の人と言って差し支えないのであります。にも拘らず長年にわたり、信心正因称名報恩義否定者を容認支持し続けた勧学寮・教団当局等の信心不在体質は、何よりも早急に改善されるべきだと思います。合掌
「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「続②近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku2.html
「続⑪近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku11.html 参照。 (2019,9、26)。

上記の「真実信心の称名」(弘願他力念仏、18願の念仏)と「自力の称念」(真門自力念仏、20願の念仏)の違いが分からず、信心正因称名報恩義を否定する人は、信心不決定(未決定、未安心)の人と言って過言ではないと思っています。
教団の教学責任担当者までが信心正因称名報恩義の分からない、宗制宗法遵守義務放棄の信心不決定(未決定、未安心)の人の集団と成り果て、またそれが公然とまかり通る教団の信心不在の現状は、誠に悲歎すべき事と思います。
「真実信心の称名」と「自力の称念」の違いが分からず、信心正因称名報恩義を否定し、「自力の称念」に励むこと(自力念仏策励)を主張する事が、如何に間違いであるか(親鸞聖人の教えに反することであるか)については、拙著『親鸞聖人の念仏論』(永田文昌堂、2018,6)、第五章 現代における念仏論に関連する諸問題(p、234以下)に論述しています。合掌 (2019,9,27)。



信心正因称名報恩義を否定する人は信心不決定(未決定、未安心)の人であり、現在は教団の教学責任担当者までが、そうなり果てている極めて憂慮すべき事については再三述べましたが、これと同様に十劫正覚の昔からすでに往生が定まっているように考えて、聴聞や信心を軽視する十劫安心(無帰命安心)の傾向も歎かわしい事であります。
三業惑乱終結時に出された『御裁断御書』(1806年)には、龍養等の「十劫安心」と三業派の「三業帰命、一念覚知」の両方が異義として裁断されたのでありますが、何故か現在では「十劫安心」は問題とされず、「三業帰命、一念覚知」のみが問題とされているのであります。このことは『浄土真宗聖典(注釈版』(1988年発行。P、1412)の御裁断御書 解説に

第二段において、三業帰命説を異義とし、信決定の年月の覚不を論ずることのあやまりであることを指摘される。

とあるのみであり、十劫安心も異義とされたことについては一切述べられてないのであります。1988年頃、教団の教学責任担当者には十劫安心(無帰命安心)を異義とする考えがなかったのでありましょう。これに関連することでありますが、2002年に勧学寮編集によって出版された『新編安心論題綱要』では、それ以前にはありました十劫安心の項が「現在では必要度が薄れたと思慮される」<序>と云う理由で省かれているのです。これは当時(現代)の教学責任担当者が、十劫の昔から既に救われているのだから、聴聞や信心は不要であるとする考えが、間違いであることが分からない人達という事であり、信心正因称名報恩義についての宗制宗法遵守義務放棄と同様、極めて重大問題であると思います。 合掌

「続②近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku2.html 2015,2,7記。
「続⑪近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku11.html
拙著『親鸞聖人の念仏論』序論第二章 三業惑乱騒動(永田文昌堂、2018、6.P、7以下。)。等参照
 (2019、10、7)。


『御裁断御書』に「また三業をいめるまま、たのむことばをきらひ」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,1414)とある文が、十劫安心(無帰命安心)を誤りと裁断した言葉であります。 合掌 (2019、10,9)。



ある本願寺派に御縁の深い方(A氏)より、次のようなメールを頂きました。

 謹啓 慈光照護のもと、和上様におかれましては、ますますご清栄にてお過ごしの事と存じあげます。
突然のお便り、ご無礼をお許しください。
 正意安心のご質問ができる先生が紅楳和上様しかおられないと思いまして、思い切って
ご質問をさせていただいきました。
内容は 御開山聖人は三願転入の御文の最後に「ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。」

と仰せになっておられますが、私はこの部分が、信心正因、称名報恩の釈義をあらわしていると思うのです。
恒常に不可思議の徳海を称念す。

とあるのは、不可思議の徳海とは功徳宝海のことを指し、恒常とは憶念の心が、仏力によって相続していることを表白されているのではないかと承っているのですが、いかがでしょうか。
私は第17願の大行は必ず信心の具したものでなければならないと、考えているのですが
その根拠になるのは憶念相続の心から、報恩感謝の御念仏となると御領解させていただいているからです。
御開山聖人は阿弥陀様に帰命した一念の後、信後の相続として阿弥陀様はこの私に憶念の信心から、つねに仏恩を報ずるおもいまでご回向になり
御恩報謝の御念仏をお勧めくださったと御領解することは、間違いかどうか、御教示を願えればと思いご質問いたしました。
お時間の許す時で結構ですので、ご連絡をいただければ、幸いです。

南無阿弥陀仏

A 拝

A   様

ご丁寧にありがとうございます。大変結構な御領解だと思います。ただ「私は第17願の大行は必ず信心の具したものでなければならないと、考えているのですが」とあります「第17願の大行は」は「行巻出体釈の、大行とは无碍光如来の名を称するなりとある大行は」と言う方がよいと思います。これなら衆生の念仏(称名)の意味になりますが、「第17願の大行」と言えば、諸仏の称する名号(諸仏が讃嘆する弥陀の名号)の意味になります。
信心正因称名報恩義を述べられる事は、誠に結構な事と思います。御承知の事と思いますが、近年本願寺派教団でこれが乱れていますことを、私は大変残念に思っています。取り敢えず御返信まで。

合掌

紅楳英顕

紅楳和上様

懇ろなご教化を賜わり、深くお礼申し上げます。
第17願は諸仏の讃嘆の大行(法体の名号)と窺がうべきということで、宜しいのでしょうか。
先日、和上様の『親鸞聖人の念仏論』を購入させていただきまして、報恩行の詳細を和上様の御文から窺がいたいと存じております。
大恩のある最近のご本山で、一部の未信の僧侶の影響か、能称立信を標榜する人が段々増えてきているのではないかと非常に危機感を持っています。
紅楳和上様のご活躍にますます期待いたします。
この度は本当にありがとうございました。

南無阿弥陀仏

A   拝

A   様

拙著をご購入頂きました由、有り難うございました。
「第17願は諸仏の讃嘆行の大行(法体の名号)」と頂いて結構と思います。実は信心正因称名報恩を否定した一人の岡氏が、信心のない念仏も大行であると主張して、「17願の念仏」という語を使ったのであります。このことは拙著『親鸞聖人の念仏論』の第四章第三項 真宗大行論―第十七願の念仏についての疑問(p、152以下)に述べています。冒頭の「近年ある論者」が信楽氏と共には信心正因称名報恩義を否定した当時龍谷大学真宗学の教授であった岡氏のことであります。まさにとんでもない出来事であります。
これに関しましては、私のHP http://e-kobai424.sakura.ne.jp/ の第2面「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm や Face book https://www.facebook.com/eiken.kobai に述べていますので、ご覧頂ければと思います。

合掌

紅楳英顕

紅楳和上様

誠に私のようなものに、心のこもったご対応をいただきまして、重ね重ね御礼申しあげます。
和上様のHPを一通り拝見させていただきました。
またご著書の152Pからも拝読をさせていただきました。
和上様のご見識に敬服いたしますとともに、一つ一つのご意見ご尤もと存じます。特に、疑無明、痴無明の件につきましては、私も考えを改めて整理させていただきました。
誠にありがとうございます。
これは私の私見であり、畏れながら申しあげますれば
岡氏、信楽氏の主張の根底には中井玄道師の『異安心の種々相』に記載されている、5、4 能行立信説の中にある即ち第18願は名号を称ふるものを往生せしむるの本願であると信ずるのが信心であるとする。と指摘されている内容と酷似しているように見受けられます。
この行信関係の異安心は非常にたてわけをつけるのが難しい内容ではあると思います。
和上様のご意見は如何でしようか。
私はこの異義には根本的な問題があると思います。
一つはご信心は仏性であり、如来様より回向される相状であるにもかかわらず、この異義は自心建立の批判を免れることはできません。
そもそも本願を信じ念仏申すということは、阿弥陀様に帰命するところに回向される相状である、というのがご常教であるはずです。
蓮如上人や信称報恩を否定する人は、この能回向の相状という視点が全く欠けているように見受けられると考えますが、如何でしょうか。
私は今般の病根はここにあるように思えて仕方がないのです。

南無阿弥陀仏

A  拝

A  様
信心正因称名報恩義批判については、色々論ずる事が出来ると思いますが、私の考えはHPやFace bookに述べていますように、この人たちは宗教体験(救済体験、獲信体験)のない信心不決定(未決定)の人だと思っています。

合掌

紅楳英顕

(2019,10,13)
現教団の信心不在体質を憂慮されたAさんの御意見、御質問は大変貴重なものと思います。
何度も申すことですが、教学担当責任者までが信心正因称名報恩義の意味も分からず。宗制宗法遵守義務放棄は公然とまかり通り、それに加えて十劫安心(無帰命安心)、痴無明疑無明無分別等の謬見が横行する信心不在体質の現状の儘では、教団はただ衰微の一途を辿るのみであろうと思います。早急の抜本的体質改善がなされるべきであります。 合掌
 (2019,10,13)。



ある御法義に御熱心な方(B氏)より、下記のメールを頂きました。

紅楳英顕和上様

慈光照護のもと、御恩報尽に益々お過ごしのこととお慶び申しあげます。

 和上様のご著書を拝読いたしまして、私自身のいただいているところを
確認したいと思いご連絡をさせていただきます。

 また、お時間の許す時で結構でございますので、お返事を賜れば幸いです。


内容は

ご当流は

1、お称名は、衆生の上から言えば
信前、信後に関わらず全て、報恩行であって、一切の称功を認めない

2、お称名は、仏の側から窺えば、一声 の上に決定往生の定まる業因であり、そのお称名は
  仏の願力によって、回向されるすがたである

3、ご信心もお念仏も阿弥陀様から回向されるすがたであり
その回向される相状を示されたのが
六字釈義である。
帰命するところから発願回向と
信行次第(信が先、行が後)で能回向の相状が説かれている。

以上であります。

私の御領解に思い違いや、間違いがあれば、忌憚なくご指摘をいただきたいと思います。

何卒よろしくお願いします。

B 拝


B 様

日々、法味愛楽に御精進の由、大慶に存じます。《》で私見を加えさせて頂きます。

1、お称名は、衆生の上から言えば
信前、信後に関わらず全て、報恩行であって、一切の称功を認めない

2、お称名は、仏の側から窺えば、一声 の上に決定往生の定まる業因であり、《信後の一声および相続の念仏》は仏の願力によって、回向されるすがたである

3、ご信心もお念仏も阿弥陀様から回向されるすがたであり、その回向される相状を示されたのが 六字釈義である。帰命するところから発願回向と信行次第(信が先、行が後)で《阿弥陀様の》能回向の相状が説かれている。

以上、取り敢えず、御返信いたします。

合掌
紅楳英顕


紅楳英顕和上様

お返事を賜りまして、誠にありがとうございました。

私が能回向の相状にこだわる理由は、私の信体験によるものです。

今回のお返事が、まさに自分の御領解と符合いたしまして、非常に慶んでおります。

信心決定の後の御称名が、阿弥陀様のおはたらきそのものであるということは

信心決定したものであれば、理屈抜きで理解できることですが、これを説明する
となると、困難を極めます。

それを言い表して下さっているのが、今回のお返事になるかなと思っています。阿弥陀様からのご信心の相状を窺いますに、和上様の『親鸞聖人の念仏論』の39頁から40頁にある

「即ち凡夫意業による憶念帰命(信心)ではない、名号の印現という意味で非意業という」

という言葉も改めてありがたく受け止めさせていただきました。

この度は本当にありがとうございました。

南無阿弥陀仏

B 拝

上記は大変結構な内容であると思います。特にメールの中での

<信心決定の後の御称名が、阿弥陀様のおはたらきそのものであるということは
信心決定したものであれば、理屈抜きで理解できることですが、これを説明する
となると、困難を極めます。それを言い表して下さっているのが、今回のお返事になるかなと思っています。阿弥陀様からのご信心の相状を窺いますに、和上様の『親鸞聖人の念仏論』の39頁から40頁にある「即ち凡夫意業による憶念帰命(信心)ではない、名号の印現という意味で非意業という」という言葉も改めてありがたく受け止めさせていただきました。>

とある所が特に重要な事であります。
何度も申したことでありますが、信心正因称名報恩義の分からない人が信前信後の称名の違いの分からない、報恩念仏の分からない、信心決定していない、宗制宗法遵守義務放棄を公然とする人達なのであります。
このような信心不決定(未決定、未安心)の人達が現教団の教学責任担当者である事が教団の大変な悲劇なのであります。これは非意業の問題も同じ事であります。信心不決定(未決定、未安心)者の謬見者は、他力回向の信心であるから機辺には何の自覚も変化もないものと思い込み、十劫の昔から助かっていると考える十劫安心(無帰命安心)と同類の無自覚安心の主張になるのであります。教学担当責任者までが、そうなっているのが、現教団の惨状なのであります。こんな状態の儘で教団の発展振興は望めない事と思考する次第です。合掌
「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm
「続②近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku2.html 等 参照


( H氏) お称名は お念仏 南無阿弥陀仏でありますね その南無阿弥陀仏は 阿弥陀さまのお喚び声 と 聞かせて もらう も 間違いではありませんね??

(紅楳) 「我となえ我きくなれど南无阿弥陀 つれていくぞの親の呼び声」という言葉があります。これは信の上で言える言葉であります。「行巻」六字釈の「南无の言は帰命なり・・・本願召喚の勅命なり」とありますのも、他力回向の名号の功徳を述べているのでありますから、衆生の上から言えば、信心具足の念仏の信の上の念仏(信後の念仏)であります。信前念仏、カラ念仏は正しく言えば呼び声とは言われません。近年教団の中では、教学の担当責任者までがこれが分からず、役者の念仏や鸚鵡の念仏も大行だと言う人がおりましたが、とんでもない間違いであります。 合掌


<信心決定の後の御称名が、阿弥陀様のおはたらきそのものであるということは信心決定したものであれば、理屈抜きで理解できることですが、これを説明するとなると、困難を極めます>
とありますが、これが極めて重要な事であります。現教団で教学担当責任者の宗制宗法遵守義務放棄(国で言えば、憲法法律を守らない事)がまかり通る信心不在の無秩序教団と成り果てているのは、責任担当者に宗教体験(救済体験、獲信体験)がないからであろうと思います。(信心正因称名報恩問題だけでなく、痴無明疑無明二義反対、十劫安心<無帰命安心、無自覚安心>も同じ)。何度か申しましたが、我が子を持つ体験をすれば、誰に教えられなくとも我が子の可愛さと他人の子の可愛さの違いははっきり分かります。それと同じことであって、宗教体験(救済体験、獲信体験)をすれば、信前念仏(自力念仏、カラ念仏<営業念仏>)と信後念仏(他力念仏、報恩念仏)の違いもおのずと分かり、煩悩具足の身の儘で本願疑惑の心がなくなる事から、痴無明と疑無明の違い、往生一定の安堵心が生ずることから、十劫安心<無帰命安心、無自覚安心>が間違いであることもおのずと分かるのであります。しかし体験なしに分かる事は甚だ難しい事と思われます。教学責任担当者までが信心不決定者の集団と成り果てた現教団の悲劇はここにあると思いますが、この問題の解決がなされない限り、発展振興はあり得ないと思います。 合掌
 (2019,11,7)

教団の責任担当者は信心決定の人であるべきだと思います。(プラトンの言う哲人政治)。宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通るような信心不在体質の現状(衆愚政治)では、私の知る過去50~60年の経緯からみて、発展振興の可能性はないように思われます。合掌 「続⑪近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku11.html
「続⑬近年の本願寺派教学に想う」 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku13.html 参照  (2019,11,12)。


これは「続⑮近年の本願寺派教学に想う」、http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku15.html に続きます。