有り難うございます。信心正因称名報恩義は本願寺派宗制教義に、昭和16年(1941年)以来定められてきたものであります。それについて反対したのが、当時(昭和46年<1971年>)龍大真宗学若手教員を中心とした教団改革運動 が行われていたのですが、その代表者であった信楽氏、岡氏でありました。
で あります・(岡氏の所論に関連して疑無明、痴無明について「親鸞における疑蓋无雑について」、印度学仏教学研究26の1、昭和52年<1977年> 12月、を発表しています。尚、岡氏には「一宗学徒の惑い」<真宗学第41、42合併号、昭和45年・1970年>がありますが、この論文は当時の龍大真宗学の無信心体質を象徴するものであると思われます。)
岡氏は『宗教12月特大号、特集、真宗安心の問題、大原性実和上の生涯』(教育新潮社、昭和54年、p、94以下)に述べています。信楽氏、岡氏に対して「異義断定保留、疑義断定保留。今後の教学活動見守る。」として何もしなかった勧学寮頭の、一つ前の、その時勧学寮頭であった大原性実師が、岡氏を自宅に呼び「道を間違えている以上、自分は勧学寮頭として君たちをさばかねばならない。そう言って、私の手を握られた。申しわけありませんと言う言葉さえ発することができず、ただ黙しておいとまをこうた。」(p、99)と岡氏自身が記しています。文中の「君たち」とは信楽氏、岡氏の事でありますが、この時から間もなく大原師は急逝されたのであります。(昭和54<1979>年4月)。しかし両氏を裁くつもりであったことは間違いないと思われます。
(続②近年の本願寺派教学に想う。 http://e-kobai424.sakura.ne.jp/zoku2.html 2015年4月5日 記 参照。)
この勧学寮頭は翌年、昭和57年<1982年>7月発行(探究社)の『信心について』(p、46)に
庄松同行に「お前信心いただいておるか」ときいたら「わたしに聞いてもわかりません。聞くところが違いますよ。阿弥陀様に聞いてください」と申したと伝えられております。
と述べていますが、これは不注意であったということでは断じて済まされないことであります。5月25日に記しましたように庄松同行は「ヘエ頂きました」とはっきり述べているのであります。もしこのことを知らなかったならば、勧学寮頭として余りにも知識不足ということになります。恐らく信心とはあるのかないのか分からないものと思い込んでいた信心不決定(未決定)の「若存若亡」の人に相当する人であったと思われます。同様にある教学責任担当者が
、『開かれた信心と閉じられた信心』(2005年<平成17年>6月発行、永田文昌堂、p、77)に
彼は門主の部屋に呼び出され、逆にに門主の側から「貴兄の覚悟はいかに」と反問されたのである。その時、彼は即座に「オレのことは知らん、アレに聞け」と云ってご本尊を指したという。
と述べていますが、これも全く同様のことが言えると思います。もしかして故意に庄松同行の「ヘエ頂きました」とある言葉を削除したのであるのなら、もっと悪いことになると思います。
はじめに述べましたように、信心正因称名報恩義が本願寺派宗制教義に定められたのが昭和16年(!941年)のことでありました。本願寺派教団に所属する者は当然のことながら遵守義務があり、教学、行政の責任者にはそれに遵守させる義務があると思います。しかも
本願寺派の新たな始まりとして制定された新宗制、新宗法が施行されて(平成24年4月1日施行)、周知のように、宗制 第三章 教義に
信心は、阿弥陀如来の大智大悲の徳を具えた名号をいただくことであるから、往生の正因となる。信心決定の上は、報恩感謝の思いから、仏徳を讃嘆する称名念仏を相続する。これを信心正因、称名報恩というのである。
3,勧学寮は、宗制に定める教義に相異する義を主張した者に対し、教諭する。
にも拘わらず、信心正因称名報恩義に反対している者に、何もなされることはなく、宗教教団の生命であるはずの教義信心に関する宗制宗法が公然と無視された有様であります。これは行政担当にも責任はあることですが、篤信者である庄松同行の語録の意味が理解できないだけでなく、不都合な箇所は平然と削除して素知らぬ顔をするような、信心不決定(未決定)に加えて、不誠実と言える教学責任者の体質を、早急に改善しなければ、教団の将来はないように思います。
200余年前の三業惑乱の比ではないと私には思えます。
要するに 蓮如上人が言われますように 「 信もなくて、人に信をとられよとられよ と申すは、われはものをもたずしてひとにものをとらすべきというの心なり 、人承引あるべからず。」(『浄土真宗聖典(注釈版』)P、1261)であります。教学責任担当が信心不決定(未決定)者の集団であっては教団の振興発展の可能性は皆無であるような気がします。 合掌。