「続⑫近年の本願寺派教学に想う」         これは「続⑪近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zuku11.html に続くものです。

ある方(A氏)の想い。


「仏法は聴聞にきわまる」と言われます。浄土真宗の救いについては聴聞ということがとても大切なことは言うまでもありません。聴かなければ(聴いていく)聞こえないけれども聴くの延長上に聞くがあるのではない、といのは、自分が頑張って聞いたら救われるだろう、一生懸命聴かなければというのは、自分が入って、微妙に違うかもしれない。「聞其名号」とも言われるとおり、浄土真宗は「聞」の宗教であるけれども、自分が一生懸命聞いたら、その「聞いたら」で、救われるのでもないように思います。聴かなければ聞こえないけれども、聞こえたことはやがて聴くを否定する」というお言葉も聞いたことがあります。「聞こえてくださった仰せ」は、やがて、「聴かなければ」を廃たらせるのかも・・と思います。救いは私の計らいではないのでしょう。」


(紅楳)
蓮如上人が『御一代記聞書193』に言われるように「いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきはまることなり」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,1292)であります。十劫の昔からたすかっているのではありません。「信心さだまるとき往生またさだまる」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,735)と親鸞聖人が言われるように、十劫の昔から助かっているのではないことは勿論の事、浄土真宗の家に生まれたからとか、結婚相手の家が浄土真宗であるからということで、往生が定まるのではありません。信心決定するときが往生決定のときであります。「法話は寝て聴いておればよい」とか「テレーと聴いておればよい」と言う人がいますが、これは間違いであります。但し善知識だのみになってはいけませんが、救済体験(獲信体験)のある信心決定している人の話をきくことが大事だと思います。
善知識だのみの間違いにつては蓮如上人が御文章(2の11)に「善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。宿善開発して善知識にあはずば、往生かなふべからざるなり。しかれども帰するところ弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おほきなるあやまりなりとこころうべきものなり」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,1127)。と言われていますように、善知識だのみは間違いですが、信心不決定(未決定)の人の話ばかりをいくら聴いても信心決定することは中々難しいと思われます。合掌
  (2019,2,21)

何度か申しましたが、蓮如上人は『御一代記聞書』93に(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,1261)に「信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われはものをもたずしてひとにものをとらすべきというの心なり、人承引あるべからず」と言われ、利井鮮妙氏は「土橋は人を渡して自ら落つるが, 未信の人は朽ちた橋の如く、人も渡さず自らも落つるなり。」と言っていますように、信心のない人の法話は人に信心を伝えることはできない、(信心のない人の法話では信心は得られない)、と言うことは、蓮如上人の言われている事であります。合掌

「聞」とは親鸞聖人が『教行信証』「信巻」に「聞と言うは衆生仏願の生起本末を聞きて、疑心あることなし。これを聞といふなり。(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,251)とあるものです。「仏願の生起とは」なぜ阿弥陀如来が本願を起こされたのかということで、助かりようのない罪悪深重の私を救うためであります。「本」とは私を救うための阿弥陀如来の五劫の思惟と兆載永劫の修行の事です。そして「末」とは本願成就、名号成就のことであります。「聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」とは私が仏願の生起本末を聞いて、全く疑いがなくなった心の状態の事です。これを聞という、というのであります。聞即信というのもこの事であります。本当に聞くことが出来たところが、そのまま信心決定ということになるのであります。勿論浄土真宗ではこれがすべて自分の力によるのではなく、すべて阿弥陀仏の他力の御力に依るところと言うことになるのであります。合掌

(A氏)
ご教示有り難うございます。現代の方々が(昔も同じであったかもですが)聴聞が、聴聞にならない 聴いても 聞こえたとなりにくい 疑いと不疑の間を行ったり来たり という感じも肌に感じますが、そこには、リアリティーをもって 実感できないことがあるんじゃないかと思います。煩悩の眼ではリアリティーを持てないのは当然かもですが、①リアリティーなど感じられなくてもよいのでしょうか? ②いや、そうはいっても、やはりリアリティーがあれば という 聞き手の悩みみたいなことは どうすればよいのでしょうか?

(紅楳)
大変貴重な問題が提示されたと思います。昨日「聞と言うは衆生仏願の生起本末を聞きて、疑心あることなし。これを聞といふなり。」とあることを申しましたが、ここの「疑心あることなし」が大変重要な所です。『一念多念文意』に「きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,678)ともありますように、如実の聞(本当の聞)はそのままが信なのであります。これが「聞即信」と言われるのです。
ここの「疑心あることなし」が現実化する(リアリティーをもって 実感する)ことは困難な事と言えましょう。親鸞聖人が「難中之難無過斯」(正信偈)と言われているのもこのことに他ならないと思います。親鸞聖人はこれを他力回向によって賜ると言われるのであります。これは宗教体験(救済体験、獲信体験)によって現実化する(リアリティーをもって実感する)のであります。これが大変大事なことであります。親鸞聖人が『教行信証』総序に「ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな。西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を教信して、ことに如来の恩徳深きことを知んぬ。」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,132)と述べられています。如来の本願を信ずる身となって(獲信体験をすることによって)、如来の恩徳の深いことを知ることが出来たと述べられているのであります。
近年の本願寺派教団における「信心正因称名報恩」義反対意見、それに伴なう宗制宗法遵守義務放棄問題も全て宗教体験(救済体験、獲信体験)の欠落から生じたものと考えます。
合掌 (2019,2,22)。

(A氏)

私も 肌で感じていることですが、お聴聞されている方々は 一般的リアリティーが もてなくて、疑いと不疑の間を行ったり来たり なんじゃないかなと思います。
リアリティーといえば、普通 五感でわかるような リアリティー こういうことは、源信さんさえ、煩悩に眼さえられて と仰り、親鸞聖人も同様に引用なされています。しかし、そういうリアリティーではない リアリティーは 有られたのではないかなと思いますが、紅楳先生 いかがでしょうか?


(紅楳)
私の入信、回心についての考えは、昨年出版しました『親鸞聖人の念仏論』(永田文昌堂、2018、6)序論p、3以下に述べています。宜しかったら、御一見下さい。合掌

(N氏)
漠然と感じてきたことは、宗教体験を語ることを真宗教団はわりと嫌うということですね。なぜ嫌うのか、教団として意図するところは、神秘体験として自我に取り込むことへの警戒かと思います。が、聞によって限りなきはたらきに照らされ、我が崩壊して、光だけが満ちる二種深信は、紛れもない宗教体験であり、それを欠落させたまま、ああでもない、こうでもないと言うても仕方ないって、ほんまそう思いますわー

(紅楳)
本願寺派においては江戸時代に起こりました安心上の騒乱、三業惑乱(1806年終結)の影響か、宗教体験(救済体験、獲信体験)を語ることが誤り(一念覚知の異義)とされる傾向があったように思われます。この点はよく考えねばならない事と思っています。この事についても拙著『親鸞聖人の念仏論』(永田文昌堂、2018,6)の序論、p、3以下に述べました。合掌

(A氏)
私は、お聴聞の中にリアリティーが ないのが 聴聞の課題なのかな・・と書いていましたが、問題は そこにあるのではなくて、もっと問題なことは 「仏智疑惑」そのもの こそが、問題なのだと思い直しました。(2019,2,23).

(紅楳)
そうですね。「仏智疑惑」は親鸞聖人においては「本願疑惑」と同義ですから、信心未決定(未信)の意となります。信心未決定の人は救済体験(獲信体験)がありませんから、心多歓喜も知恩報徳(現生十種の益)の心はなく、リアリティはないことでありましょう。
これは法話を語る方にも言える事であって、信心不決定(未決定)の人、救済体験(獲信体験)のない人の法話では信心は得られないと蓮如上人や利井鮮妙氏が言われるのであります。
重ねて申しますが、信前の念仏(自力念仏、カラ念仏<僧侶の場合は営業念仏>)と信後の念仏(他力念仏、報恩念仏)の違いが分からずに、宗制教義に定められた「信心正因称名報恩」義に反対する人、獲信によって消滅する疑無明と生涯続く痴無明の違いの分からない人、それから宗制宗法遵守義務放棄を公然行う人は救済体験(獲信体験)のない、信心不決定(未決定)の人だと思います。大変歎かわしい次第であります。合掌

私が信心正因称名報恩反対、痴無明疑無明二義反対、宗制宗法遵守義務放棄等を問題にするのは、当然の事乍ら、決して伝統の教学を守ろうとするものでもなければ、教団の法規に拘るのでもありません。このような現象は、その人達が、救済体験(獲信体験)のない信心不決定(未決定)者であると思うからであります。教団の教学の責任担当者がこのような事で、教団の発展復興は断じてあり得ないと思うからであります。下に関係論文を記します。合掌
親鸞における疑蓋无雑について (昭和52<1977>、12)。http://e-kobai424.sakura.ne.jp/gigaimuzou.html
宗祖における信心と念仏 (昭和53<1978>,6)。http://e-kobai424.sakura.ne.jp/syusoniokeru.html
親鸞における疑蓋无雑について(二) (昭和54<1979>、12)。http://e-kobai424.sakura.ne.jp/gigaimuzou2.html
宗祖における信心と念仏(二) (昭和和55<1980>,6)。http://e-kobai424.sakura.ne.jp/syuuso2.html
仏教をいかに学ぶかー真宗学の場合ー (平成13<2001>、8)。http://e-kobai424.sakura.ne.jp/Bukkyooikani.html
浄土真宗における信前信後について(平成29<2017>、2)。http://e-kobai424.sakura.ne.jp/shinzenshingo.html
真宗無明論 (平成30<2018>、3)。http://e-kobai424.sakura.ne.jp/shinmumyou.html


(A氏)
聴聞が 本当の聴聞とならないのは 話し手の課題もあるかとも思いますが、それ以上に 聞き手の聞き方 聴聞のあり方に 誤りや間違いがあるのではないでしょうか・・

(紅楳)
聴聞は「テレート」聴くのではなく、真剣に聴かねばなりませんが、前にも申しましたように、蓮如上人は『御一代記聞書』93に(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,1261)に「信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われはものをもたずしてひとにものをとらすべきというの心なり、人承引あるべからず」と言われ、利井鮮妙氏は「土橋は人を渡して自ら落つるが, 未信の人は朽ちた橋の如く、人も渡さず自らも落つるなり。」と言っていますように、信心のない人の法話は人に信心を伝えることはできない、(信心のない人の法話では信心は得られない)、と言われています。話し手の方にも課題があると思います。教学の責任担当者までが信心不決定(未決定)の人であってはならないのであります。合掌

(N氏)

書物を自分で読んでも信を得ることはできませんか?

(紅楳)
自分で書物を読むだけでは得られないと思いますが、法然上人が43才の時、善導大師の「散善義」の文によって本願に帰したように、書物によって入信することもあると思います。合掌

(N氏)
自分で書物を読むだけでは得られないと思います」の根拠は何でしょうか?
仮に同じ文言を、自らは信心を得ていない人が引用して話し、それを聞いたときと、その経文類を直接読んだときなら、
後者の方がマシかもしれないと思わないでもないです。
しかし、前者でも非常に低い確率でも、その真意を悟り、入信することもあるようにも思わないでもないです。

機と縁が熟せば、最後の突破は、どのような形でも、特におかしくないような気がいたします。

(紅楳)

「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,132)と言われるように全て仏の力で信を頂くのですから、色んなことが縁となると思います。言われるように、最後の突破はさまざまと言えると思いますが、自分一人で自己流に本を読むことだけでは正しい獲信はありえないように思います。合掌  (2019,2,23)。

(R氏)
お説教は、
「お説教はテレーッと聞いて忘れて帰れ、眠ってもいいですよ」です。
何が悲しくて、私ひとりにかかれはてて、お前を必ず仏にするというご本願を真実の欠片もない我らが真実にならにゃならんのやろ。
http://www.hongwan.net/.../%E4%BB%8F%E5%8A%9B%E3%82%92%E8...
私の真剣が間に合うという領解が、アカンのやけど、これが判らんので求道主義者は困ったものです。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
 (2019,2,24)。

(紅楳)
存覚上人の『浄土見聞集』に「きくも他力よりきき、おもひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひのちりばかりもよりつかざるなり。(真聖全3の381)とありますように、聞に一切聞功を見ないのが真宗の聞であります。「私の真剣が間に合うという領解」は全く私(紅楳)にはありません。
しかし、「お説教はテレーッと聞いて忘れて帰れ、眠ってもいいですよ」には賛成しかねます。十劫の昔から
救われていると言い(十劫邪義)、生まれた時から信後であると言うのなら、その言い方ができると思いますが、生まれた時から信後(正定聚)ではありません。聴聞を否定する事は親鸞聖人、蓮如上人の教えに反することであり、信心無用論にも通ずることであります。
いつものように、貴重な資料を御提供頂きましたことには、御礼申し上げます。  合掌
 (2019,2、25)。

(A氏)
紅楳 英顕 さま
テレーッと聞き流していては いつまでたっても、信受には なりませんね。一生懸命頑張って聴いたら でもないし、テレーッと聴くのでもない、仰せを はいと 聞き受けるのだと思います。

(紅楳)
因幡の源左(1842-1930)の言葉に「ただのただでも ただならず 聞かねば ただは貰はれぬ 聞けばきくほど ただのただ はいの返事も あなたから」(『妙好人因幡の源左』柳 宗悦、衣笠一省編、百華苑、昭和46年5月版)とあります。長年聴聞につとめた源左でありました。大変有難い言葉だと思います。合掌
 (2019、2、25)。
(紅楳)
弥陀成仏の十劫の昔からすでに助かっていると考えたり、生まれた時から信心が定まっている(信後、正定聚)と考えることは明らかに間違いであります。親鸞聖人が『信巻』信一念釈に「信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時尅の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,250)と述べられています。「信楽開発の時尅の極促」の時は記憶の有無を論ずる必要はありませんが、この時(信楽開発、信心決定の時)は断じて十劫の昔の事でもなければ過去世の事でもありません。今生(今世)の事であります。十劫邪義(十劫安心)の根本的間違いがここにあります。合掌 (2019,2,26)。

(R氏)
紅楳 英顕 和上
林遊のような在野の門徒は語句の出拠を探すだけで大変です。
ですから関連文書をネットにUPしてたりします。
「聞よりおこる信心、思よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たもちてうしなはざるをいふ。」
http://labo.wikidharma.org/.../%E6%B5%84%E5%9C%9F%E8%A6...
この文は、総序の「聞思して遅慮することなかれ」に親しいのでリンクしてあります。為念。
http://labo.wikidharma.org/.../%E8%81%9E%E6%80%9D%E3%81...
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


(紅楳)
いつもの事ですが資料提供有り難うございました。これで「お説教はテレーッと聞いておればよいとか」、「十劫の昔から皆救われていると考えて(十劫邪義<十劫安心>)、念仏に信前(自力念仏、カラ念仏<僧侶なら営業念仏>)と信後(他力念仏、報恩念仏)の違いがあることが分からず、教団の教学の責任担当者が宗制宗法遵守義務を放棄することが、如何に大きな誤謬であり、大過であるかが明らかになった事と思われます。合掌  (2019,2,26)。

(紅楳)
種々の御意見、御質問等有り難うございました。 ここで問題になりました信心正因称名報恩義反対、痴無明疑無明二義説反対、十劫邪義(十劫安心)は、皆救済体験(獲信体験)のない信心不決定(未決定)よりなされている所論であります。しかもこれらは教学担当責任者よりなされているのであります。
この信心不在の体質がエスカレートし、国家で言えば憲法法律を無視することに相当する宗制宗法遵守義務放棄が、教義信心の最高責任機関である勧学寮で、平然と何の悪びれもなくなされているのであります。このような教団の信心不在体質は誠に悲歎すべき事であります。早急の改善が何よりも肝要と思う次第であります。合掌
「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm 近年の本願寺派教学に想う、追加 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnentsui.htm 
「続⑫近年の本願寺派教学に想う」 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku12.html(2019,23記の中の私の論文)等参照。 (2019,2、28)。




『中外日報』(2019年3月1日) 第一面に「教義伝わらぬ危機」浄土真宗本願寺派定期宗会開会、総長、困難打開へ訴え、と見出しが出され、「言語を絶した境地である仏教の真理を言葉で伝えることの本来的な難しさ ー のため「相当困難である」と先行きを案じた。と書かれています。
このことは私の知る範囲でもここ数十年言い続けられて来た言葉であります。現代教学の樹立とか教学の刷新とか言われ、それなりの試みはなされたのではありますが、成果は余りなかったのであります。
これについては何度も述べてきたことでありますが、蓮如上人は『御一代記聞書』93に(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,1261)に「信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われはものをもたずしてひとにものをとらすべきというの心なり、人承引あるべからず」と述べられています。自分自身が信心決定の人となる「自信教人信」が大事なことであります。昨今は教団の教学責任担当者でも念仏に信前(自力念仏、カラ念仏、)と信後(他力念仏、報恩念仏)の違いが分からず、信心正因称名報恩の意味も分からず、勧学寮が宗制宗法遵守義務放棄を何の呵責もなく実行する信心不決定(未決定)の人の集団となり果てている有様であります。この信心不在の体質の根本的改善がなされないことには、「教義伝わらぬ危機」を脱する道はなかろうと思う次第であります。合掌
「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm ~ 「続⑫近年の本願寺派教学に想う」e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku12.html 等、参照。
  (
2019,3,2)。

上記『中外日報』の次下に、一方「生涯聞法、そして仏智に教え導かれて精進して道が、いかに困難を伴う道であろうとも、私たちは歩みをとめることはありません」と力強く語った。とあります。「生涯聞法」とは良い言葉ではありますが、もしも信心決定・往生一定の想いは一生持てないものと考えるならば、誤りであります。
親鸞聖人は真実信心でない不淳心を若存若亡(あるときには往生してんずとおもひ、あるときには往生はえせじとおもふを若存若亡といふなり。<『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,587>)と述べられ、蓮如上人は『領解文』に「たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、このうへの称名は御恩報謝と存じよろこびまうし候」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,1227)と述べられています。このように信心決定・往生一定の想いは持てるのです。持てるはずがないとする考え(機辺の決定心の否定、生涯不決定)は誤りであります。 合掌
  (2019、3,4)。

ついでに述べておきますが、十劫の昔から救われていると言う十劫邪義(十劫安心)の人も、大体機辺の決定心否定・生涯不決定を主張するようであります。これらの人も信心不決定(未決定)の人であります。救済体験(獲信体験)もなく、報恩念仏の実感のない人と言って差し仕えないと思います。
親鸞聖人は『高僧和讃』に「助正ならべて修するをば すなはち雑修となづけたり 一心をえざるひとなれば 仏恩報ずるこころなし」(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,590)と言われています。親鸞聖人は自力念仏も助業とされる(助とは名号を除きて以外の五種これなり。<『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,394>)のであります。信前(自力)信後(他力)の念仏の違いの分からない人は、一心(信心)を得てない人でありますので、仏恩を実感してない人であり、仏恩を報ずるこころがあるはずもない人なのであり、称名報恩の意味が分かるはずはないのであります。このような人達に宗制宗法遵守義務が果たせる訳がないのが、教団の現状と言えるでありましょう。  合掌
 (2019、3,6)。

『中外日報』(3月6日)の浄土真宗本願寺派の欄に教団の将来を憂い「近い将来、一般寺院だけでなく本山も存続不可能になり、宗派全体が消滅する危機を迎える」と言う意見が述べられています。何度も述べて来たことでありますが、この問題の解決方向は、近年教団の信心不在体質が急速に進行し、教義信心の責任機関である勧学寮までが信心不決定(未決定)者の集団となり果てた、教団体質の早急の改善が何より肝心なことと考えます。  合掌
 (2019,3,7)。

  FBの反応

(R氏)
近年教団の信心不在体質が急速に進行し、先生のご意見をおうかがいしたいのですが、なぜ教団のこのような体質が近年急速に進行したのだとお考えでしょうか。
三業惑乱は遠い過去の話ですし、、、。
現在の、空華の学説を曲解したような、無帰命安心に酷似した信心不在の状況が、なぜここまで広まっているのでしょうか?
原因が分かれば改善方法も見えてくるのでは、と考えているのですが。
南無阿弥陀仏


(紅楳)
教団の現状を憂い、改善を願う思いは大変結構なことでありますが、間違いますと大変なことになると思います。本願寺派教団の現状がまさにそれだと私は思っております。
当時龍谷大学の真宗学の教員であった信楽氏と岡氏が中心となって、「教団改革運動」を始めたのが1971(昭和46)年の事でありました。スローガンにはモットモらしい面もありましたが、この運動の致命的欠陥は信楽氏、岡氏が真宗学の現職の教授でありながら、「信心正因称名報恩」義の意味も分からない信心不決定(未決定)者であったことであります。(宗祖における信心と念仏 (昭和53<1978>,6)。http://e-kobai424.sakura.ne.jp/syusoniokeru.html 宗祖における信心と念仏(二) (昭和和55<1980>,6)。http://e-kobai424.sakura.ne.jp/syuuso2.html 等参照)。
しかもこの時、宗制教義に反する両氏を裁く義務のあった当時の勧学寮頭が何もしなかったのであります。私はこの時の寮頭が信心決定の人であったかどうかに疑問を持ちます。信楽氏、岡氏はその後本願寺派の基幹運動の委員になり、信楽氏は監正局長にもなりました。宗制教義に定められている「信心正因称名報恩」義を否定する人を教義信心の正統者であると教団が扱ったのであります。徐々に信心不在現象は進行しつつあったと思いますが、この頃から急速に進行したと思います。
それから三業惑乱に関しては救済体験(獲信体験)がない信心不決定(未決定)である故に、十劫安心(無帰命安心)と一念覚知の意味が正しく理解できず、救済体験(獲信体験)を語る事それ事態が、一念覚知の異義だと思い込んでいる教学責任担当者が、現在も多いように思います。(拙著『親鸞聖人の念仏論』永田文昌堂 p、7以下 参照)。
合掌
e-kobai424.sakura.ne.jp
宗祖における信心と念仏〈龍谷教学十三、昭和五十三年六月〉 宗祖における信心と念仏 ──念仏を中心として── 紅楳英顕 目次 [非表示] 1 一 2 二 3 三 4…
(R氏)
先生、詳しくご説明下さり、ありがとうございました。ということは、未信者が教団の要職についたことが、現在の状況を招いたと考えられるということのようですね。
書いていて思いましたが、当然といえば当然、この体制のまま改善を望むのは至難のわざかと思います。
正統な教義理解を普及させ、他力信心の人が生まれることが、ひいては改善につながる、というところでしょうか。
南無阿弥陀仏


(紅楳)
私の想いは「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm の最初に述べました「宗門の責任者(行政面、教学面)は信心決定者でなければならない。少なくとも教学面の責任者はそうでなければならないということである。」であります。 合掌 (2019、3、8)。

親鸞聖人においては信心が浄土往生の正因であり、念仏は真実信心の念仏、弘願の念仏であります。石泉師の所修の行体正定業、能修の用心報恩行(称えられている念仏の体を言えば正定業、称えている行者の心持ちを言えば報恩行)と言う説明が至当と思っています。御理解頂けると思います。合掌

(F氏)
信心の社会性、念仏者の社会性ということは、誰かに規定されるものではないかもしれませんが、信心 念仏者は、自己の世界にのみ閉じ籠らずに、自分だけでなく 他者にも 信心を勧めたり ご縁をお勧めすることは、大切なことだと思います。

紅楳)
「信心の社会性」と言うことはよく言われることであり、またよく考えねばならないこととは思いますが、信心とは親鸞聖人が「信心は如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」(『一念多念証文』『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,678)と述べられいますように、本願を信ずる心に他なりません。これが往生の正因なのであります。信心の社会性とは信の上(信後)の問題だと私は考えます。 合掌
    (2019,3,10)。

(O氏)
時々お寺の御法話には行きますが、落語や講談を聞くのと同じ、ただの娯楽にすぎません。
私はいつかきっと、生身の阿弥陀如来さまにお目にかかって、いっぱいいっぱい教えて頂いて、笑顔で死んでいきます。
それが私の夢です。

(紅楳)
何度も申しますが、蓮如上人は『御一代記聞書』93に、信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われはものをもたずしてひとにものをとらすべきというの心なり、人承引あるべからずと、前住上人申さると順誓に仰せられ候き。「自信教人信」と候時は、まづ我が信心決定して人にも教えて仏恩になるとのことに候。自身の安心決定して教えるは、すなはち「大悲伝普化」の道理なる由、同く仰られ候。(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,1261)と言われています。法を説く人は信心決定の人でなければなりません。教団の教学担当責任者までが、信心正因称名報恩の意味も分からないような、信心不決定(未決定)者と成り果てている教団の現状は誠に情けなき次第であります。合掌 (2019,3,15)。




第314定期宗会(2月27日~3月7日)で、宗会議員の下川氏は御自分の勧学寮頭に宛てた公開質問状(『中外日報<2018,8,31>』  http://labo.wikidharma.org/.../%E5%BE%B3%E6%B0%B8%E9%96... について、再三再四の回答督促にも拘わらず、今日まで勧学寮頭から何の返信のなかったことについての疑問、質問を総局にしたそうですが、総局の答えは勧学寮頭には何も言う権限は我々にはない、ということで問題を取り上げようとしなかったそうであります。全くあきれたことであります。勧学寮頭が如来・聖人であるのならともかく、間違いの多い煩悩具足者であることはもとより、信心不決定(未決定)者であるとさえ思える人であります。もし法規がないと言うのであれば早急に勧学寮頭を裁く法規を作成して、この信心不在体質を改善すべきであります。教団の生命である信心教義についての宗制宗法遵守義務放棄問題についても何の質疑もなかったようでありますし、一体何をする宗会なのであろうかと思われます。
ある宗会議員の「宗会だより」によりますと、今回宗会の開会式の御門主様の御教辞に、

京都観光のガイドブックのある本に本願寺について「浄土で永遠の生命を得て、輪廻転生しないという点は神道的な死生観とも近く、現在では阿弥陀信仰というよりも先祖崇拝を基本とする、日本的信仰心を代表する宗派となっていると言えます」とか、「今や一般人には浄土真宗といえ先祖供養のイメージがあります」とも書かれています。

と言うお言葉があったと書かれています。このような世間の誤った評価を正し、親鸞聖人の真実の教えを世に弘めて行くためには、教団の教学責任担当者までが信前の念仏(自力念仏、カラ念仏)と信後の念仏(他力念仏、報恩念仏)の違いの分からない、宗制第三教義に定められた信心正因称名報恩の意味も分からない、救済体験(獲信体験)のない信心不決定(未決定)者の集団と成り果て、しかも宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通る教団の信心不在体質の抜本的改善が、他の何よりも正に緊急に成すべき課題であろうと思います。 合掌 (2019,3,23)。

勧学寮頭を裁く法規がないと言う事は、私も2014(平成26)年1月に信楽氏の問題について監正局に尋ねた時に聞きました。誠に奇妙な法規だと思いました。勧学寮頭が「如来・聖人」 (阿弥陀如来・親鸞聖人)<『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,1083> であるならともかく、今の寮頭は信心決定の人であることさえ、極めて疑わしい人なのであります。教団の最高行政責任機関である総局が、勧学寮頭に対しては何も言う権限がないと宗会で言って、それがまかり通るのであれば、滅茶苦茶であり、正に信心不在と成り果てたのが教団の現状と言う事になりましょう。世間が先祖供養教団と評することもやむを得ないことかと思われます。早速勧学寮頭を裁く法規を作成するか、そうでなければ信心不決定(未決定)、宗制宗法遵守義務放棄に加え、無責任不誠実の勧学寮は解体すべきだと思います。 合掌 (2019,3,25)。



新元号が発表されました。一句浮かびましたので記します。

近今学生法義昏        近今(きんこん)の学生(がくしょう)法義(ほうぎ)に昏(くら)く、
信因称報不能知        信因称報(しんいんしょうほう)をよく知(し)ること能(あたわ)ず。 
宗門唯辿衰微路        宗門は唯(ただ)辿(たど)る衰微(すいび)の路(みち)、
期待改元新年時        改元新年(かいげんしんねん)の時に期待(きたい)する。

(意訳)
近年の学者の方々は救済体験(獲信体験)がない故に浄土真宗の法義を正しく理解することができず、宗制教義に定められている信心正因称名報恩の意味さえお分かりでない有様であります。
このような事では、宗門は唯衰微の一途を辿るのみであろうと懸念する次第であります。
改元号の年にあたり、これを機縁として、宗門が長らく続いた信心不在の体質を脱皮して、復興発展振興の真のスタートの年となることを念願する次第であります。
合掌  (2019,4,1)。

私は科学万能主義及びマルクス至上主義が終焉した21世紀を真宗復興の世紀と期待しております。それで本願寺派の新宗法第59条3(2012<平成24年>4月1日施行)に「勧学寮は、宗制に定める教義(信心正因称名報恩)に相異する義を主張した者に対し、教諭する。」と新たに定められた事を大変慶ばしく思ったのであります。所が、御承知のように、この宗法は全く無視され、宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通っているのであります。こんな状態である限り、教団の発展振興は到底望みえない事と思います。新たに迎える新元号(令和)の時代にこそ真剣に教団の将来を考えねばならないと思います。合掌 「近年の本願寺派教学に想う」http://e-kobai424.sakura.ne.jp/kinnnenn.htm 以下、参照。  (2019,4,2)。




(K氏)平成31年 4月20日(土)

昨日、今日の二日間安芸教区安芸北組の広済寺さんの永代経法要のご縁に遇わせて頂きました。
お取次のご縁を頂いたご講師さんは、紅楳英顕先生です。
ご講師部屋でも懇ろにお話を聞いて頂きました。
有り難う御座いました。
合掌
(写真添付)。

(紅楳)上の写真は私が浄土真宗における現世の救いにつて述べていた場面です。歎異抄第一の「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまうなり」の文、現生正定聚、平生業成、臨終来迎否定につていてお話を致しました。
親鸞聖人の教えにおいて「現世の救い」は大変重要な事であり、特に科学時代の来世を受け入れにくいと思われる現代人に語る上では、とくに大事な点であろうと思います。
ここの歎異抄第一に「往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまうなり」とありますように、ここの念仏も信後の念仏であり、報恩の念仏なのであります。現世で救いを頂くのが信心正因、救いを頂いた後の念仏が報恩の念仏、称名報恩なのであります。このことからも信心正因称名報恩とある宗制宗法遵守義務放棄が公然とまかり通る、現教団の全く無秩序な信心不在の体質の、即刻改善がなにより急務と考える次第であります。合掌
(2019,4,22)

(紅楳) 信心獲得による現生十種の益(『浄土真宗聖典(註釈版)』 P,251)の総益が十の「正定聚に入る益」であります。そして八に「知恩報徳の益」とあります。即ち信心獲得し、正定聚に入った人は「知恩報徳の益」を得、報恩念仏(称名報恩)の人となるのであります。
従って、何度も申すことでありますが、称名報恩を否定する人は未だ正定聚の位に入っていない、信心決定していない信心不決定(未決定)の人なのであります。こういう人達が教団の責任担当者である限り、いくら声だけ大にしても教団の発展振興がある筈はないのであります。間もなく始まる新元号(令和)の時代にこそ、教団の信心不在の体質の抜本改善を期待いたします。合掌 (2019,4,22)。


「続⑬近年の本願寺派教学に想う」 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku13.html へのリンクに続く。








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