「念仏者は無碍の一道なり」
紅楳 英顕 
 これは『歎異抄』第七章にあります親鸞聖人のお言葉であります。ここの念仏者とは、ただ口先だけで念仏しているひとのことではなく、阿弥陀仏の本願(すべての生きとし生ける者を救って悟りを開いた仏にしたいという願い)を信じて念仏しているひとのことであります。この阿弥陀仏の本願を信じて念仏するひとは何ものにもさまたげられることのない道を力強く生きていくのであると述べられているのです。
二〇〇一年九月十一日のアメリカの同時多発テロ事件から早や二年が過ぎました。その後アフガン戦争、イラク戦争等と紛争が続き、今なお、いつ終わるとも分からないテロ事件が頻繁と発生しております。まさに怨念(うらみ)が怨念を呼ぶ憎しみと苦しみとが繰り返されているのであります。『法句経』に「怨念は怨念によって消えることはない。怨念は怨念を絶ちてこそ消えはてる。これこそ永遠の真理である」とありますが、これは大変尊いお言葉であると思います。この仏教の精神こそが本当の世界平和を実現させるものだと思います。
私達にとって、この怨念が怨念を呼び、多くの尊い人命が犠牲となっている悲劇はよそ事・他人事としてすまされる事ではないと思います。日常生活において、ささいなことで他人に対し怨念や憎しみをもつことはないでしょうか。よくこのことは考えなければならないことであり、自分自身を省みる事が親鸞聖人のみ教えを頂くうえで大変大切なことであると思います。
親鸞聖人は『一念多念文意』に「凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、よくもおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(自分の身には自己中心の悪いこころ〈無明煩悩〉がみちみちており、欲も多く、いかり、はらだち、そねみ、ねたみの心が常に起こり、命の終わる時まで全く消えることはない)と述べられています。自分自身を大変深く内省されたのが聖人でありました。
 御年九才で比叡山に登られて二十年間、一心不乱に御修行に励まれ、誰にも負けない立派な御修行をなされた聖人であったのですが、大変深く自己を内省するお方でありましたので、自分は少しも立派な修行はできてない、こんなことでは到底悟りを開くことはできないであろう、最も罪の深い者が行かねばならない地獄より他には行くところがない自分であると悩まれたのであります。そして御年二十九才の時、聖徳太子のお導きにより法然上人を訪ねてその教えを聞かれ、これこそが自分の救われる道であると慶ばれ、今までの自力修行の道(自分の力で修行して悟りを開く道)をすてて、他力念仏の道(阿弥陀仏の救いの力〈本願力〉によって悟りを開く道)に入られたのであります。
 このように聖人は念仏の道に入られ救いを得られたのは二十九才の時でありました。これより以後の聖人の御苦労は御自分が大きな救いを得た念仏の教えを一人でも多くの人々に伝えんがための御苦労であったと思われます。『正信偈』の終わりに「道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説」(世のもろびとよ みなともに このみさとしを 信ずべし)とあるお言葉に聖人のお心がよく表されています。
 最初に述べました『歎異抄』第七章の「念仏者は無碍の一道なり」とあるお言葉は聖人が阿弥陀仏の救いの中の大きな慶びと安らぎを語られたものであります。続いて「そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえなりと云云」とあります。すなわち、それはなぜかといえば信心の行者〈信心決定のひと〉には天の神・地の神も敬い伏し、悪魔や外道(仏教以外の宗教者)も何のさまたげも危害も加えることはできません、たとえ如何なる罪悪をなすことがあるとしても、阿弥陀仏救いの力がさまたげられることはありませんから、心配はいりません、そして称える念仏は阿弥陀仏から頂いた念仏でありますから、その功徳は他のどんな善より勝れたものであります、と述べられています。このように念仏者は現世において大きな慶びと安らぎに恵まれるのであります。
 はじめに申しましたようにここでいう念仏者とは、ただ口先だけで念仏している人のことではありません。信心の行者〈信心決定のひと〉のことであり。本願を信じて念仏しているひとのことであります。
 蓮如上人が明応七年(上人八十四才)の御正忌報恩講に当たっての『御文』(四の十五)に「あひかまへてあひかまへて、この一七箇日報恩講のうちにおいて、信心決定ありて、われひと一同に往生極楽の本意をとげたもうべきものなり」と述べられています。この御正忌報恩講中に聴聞(教えをよくきくこと)につとめ信心決定し無碍の一道を力強く生きていく本当の幸せのひととなることを念願しておられるのであります。まことに感銘深い有り難いお言葉であると思います。
(浄土真宗東本願寺派報恩講リーフレット、平成十五年十一月)