「真実のすくい」
相愛大学教授 紅楳英顕
最近いろいろと新しい宗教が生まれています。明治の初期ごろから生まれた宗教を新興宗教といっていますが、
1970年(昭和45年)以降に生まれたものは、とくに新々宗教といっております。
これらの宗教は大体において、金儲け・病気治し・開運等の物質的な現世利益が説かれています。このような利益は本当にそんな利益があるのだろうかという不審はもつとしても、どんな御利益が説かれているかということは大変分かりやすいのです。
これに対しましてわれわれがお流れ頂いています浄土真宗 ではどのような御利益が説かれているのでしょうか。
親鸞聖人は『教行信証』の一番はじめの巻である「教巻」に
「釈迦、世に出興し道教を光闡して、群萠を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり」
と述べられています。
すなわち親鸞聖人はわれわれはお釈迦さま(ブッダ)から「真実の利」、すなわち御利益も御利益、本当の真実まことの御利益を頂くということが述べられているのであります。
そして聖人はこの「真実の利」とは何であるかということにつきまして、『一念多念文意』に
「真実の利と申すは、彌陀の誓願を申すなり」
と述べられています。
また同じ『一念多念文意』に「為得大利」の左訓に「ほとけとなるべき利益をうるなりとしるべしとなり」と述べられています。
すなわち親鸞聖人は「ほとけ」になることが、真実の利益(大利)なのであり、その意味からすべての生きとし生けるものをすくいとり必ずほとけ(仏)にせずにはおかないと願われる阿弥陀仏の本願こそが「真実の利」(真実の利益)といわれるのであります。
ほとけ(仏)とは覚者のことであり、「真理にめざめたひと、悟りを開いたひと、煩悩のなくなったひと」という意味であります。世間では死者をすべてほとけ(仏)ということが多くありますが、これは大変な間違いであります。
この仏(覚者)となること「真実の利」(真実の利益)こそが、「真実の利」(真実の利益)をえることであると親鸞聖人はいわれるのであります。
ところが世の中には、仏(覚者)となるよりは新興宗教や新々宗教で説く金儲け等の御利益の方がよいと考えるひとが多いことだと思います。
教典に次のようなお話があります。
ある時お釈迦さまが大勢の人の前でお話をしておられました。その時聴衆の中の一人の男が突然立ち上がってお釈迦さまにいいました。
「お釈迦様、申し上げたいことがあります。ここに集まっている人達は皆あなたのお話を有り難く聞いているかも知れませんが、私の気持ちを正直に申しますとあなたのお話を少しも有り難いと思えないのです。私はそんなお話よりも黄金を一枚もらう方がずっと有り難いと思います。」
これをしずかに聞いておられたお釈迦はいわれました。
「あなたが黄金が欲しいというなら与えよう。それもたった一枚ではない。あの雪山(ヒマラヤ)を倍にして、それを全部黄金にかえてあなたにあたえてもよい。しかし、それによって、あなたの欲がなくなりはしないし、苦しみ悩みがなくなりはしない」といわれました。
雪山(ヒマラヤ)を倍にして、それを全部黄金にかえた金額はそれこそ想像もつかない程の大金でありますが、お釈迦さまのいわれるとおりそれによってわれわれの苦悩がすべてなくなることはないのであります。このことは大変大事なことであると思います。
ご承知のようにお釈迦さま(本名ゴ−タマ・シッダルタ)は、今からおよそ2500年前、インドの釈迦族の王子として お生まれになりました。
小さい国ではあったようですが、恵まれた環境で、また一国の後継者として皆に期待されてすくすくと成長された方でありました。
しかし大変深く物事をお考えになる方であり、人間は如何なる人も多くの苦しみを持たねばならないことにきずかれたのであります。
それで御年29才の時家族も王宮もすてて修行者となられたのであります。そして六年間の厳しい修行の末、体得されたのが、完全に苦悩を離れることので きた悟りの境地でありました。
それでお釈迦さまのあきらかにされた、如何なる人ものがれることのできない苦が四苦・八苦であります。
四苦とは生まれるという意味の生、老いることの老、病むことの病、死ぬことの死であります。
八苦とはこの四苦に親子・兄弟・夫婦等の愛する者にも必ず別れがくる愛別離苦、嫌な者と会わねばならない怨憎会苦、欲望に終わりがないために、求めて得られない求不得苦、それから八苦のまとめである心身が健全であるままが苦であるとする五蘊盛苦の四つの苦が加えられるのであります。
人間にはこの四苦・八苦を根本にして様々な苦しみがありますが、四苦・八苦はどんな権力者であっても、大金持ちであっても、逃れることはできないのであります。この苦をこえるのが仏(ほとけ)の悟りの境地なのであります。
親鸞聖人が「真実の利と申すは、彌陀の誓願を申すなり」と述べられているおこころを深く頂戴したいものと思います。
( 大阪・浄願寺H・P、H、12,1)。