浄土真宗本願寺派における一念覚知説と生涯不決定説

      相愛大学  紅楳英顕

浄土真宗本願寺派において、江戸時代に三業惑乱(一七九七頃―一八〇六)と言われる教義論争があった。この時の本願寺第十九代宗主本如の『御裁断御書』(一八〇六、一一、六)には「シカルニ近頃ハ 当流ニ沙汰セサル三業の規則を穿鑿シ 又コノ三業にツキテ自然ノ名ヲタテ 年月日時ノ覚不覚ヲ論シ 或ハ帰命ノ一念ニ妄心ヲハコヒ マタハ三業ヲイメルママ タノムノコトハヲキラヒ 此ノ余ニモ マトヘルモノ是有ヨシ マコトニモテ ナケカシキ次第ナリ」(『浄土真宗聖典』一三四七)とある。『御裁断御書』には「三業の規則を穿鑿シ…年月日時ノ覚不覚ヲ論シ…」(三業派)、と「マタハ三業ヲイメルママ タノムノコトハヲキラヒ…」とあるように三業派、十劫秘事(十劫安心)派双方に対しての裁断であったのである。
 ところが当時の寺社奉行が三業派を不正義と裁決した(一八〇六、七、一一)こともあっ故か、以後本願寺派教団において年月日時ノ覚不覚ヲ論ずること(一念覚知説)については厳しく扱われたが、十劫秘事(十劫安心、無帰命安心)については極めて曖昧な扱いがされ、機辺の決定心を自力として否定する傾向があったように思われる。 三業惑乱終結の間もない頃と思われるが南渓(一七九○ー一八七三)は「心得たと思は心得ぬなりと云ひ機辺の決定を排する邪義、御一代記聞書末三十四丁(真聖全三の五八四) に云云とあれば我等がたすかるわけは仏辺に成してあれば夫れを聞くばかり、機辺と信心決定の安堵のと云へは皆自力なり夫れこそ心得たとおもふになるなり。評云此は一句一言を截りとり妄義を搆ふるなり、(中略)察する処三業の後意業運想などおこりて、機辺の受け前を己れが妄情穿鑿して御裁断ありしより機辺に領解を語れば自力なりと、偏へに心へて、如是妄説を成す、全く他の無相離念に同じ何ぞかかる安心あるべきや、(中略)領解文には往生一定御助け治定と存じとある、存は亡に対して心内にあることなり、仏智を凡心に領受したる処なり。此御文にはしばしばこころえよとの玉ふ。何ぞ機受決定を排却せんや、(中略)御助けは一定往生治定と存ずと云ふ往生安堵の思ひに住するをこそ決定心を得たる人と云べし、この決定を排却するときは生涯不決定を以て安心とするや、若決定不決定を機受に求めずと云はば十劫秘事なり。(『新二十邪義批評』<『六条学報』第二十二、1903刊>)」と述べ、機辺の決定心を否定すること(生涯不決定説)を十劫秘事とし、誤りとしているのである。 三業派を論伏し『御裁断御書』の礎となった大瀛の『横超直道金剛錍』においても、一念覚知と十劫秘事の双方の誤りが指摘されている。そして注意すべきは「一念覚知」を誤りとする意味は、三業派が獲信時の年月日時を必ず覚えてなければならないと主張していることであり、その記憶があるはずはない、と述べてはいないのである。(拙著 『親鸞聖人の念仏論』(永田文昌堂、二〇一八、六。七頁以下)。
『御裁断御書』の少し前に出された『御裁許書』に「近来心得違ノ輩ラコノ一念ニ付三業ノ義則ヲ穿鑿シ或ハタノミシ年月日時ヲオホヘサレハ信心ニアラストサタスルヲ頌テ却テ御正化ニモトツカサルタクヒコレアルヨシ大キニ歎キ思召ルル処ナリ(享和元辛酉<一八〇一>稔初秋下旬 龍谷第十九世釈本如 越前福井坊舎法中門徒中)とあることからもこのことは明らかである。一念覚知の異義とは「タノミシ年月日時ヲオホヘサレハ信心ニアラス」と主張したことであり、決定心を否定する生涯不決定説を述べたのではないのである。
(『宗教研究』95巻別冊 2020,3)。