・・・・・浄土真宗における真実の念仏について

紅楳英顕 相愛大学 名誉教授 日本

 はじめに

念仏とは仏を念ずることである。仏(阿弥陀)を観ずることと仏(阿弥陀)の名をとなえることとある。
親鸞の念仏は阿弥陀仏の名を称えることであるが、大変独自なものであり、特殊なものである。
私は以下「浄土真宗における真実の念仏について」と題して、独自なものであり、特殊なものである親鸞の念仏を論ずることにする。

  

1, 真実信心の念仏

親鸞は『正像末和讃』39に

真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる。

と述べている。浄土真宗の真実の念仏は真実信心の念仏である。
真実の念仏は信心の念仏である。浄土真宗の念仏は浄土に生まれるためのものでも信心をえるためのものでもない。浄土真宗の念仏は信心決定後の念仏であり、衆生の側から言えば、阿弥陀仏の救済と恵みに対する感謝の報恩念仏である。これは「行卷」初めの

大行者無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆえに大行と名づく。

とある名(念仏)であり

また正像末和讃97に

無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども  弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ

とある御名(念仏)であり、また『歎異抄』後序の

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします

とある念仏も、同じ真実信心の念仏(称名)である。


親鸞は『正信偈』に述べている。

弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即の時に必定に入る。
ただ能く常に如来の号を示して、まさに大悲弘誓の恩を報ず
べしと。

この文の中の、まさに大悲弘誓の恩を報ずべし、が阿弥陀仏に対する報恩の念仏である。
この文で大事なことは{自然に即の時に必定に入る}とあることである。
我々は信心を得ることによって、現世で正定聚の位に入るのである。その後で報恩の念仏を称えるのである。

そして『教行信証』「化土卷」の三願転入の文に、また親鸞は言っている。
 
ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり、報謝せんがために真宗の肝要をひろうて、つねに不可思議の徳海を称念す。

この文における、つねに不可思議の徳海を称念す、が阿弥陀仏に対する報恩の念仏である。

また蓮如はこのことを『御文章』(5-10)に述べている。

その位を「一念発起入正定之聚」とも釈しこの上の称名念仏は、如来わが往生を定めたまいし、御恩報尽の念仏とこころうべきなり。

言うまでもなく、この文の中の念仏は、阿弥陀仏に対する報恩のための念仏である。

このように親鸞における真の念仏は信後の他力回向の念仏であり、正定聚の位を得た上での念仏であるる。そしてそれは浄土に生まれるためのものでも、信心をえるためのものでもないのである。

2, 如来に対する報恩の念仏に反対の意見。

しかしながら、近年の真宗教団をながめると、念仏に信心は必要でないとか、念仏は信心を作るためのものであるという意見の人がいるが、これは間違いである。
私はこのような意見の人たち救済体験のない、信心のない人だと考える。
彼らの主な反対の意見は次の言葉による。
 
親鸞は和讃に言っている。

定散自力の称名は 果遂の誓に帰してこそ 教えざれども 自然に
真如の門に転入する。(浄土和讃66)。
 
親鸞はまた他の和讃に言っている。

信心の人におとらじと 自力疑心の行者も 如来大悲の恩をしり
称名念仏はげむべし。(正像末和讃66)

しかし、上の2つの和讃は自力の念仏をすすめているのではない。浄土和讃66、の意味は自力念仏の人でも果遂の願(20願)によって、(真如の門(18願)に導かれるという意味である。そして正像末和讃66,の意味は、信心が決定してない人は、先ず信心決定して阿弥陀仏の大悲の恩にめざめなさい、そして報恩に励みなさい、という意味である。

それから、下の文についてであるが、

往生をを不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をおぼしめして、お念仏さふらふべし。わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のためにお念仏こころにいれてまふして、世の中安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞおぼえさふらふ。

とある、往生をを不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をおぼしめして、お念仏さふらふべし。の部分について、ある人は親鸞は念仏は信心を作ると言っているという。しかしこれは誤りである。ここの意味は上の正像末和讃66と同じである。ここの意味はまだ信心の定まっていない人は先ず信心決定しなさい、と言う意味である。そして如来の大恩にめざめて、報恩の念仏に励めという意味である。

むすび
上に述べたように、浄土真宗における真実の念仏は信心決定後の、正定聚の位に住して、その上の報恩の念仏である。しかし私は信前の念仏を禁止するのではない。たとえ信前であって本当の感謝の気持ちがなくても、その人なりに感謝の気持ちで念仏すれが良いと思う。
それが信心決定の縁になることと考える。これにつては以前に書いた私の本に下記のように述べた
  ,
本願成就の名号の功徳を自分の善根とするのは大変な過ちであります。
それならばいまだ信心決定していない人は、念仏を称えてはならないのかとか、たとえば幼児はどのように念仏すべきであるのかとか、また信心ををえるためにはどのようにこころがければよいのか、というようなことが問題になると思います。勿論信心決定していない人が念仏をしてはいけないということはありません。実は信前念仏を禁ずる一派が現にありますが、これは間違いです。しかし、たとえ未信であり、心から感謝の気持ちがなくても、浄土真宗の念仏は報恩のためとして称えるべきであり、信心をえることを目的として称えるべきではないと私は考えています。よくわからないままでも感謝の気持ちでとなえておれば、自然とおそだてをいただいて、本当の報恩の念仏を称える身にならせていくものと思います。前に述べましたが、浄土真宗においては聴聞が大事とされています。親鸞聖人は『浄土和讃』に
 たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり
と述べられて、きくことすなはち聴聞が信心へのへの道であり、不退(正定聚)の位への道であるといわれ、また蓮如上人の『蓮如上人御一代記聞書』155に
 仏法は世間の隙をかきてきくべし。世間の隙をあけて法をきくべきように思ふこと、あさましきことなり。
と述べられていますように、仏法は世間のどのような大事なことでもさしおいてきくべきであると、きくこと(聴聞)をすすめられています。また蓮如上人は「いかに不信なりとも聴聞を心に入れ申さば、お慈悲にて候ふ間、信をうべきなり。ただ仏法は聴聞に極まることなりと云云」といわれています。きくこと(聴聞)が信心への道と示されているのですから、聴聞(広い意味では学習することや、仏教行事に参加することも含まれる)につとめることこそが大事であると思います。そしてこの聴聞もすべて仏のおてまわしによるところであり、一切自分の力によるところではないとうけとめる世界なのであります。(『浄土真宗がわかる本』、教育新潮社。1994年12月発行、164頁)。