生活の中の念仏         紅楳英顕

親鸞聖人と蓮如上人のお念仏のおすすめ
 親鸞聖人は『正像末和讃』に「彌陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな ねてもさめてもへだてなく 南无阿弥陀仏をとなふべし」と述べられ、また蓮如上人は『御文章』の「末代無智章」に「かくのごとく決定(信心決定)してのうへには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。」 と述べられていますように、浄土真宗のお流れを頂くものは日々の生活の中で常にお念仏をすることに心がけるのが大事なことであります。
  一、勝(すぐれ)易(やさしい)二徳の念仏
 南无阿弥陀仏を称えて念仏しなさいと説かれているお経は『観無量寿経』です。どんなに罪の深い者でも念仏を称えれば、浄土に生まれることができると説かれています。
 念仏の教えは奈良時代には日本に伝わっていました。しかしその頃は念仏は誰にでもできる易しいものではあるが、他の修行に比べて劣ったものであると考えられていました。このように易しいものではあるが、劣ったものであると考えられていました念仏について、いやそうではない、念仏は他の修行に比べて易しいだけではない、阿弥陀仏の本願(すべての生きとし生けるものを救って必ず仏にしたいという願い)に誓われているものだから他の修行とは比較にならないほど勝れた功徳があるのだと、念仏に勝易二徳(勝れている徳と易しい徳)があることを述べられて、浄土に生まれるためにはただ念仏を称えるだけでよい(専修念仏)、他の修行は一切いらないと説かれたのが法然上人であります。
 この法然上人のお念仏の教えは学問のない者も修行のできない者も、またいかなる罪の深い者も念仏一つで救われるというものでありましたので大変多くの人々が弟子や信者になりました。 
 親鸞聖人は二十九歳のとき法然上人のお念仏教えをお聞きになり、今まで二十年間比叡山で修行された自力の道(自分の力で修行して悟りを開く道)をすてられで他力の道に入ったのであります。『歎異抄』第二に「親鸞におきてはただ念仏して彌陀にたすけられまいらすべしとよきひとのおおせをかふりて信ずるほかに別の子細なきなり」と述べられていますように、法然上人の教えに従い「ただ念仏」するのであると述べられています。この『歎異抄』第二のはるばる関東から人々が「往生極楽の道」をたずねるために京都の親鸞聖人のところに来られた時は、聖人はすでに八十歳をすぎていたのです。聖人が法然上人とお別れしたのは三十五歳の時、お二人が流罪になられた時でありますから、五十年近く前のことになるのです。聖人の法然上人に対する敬慕のお心が如何に深いものであったかが知られます。
 二、ただ念仏の意味
先に述べましたように『歎異抄』第二に「ただ念仏」とありますが、後序にも「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」と述べられています。この「ただ念仏」には大変深い意味があります。勿論ただ念仏だけを称えればよいのであり、他の自力の修行は一切する必要はないということではありますが、信心も不要といわれているのではありません。信心のない念仏(無信単称)については蓮如上人が『御文章』に「なにの分別もなく口にただ称名ばかりとなへたらば、極楽に往生すべきようにおもへり。これおほきにおぼつかなきしだいなり。」(五の一一)等と述べられて信心が大事であると述べられています。親鸞聖人も『正像末和讃』に「真実信心の称名は彌陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」と述べられて、真実信心の称名が彌陀回向の他力の念仏であり、信心のない念仏は自力の念仏であると信心のない念仏を戒めています。このことは大変重要なことと思います。
それから『歎異抄』第二には「念仏はまことに浄土に生まるるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもて存知ぜざるなり。」とも述べられていますが、これは聖人が「念仏してはいるが、本当にお浄土に生まれるのか、または地獄におちることになるのか自分には分からない」と、ご自分の往生について不安をもたれているのではありません。ご自分の往生についてはいささかの不安もないのです。「総じてもて存知ぜざるなり」とは往生ほどの大事なことは凡夫の智慧で決まるのではない、ひとえに仏智他力によるものであるから、ご自分の往生についてはいささかの不安もないのであります。
 三、報謝の念仏
浄土真宗のお念仏は阿弥陀仏に助けてもらうために称えるのではなく、お助け下さる阿弥陀仏に報恩感謝のために称えるお念仏であります。
 蓮如上人は『蓮如上人御一代記聞書」一五に「彌陀をたのみて御たすけを決定して、御たすけのありがたさよとよろこぶこころあれば、そのうれしさに念仏申すばかりなり。すなはち仏恩報謝なり」と述べられています。「彌陀をたのみて御たすけを決定して」とありますように、まず信心決定しお助けをよろこぶ身にならせて頂くこと、現生正定聚(この世において、仏になることに定まった仲間)に入らせて頂くことが大事なことであります。そして「御たすけのありがたさよとよろこぶこころあれば、そのうれしさに念仏申すばかりなり。すなはち仏恩報謝なり」とあります。
 彌陀の御たすけをよろこぶ身にならせて頂き、今生かされていることに感謝しながら、仏恩報謝のお念仏の生活をさせて頂くひとこそが人生における本当の幸せ者といえましょう。(相愛大学教授)
(仏教家庭学校、平成二十一年八月、教育新潮社)