親鸞の念仏思想の特性
ー特に法然との相異についてー
    紅楳英顕
   はじめに
『歎異抄』第二に親鸞は
親鸞におきては、ただ念仏して彌陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかふりて信ずるほかに別の子細なきなり。(真聖全二の七七四)
と述べている。しかし実際には両者の念仏思想には種々の相異点がみられるのである。
本稿では『選択集』の第三、本願章の「念声是一釈」に対して反論した高弁の『摧邪輪荘厳記』の「念声是一釈」非難が親鸞に与えた影響を窺いながら、法然との相異に視点をおいて親鸞の念仏思想の特性を考察したいと思う。
一、高弁の「念声是一釈」非難
親鸞の三経隠顕論、願海真仮論等の独自の釈顕が法然浄土教を非難した自力仏教(顕密仏教)の貞慶、高弁等への対応より生じたものであるということはすでにいわれている@。
私は親鸞独自の見解である「他力廻向の行信(信行)」、即ち「本願力廻向の信心」(真聖全二の七二)「彌陀の廻向の御な(念仏)」(真聖全二の五二七)も特に高弁の「念声是一釈」非難への対応より生じた釈顕であり、発揮であると思う。
念声是一釈とは『選択集』の第三、本願章に
問うて曰く『経』に「十念」と云ひ「釈」 に「十声」と云ふ。念声之義如何。答えて曰く。念声は是一なり。(真聖全一の九四六)
と、本願章冒頭に引用した第十八願の「十念」と善導の『観念法門』および『往生礼讃』の本願取意の文Aによる「十声」が同意であるとして「念声は是一なり」 と述べているのである。そして次下に、その説明として
  何を以てか知る事を得るとならば、『観経』の下品下生に云はく「声をして絶えざらしめて十念を具足して南無阿弥陀仏と称せん。仏の名を称するが故に念々の中に於いて八十億劫の生死の罪を除くと」。今此の文に依るに、声は即ち是念、 念は則ち是声といふこと、其の意明けし。 加之、『大集月蔵経』に云はく「大念大仏を見、小念に小仏を見ると」。感師釈して云はく。大念といふ者、大声に念仏するなり。小念といふは小声に念仏するなりと。故に知んぬ。念は即ちこれ唱也といふことを。(真聖全同右)
とある。
この「念声是一釈」を高弁は『摧邪輪荘厳記』の「十声十念を謬解する過」の下で非難して
然るに汝集に云はく。(中略)故に知んぬ。念は即ち是唱也と。以上。この義甚だ不可也。念は是れ心所、声は是れ色、色心既に異なる、何ぞ一体と為す乎。  (浄全八の七九一)
と、念は心所(心作用)であり、声は色(認識の対象となるもの)であり、全く異なるものであると述べている。既に先学の指摘するところであるBが、上引の「念声是一釈」下の『観経』の下品下生の文、『大集月蔵経』の文を釈した懐感の『群疑論』の文C等が十念即十声を論証する十分な根拠にはならない。この論難は直接往因に関わる問題であり、法然門下の諸師にとって重大事であったはずであり、親鸞も師説を忠実に継承せんがための独自の釈顕をした「三経隠顕論」、「願海真仮論」と同様にこの問題を深く思索したものと考えられる。
 親鸞が『顕浄土真実教行証文類』等で正依の経典のみならず『如来会』等異訳を多く引用しているのは、当時は梵本を見ることはできないので、異訳も見ることにより、経典の意(釈尊の意)をより正確に知ろうとしたのであろう。
『顕浄土真実教行証文類』の「信巻」大信釈に正依『大経』と『如来会』の第十八願文と成就文とが引かれている(真聖全二の四八以下)。願文にはそれぞれ「欲生我国乃至十念」(正依『大経』)、「願生我国乃至十念」(『如来会』)と、ともに法然が念声是一とした「乃至十念」の語がある。ところが願成就文は正依『大経』は「聞其名号信心歓喜乃至一念」となっているところが『如来会』では「聞无量寿如来名号能発一念浄信」となっているのである。
周知のように第十八願の「十念」を「十声」と解したのは善導であり、曇鸞、道綽においてもはっきりそう示されているのではない。
 法然は『選択集』五、利益章(真聖全一の九五一以下)に述べているように彌勒付属、三輩下輩、十八願成就文の一念をすべて念仏としているのに、異本では一念はすべて高弁の非難のように心(信)となっているのでありD、「乃至十念」の念も経文の当面の意は心(信)であるとも考えられるのでありE、仏意と法然の意を正しく継承しようとする親鸞にとって大きな、そして深刻な課題であったと思われる。
 親鸞は「建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」と述べているように自己の生死いづべき道はすでに解決しており、法然門下において他力強調派であり、信を重視する立場であった。
 そもそも法然が「念声是一」と主張し、高弁がそれを非難した十八願の「十念」は経典の当面および浄土教の祖師、法然、高弁においてすべて往生のための行、所謂三法組織(教行証)中の教理行果の行であったのである。これを親鸞は独自の釈顕により、この「十念」を往生のための行ではなく信心具足後の起行(信相続行、報恩行)としての念(信)・声(念仏)としたのである。これが『顕浄土真実教行証文類』「信巻」三信結釈に
真実の信心は必ず名号を具す。(真聖全二の六八)
とある信(信心)前、称(念仏)後と述べられているものであり、また『唯信鈔文意』に
念と声とはひとつこころなり、念をはなれたる声なし声をはなれたる念なしと知るべし。(真聖全二の六三七)
とあるのは、信心具足後において念(信心)と声(念仏)は不離、不二であることが述べられているものであるF。
 このように十八願の十念(十声)を信後の起行と位置づけて、そして至心、信楽、欲生の三心(信心)が往生のための正因としたのである。そして衆生が往生のための行として修する、所謂三法組織(教行証)の中の教理行果の行に代わる他力の行(如来の行)、所謂四法組織(教行信証)の本願力廻向の行信が発揮案出されたのであるG。
  二、親鸞の吉水時代の「信心一異」および「信不退・行不退」の相論について
親鸞の吉水時代の出来事として伝わるものに「信心一異」の相論(『歎異抄』後序、『御伝鈔』上、第七段)と「信不退・行不退」の相論(『御伝鈔』上、第六段)がある。(親鸞聖人正統伝によると「信心一異」の相論が三十四才の時、「信不退・行不退」の相論が三十三才の時とある)H。  
 周知のように『歎異抄』は親鸞滅後二十年から二十五年経った頃、弟子の唯円が親鸞から直接聞いた「耳の底に留めた」ことを書き記したものである。
『御伝鈔』は親鸞の曾孫覚如が一二九五年(親鸞滅後三十二年)に書いたもので共に直接親鸞の書いたものではないので、完全な事実として理解することには無理があろうI。相論の細部については検討を要するとしてもこのような出来事、即ち信心は一つであるとか、信心で往生は決定する等の主張を親鸞がし
ていたことが述べられているのである。注目したいのは二十九才で法然の弟子になり本願(他力)に帰して年月の浅いこの時期に、親鸞教義の特徴である他力廻向の思想、信不退の思想がすでに芽生えていたということが示されていることである。他の門弟達の非難に屈することなく「往生の信心においてはまたく異なることなし、ただひとつなり」とあくまで譲らず、また行による不退でなしに他力信心による不退を主張しているのである。このことは吉水時代にすでに法然の他力思想、恐らく二行章、不回向回向対の「縦令ひ別に回向を用ひざれども、自然に往生の業と成る(真聖全一の九三七)とある所や、『和語灯録』第一、三部経釈第一に「彌陀如来は因位の時、もはらわが名号を念ぜんものをむかへんとちかひ給ひて、兆載永劫の修行を衆生に廻向し給ふ」(真聖全四の五五一)とある所等の影響により親鸞に他力廻向の思想や、また信心決定による現生不退の思想がすでに生じ始めていたと考えられるのである。
念声是一釈を非難した『摧邪輪荘厳記』が書かれたのは親鸞四十一才の時である。相論より後のことであり、他力廻向の思想および信不退の思想が大体確立していたと考えられるるのである。先学の指摘するように他力廻向義の開顕は『顕浄土真実教行証文類』「証巻」の往還結釈に
宗師は大悲往還の回向を顕示して慇懃に他利利他の深義を弘宣したまへり。(真聖全二の一一九)
とあるように、曇鸞の『往生論註』が、その教義形成に与えた影響は大であったといえよう。しかし親鸞が三十五才〜四十五才頃書写したと思われるJ『観経彌陀経集註』には『往生論註』の引用は上巻の「諸仏如来是法界身」の釈の一カ所のみであり(親鸞聖人全集十三の五五以下)、この頃はまだ特に『往生論註』に目は向いてなかったように思われる。上述のように高弁が『摧邪輪荘厳記』を書いたのは親鸞の四十一才の時であるので「念声是一釈」の高弁の非難を知ったのは恐らく『観経彌陀経集註』を書写していた頃であり、特に『往生論註』に目は向いてなかった頃と思われる。しかし上述のように「信心一異」、「信不退・行不退」の相論に見られるように『摧邪輪荘厳記』が書かれる以前の吉水時代に既に親鸞に他力廻向信不退思想が見られるのであり、『摧邪輪荘厳記』の三法組織(教行証)の衆生の修する往生行(往因)としての「十念」(念声是一)への非難への対応が、往因を他力廻向の信心とする四法組織(教行信証)の形成でなされ、「十念」(念声是一)は信不退(現生不退)の実感による信後の起行として位置づけられることになったと考えられるのである。
  三、『選択集』第二、二行章と『顕浄土真実教行証文類』「行巻」
『選択集』第二、二行章は
善導和尚、正雑二行を立てて雑行を捨てて正行に帰する之文(真聖全一の九三四)と始まり、「散善義」の就行立信の文を引き、雑行を捨てて正行に帰すべきことを述べ、正行の中でも五正行の中の第四の彌陀の名号を称する称名(念仏)が仏の本願に順ずる正定業であり、本願の行であり、帰すべき行と述べるのである。この行は他力の行ではあるが、衆生の往生に修する行であり、三法組織(教行証)の中の教理行果の行である。
 『教行証文類』「行巻」は冒頭に
 謹んで往相の廻向を按ずるに大行有り、  大信有り、大行とは則ち无碍光如来の名  を称する也。この行は諸の善法を摂し、  諸の徳本を具せり。極速円満す、真如一  実の功徳宝海なり。故に大行と名づく。  然るにこの行は大悲の願(第十七願)よ  り出たり。(真聖全二の五)
とあるように、親鸞の七十五才の頃に一応の完成をしたと思われる『教行証文類』においては親鸞教義の特性である他力回向義が完成し、教、行、信、証の全てが他力回向による所とされ、行(念仏)も信(信心)も他力回向による所のもとされるのである。「大行とは則ち无碍光如来の名を称する也。」とあるように行は无碍光如来の名を称すること、即ち南无阿弥陀仏をとなえる念仏することである。しかしこの念仏(行)は三法組織(教行証)の中の行ではなく四法組織(教行信証)の中の他力回向の行であり、衆生の上で語られる時は信後の起行(報恩行)なのである。 では親鸞において衆生が往生成仏のために修する三法組織(教行証)の中の行に相当するものはどこに存するかと言えば上引の「行巻」冒頭の文に「然るにこの行は大悲の願(第十七願)より出たり。」とあるように親鸞は第十七願にあるとするのである。次下に第十七願文が引用され
  設ひ我れ仏を得んに十方世界の无量の諸  仏咨嗟して我が名を称せずば正覚を取ら  じ(真聖全二の五)
とある。この十方世界の无量の諸仏に咨嗟称(讃歎)される我名(名号・南无阿弥陀仏)を大行とするのである。これは衆生が往生成仏のため修する行ではなく第十七願成就による大行であり、阿弥陀仏が衆生を往生成仏せしめるために成就した行(名号)であり、法体大行(法体名号)、名号大行といわれるものである。この第十七願については法然も『三部経大意』に
次に名号を以て因として衆生を引接せむが為に念仏往生の願を給へり。第十八の願是也。其の名号を往生の因とし給へる事を一切衆生に遍く聞かしめんかために  諸仏称揚の願を立給へり。第十七の願是也。第十七願に、十方世界の無量の諸仏悉く咨嗟して我が名を称せすと云はは正  覚を取らじと云ふ願を立給へり。(法然上人全集三○)
と述べている。恐らく親鸞はこれらの教示により、第十七願の名号を法体大行(名号)と展開する示唆は受けたことであろう。しかしこの場合は十方世界の無量の諸仏が悉く咨嗟して我が名を称する、其の功徳の大なる名号を、第十八願で衆生の往生の因とするのであるから、これを法体大行(名号)とする親鸞の立場とは異なるものであるK。
親鸞は『教行証文類』「教巻」冒頭に
謹んで浄土真宗を按ずるに二種の廻向有り、一には往相、二つには還相なり。往相の廻向について真実の教行信証有り。  (真聖全二の二)
と述べ、『浄土文類聚鈔』には
本願力の廻向に二種の相有り、一には往相、二には還相也。(真聖全二の四四三)と述べている。周知のように往還二廻向は曇鸞の『往生論註』の廻向門に出ているものであり、当面では行者が廻向するものである。それを親鸞は曇鸞の他力義を承け、独自の訓点により、当面の意を転じて廻向を彌陀仏の本願力廻向(他力廻向)と釈したのである。また『高僧和讃』の曇鸞讃に
彌陀の廻向成就して 往相還相ふたつな  り これらの廻向によりてこそ 心行ともにえしむなれ(真聖全二の五○五)
とあるように、往還二廻向は彌陀の本願力廻向であり、その廻向によって衆生(我々)に心(信心)・行(念仏)が与えられると述べているのである。
第十七願成就の名号(法体名号)と信心の関係は『教行証文類』「信巻」に述べられている。三一問答の法義釈(真聖全二の六○以下)に三心(至心、信楽、欲生)について、三重出体が述べられ、欲生の体は信楽、信楽の体は至心、至心の体は至徳の尊号(法体名号)であるとされている。そして三心それぞれに機無、円成、廻施(廻向)の釈がなされ、他力廻向の心であることが述べられている。
『正像末和讃』に
  真実信心の称名は 彌陀廻向の法なれば 不廻向となづけてぞ 自力の称念きらは  るる(真聖全二の五二○)
とあるが、この「真実信心の称名」が「真実の信心は必ず名号を具す」の名号(信相続の信後の弘願念仏)であり、「自力の称念」が「名号は必ずしも願力の信心を具せざる也」(真聖全二の六八)の名号(自力真門念仏)である。この「彌陀廻向の法」である「真実信心の称名」が「行巻」冒頭出体釈の「大行とは則ち无碍光如来の名を称する也」(真聖全二の五)の大行である。また『正像末和讃』愚禿悲歎述懐に
  无慚无愧のこの身にて まことのこころはなけれども 彌陀の廻向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ(真聖全二の五二七)
とある「彌陀の廻向の御名」が出体釈の大行であり、弁徳釈に「諸の善法を摂し、諸の徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。」(真聖全二の五)とある「功徳は十方にみちたまふ」称名(念仏)なのであるL。
むすび
前にこの問題を考えた時、私は念仏と信心の関係において、「念仏に主体を置いたのが法然であり、信心に主体を置き他力信心の具足・不具足により、自力・他力の念仏を厳しく分別したのが親鸞であろう」Mと述べた。今もこの考えに変わりはないが、今回新たに認識したことは両者の念仏思想は共に第十八願を据わりとする一行専修の他力念仏で共通面の多いものではあるが、基本的相違は法然の念仏は三法組織の中の往生行としての念仏であり、親鸞の場合は四法組織(教行信証)の中の信後の起行(報恩行)としての念仏であるということである。このことは法然は最晩年の『一枚起請文』に「ただ往生極楽のためには南無阿彌陀仏ともうして」(法全四一六)と述べ親鸞も晩年の『御消息集』二に「わが身の往生一定とおぼしめさんひとは仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏こころにいれてまふして」(真聖全二の六九七)とある所からも明らかであろう。 
@拙著『浄土真宗がわかる本』第二章、四三 頁以下(教育新潮社、平成五年十二月刊)。
A「玄義分」の文を本願取意の文、『観念法 門』の文を本願加減の文、『往生礼讃』の 文を自解本願の文、ということもある。
B加藤仏眼「念声是一釈の點せい」(『教行信証竪徹』、永田文昌堂、昭和四十二年十 一月刊、四三六頁以下)。
C群疑論卷七(浄全六の一○六)
Dこの点についての詳細は広川教授古稀記念 論文集『浄土教と仏教』内拙稿「法然と親 鸞の念仏思想」(平成二十三年脱稿、文化 書院、平成二十四年発刊予定)に述べた。
E藤田宏達氏は「第十八願後半に出る「乃至 十念」の語は,『如来会』第十八願にその まま説かれ、サンスクリット本第十九願の  「たとえ十たび心を起こすことによって でも」(省略)に相当する、と述べている。 (『浄土三部経の研究』、岩波書店、二○○七、三刊、四四四頁。)
F蓮如が『御一代記聞書』四に「念声是一と いうことしらずとまうしさふらふとき、仰に、おもひうちにあれば、いろほかにあら はるるとあり、されば信をえたる体は、すなはち南无阿彌陀仏なりとこころうれば、 くちも心もひとつなり。」(真聖全三の五三 二)と述べているのは親鸞の意を正しく継承したものといえよう。
G『浄土文類聚鈔』が三法(教行証)構成と いわれるが、ここにおける行は他力廻向の行であり、衆生が往生ために修する所謂三 法組織の中の教理行果の行ではない。それから教行信証という名目はないが、教・行 ・浄信・証の四法が説かれているのであり、 『教行証文類』の前段階の四法組織構成の書といえよう。
H親鸞聖人正統伝卷三(真宗全書六十七の三 六三・三六四)。
I法然自身が「如来よりたまわりたる信心」 といったのか、また信不退の座に座ったのかは疑問である。
J親鸞聖人全集十三の一五三。
K聖覚の『唯信鈔』(真聖全二の七四二)にも十七願と十八願の名号について述べているが、法然と同様十七願の名号を法体大行(名号)とはしていない。
L大行出体釈の「无碍光如来の名を称する也」 とある称名が信心の有無に関係なく大行であるとか、念仏の実践が信心成立のための 方便階梯の意味をもつという見解は全くの 誤りといえよう。
M拙稿「法然と親鸞の念仏」(『印度学仏教学研究』四十の二、平成四年三月、一七○頁)。
(キーワード) 法然、親鸞、高弁、念声是一釈、三法、四法  
 (相愛大学名誉教授)
(印度学仏教学
(印度学仏教学研究第六十巻第一号<平成23年12月刊)