仏法は聴聞にきわまる 紅楳 英顕 (本願寺司教、相愛女子短大教授)
お彼岸の彼岸とは涅槃(さとり)のことであり、また到彼岸(彼岸にいたる)の略であります。すなわち迷いの世界から悟りの世界にいたるという意味であります。「暑さ寒さも彼岸まで」といわれますように、お彼岸のご法座は春・秋の二季に、春分・秋分の日を中心に行われます。「春彼岸、菩提(さとり)の種を蒔く日かな」、「秋彼岸、菩提(さとり)の実を刈る日かな」という言葉がありますように、一年中で一番気候のよいこの時期に、悟りの世界にいたるための仏縁を深めさせて頂くということを、古くから人々が願いとして来たのであります。
浄土真宗においては、お彼岸にお墓参りをしてご先祖のご恩に感謝することも、よいことではありますが、一番大事なことは、ご法座に足を運んで仏法聴聞をすることであります。蓮如上人は『御一代記聞書』一九三に いかに不信なりとも、聴聞を心に入れま うさば、御慈悲にて候ふあいだ、信をう べきなり。ただ仏法は聴聞にきわまるこ となり
と述べられていますように、仏法(浄土真宗)は聴聞が大事であることが述べられています。 ご承知のように、浄土真宗は一所懸命修行に励み、それによってさとりをえる自力の仏教でなく、修行に励む必要はなく生きるために働く、普通の人間の生活をしているままで、阿弥陀仏の本願力の救いの力によって、浄土に生まれてさとりを開く、他力の教えであります。他力といいますと世間では他人の力をたよりにする無努力主義のように誤解しますが、決してそうではありません。他力とは他人の力のことではなく、阿弥陀仏の力のことであります。到彼岸すなわち迷いの世界からさとりの世界にいたるための力が、自分の修行の力によるのではなく、阿弥陀仏の本願力、すなわち一切の生きとし生けるものをすくいたいという願いの力によるということであります。それで浄土真宗においては、自分がさとりをえるための修行はありませんが、聴聞に励むことが大事な心がけとされているのであります。浄土真宗で深い信仰をもった人たちを妙好人と呼んでいますが、この人たちはみんな例外なく一心不乱に獲信のための聴聞に励んでおられます。
聴聞についての心がけとして蓮如上人は『御一代記聞書』一五五に
仏法には世間のひまを闕きてきくべし。 世間の隙をあけて法を聞くべきやうに思 うことあさましきことなり。仏法には明 日といふことはあるまじきよしの仰せに 候ふ。
と述べられています。世間の隙を「闕きてきく」のも、「あけてきく」のも、隙のないところに都合をつけるということでありますが、蓮如上人のお気持ちは、「闕きてきく」というのは、たとえ世間のどのような大事な用事があっても都合をつけて法をきくということであり、「あけてきく」というのは、それほど大事な用事でないから、都合をつけて法をきくということであります。蓮如上人は、たとえどのように大事な用事があってもそれを差しおいて仏法聴聞に励めといわれるのであります。世間の用事は色々ありますので、大変難しいことではありますが「仏法には明日といふことはあるまじきよしの仰せに候ふ」ともありますように、蓮如上人の仰せが本当のことであり、法をいただくことによってえる信心のよろこびがいかなる世間のよろこびにもまさるものであることを知らせていただくことが大事であろうと思います。
また蓮如上人は『御一代記聞書』五一に
聴聞はかどをきけと申され候ふ。せんあ るところをきけとなり。
と述べられ、聴聞は「せんあるところ」(大事なところ)をきかねばならないと述べられています。ではどこのところが大事なのでしょうか。親鸞聖人は『教行信証』「信巻」に 聞といふは、衆生、仏願の生起本末をき きて、疑心あることなし。これを聞とい ふなり。
と述べられいますように、「仏願の生起本末」、すなわち「阿弥陀仏の本願は罪の深い私をおすくい下さるためのものでありました」という本願のおこころを聞かせていただくことであります。本願のおこころを聞かせていただくのが聴聞であり、これが抜けては聴聞とはいえないと思います。
はじめに述べましたように、蓮如上人は「いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、御慈悲にて候ふあいだ、信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきわまることなり」
と述べられています。たとえ今ひとつ信心が定まらないという疑問がありましても、聴聞に心がけることが大事であり、それによって他力のお育てにより、やがて信心決定の身にならせて頂くのである、と述べられているのであります。本願のおこころを聞かせて頂く聴聞、これが浄土真宗において一番大事なことであります。〈探求社・よろこび第78号〉(平成十四年三月)。