仏教をいかに学ぶかー真宗学の場合ー
                       紅楳英顕              (相愛学園) 
   はじめに

 仏教を学ぶということは、単なる学問・研究であってはならない。実際に世に有益なるもの・世を救うものでなければならない。特にかっては宗乗といわれていた一宗の教義を学ぶ宗学においてをやである。私にとって宗学は真宗学であるが、このことが忘れられてはならないと思う。
真宗学の方向について、近代教学(大谷派)、現代教学(本願寺派)等と叫ばれて既に久しくなるが、あまり成果はみられない。その問題点を考慮しながら、真の真宗学とは何かを論じたいと思う。          

   一、親鸞・蓮如の信心決定(回心)について
  親鸞は『教行信証』「化土巻」に
  然るに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行  を棄てて本願に帰す。(真聖全二の二〇  二)
と、自分の信心決定(回心)の体験を述べている。親鸞の第十八願転入の時は何時であるかについては、諸論があるが、私はここに親鸞自身が述べている建仁辛酉の暦、即ち親鸞二十九才の時だと考える①。この時親鸞は「往生一定の確信」を得たのであり、この確信はその後聊かも揺らぐことはなかったのである。そして九〇才に至るまでの旺盛な伝道活動(救済活動)のエネルギーはこの時から生じたものである②。
 『教行信証』初めの「総序」に親鸞は
  噫、弘誓の強縁多生にも値ひく、真実の浄信億劫にも獲し、遇たま行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。(中略)爰に愚禿釈  の親鸞、慶ばしい哉、西蕃月支の聖典、東夏日域の師釈    に遇い難くして今遇うことを得たり、聞き難くして已に聞くことを得たり。真宗の教・行・証を敬信して特に如来の恩徳深きことを知んぬ。(真聖全二の一)
と述べ、終わりの「後序」には
   慶ばしい哉、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。(中略)唯仏恩の深きことを念じて人倫の嘲を恥ず。若し斯の書を見聞せん者の、信順を因と為し、疑謗を縁と為て、   信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕わさんと。(真聖全二の二  〇三)
と述べている。いうまでもないことであるが、親鸞は自分自身が本願の救いの中に入り、それに依って生ずる慶びと仏恩報謝の念からこの『教行信証』を著述しているのである。その仏恩報謝の念とは自分自身が信心決定の身となり、往生一定・現生正定聚の身となったことに対する仏への感謝の念と、『浄土和讃』には
  仏慧功徳をほめしめて 十方の有縁にきかしめん 信心すでにえんひとは つねに仏恩報ずべし(真聖全二の四九一)
とあり、『正像末和讃』には
  他力の信をえんひとは 仏恩報ぜんためにとて 如来二種の回向を 十方にひとしく ひろむべし(真聖全二の五二六)
等とある他者に教えを伝えひろめること(伝道・救済活動)とがあるのである。
 宗学(真宗学)は「世に有益なるもの・世を救うものでなければならない」ということは最初に述べたが、親鸞は右の『教行信証』、『和讃』からも窺えるように信心決定 (回心)の身に、なってから伝道・救済活動に励んだのである。信心決定(回心)の身になること、これが肝心なのである。
 蓮如は『御一代記聞書』九三に
  信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われはものをもたずしてひとにものをとらすべきというの心なり、人承引あるべからずと、前住上人申さると  順誓に仰せられ候き。「  自身教人信」と候時は、まづ我が信心決定して、人にも教えて仏恩になるとのことに候。自身の安心決定して教えるは、すなはち「大悲伝普化」③の道理なる由、同く仰られ候。(真聖  全三の五五五)
と述べている。この文は伝道・救済活動をするには、自分自身が信心決定 (回心)の身でなければならないことを端的に述べた文である。親鸞を共産革命主義者のように理解して、蓮如は親鸞の教えを歪めたというような意見や、また蓮如は親鸞と異なり回心がなかったいう意見もあるが、これらは大変誤った見解である④。とりわけ蓮如には回心がなかったという意見⑤には賛成しかねる。
 蓮如は『御文章』一の一に
  古歌にいはくうれしさをむかしはそでにつつみけり、 こよひは身にもあまりぬるかな⑥
  うれしさをむかしはそでにつつむといへ るこころは、むかしは雑行・正行の分別 もなく、念仏だにも申せば、往生すると ばかりおもいつるこころなり。こよいは 身にもあまるといへるは、 正雑の分別を ききわけ、一向一心になりて信心決定の うへに仏恩報謝のために念仏まうすこころはおほきに各別なり。(真聖全三の四〇三)
と述べている。蓮如の場合は自分自身の回心ついて、法然(四三歳の時)、親鸞(二九歳)の場合のように、自ら語っているところや伝記に述べられてられいるところはないようであるが⑦、右の歌の説明に「むかしは雑行・正行の分別もなく、念仏だにも申せば、往生するとばかりおもいつるこころなり」とむかしの心持ちが述べられ、「こよいは身にもあまるといへるは、正雑の分別をききわけ、一向一心になりて信心決定のうへに仏恩報謝のために念仏まうすこころはおほきに各別なり。」と、むかしの心持ちと明確に相異する今の心持ちが述べられているのである。この昔と今の心持ちの相異は単なる歌の解釈として済まされる内容のものではない。蓮如自身の()信心決定回心)の体験より述べられたものなのである。それ故にこそ「信心決定のうへに仏恩報謝のために念仏まうすこころはおほきに各別なり」とはっきりと断言しているのである。蓮如がひたすら信心決定を説き、信心決定のうえの報恩念仏を説いたのも全て自己の宗教体験に基づいたものである⑧。従って上述の『御一代記聞書』九三に「信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われはものをもたずしてひとにものをとらすべきというの心なり、人承引あるべからず」とある自分自身が信心決定せずして他者に信心を伝えることはできないということも、当然のことながら信体験のうえからの言葉であり、極めて重要な意味をもつものである。

 二、近代宗教哲学者の論ずる宗教理解と 宗教体験
 次ぎに近代の日本を代表する宗教哲学者であり、仏教を普及することに貢献の大であった清沢満止(一八六三ー一九〇三)、西田幾太郎(一八七〇ー一九四五)、鈴木大拙(一八七〇ー一九六六)の宗教理解と宗教体験についての見解を窺うことにする。
 清沢満止氏は「精神講話」に
  私どもは神仏が存在するがゆへに神仏を  信ずるのではない。私どもが神仏を信ず  るがゆへに、私どもに対して神仏が存在  するのである。また私どもは地獄極楽があるが   ゆへに地獄極楽を信ずるのではな  い。私どもが地獄極楽を信ずる時、地獄  極楽は私どもに対して存在するのであり  ます。(清沢満止全集六の一〇三)
と述べている。ここに「私どもが神仏を信ずるがゆへに、私どもに対して神仏が存在するのである」と述べられているが、我々は宗教体験によって神仏の存在を知ることができるのである。
 西田幾多郎氏は「場所的論理と宗教的世界観」に
  我々の自己が宗教的信仰に入るには、我々の自己の立場の絶対的転換がなければ、ならない。これを回心というのである。(中略)見と云ふのは、自己の転換をいうのである、入信  と云ふと同一である。  如何なる宗教にも、自己転換と云うことがなければならない、即ち廻心ということがなければならない。これがなければ、宗教ではない。此の故に宗教は、哲   学的には、唯、場所的論理によってのみ把握せられるのである。(西田幾多郎全集十一の四一九以下)
と述べている。「我々の自己が宗教的信仰に入るには、我々の自己の立場の絶対的転換がなければならない。これを回心というのである」とあるように、信仰に入るには回心がなければならないと述べ、また「廻心ということがなければ宗教ではない」、「宗教は、唯、場所的論理によってのみ把握せられる」等と述べられているように、回心⑨・宗教体験の重要さが強調されているのである。
 鈴木大拙氏は「日本的霊性」に
  霊性を宗教意識と云ってよい。(中略)宗教なるものは、それに対する意識の換気せられざる限り、なんだかわからぬものなのである。これは何事についても、しか(このように)言わ   れ得るとおもわれるが、一般意識上の事象なら、なんとかいくらかの推測か想像か同情かが許されよう。ただ宗教についてはどうしても霊性とでも言うべきはたらきがでてこないといけ  ないのである。すなわち霊性に目覚めることによって初めて宗教がわかる。(鈴木大拙全集八の二二)
と述べている。「宗教なるものは、それに対する意識の換気せられざる限り、なんだかわからぬものなのである」、「霊性に目覚めることによって初めて宗教がわかる」とあるように、宗教体験によって宗教はわかるものであることを強調している⑩。
 このように近代を代表する、現代に多大なる影響を残した宗教哲学者三氏がともに宗教体験の重要さを述べ、宗教体験によってこそ宗教は理解できるのであると力説しているのである。
 三、所謂伝統教学者の真宗学方法論
 次に近年の本願寺派の代表的宗学者(所謂伝統教学者)の大原性実氏(一八九七ー一九七九)、および普賢大円(一九〇三ー一九七五)の述べる真宗学方法論をみることにする。  大原性実氏は               
  先に私は親鸞の浄土真宗は伝統と己証との渾然として一体に融合し、もって織り成された一幅の錦絵であるといった。しかしてそれは親鸞のたくましき体験の所産である(中略)思う   に宗教は体験である。体験を離れて宗教の生命は無いに等しい。(『真宗学概論』「真宗学の意義」一三頁)
とあるように、親鸞の浄土真宗親鸞のたくましき体験の所産であり、「思うに宗教は体験である。体験を離れて宗教の生命は無いに等しい」と述べている。
 普賢大円氏は
  これらの聖典は単なる文字の羅列ではなく、その文字の中に脈々たる宗教的生命が溢れているのである。(中略)さりながら、たとひ聖典が生きた如来願心の表現であっても、若しそ  れを上にのべたやうに、宗教の外よりの立場より眺めたときは、一箇の死せる古文書となりここに聖典を学ぶ態度が問題とならざるを得ない。(中略)衆生の宗教体験を通じて聖典を  窺ふとき、そこに生命と生命とが相触れ、願心と願心とが、如実に選択本願なる浄土真宗を理解することができるのである。(『真宗概論』序、三頁)
と述べている。宗教体験の必要性が述べられ、宗教体験を通じて聖典を窺ふとき、そこに浄土真宗を理解することができるのであり、宗教体験なしでは聖典は一箇の死せる古文書となるとも述べ、宗教体験の重要さが強調されている。ここで大原性実氏、普賢大円氏のいう宗教体験とは浄土真宗の立場でのことであるから信心決定ということに外ならないのである。

 四、近代教学・現代教学提唱者の所論とその問題点
 はじめに述べたように、近代教学(大谷派)・現代教学(本願寺派)の樹立が叫ばれ始めてからすでに久しい。以下、本願寺派における代表的提唱者であるS氏とO氏の所論を窺うことにする⑪。
 S氏は自身の著一九九〇年三月刊)のはじめの「今日における真宗学の方法論的課題」の章に                   
  私が真宗学を志してからすでに長い歳 月が過ぎ去った。その歩みは遅々として進まず、決して満足すべきものではない。(中略)私たちの現前には、その領解に関する体験的表白や学術的研究のおびただしい文献資料が残されている。(中略)しかしながら、それらは何れも、私にとっては単なる資料であり、すでに過去のものでしかない。私が親鸞を学ぶということは、それらに導かれながらも、またそれをこえて、自己自身の主体をかけて親鸞を求め、親鸞に直参してゆく以外に、私の歩むべき道はない。ことに現代における歴史的社会状況は、急速なテンポをもって変遷してゆき、またその構造はいよいよ複雑化し、多様化してゆきつつある。(中略)このような諸状況の現代社会のただ中にあって、親鸞の信心を追体験し、その思想を解明し弁証するということは、まことにもって至難なことがらであるといわざるをえない。ただ先人の営みとしての伝統教学を金科玉条としてとして墨守しようとするながれがあるが、まさに時代錯誤というほかはない。そのことは、今日の現実的諸状況に深くかかわればかかわるほど、身に沁みて自覚されてくることである。(中略)真宗学とはひとえにこのような現代からの実存的な問いに対する、積極的な応答の教学でなければならない。そしてここにこそ、まことに現代に生きる真宗学が樹立されてくることであろう。
と述べている。自分自身の真宗学に取り組む姿勢と、伝統教学に対する批判が述べられている。                  
 S氏と同じ本願寺派のO氏は自身の著(一九七七年十一月刊)のはしがきに、宗学(伝統教学)に批判的であるという自分の立場を述べ、第四章、親鸞の念仏思想、二、念仏論の問題点、の下に              
  ところが信心正因・称名報恩という場合の称名は、明らかに信以後の称名であるから、信心が確立した後にとなえられる称名を指すのである。ところがこのような称名は、正定業とは  呼び得ない。(中略)信心正因とは、信の一念に往生の因が決定することを意味するが、その信の一念とは何かに、明確さを欠くという点である。「信」とはいうまでもなく「疑」に対する  言葉であるから、疑いの晴れることが、信じる心だということになる。これをある宗学者の表現をかりれば「一点の疑いも取り除かれて、ただ晴ればれする」ことが、獲信の瞬間、信一  念の心だということになり、ここに往生の因が 決定すると定められている。だがこの 「信を得た」という確信とは何かを、どこまでもつきつめてゆくと、これがどうもはっきりしない。例え  ば親鸞は『一念多念文意』で、凡夫はどこまでも無明煩悩におおわれていて、臨終の一瞬にいたるまで消えないと述べ、また『歎異抄』でも、それと呼応するかのように、念仏しても踊  躍歓喜の心は一向に生ぜず、むしろ往生する身をよろこばないで、病気などにかかると、逆に死ぬのではないかとびくびくしてしまう。それが凡夫の姿だという。
と信心正因・称名報恩の批判、信後称名の批判、凡夫に「一点の疑いも取り除かれて、ただ晴ればれする」心があるはずはないと述べて、「若存若亡」の心が信心であるかのように述べている。              
 前掲のS氏、O氏に対して、私はかって両氏の主張する信心正因・称名報恩批判説について、その問題点を指摘し、結論に「要するに、自らが信体験をもち、本願の救いを慶び報謝の念仏をする身にならない限り、称名報恩の意味も理解できないであろうし、信前の称名と信後の称名との区別もつかないであろう。ここにO、S両氏の所論の根本的に検討すべき問題点があるように思われる⑫」と述べたが、今は更に真宗学方法論の前提として大きな問題を感ずるのである⑬。(紙数の関係で具体例は割愛するが、大谷派の近代教学提唱者の主張にも信のうえの念仏・称名報恩批判の主張がある。)
近代教学(大谷派)・現代教学(本願寺派)の樹立を叫ぶ人達が共通して信心決定(回心)後の念仏である称名報恩の批判者であることは熟慮すべき実に大きな問題が存していると考える。

  むすび
 前に述べたように親鸞の信心決定(回心)は二九才の時であった。蓮如もまた間違いなく信心決定(回心)のひとであった。近代の宗教哲学者清沢、西田、鈴木の三氏も回心・宗教体験の重要さを説き、これがなければ宗教ではないと述べている。本願寺派の所謂伝統教学者大原、普賢の両氏も共に宗教体験の重要さを語っている。しかるに前述のように近代教学・現代教学提唱者は揃って信心決定(回心)後の念仏を報恩の念仏(称名報恩)とすることを、親鸞の教えを歪めた伝統教学の所産であると批判するのである。しかし親鸞は『正信偈』に
  弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即の  時に必定に入る。唯能く常に如来の号を 称して、応に大悲弘誓の恩を報ずべしといへり。(真聖全二の四四)
と述べ、また『御消息集』二には
  わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、 仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏こころにいれてまふして(真聖全二の六九七)
とも述べて、明らかに信心決定後の念仏を報恩の念仏として述べているのである⑭。親鸞は『教行信証』「化土巻」三願転入の文に
  爰に久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。(真聖全二の一六六)。
と述べ、『正像末和讃』には
  釈迦・弥陀の慈悲よりぞ 願作仏心はえしめたる 信心の智慧にいりてこそ 仏恩報ずる身とはなれ(真聖全二の五二〇) 。
とあるように信心決定(回心)することによって、初めて仏恩報ずる身となると述べているのである。前述のO氏は所論にみられるように、氏は親鸞の『一念多念文意』の文や『歎異抄』第九の文を理解しえず、親鸞が不如実の信である不淳心として退けた疑心の残る「若存若亡」(あるときにはわうしょうしてむすとおもひ、あるときにはわうしょうはおうしょうはえせしとおもふ⑮)の心を真宗の信心であるように錯覚しているのである。この錯覚の原因は何かといえば信心決定(回心)の宗教体験の欠落に他ならないのである。S氏の所論も一見もっともらしいが、宗教体験の欠落より生じている点はO氏と同質である。私は信後の念仏を報恩念仏とすることを時代不即応の伝統教学の所論といって批判する人達は信心決定(回心)・宗教体験のない人達だと考える⑯。勿論私は所謂伝統教学の全面的肯定者ではない。しかし信後の称名を報恩としたこの点は親鸞の宗教体験(信体験)を正しく継承したものと考える。前に述べた蓮如の言葉に「信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われはものをもたずしてひとにものをとらすべきというの心なり、人承引あるべからず」(『御一代記聞書』九三)とあるように、信心決定の救済体験のないままで、近代教学・現代教学をいくら叫んでも無意味なことである。親鸞の体験に基づく教義の本質が把握することも、伝道活動(救済活動)への真のエネルギーも生まれるはずはなく、世に有益なるもの・世を救うものにはなりえない。S氏のいうように、いくら主体をかけようが、現実的諸状況に関わろうが、信体験なしではただ独善の方向違いになるだけであろう。真宗学は研究者自身が信心決定のひとでなければならない。そうでなければ、本当の意味での真宗学にはならないと考える。              
 註                   
①拙稿「三願転入についての考察」(印度学 仏教学研究三八の一、一九八九年二月)。
②親鸞が『教行信証』の「信巻」及び「化土巻」に『集諸経礼懺儀』所収の『往生礼讃』の引用により「大悲伝普化」とせずに「大 悲弘普化」としているところから、親鸞は 教化意欲・伝道意欲に乏しかったとする意見には賛成できない。(拙稿「『教行信証』 における『往生礼讃』引用文について」  (印度学仏教学研究四七の二、一九九九年 三月)。
③註②参照。             
④拙著『続・浄土真宗がわかる本』(一九九 七年十一月刊)第一章、一二頁以下。
⑤山折哲雄氏は著書『人間蓮如』(JICC 出版局、一九九三年四月発行)の第一章に 「蓮如にあっては、回心時期と体験という 問題の立て方、あるいはそれを主軸にする 観点は余り意味をなさない。」(二三頁)。「彼(蓮如)の意図ははじめから異端との 闘いにあった。そのために、大衆の心をつかむ戦術を手さぐりしていたのだ。親鸞の体験とエッセンスを、俗耳に入りやすいように表現する方法の発見に苦しんでいたのである。それに比べれば、彼自身の回心ということはおよそ問題にならなかった。彼が生まれながらの坊主であったのは、換言すれば、彼の回心は生まれながらにして定まっていたということである。」(二六頁) と述べている。「彼の回心は生まれながらにして定まっていた」ということは実際には回心はなかったということである。
⑥『和漢朗詠集』〈藤原公任撰、一〇一三年 頃成立〉の巻下、慶賀(新編日本古典文学 全集十九、一 九九九年十月発行、四〇二頁)にあり、註に作者未詳とある。
熊谷直実もこの歌を詠んだといわれている。 (『西山上人短編鈔物集』文栄堂刊、四五 頁)。『帖外御文章』六、にも引かれてい る。(真聖全五の二九五)。
⑦蓮如が真宗再興の志を立てたは十五歳の時 であったと伝えられている( 『蓮淳記』〈稲葉昌丸編、蓮如上人行実六四頁、『蓮如上人遺徳記』〈真聖全三の八七一〉)。 この十五歳の時を回心(信心決定)の時と する意見もある(笠原一男氏『不滅の人・ 蓮如』世界聖典刊行協会、二〇頁。真継伸 彦氏『私の蓮如』筑摩書房、一六頁。)が、真宗再興の志を立てることと信心決定(回心)とが必ずしも同じではないし、また数 え年十五歳は回心(信心決定)には少々早 いと思われ、これには賛成しかねる。
⑧『御一代記聞書』二一三に「心得たと思ふ は心得ぬなり、心得ぬと思ふは心得たるなり」(真聖全三の三八四)とあることから、信心決定の自覚はありえないという意見があるが、これが間違いであることは別の機会に述べた。拙稿「蓮如上人の御再興の意 義」(蓮師教学研究第八〈探求社、一九九 八年、十月〉、八四頁)。
⑨西田氏のいう回心と浄土真宗でいう信心決 定とを全く同一とみることはできないとは思うが、宗教体験(信心決定)の重要さは 十分語られているといえる。
⑩鈴木氏が如何に浄土真宗的宗教的宗教体験 (信心決定)を重要視したかは「宗教経験の事実」(鈴木大拙全集十の一以下)でよく窺える。
⑪批判的意見を述べるので、実名は避ける。⑫拙稿「宗祖における信心と念仏」(龍谷教 学第十三、一九七八年六月、四七頁)。拙稿「宗祖における信心と念仏( 二) 」(龍 谷教学第十五、一九八〇年六月)にも関連論考を述べている。
⑬両氏共今も考えに変わりはないようである。 S氏の最近の談話(中外日報、一九九五年 五月十一日)および前掲の自身の著(一九 九〇年三月刊)の内容に述べられてあり、 O氏に関しては、拙稿「真宗大行論ー第十 七願の念仏についての疑問ー」渡辺隆生教 授還暦記念論文集『仏教思想文化史論叢』 所収、(一九九七年六月)。「親鸞聖人の 「乃至十念論」北畠典生博士古稀記念論文集所収(一九九八年六月)に述べている。
⑭近代・現代教学提唱者は称名報恩義は覚如 ・蓮如の流れというが、存覚にもある。『浄土真要鈔』末(真聖全三の一三四)、『浄土見聞集』(真聖全三の三七九)等。
⑮親鸞聖人全集2の一〇〇。
⑯このことについては拙著『続・浄土真宗が わかる本』(教育新潮社、一九九七年十一 月刊)四九頁以下に述べた。
(日本仏教学会年報66、(H,13<2001>,8)所収)