序
この度、稲垣瑞雄先生の御髙著『信心獲得のすすめ』が出版されることになりました。
先生より序文の御依頼を賜り、数多い有縁の方々の中で私が適任とは思えませんが、身に余る光栄であり、先生との浅からぬ御縁を深く感じ、僭越ながらお引受けした次第であります。...
先生との御出会いは昭和三十五年(一九六○)四月、私が龍谷大学に入学した時でありました。この年に先生より英語の『正信偈』を教えて頂き、その後も英訳の御著書を頂いたり、何かとご教導を賜りました。アメリカやヨーロッパの真宗学会に参加する気持ちが起こりましたのも、先生との御縁があったからだと思っています。
四年前(平成二十五年)に先生よりお声かけ頂き、仏教漢詩の会「震法雷」に入会致しました。そこで、それまで余り御縁のありませんでした先生の御尊父稲垣瑞劔先生の御著書を拝読する機会に恵まれました。瑞劔先生の信心を重視される真宗学についてのお考えが、私の思う所と非常に近いものを感じ、大変嬉しく思った次第であります。
この度の御著は『信心獲得のすすめ』という書名のように、瑞雄先生が長い間考えてこられた浄土真宗の要(かなめ)が述べられたものであり、信心獲得の人が増えることを切に願われて書かれたものであります。
緒言に先生が「真宗では信者が、信心獲得すというは第十八の願を心得るなり云々、という『御文章』のお言葉を数えきれないほど多く耳にし、口にしてるのに、いざ信心獲得の内容に入ると無口になり、体験的な話はご法度で、強いて言う人は、「一念覚知の異安心」と見なされる恐れがあります。」と深く慨嘆されておられますが、私も全く同感であります。これは三業惑乱の時(一七九七年頃―一八○六年)に異義とされた「一念覚知説」を正しく理解出来ないところから生じた誤った見解であります。「一念覚知説」とは、信心を得た時がいつであったかを必ず覚えていなければならないと主張したことであり、これが異義とされたのであります。獲信の体験や信前信後について語ること自体が異義とされたのではありません。獲信の体験や信前と信後の違いを語ることを否定するならば、それは三業惑乱時に「一念覚知説」と同様に異義と裁断された「十劫安心」(無帰命安心)に相当することになるでありましょう。
先生が言われるように 信心についての体験的な話そのものが一念覚知の異義であるとみなす傾向が近年盛んであるように感じますが、率直に言ってこれは信心未決定者(信心が決定していない人)の意見であると言って過言ではないと思います。
他力観念論に陥って獲信の自覚や信前信後の違いが凡夫に分かるはずはないと強調する人達は、『領解文』の「たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ」とある御文を、どう理解しているのでありましょうか。甚だ疑問を感じます。
私は近年教団において、振興計画がかかげ続けられながら、活気づかない最大の原因は、先生の御指摘される「体験的な話はご法度で、強いて言う人は、「一念覚知の異安心」と見なされる恐れがあります。」とある言に尽きると思います。このような教団の信心不在の体質の改善こそが肝要であります。
本日(一月十三日)は先生の御尊父であります瑞劔先生の祥月命日であり、瑞劔先生
の三十七回忌の御法要の勤修される誠に因縁深く有り難い日であります。
向後の瑞雄先生の益々の御健勝と御活動を念じ上げる次第であります。 合掌。
平成二十九年(二0一七)一月 紅楳英顕
(相愛大学名誉教授・本願寺派司教)